ハルさん

(著者)七寒六温

 諸上寺公園。
 ここに来るたびに思い出す。ハルさんという女性のことを……

 あれは僕が高校生の頃、嫌なことがあって気晴らしにでもなればと、ベンチに座って桜を眺めていた。死んでもいいなんて思ったのは、人生で2度目だった。

 そんな僕に、1人の女性が声を掛けてきた。
「こんにちは 君は地元の子?」

「あ、はい。生まれも育ちも新潟です」

「あっ、君……」
「ごめんなさいね、私 顔を見たら分かっちゃうの。君、死のうとしてるでしょ?」

 自分では、暗い表情をしていたつもりはないけれど、ズバリ当てられた。正確には、死んでもいいと思っただけで、死のうとまではしていないけれど。

「何があったの? 私でよければ話聞くよ?」

「……いえ、大丈夫です。名前も住んでいる所も知らない人に話すことではありません」

「じゃあ、名前はハルさん。今、住んでいるのは、ここよりずーっと遠い所。年齢は、まあ……58歳になるのかな。これでいい?」
 年齢以外は、正確な情報をもらえていない。その年齢さえも本当のことを言っているようには思えなかった。見た感じ、ハルさんは20代に見えた。実年齢より若く見える事はあるとはいえ、さすがに20代と50代を間違える程、僕は、馬鹿ではない。
 
 それなのに、なぜか僕は、ハルさんのことを信用し、悩み事、思っている事をハルさんに話した。

 何をやっても中途半端で、他人と比べて自分には秀でているものがない事、やりたい事や試してみたいことが阻止されることに対する苛立ち、将来、このまま自分、周りの人がどうなるのかという不安。

 そのすべてを、ハルさんは黙って聞いてくれた。1度も否定することも笑うこともなく、ただ僕の話を一生懸命に。

「すみません。一方的に話してしまって」

「……大丈夫よ。話を聞きたいって言ったのは私だから。ただ、私からも少しだけ言わせて」

「君は、新潟は好き? 地元は好き?」

「あ、はい。もちろん大好きです」

「なら心配することはないよ。そんなあなたのことは、新潟がきっと守ってくれる。大切にしている人に対しては、その恩返しってのは必ずくるんだから……地元ってそういう所よ」

 何にも根拠のない言葉だけれど、その言葉には優しさがあった。この言葉が、僕が求めていた言葉だったのかも分からないけど、心が少しだけ軽くなった、もう少しだけ生きてみようと思った。

「……えっ あれっ?」
 僕が生きようと思った瞬間、役目を果たしたと思ったのか、ハルさんの姿が見えなくなった。ありがとうございますと一言お礼が言いたかったのに。 

 いなくなったという表現よりも消えたという表現の方が正しいのかもしれない。
 ハルさんは、幽霊だったのか、ソメイヨシノの妖精だったのか、瞬間移動が使える特殊な人間だったのか。それは、分からない。ただ、ハルさんの正体が何だったとしても、ハルさんには感謝の気持ちしかない。
 
***   

「ハルさん、元気にしていますか? お陰様であれから8年も生きてます。僕は間違えなくあなたに助けられました。本当にありがとうございます」
 僕は、諸上寺公園に来ると毎回、誰もいないあのベンチに向かってそう挨拶をする。

ルーツ

著者) 大野美波


 百合子と知り合ったのは大学時代だ。同じサークルで仲良くなり、俺の方から告白した。俺達は付き合い、就職して2年目に結婚した。そしてなんと子どもを授かったのだ。俺はこれ以上ないくらい喜んだが、百合子の表情がぱっとしない。妊娠からくるフォルモンの乱れで気分が落ち込んだり体調が乱れたりすると聞いたことがある。心配していると突然新潟に行こうと言われた。あまりにも強い瞳で言われたので俺は即休暇をとった。
 そして、二人で新潟の海を見ている。
「赤ちゃんね、堕ろそうと思うの」
「え?」
 俺は驚いた。百合子がそんなことを考えていたなんて。
「あのね、私おばあちゃんが新潟の人なの」
「うん」
「新潟水俣病って知ってる?工場から出たメチル水銀に汚染された川の魚を食べた人が、手足のしびれを訴えたの」
「四大公害事件って社会でやった気がする」
百合子はうなずいた。
「ひいおばあちゃんが被害者でその時おばあちゃんがお腹にいたの」
しばらく沈黙があった。
「幸い赤ちゃんのおばあちゃんに障がいは出なかったし、遺伝する病気じゃないらしいんだけど、それまで私達の家は医者の家系だったの。そうでなくなったのは新潟水俣病のせいだっておばあちゃんもお母さんも言われて育って来たのを私知ってるの」
『だから、産むのが怖いの。私はそんなこと思うような母親になりたくない』
 百合子は言った。俺は手を伸ばして百合子の涙をぬぐった。
「俺は科学者じゃないから、科学的なことはわからない。けど、百合子とこの子と生きていきたい。それに…」
俺は続けた。
「また公害を起こしてはいけないという決意が自分のルーツなんて、すごく大事なことじゃないか?それに見ろよ。この景色を」
 夕日が海に沈んでいく。それは美しいの一言だった。
「俺、百合子とこの子を守る」
「たかし…そうね。産むわ」
俺達はしばらく手を握りあい夕日を見ていた。