(著者)泳夏(えいか)
「先生、夜を捕まえに行きませんか。」
突然、彼女はこんなことを言う。
「君ね、意味の解らないことを唐突に言うなと言っただろう。それから、状況をわかって言っているんだろうな。」
俺はいつもの様に無機質に心電図の数字を確認した。
七十、六十、五十、四十―。
「先生、それってなんの数字なの?」
また彼女はこんなことを言う。
「だからね、これは…、大事な目安で、頻回に確認しなければならない…俺の仕事で、つまり…所謂、なんだっけ。」
俺としたことが、日頃の冷静さと決断力からは到底想像しえない歯切れの悪さだ。
「ふふ、いつもの先生じゃなくって面白い。このバタフライピーのお茶のおかげね。先生ってば、いつも真面目なんだもの。少しはお仕事のこと、忘れましょ。」
彼女は微笑んだ口元を隠すようにカップを持ち上げた。それから、カップの中を覗いて、
「ほら見て、夜の信濃川。」
と呟いた。俺は自分の持っているカップの中身を確かめた。そこには確かに川が流れていて、高層マンションと夜の電車の灯りが反射した深くて重たい蒼色の流れがあった。
彼女がカップに息を吹きかけると、その深くて蒼い流れは白い湯気を放って、部屋中に立ち込めた。
「もうここ、飽きちゃった。変わらない白い天井。少ししか開かない不便な窓。重くて軽い、あって無いような扉。鳴りやまないアラーム。終わらない治療。もうここに未練はありません!」
彼女がそう宣言すると、部屋中の湯気が真っ青になって、何も見えなくなった―。
蒼い広葉樹に、蒼い草、ところどころに生息しているのは、蒼い彼岸花。
「ようこそ、蒼の島へ!」
「蒼の島?」
どうにもついていけない事態なのに、俺はこの場所を知っている気がした。
「忘れちゃったの?ほら見て、服。」
ふと見下ろすと、俺はいつもの白衣ではなかった。学生の頃、よく着ていたライブのTシャツに細身のダメージジーンズとお気に入りのスニーカーを履いていた。
「夜を捕まえるの。さあ、行きましょう。」
彼女はそういうと、俺の手を強引に取って速足で進み始めた。坂を上ると、石の階段があって、彼女は一段一段、うんしょと上った。
「まるで神社の階段だな。」
体力に自信はあるものの、俺だってこんな傾斜のきつい階段、いつぶりだろう。
「着いたわ。ここ。確かここで見たの。」
上った先には、銅板が埋め込まれた石の門があった。
「高校?」
「そう、ここにはあったはずなの。熱血な先生がいてね。いっつも、『問題解決には生きる底力が必要だ!』なんて言っていたわ。」
ふっと笑った彼女の横を、ヒラヒラと何かが通った。蒼く光る四枚の羽根に、俺は見惚れて身動きが取れなくなった。チョウトンボだ。異変を感じた彼女が俺の目線を追う。
「あ、待って!待って、お願い!」
立ち尽くす俺を置いて、彼女は駆けた。だが、もう遅かった。チョウトンボは空高く飛んで、姿を消した。
「綺麗だったね。」
「そう、あれが夜。皆ああやって元の姿になって、この島を自由に飛び交うの。綺麗よね。それなのに皆捨てたがる。私は捨てたくて捨てたんじゃないんだけど、先生はやっぱりお仕事の関係で仕方がなかったのかしら。」
俺はようやく彼女が何を探しているのか分かり始めた。それは俺にはもう必要のないものだと思っていたが、こうしてここに彼女といるということは、きっと今の俺にはそれが必要なのだろう。
「俺も捨てたつもりはなかったかな。でも押し込めているうちに、消えてなくなった。つまり、捨てたのと何ら変わらないかもしれない。」
彼女は少し黙ってから、
「もうすぐバスが来るわ。急いで下りましょう。」
と言って、また俺の手を引っ張った。
バスを降りると彼女はずんずんと怪しげな茂みに入っていった。こんなところを一体誰が通るのだろう。砂利を踏み鳴らして進んだ先には、宝石のように輝く水面があった。
「虫谷の入り江。ここかもしれない。」
その海水は、果てしなく長い時の中で、人々の悲しみも愛も吸い込んできたような色をしていた。俺はその美しさに屈して、観念した。
「どうしても今日じゃないとだめなのか。」
俺は閉じ込めていた心の声を漏らした。
「先生、嬉しい。」
俺と彼女の瞳に朝日が差し込んで、キラキラと頬を伝った。
「ほら、捕まえた。」
蒼く輝くチョウトンボが彼女の指先にとまった。
「先生、ありがとう。私、頑張ったの。もうつらいのは卒業。また、ここに会いに来てね。」
三十、二十、十―。
俺は一人になった。チョウトンボが何匹も飛び交い、水面を一層輝かせた。それから激しい波が押し寄せて、俺の情けない嗚咽と涙を優しく包んだ。そして俺の震える掌に、一匹のチョウトンボがとまって羽を休めた。
「おかえり。俺の―。」