(著者)渡辺ヒラオ
三郎は冒険好きである。好奇心は強く何でもやって見なければ気がすまない中学2年生だ。それはある冬の日のことだった。3学期の始業式も終わって寄り道をした同級生のKと自宅の火鉢で餅を焼いていた。テレビでは昼のニュースで南極観測船「ふじ」が越冬隊を乗せて南極へ向けて出港する様子を伝えていた。餅を頬張りながら三郎はKに「よし、たかぶへ行こう」と不意に言った。たかぶとは家から3キロほど離れた溜池で、春から夏そして秋にかけて友人らと魚釣りやボート遊びを楽しむ場所であった。なぜたかぶへ行こうと言ったのか。三郎は薄氷が張っているだろうその池を南氷洋に見立て、そこを氷を打ち砕きながら進む観測船よろしくそれを真似てみたくなったのである。
二人は自転車に乗り20分ほど走ると、舗装された県道から雪の残った田んぼ道に入り池に着いた。池には予想通り薄氷が張っていた。雪は止んでいたが朝は冷えていたから湖面は凍ったのだろう。空は晴れている。池の岸に放置してあるボートのそばには薄い氷を通して水草が日を浴びながらゆらゆらと揺れている。ボートは右側のヘリ板が朽ちて剥がれていたが、二人が乗るには大丈夫だろうと思った。左側に体を寄せて重心を少し移動すれば支障が無く進めると思ったのである。オール替わりの竹竿で水を掻きながら観測船に乗った気分で漕ぎ出した。空は晴れているが風は冷たい。2時間ほど池の中をぐるぐる回った。池の周囲は1キロ余りだが所々入江のように食い込んだ場所があり、そこを港に見立てると「ただいま〇〇港を出港でありまーす」などと言いながら悦に浸っていた。
突然予期せぬことが起こった。朽ちたヘリ板を超え水が入って来るではないか。慌てた二人は重心を取り戻そう反対側に身を寄せたが、かえって一気に水が入ってきてボートの中は水で一杯になった。Kが「わーっ、沈む!」と叫んだ。次の瞬間気づくと二人とも必死に犬かきをしている、。泳ぎは得意ではなかったが冬の厚着のためクロールなんかとてもできたところではない。長靴も邪魔になったから足を振って脱ぎ捨てた。三郎は15メートル位離れた岸までなんとか辿り着くことができた。後ろを振り返るとKはまだ10メートル位の所で必死に喘いでいる。三郎はKに向かって「がんばられよ、おまえは陸上部じゃないか」と叫んだ。泳ぎと陸上部とはまったく関係のないことだが、とにかくグランドで汗を流したK
の姿を見ていたので三郎は必死に叫んだのである。Kがなんとか岸に辿り着くと震えた声で互いの健闘を讃えあった。水温は零度近いはずで普通なら心臓麻痺を起こしても不思議ではなかったが、寒風の中3時間ほどいたせいで身体が慣れていたのかも知れない。
自転車を引きずりながら裸足で夕暮れの田んぼ道をトボトボと歩く。顔は泳いだ時薄氷で少し切ったから余計に寒風が染みてきた。300メートルほど離れた県道沿いの駄菓子屋まで辿り着くと、事の次第を告げストーブに当たらせてもらった。初老の夫婦で店は営んでいたが店主の夫が近くの農協に電話をかけて、二人とも家まで送ってもらった。家に帰り三郎の母と姉がこの顛末を聞くと随分と呆れた様子だったが、それでも風呂を沸かしてくれた。凍え切った三郎の体はぬるま湯から入ると、水温が上がるにつれようやく生きた心地を取り戻したのである。
三郎は翌日父と一緒に駄菓子屋まで自転車を取りに行った。父は「もうあんな危ないことはするな。でも二人とも助かってよかった、いい経験をしたな」と言った。三郎は生まれ付体は弱く体を鍛えようと、小学生の時海軍上がりの父から海で特訓を受けたことがある。その時海水をいっぱい飲んで肺炎になりかけたが、掛かりつけの医者から「なんでこんなになるまでさせたんだ」とこっぴどく怒られる父の姿を覚えているから、いい経験をしたなと言われた時なんだか褒められたような気がした。三郎は高校ではサッカー部に入り持久力が付いて、マラソン大会で前年優勝した先輩を練習のロードレースで抜いたほどであった。
高校を出ると三郎はコックになったが、持ち前の好奇心が付いてまわり以後半世紀近く芸人と料理人の二足の草鞋を履くことになる。妻とは共に晩婚だったがすぐに二人の息子を授かった。長男はこの春結婚して家庭を持った。もう人生の第3ピリオドに入っても彼は相変わらずパッとしないが、好奇心だけは失うことなく極めて楽観主義で未来を明るくしているのだろう。若い頃東京で役者を目指して頑張った時期もあったが、三郎にとって故郷新潟はやはり人生のついのステージでなのである。遠い日の想い出を振り返る時、豊かな四季の移ろいを肌いっぱいに感じながら、この地に生まれて本当によかったと思っている。年を重ねるたびにその思いは強くなるばかりである。ここ10年ほどの彼のモットーは「今日という日は残りの人生の最初の一日である」。年は取っても今日という日を新鮮な気持ちで迎えることのできる、ふるさとバンザイ新潟バンザイと心の中で呟きながら。