(著者)亜済公
柿崎の海岸に座っていると、
「釣れますか?」
と声がした。振り返ると、しわくちゃの顔をした老人が、こちらの様子をうかがっている。散歩にでも来たのだろうか。釣り場にやって来る人間なんて、今時そういるものではない。
「見ての通りです」
答えつつ、竿をぐい、と引っ張った。海中から、ペンキ缶が顔を出す。僕は丁寧に針を外して、そいつを傍らへ放り投げた。同じ動作を、もう何遍も繰り返している。ペットボトル、空き缶、ボール、旅行鞄……雑多な品の数々が、山のように釣り上がるのだ。肝心なモノは、かかる気配すらないというのに。
「昔は、私も、よくここへ来たもんですわ」
懐かしそうに、老人はいう。
「新潟で一番の釣り場だった。最近じゃ、どこへ行ったって魚なんかとれやしない。引っかかるのはゴミばっかりだ。あいつら、一体、どこへ行っちまったんでしょうなぁ」
「何でも、南極の近くでは、まだ少し上がるそうです」
そりゃいいや、と老人は愉快そうに笑っていた。
「何百万とつぎ込んだ竿も、みんなゴミになっちまって。売ろうにも、買い手がいないんじゃしょうがない……どうです? 竿は釣れますか?」
ええ、たまに。と答えると、彼はつまらなそうに、つばを吐いた。
「竿が海を汚すなんざ、あっちゃいけない話ですぜ」
海はどんよりと曇っていた。ぷかぷかと、遠く、小さな野球ボールが、顔を出したり引っ込めたり、波間に揺れているのが分かる。空に立ちこめる灰色の雲には、黄色だとか、紫だとか、工場の排気が混じっていた。
やがて、竿が再びしなった。引き上げると、人間の手によく似たものが、ひょいと海中から姿を現す。――やったか? 僕は僅かに期待し、すぐに落胆を味わった。それは、単なる、マネキンであった。
中性的な顔立ちで、胸が少し膨らんでいる。四肢には、海藻が絡みつき、海中のどこかで別のゴミと繋がっているようだった。ある時点で、それはピクリとも動かなくなり、ぎりぎりと釣り針をいじめたあとに、とうとう海へと戻ってしまう。ひん曲がった針を取り替え、僕はまた、釣りを続けた。
「何を、狙っているんです? 大物が来ると良いですがねぇ」
「正直なところ、大して、期待はしていないんです」
僕は、ふと思い出す。彼女のしなやかな肉体が、海へ落ちていく様子。それはどこか、人魚を連想させるのだった。
水しぶきには、無数のプラスチック片が混じっている。油が浮いて、空気の抜けた浮き輪が漂い、全体に茶色がかった海面に……彼女は二度と、浮かばない。
その自殺が、いかなる理由によるものなのか、今となっては分かるはずもないけれど。
「ただ、どうにも諦めきれないんですよ」
老人は、そうでしょうなぁ、と頷きながら、「では」とどこへか去ってしまう。僕は一人残されて、釣り竿を握りしめていた。
――もしも、彼女の肉体を、釣り上げることが出来たなら。
きっと僕は、それを家へと持ち帰るだろう。衣類は汚れているだろうから、僕のジャケットを貸してやるのだ。車の後部座席に横たえて、泳ぎ続けたその肉体を、たっぷり休ませる必要がある。帰り着いたら、風呂に入れよう。その間に、僕は来客用の上等な布団を、押し入れから引っ張り出しておかなくちゃ。夕食は、豚の生姜焼きで良いだろうか。彼女はそれが、好きだった。
やがて、子供用の帽子がかかった。青い染みが出来ていて、ツンと妙な匂いがした。裏側に、マジックで名前が書かれている。放り投げると、綺麗な放物線を描きつつ、波間にぱしゃりと落ちていった。
くるくると、何度か円を描いたあとに、帽子はゆっくり、沈んでいく。
――もしかすると。
と、僕は思った。
――もしかすると、彼女は沈みたかったのかもしれないな。
それは、ずっと以前の会話だった。
「海のずっと底の方には、綺麗な部分がまだ残っているんだって」
「綺麗な部分?」
「そ。工場の排水が、たどり着かないくらい、深い場所。水が昔みたいに澄んでいて、魚もいっぱい泳いでいる――ねぇ、見てみたいって、思わない?」
その話が本当なのか、あるいは単なる与太話なのか、実際のところはどうでも良かった。彼女にとって大切なのは、その空想が、とても美しいものだということである。
――だとしたら。
彼女を釣り上げようとするよりも、僕が沈んでいく方が、ずっと幸福なのではあるまいか?
その考えは、僕を強く誘惑した。
日はゆったりと傾いて、気がつけば水平線へと近づいている。
僕は釣り竿を引っ張り上げて、ジャムの瓶を針から外した。
それから、海へと近づいて――足を踏み出そうか迷ったあとに、「やめた、やめた」と、引き返す。僕の目には、海の底は見えなかった。ただ表面の、汚染された色彩が、目に入っただけであった。
――あの帽子は。
――あのマネキンは。
その他無数のゴミたちは、海の奥底の清流へ、たどり着くことが出来るだろうか?
遠く、ボウッと鐘が鳴る。工場が、排水を始める時間だった。ざぶざぶと、遙か向こうに新たな油の波が生まれて、こちらへゆっくり近づいてくる。
僕は荷物を手早くまとめ、家へと向かって歩き出す。
ツンと、風が臭っていた。