各駅停車

(著者) 中丸 美り

 西へ向かう列車は海沿いに出た。日本海を眺める。水面はどこまでも美しく、わずかな風に水の粒を煌めかせている。日本海というと寂しさの代名詞のように言われることが多いが、この季節の日本海は穏やかで、どこまでも凪いでいて景子は好きだった。
 しかし、今眺める日本海は、景子にとってどこか遠い異国の海のようにそっけなかった。
 景子は、自分がそのような境遇に身を置くことになろうとは、かけらも思ったことがなかった。小さいころから優等生で曲がったことがきらい、といえば聞こえがいいが、実のところ周りの目が気になるただの平凡な人間だった。
 ところが、妻子のある人を好きになってしまった。そして、妊娠。分かったのは一週間前だった。
「三か月です。おめでとうございます」
 産婦人科の医師の言葉を、景子は、どこか遠いところから全く知らない人に起こった出来事のように聞いていた。
 日常から逃げ出した。会社には、たまっている休暇を消化すると言って休みをとった。小さな命が、景子の一存でどうにでもなるという、責任の重さを受け入れることは、今の景子には難しいことだった。
 そして、景子はどこへ行くともなく電車に乗った。各駅停車の電車だ。景子の心の波を鎮め、そして、決断するためには時間が必要だった。
 長岡駅から電車に乗った。しばらく内陸部を走る電車は、柏崎から海沿いに出た。
 青海川駅から親子連れが乗ってきた。通路をはさんだ反対側のボックス席に座った。小さな男の子と母親だ。男の子は三歳ぐらいだろうか。母親は、景子より幾分年上だと思われた。
 母親は、飾り立ててはいないが薄化粧をしていて、子育てに忙しい中でも、自分を大切にしていることがわかった。息子に注ぐ視線が優しい。
 景子は、自分でも気づかぬうちに男の子をじっと見ていた。それに気づいたのか、男の子が、景子に向かって笑顔を作ってみせた。自分以外の人間を無条件に信頼している透き通ったまなざし。もし、自分の中の小さな命が、みなに祝福されて生まれてくるとしたら、小さな男の子に笑みを返せたことだろう。だが、どうしてもできなかった。母親は、景子のことをただの子ども嫌いの女だと思ったのだろうか。息子にお利口にするように言っている。
 男の子は、窓の外を見ては、母親に何か言っている。景子は、その後も無意識のうちに、ちらちらと何度も親子に目をやっていた。
 しばらくすると、男の子が景子のところにみかんを持ってきた。小さな手に小さなみかんが乗っている。冷凍みかんだろうか。顔を上げると、母親が
「よかったらどうぞ」
 と声をかけてきた。景子は
「ありがとうございます」
 と返事をしつつ、男の子を見た。すると、男の子は、景子に向かって、思いがけないことを口にした。
「お姉ちゃんもおなかに赤ちゃんいるの?ぼくのお母さんね、こんど赤ちゃん生むんだよ。ぼくの妹だよ」
 男の子の瞳に戸惑う景子の顔が映っている。何も言葉を返せないでいると、母親があわてて謝った。
「すいません。若い女の人を見ると、みんなおなかに赤ちゃんがいると思ってるんです。まあくん、ごめんなさいは?」
 まあくんと呼ばれた男の子は、何がいけなかったのかわからないという顔をしている。
 次の瞬間、景子は自分でも思ってみなかったことを口にしていた。
「そうだよ。お姉ちゃんもおなかに赤ちゃんいるんだ。まあくんの妹さんと同じだね」
「うん、おんなじだね」
 男の子は嬉しそうに座席にもどった。母親は半信半疑の表情だ。本当にこの女性が妊娠しているのか、息子をがっかりさせないように話を合わせてくれているのか。
「私も来年、母親になります。初めての子どもです」
 今度は、はっきりとした意志を持って景子は母親に言った。
「まあ、同じですね」
 母親がほっとしたように笑顔になった。
「はい」
 景子もぎこちない笑顔を返した。
 もらったみかんの皮をむく。季節外れのみかんは思った以上に甘く、冷たく、景子の口の中で溶けていった。
 何駅か過ぎ、犀潟駅で親子連れは席を立った。
「おねえちゃん、ばいばい」
 男の子が手をふった。母親もわずかに頭を下げた。親子は、ほんのり甘いみかんの香りとともに電車を降りていった。

 あれから三十年の月日が流れた。景子は、あの時と同じ各駅停車の電車に乗っている。景子は一人で息子を育て上げた。あの日、景子の人生の傍らを通り過ぎて行った親子を思い出す。景子にほんの少しの勇気と幸せをくれた。
 息子は、今年人生の伴侶を見つけ、我が家を巣立っていった。何年振りかで一人暮らしになった景子は、気づいたら、あの時の電車に乗っていた。
 自分の人生は、各駅停車だと景子は思う。少し走って、少し止まって、景色を眺めて、また走り出して……。これからもゆっくりと生きていこう。景子は窓の外の海を眺めた。
 あの日、景子から顔をそむけていた海は、今日は優しいまなざしで景子を包み込んでいる。どこまでも穏やかな海は水面に無数の光のリボンを躍らせている。