フッと彷徨った街の向こうから

ベッカム隊長(著者)

 背筋を伸ばして優先シートに座った。
 鍼灸院からの帰り、小田急線はまだ午後3時を過ぎたあたりだから空いていた。
 高架になった車窓に広がる風景を見るともなしに観ていると眠くなって来た。
「・・・」
 そろそろまた長い地下へ入って行くんだな、そんなことを思いながら目を閉じた。
『代々木上原ァ~代々木上原ァ~・・・』
 なんだ下北沢を過ぎてしまったのか・・・。
 降りなくてもいいのに、なんとなくホームに出て、そのまま改札に向かった。
 Suicaをかざして高架下に出て、左に曲がり、幸福書房に入ってみた。
 店主の姿が見える。兄弟で経営しているのかよく似た二人がレジにいる。グルッと狭い店内を回って表の雑誌コーナーへ行き、何気なくぴあの最新号を手にした。
 その時、
「ぴあ・・・!?」
と思った。
 ぴあは休刊しているんじゃなかったっけ!?
 奧付けを見た。マジか・・・。
 1988年にオレはいる。
 そう言えば、幸福書房が閉店した、というトピックス記事をwebニュースでつい最近読んで、感慨に耽ったことが蘇って来た。
 ぼくは高架の下を潜って、反対側に行き、三菱銀行の前を丸正方面にまっすぐ歩いた。東京三菱UFJではなかった。丸正の入り口周辺には所狭しと商品が並べられている。懐かしい光景だ。そうして小径に入って、かつて住んでいたアパートの方に行く。築40年の佇まい。ちゃんと建っていることにうれしくなる。入り口の扉を開けてすぐの階段を上がり、左から2番目の部屋の前に立った。中に人の気配がする。
「燐ちゃん」
とぼくはあたり前のように呼び掛けた。
 鍵が外れる音がすると扉がそっと開いて、そこから女の子が顔を出した。
「買ってきたよ」
 ぼくは笑顔で、部屋に入った。
 テレクラで知り合った女性だった。
 昨日、新潟からやって来たのだ。
 ここでしばらく一緒に暮らすことになったのだ。そうして3ヶ月、ぼくと燐子は四畳半の部屋で一緒に生活した。
「必ず戻って来るから」
 ぼくは、上野駅まで彼女を送った。
 地下の新幹線のホームに立ち、ドアが閉まる前に手を握った冷たさが、すごく印象に残った。
 上野駅の地上に出て、何気なくそのまま上野東京ラインのホームに出た。
 上野東京ライン・・・!?スマホを取り出し、妻からのLineを確認する。
〝鍼、効いた!?〟とある。
 いつの間にか〝今〟の世界に戻っていた。
 宇都宮線に揺られながら、ぼんやりと暗い車窓を眺めていると遠い記憶がいくつか蘇えって来て、ぼくの気持ちがザワついた。
 彼女と上野で別れてから5年目くらいだった頃、ぼくはまた電話をかけ、今こんなことをやっているのだけど・・・というような話をして、エロビデオの出演交渉をしてみた。
いいよ、別に顔写ったってどうってことないよ・・・と言ってくれ、関山駅で待ち合わせることになった。
 燕温泉というところで夕刻から撮影した。鄙びた温泉宿でランデブーをする女性・・・。
 そんな設定で、いかがわしいことを繰り広げて行くのだ。なかなか堂に入った感じで撮影は進んだ。黄金の湯で寛ぐ燐子。その向こうに見える惣滝。その勢いに唆されるように、滝への道を浴衣姿で向かう燐子。滝壺に入って行くと、そこにとんだ男が現れて・・・。
 とんだ男をぼくが演じた。作品はヒットしてビデオもかなり売り上げた。
 あれから30年余りが過ぎた。
・・・・・・
 ぼくは今、旧街道歩きに凝っていて、北国街道を北に向かって、その日は新井宿に到着した。
 関山を通過するあたりから、燐子のことが脳裏に甦っていた。
 アドレス帳はずっと同じのを持ち歩いている。なんとなくダイヤルしてみた。
「あのう、燐子ちゃん!?」
「ハイ・・・」
 声が不審そうに響いた。ぼくは名乗り、いきさつを話した。電話はガチャリと切られてしまった。すぐリダイヤルしてみた。
「お客様がおかけになった電話番号は、現在使われておりません・・・」
という無機質な声が流れてきた。
 してはいけないひとり遊びをしてしまったような気がして、滅入った。
 翌日、高田まで歩き、かつて彼女が勤めていたという大和デパートの跡地を見上げながらベンチに座って、もう一度かけてみた。
 コール音が響いた。
「!」
 気が付くと、惣滝の滝壺に浮かんで激しくぼくに手を振っている燐子の眩しい笑顔がレンズの中で弾けていた。彼女と一緒にこの街で暮らしていけたら!?・・・ここからまた人生をリプレイするように生き直してみたら・・・!?そんなことを真剣に考えながら必死にカメラを廻したしたかつてのビデオ撮影のことを思い浮かべていた。
 コール音が途切れた。
「お客様がおかけになった電話番号は・・・」
 もうどこにも誰にも繋がらなくなってしまっているのだな・・・。
 かつての気まぐれで出鱈目な日々も、あの夕立のような瞬間も、もうシャボン玉みたいに消えてしまっているのだな・・・。
 ぼくはベンチに佇んだまま、ぼんやりと風に吹かれていた。適当な番号を押してみたら、コール音が響き出した。
「もしもし!?」
「!」
 燐子であるわけでもないのに、
「燐子!?」
と訊ねていた。
 すると、
「久しぶり!」
 まさか・・・。
 屈託のない笑いがぼくの耳元に響いた。
 溢れる思いが身体の底から込み上げて来た。
「ねぇ、聴こえてる??あたしあれからねぇ」
 ぼくはその声に耳をすました。

メモリー1:猫の里の発明王

(著者)虹

 弥彦公園のもみじ谷には小さな小さなトンネルがあり、ネコ達はその先にある『猫の里』で毎日楽しく暮らしています。ネコ達は料理が得意だったり、大工仕事が得意だったりと様々です。皆でお互いに得意な事を披露しながら助け合って暮らしています。

「う?んチャンスは明日の夜、一度きりか…失敗はできにゃいな」
と猫の里一番の発明家の楓は、難しい顔をしながら古い書物を見ていました。

 三日前の事です。里一番のおてんばネコの もみじは、いつものように弥彦公園を駆け回ったり、香ばしい玉こんにゃくの香りを吸い込んだり、神社の参拝客を眺めたりと大好きな弥彦公園で遊んでいました。すると
「危ない!」
 車に跳ねられそうな危ない所を、弥彦駅の駅員さんが助けてくれました。
「猫ちゃん怪我はないかい?この辺りは車が多いから気をつけないとね」
 と、頭を撫でながら駅員さんは続けて言いました
「もうすぐ日が暮れる、お腹も空くだろうし夜は冷えるから暖かい駅にしばらくいるといい」
 もみじは猫の里に帰りたかったのですが、優しい駅員さんの所から逃げ出す気にはとてもなれませんでした。それに駅員さんはとても痩せていて駅員さんの方が寒そうだなと、もみじは心の中で思ったのでした。
 駅員さんはもみじの為に食事や毛布を用意してくれた後に、白い紙を取り出しマジックペンをはしらせ、スラスラと何やら書いた紙を壁に貼りました。そこには『里親募集』の文字と、お世辞にも似てるとは言えないもみじの似顔絵。
「大事にしてくれる飼い主が見つかるといいね」
 そう言って駅員さんはもみじの頭を撫でました。

 もみじが帰ってこないのでネコ達は心配しあちこち探し回りようやく弥彦駅にいるもみじを見つけました。
「なんとかしないと!」」
 と騒ぐネコ達に向かって楓は静かに言いました
「オレの家に代々伝わる発明の書には『人間変身薬 』の作り方が記されてあるにゃ、ただ失敗を恐れてオレの父さんも、おじいさんも誰も試さなかった、だから本当に人間に変身できるのかわからない、でもオレはこの薬を作ってもみじを迎えに行こうと思うにゃ」
 そうして楓は古い書物と一緒にしまってあった木箱のホコリを払いながら蓋を開けました。すると眩い七色の光に包まれて『七色のリンゴ』が一つ現れました。古い書物には『 七色のリンゴ一つ 、水一?、砂糖大さじ三これらを合わせ満月の光に照らしながら弱火で一晩休まず混ぜ続けよ』と、まるで料理レシピかのように記されていました。
「こんなので本当に人間変身薬ができるんですか?嘘かもしれませんよ」
 と長いしっぽの白ネコは疑いながら言います。
「それなら俺たちが一斉に駅で大暴れしようぜ!」
 とネコ達は様々な声をあげています。
「オレはご先祖さまの発明を信じたい、そして人間と争うことなくもみじが帰って来れるならそれが一番良いと思うにゃ!」
 と普段は静な楓の大きな声にネコ達は驚き少しの間黙って
「わかりました、一緒に薬を作りましょう」
 と長いしっぽの白ネコは楓の手を取りました。すると
「私もお手伝いします!」
「もみじちゃんの為なら僕もやるぞ!」
 と次々にネコ達は手を挙げました。

 翌日見事な満月の下、料理が得意なネコは火を焚き、大きな鍋を用意しました。その大きな鍋の前にネコ達は行列を作って混ぜる番を待っています。
「それ!1.2.―10交代!」
 先頭のネコが10回混ぜては最後尾へ回り次のネコと交代。それを一晩中続けます。混ぜているうちにだんだんドロドロした液体になり、さらに混ぜていくとネバネバしてきて、さらに混ぜると小さくまとまってきました。もうどのくらいの時間混ぜ続けたのか分かりません。皆の気力と体力は限界へ近づき、朝日が顔を出しはじめたその時
〈パァァァー〉
 っと鍋から眩い光が溢れた次の瞬間
〈コロン…〉
 ネコ達は一斉に鍋を覗き込み、現れたコロンとした指先程の小さな一粒の固まりを目の前にして、ポカンと口を開けたまま数秒間まるで時が止まったようでした。
「これが人間変身薬?どうやら完成したみたいだにゃ…」
 と楓がボソッと呟くと、時が動き出したように歓喜の声をあげ拍手が巻き起こりました。そんな喜びの中
「それでよぅ、楓、本当にこの薬を飲むのかよぅ、し、死んじまうかもしれねぇぜ」
 と大工仕事が得意なネコは『失敗』の意味を想像して心配そうに言いました。その言葉にネコ達はまた静かになり不安な表情を浮かべています。
「みんなが一生懸命に手伝ってくれたその気持ちを無駄にできない、それにもみじはきっと困ってるにゃ」
 と楓は落ち着いた口調で言葉を放つと同時に
〈ゴクリ!!〉
 楓は勢いよく薬を丸飲みしてしまいました。
「あっ!!!」
 ネコ達は楓の一瞬の行動に驚いて同時に叫びましたが、手品のように楓の姿はもうそこにはありませんでした。

「イテテテ…」
 楓は頭を強くぶたれたような痛みを感じ目を開けると、目の前には彌彦神社のお社が朝の光で美しく輝いていました。
「あ!」
 と自分のやるべき事を思い出したのか大きな声を一つ出すと弥彦駅に向かって走り出しましたが、足がもつれて
〈ステン〉
 と転び、そこでようやく二本の人間の足に気が付き、嬉しさと驚きが同時に表れたような
「うぉー!」
 と叫ぶと少年楓は再び弥彦駅へと向かって猫の時よりも遅い足を一生懸命動かし走りました。
 弥彦駅では肌寒い朝空気の中、駅員さんはもみじに食事を用意している所でした。そこへ勢いよく走ってきた少年は
「あのっ!」
 と少年の声が大きく駅に響きます。こんな朝早くに人が来るとは思いもしなかった駅員さんは痩せっぽちの体をピクッとさせて驚き、声の方へと振り向きました。
「あのっ、すみません…ここにネコがいるって…」
 自分の声の大きさに驚いたのか、声が次第に小さくなっていく少年楓に駅員さんは近寄り優しい口調で言いました。
「こんな朝早くから猫に会いに来てくれたんだね」
 そう言うと、もみじを少年楓の前まで連れてきてくれました。もみじは少年楓を見ると不思議と一瞬で全てをわかったようで
「ニャー」
 と可愛い声で鳴いて少年楓に甘えます。そんなもみじを見た駅員さんは驚いた顔をした後、ぐっと優しい顔になり
「そうか!君のネコだったんだね、それは良かった!そうかそうか」
 と繰り返し頷いてそして
「これからは車に気をつけるんだよ」
 ともみじの頭を一度撫でてそれから
「気をつけて帰りなさい」
 そう少年楓に言いました。楓はペコっとお辞儀をして、もみじは駅員さんに向かって
「ニャー」
 と可愛く鳴いて少年と一緒に歩きだしました。痩せっぽちの優しい駅員さんは、だんだん小さくなっていく二つのしっぽにしばらく手を振っていました。

闇と関取

著者) 大坪覚


 街歩きツアーの新企画を考えながらネットを検索中、「ダークツーリズム」という言葉に遭遇した。戦争、自然災害、公害などの負の遺産の現場や関連施設を訪れるという新しい観光のことだった。今まで注目されなかった、避けていた地域の悲しみに目を向けるという発想が新鮮で、私はかつて地元の富山県で多くの人々を死に至らしめたイタイイタイ病を伝えるために作られた資料館を訪れたことを思い出した。街の中心からずいぶん離れた地にあったが路線バスで近くまで行くことができて、旅行のプロである私の目から見ても充実した内容であり入場無料、富山県のミュージアムの中でもベスト3に入ると思ったが、入館者は私一人だった。観光案内所でも、ガイドブックにもパンフレットにも一切登場していなかった。風評被害を恐れて、折角作った施設が人の目に触れないということは問題だと思った。
 そしてお盆休みで帰省し、思い出したのはお隣の新潟県の阿賀野川で発生した新潟水俣病だった。新潟は日本海側随一の都市であるから、ダークツーリズムの観点からも富山とは異なるアプローチをしているのではないか。検索すると「新潟県立環境と人間のふれあい館~新潟水俣病資料館~」があった。環境と人間のふれあいというのはかなり婉曲な言い回しで、サブネームがなければ新潟水俣病のミュージアムであることが伝わらない。ウィキペディアを見ると、当事者の方々から風評被害への強い懸念があったようだ。難しい問題である。これは実際行って自分の目で確かめてみようと思った。
 富山から新潟へ行くのは初めてだった。糸魚川、直江津、越後湯沢、長岡という駅名は鉄道の乗り換えで利用していて懐かしいが新潟は完全に初見だ。新潟は思っていた以上に大きな街で地方都市というよりも大阪や神戸のようだった。市内見物は翌日にして、私は新発田行きの電車で豊栄駅へ向かった。資料館HPでは豊栄駅からタクシー5分、徒歩30分となっていたが観光型コミュニティバスなどがあるだろうと考えていた。いくらなんでも徒歩30分というのはブラックジョークだ。駅に降りたらアクセス手段が見付かるだろうと思っていたがそれは完全に甘い考えだった。まず豊栄駅には資料館の案内は一切存在していなかった。HPの地図を頼りに歩き出してみると、夏場の新潟で昼間に徒歩で移動しようというのが最悪であることに気付いた。地図は大雑把で、カネのない好奇心だけは旺盛な客の来訪を拒んでいるようだった。豊栄という町は瀟洒な大きな家が多く、道も綺麗に整備されていて歩くこと自体は楽しいのだが、肝心の資料館へのアクセスを示す標識は皆無だった。徒歩30分というのは明らかに少なめで、30分過ぎても何も見付けることができず、グーグルマップも反応せず、暑さもあって不安が募ってきた。まるで結界でもあるかのように資料館の手掛かりは見付からない。ところがそのとき、ちょっと不思議な感じの、町中で明らかに違和感のある整備された散歩道に出くわした。私は何か感じるものがあってその道を進んだ。そしてその散歩道が不意に終わり、目の前に見えたのは、ごく当たり前の、農村の中にある見通しのよい交差点だった。その見通しの良さに感じたのは、この土地がようやく私に対して開いた、というニュアンスだった。まるで目に見えない土地神の祠に出くわしたような感触だった。
 それからすぐ大きな駐車場が見えた。遂に辿り着いた、と思ったがそこは遊水館という名の地域のプールで夏休みらしく大盛況だった。私はプールから聞こえてくる歓声を耳にしながら、この地にプールを作った人物の発想に感服した。地域で起きた悲しい水の記憶を伝える施設の傍で、年月と世代を更新しながら、楽しい水の記憶を上書き保存していく。これは普通の役人の仕事ではなく、正統な魔術の知識のある人間の発想である。
新潟水俣病資料館の展示はとても見ごたえがあった。特に当時の地域の住民が追い詰められ、意見の相違から派閥のように対立し、分断されたことに踏み込んでいたことを伝える常設展示には感銘を受けた。館内全体が水俣病関連の展示ではなく、落としどころを見付けるためにかなり苦心したことがうかがえた。全国の公害関連の資料館の紹介コーナーもあり、この施設がしっかり活動していることがわかって嬉しかった。
 いつかこのような施設を巡り、話しをうかがうツアーを企画したいと考えながら豊栄駅へ向かった。そしてそのとき駅前で見つけたのは、地元出身の大相撲・豊山を応援するパネルだった。そのパネルは資料館へ向かうちょうどスタート時点に設置されていた。ここに力士のモニュメントがあるということは、声にはならないが神聖な大地への祈りのメッセージではないか。誰にも気付かれなくてもいい。そんな想いを受け止めて、私は新潟駅まで戻った。