楽市びゅう(著者)
「おたちゃん、そろそろ起きんかね」
和貴の声に目を覚ますと、起き抜けの嗅覚に隣の部屋から漂う味噌汁の匂いを感じた。
枕元のスマートフォンに目をやる。土曜日の昼前。
「おはよう」
「お早くないよ。今晩には向こうに着いときたいんでしょ」
「うん。まあ大丈夫」
この「大丈夫」は昼まで寝ていたのを誤魔化しているのではなく、本当に大丈夫なのだ。あらかたの荷物はすでに新居に搬入しているし、身支度も済ませてある。それに、上越新幹線で東京から2時間。想像していたよりも随分近いと感じた。
だから、万一、和貴とこの家に何かあってもすぐに戻れる。そういう安堵があった。
「和貴」
「ん?」
男兄弟の割に大きな喧嘩もなく、仲良くやってきたと自分では思っている。ただ、和貴がどう思っているかは分からない。
「ごめんな。迷惑かける」
「うん、大丈夫」
和貴はさっき自分がしたのと同じような返事をして笑顔を見せた。
だが今の「大丈夫」は先程のよりも、もっとずっと危うい。
自分勝手たえのことを放って東京を離れる兄を許してくれ。
商店街の端に小さく座る老婆に頼らざるを得ないほどに道標を見失っていた。
「私は家を出たいと思っています。しかし、弟を残して行けないという思いもある」
老婆はぎろりと目を見て言った。
「目に見える社会的な転機はおありですかな」
私は少し考えて、「勤めている会社が春に異動の時期を迎えます。ひょっとすると、ということはあるかもしれない」と言った。
「さすればひとまずそこへ目掛けて願うのです。願った結果叶わないとすれば、それはお主の弟様との縁を優先すべしと授けられたということ」
老婆の言葉に私は思いがけず納得した。
「願うとは、どのように」
「次の春で転勤になってくれと強く願うのです」
「なるほど」
私は老婆の面前で目を閉じ、頭の中で(転勤になってくれ)と祈った。
「具体的に、お主の行く先を思い描いてみなさい」
「東京以外には埼玉と横浜、それに新潟に支社があります。しかし関東では結局恐らく家からの勤めになる」
「そのことも含んで強く思いなされ」
「わかりました」
新潟に転勤になってほしい。次の異動で、新潟になってくれ。
「もっと、もっとです」
新潟になってほしい。
「もっと!」
にいがたになってほしい!
「おたちゃんはここたるよりも絶対たいよ、せっかく手たれた機会だもん。ただ向こうたる以上はその土地たっぱい順応するんだよ、俗たう『郷たっては郷に従え』ってね。でもおたちゃん頑張りやだから、仕事はほどほどにね。たでもいいんだよ。カップ麺をビたル袋たれてるからね。スたカーの紐が解けてるよ。たたゼミが鳴く頃にでも近況を聞かせてね、おたちゃん」