(著者)大野美波
俺の弟はかわいい。生まれた時のことはよく覚えている。みんな弟につきっきりになり兄貴の俺は多いに妬いたもんだが、弟の正樹の最初に覚えた言葉が『にいに』だったから、俺はすごくすごく感動した。母ちゃんと父ちゃんは悔しがってたけど。
正樹はスポーツ万能だ。その上成績優秀で何をやらしても器用にこなしたが、泳ぎだけはダメだった。プールの水を異常に怖がる。だから俺が小六、正樹が小二の夏に海に行くことになった。新潟だ。
新潟に近づいていくと正樹の様子がおかしくなった。泣いているのだ。家族が心配してどうしたのか聞いても本人にもわからないらしく
「わからない。けど涙がとまらない」
と目をこすった。宿について手分けして荷物を持ってはいると宿の女将さんが驚いた顔をした。
「ごめんなさい。あまりに息子の勇一とそっくりな坊ちゃんだったから」
女将さんは笑ってかがみながら正樹に視線を合わせて
「いらっしゃい」
と言った。
「みなさんよくいらっしゃいました。長旅で疲れたでしょう。古い民宿ですが料理は美味しいですよ。ゆっくりしていってください」
部屋に入るとき正樹が小さな声で
「ただいま」
と言ったのを俺は聞き逃さなかった。備え付けの温泉に入って夕食の時間になった。サザエにホタテにカニのお吸い物さまざまな海の幸が食卓に並ぶ。女将さんは最後の一品を運び終えると目を赤くして言った。
「正樹くんは見れば見るほど息子そっくりで。いや、お客さんにこんな話するのもどうかと思うのですが、勇一は正樹くんくらいの年齢のときに海で亡くなっているんですよ」
黙って箸を動かしていた正樹が突然泣きだしたから誰もが驚いた。
「ぼくが死んだのはしょうがなかった。けど弟の茂まで巻き込んだ。茂はあんなに沖にいくのを嫌がってたのに」
女将さんは感極まった感じて
「やっぱり、やっぱり勇一の生まれ変わりなのね」
俺たち家族は呆然とするしかなかった。正樹の様子がおかしいと思っていたが、前世があるとは。
「勇一、いや、正樹ちゃん。茂は生きてますよ」
その時だった。後ろから旦那さんと高校生くらいの男の子が顔を出した。やっぱりと言う顔をしていた。
「茂はサーファーに救助されて無事だったんですよ」
正樹は泣いていた。女将さんもないていた。旦那さんも息子も泣いていた。そのくせ翌朝になったら正樹は泣いたことも忘れてけろりとしていた。
そして海水浴にいくとじゃぼじゃぼと海に入りあんなに水を怖がっていたのが嘘のように上手に泳いだ。
宿を出る日、女将さん一家は総出で送り出してくれた。
「また来ますよ」
父ちゃんは言ったけど旦那さんは
「もう来ない方がいいでしょう」
と笑った。すると父ちゃんが
「いえ、また来ます。ここはとてもいい所ですから」
潮の匂いを風が運んできていた。
俺は思う。正樹は最初に覚えた言葉『にいに』は『新潟』のことだったんじゃないかって。当時の俺は妬いて正樹のことを全然相手にしてやらなかったのだ。それなのに最初の言葉が『にいに』だったのだ。きっとそうだ。
俺の弟は今日もかわいい。