きょうりきょり

(著者)コバルトブルー

 まるで、みたらし団子のタレの中に、沈んでいるようだ。
 実家という場所に漂う空気は、あの砂糖醤油の葛餡そのものだ。甘くてしょっぱくて、全体的になんか茶色くて、ねっとりと絡みつく。
 みんなそれを振り切れる距離まで行き、人生を続けているのに、俺はまだ実家で、餡にまみれて浅い呼吸で生きている。

 元同級生達のSNSを飛び回って、プロフィールページの『地元の地名→現在の生活拠点』の表記を見るのが最近の癖。その二つの地名が離れていればいる程、心臓を下から棒で突き上げられたような、不快感が胸に広がる。

 ガラッと店の引き戸が開く音がして、慌ててスマホをレジの下に隠した。「いらっしゃいませ」と言おうとしたが、客の顔を見て言葉に詰まる。涼だ。
「えっ、純。お前継いだの?」
 最悪。同級生だった奴が来るかもしれないって思ったから、やりたくなかったのに。
「別に継いでない。婆ちゃんが足捻挫して、しばらく安静にしなきゃ行けないから、代わりに店番してるだけ」
 何買いに来たの。と聞くと、ちょっと寄ってみたくて。と言いながら店の棚を物色しだした。祖母がやってるだけの小さな商店に、成人男性が欲しいものなどあるのか。ぼんやり眺めていると、不意に涼が言った。
「俺いま、仕事で上越に住んでるんだよね。つってもかなり端っこなんだけど」
 言われた地名は新潟県上越の最西端の市。胸にあの不快感が広がる。
 もう話したくない。

 地元を、いつか出ると思っていた。明確に行きたい場所があったわけじゃない。強いて言えば東京だったけど、それに『東京だから』以外の理由はなかった。きっとそのうち、目的が出来て地元を離れると思ってた。それまでは、と思いながらとりあえず地元の高校に行った。大学もとりあえず実家から通えるところに進学した。
「わざわざとおげとこ行がねでも、ここで暮らすのが一番だからの」
 進路で迷った時、祖母はいつもそう言った。その度、甘く滑らかなみたらし団子の餡が、脳の大事な決断を下す部分にしみ込んで、「まあとりあえずいいか」と思わせた。
 けれど四年経っても、地元を出る必要のある『目的』なんて出来なかった。就職で地元を離れようと考えたが、20年間徐々に餡に絡められてきた自分のメンタルは、県境を越えるということを億劫に感じるようになった。
(とりあえず地元で就職して、そして…)
そして、どうなるんだろう。多分、どうにもならない。それに気づいた瞬間、俺は果てしなく濃い餡の中にどぷんっと落ちた。
 それからずっとそのままだ。

 涼はレジにスナック菓子を置きながら、「純は今どうしてんの?」と聞いてきた。
 プツンっと何かが切れた。
「卒業して就職しないでバイトしてたけど、最近辞めたから実家暮らしのニート。特にやりたいこともなし。やる気なし。地元出たこともなし」
 だからもう聞いてくんな。そういってレジを乱暴に打った。
 途端に鼻の奥が痺れた。やってしまった。地元を離れて自立してる涼に嫉妬して、思わず八つ当たりしてしまった自分が、あまりに情けなくて泣きそうだった。
 涼は驚いたのか少し黙ったが、変わらない調子で会話を続けてきた。
 「地元、出たいの?」
 「出たいけど、東京とか県外は無理。県境越えんの怠い」
 「じゃあ、新発田市とか新潟市とか?」
 「その辺は別に遠くないし。ふらっと帰れない距離じゃないと、地元出たって思えないし思ってもらえない」
 もう本音が駄々洩れだった。今すぐ帰ってほしい。じゃなきゃ俺が飛び出すか。
 「地元は出たいけど、県境を越えるのは面倒だから県外は無理。でもみんなが見たら、一目で遠いって分かる場所に行きたいってことか」
 相変わらずだね、お前。
 涼の言葉が心臓を抓った。

 何の取柄もないのに、プライドは高かった。そういう子供だった。だから、「いつか地元を出る」なんて周りに言いながら、結局一度も実家を出なかったことを、同級生達に知られたくなかった。逆に同級生達の現在地を知ると、窒息しそうなほどの劣等感に襲われた。早く自分も遠くに行きたい。みたらしの餡が剥がれ落ちる距離まで。でも、自分からは行動を起こせないくらい怠惰で、肝心なところで臆病だ。
 脳天から、どろりとした感触に包まれる。俺は何度劣等感に苛まれても、どうせ『これ』にまみれて生きていくんだろう。

 俺はダサいと思われているに違いない。
 涼が口を開く。きっと、馬鹿にされる。
「じゃあ、俺と住む?」
 どぷん。耳のすぐそばで、空気が混ぜっ返された音がした。

「ここ、下越の中でも一番北の市でしょ。俺がいま住んでる街と同じ県って考えるの、もう無理があるレベルじゃん。誰が見ても遠いところに行きたいけど、県外は無理っていう純の条件にピッタリじゃない?」
 日本で5番目に大きい県に住んでて良かったね。と涼は笑う。
「ちょっと待って。話ついていけないんだけど」
 軽くパニックになりながら言うと、涼は会計が済んだお菓子を開けながら言った。
「あっちで働くことになった時、付き合ってた彼女と同棲始めたんだけど、最近別れて出てっちゃったんだよね。でも部屋は気に入ってるし、一人だとつまんないし、代わりの家賃折半人探そうと思って」
 ルームメイトって言えよ。というと、涼は開けたお菓子の袋をこちらに向けた。中のスナックにしぶしぶ手を伸ばしながら、「なんで俺なの」と聞く。
「純、SNSによく写真上げてたのに、家の中とか住んでる場所とかの情報は、全然ないじゃん。だからまだ地元にいて、きっとそれがコンプレックスなんだろうなって。それにさ、アカウントのプロフィール欄のとこ、『新潟→』のあと空白にしてそのままじゃん。そこ埋めたいのかなって思ったし。だったら、こっちで一緒に住んでくれるかなって思ってさ」
 図星過ぎて、ムカつく気持ちすら湧かなかった。
「県民ならここの市の名前と、あっちの市の名前だけで、遠いってわかるっしょ。純にも遠いふるさとができるよ」
「てか、涼は俺と住んでいいわけ」
そう聞くと、涼はニヤッとして言った。
「俺ら性格的にも、結構合うと思うんだよね。お前のそのプライドさえなかったら、俺は全然いいし」
 うっざ。と言いながら、ふと思う。涼は俺のしょうもないプライドを、崩してくれていたのかもしれない。それも、砂の城を撫でるみたいに、優しくぽろぽろと。
 涼と住めば、無理矢理見栄を張る必要もない。
 「新しい場所に住んで、コンプレックスも落ち着いたら、やりたいことも見つかるんじゃない?」
 その一言ですべてのプレゼンを終えたのか、涼は静かになった。その顔を見ると、さっきまで明るい声で喋ってたとは思えないくらい、真剣な目をしていた。
 その視線に、体を覆っていたねっとりとした空気が裂かれ、顔の皮膚の上をずるずると落ちていくのを感じた。呼吸のしやすくなった鼻で、深く息を吸う。
「行く。と思う」
涼の体が少し緩んだ。
「てか、とりあえず内見したい」
「じゃあ乗せて帰るよ」
 涼の言葉を聞きながら、スマホで二つの地名を打ち込む。すると、地図に青い線で記されたルートが現れた。
 それは新潟県の背骨のようだった。