君がいる世界で、もう一度息をする

(著者)乃木 京介

 長い夢を見ていた。

 僕は何をするにしても、一人の少女と一緒に過ごしていた。正確には、二人だけの世界で。少女はたぶん、僕と同い年くらいの高校生。腰辺りまで伸ばした長い黒髪が特徴的で、いつもピンクのリボンを身に付けていた。

 学校は教師もクラスメイトもいなかった。だからいつも、少女と毎日勉強をした。放課後の街中は誰もいなかった。だからいつも、少女と手を繋いで道路のど真ん中を歩いて話した。

 休みの日はなぜか空を飛べた。どこまでも羽ばたける爽快感は現実世界の何ものにも代えられないと思った。だが、いつも僕が空を飛んでいる時だけ、少女は悲しい眼をしていた。少女には羽がなくて一人ぼっちが嫌だったのだろう。だから僕は、少女の元から離れることはなかった。

 こうして振り返ってみると可笑しいが、夢なんてそんなものだと思う。もっとも、いま僕の身に起きていることのほうが、よっぽど夢だと疑いたくなるが。

「今日はね、クラス替えがあったんだよ。私たち、また一緒になれたの!」

 僕に向かって嬉しそうに出来事を話す一人の女の子。こうして顔を合わせるのはもう一ヵ月にもなるので慣れてきたが、最初はとても驚いた。

「クラスのみんなも待ってるから、ゆっくり治してね」

 僕が無言で頷くと、君は満足そうに笑った。
 僕は君の名前を知らなかった。

 僕が夢から目を覚ました時、病院のベットの上にいた。
 どうやら僕は事故に遭い、長いあいだ眠っていたらしい。

 お医者さんによれば、記憶の大半を失っていてもおかしくない状態だったそうだが、僕の脳は冴えていた。事故の瞬間こそ忘れていたが、日常生活を送るうえで困るような欠如はなかった。

 ただひとつ、ほとんど毎日お見舞いに来てくれる君の名前だけは、どうしてもわからなかった。悪意なくそれを伝えた時、君はとても悲しそうな眼をした。それは夢の世界で僕が空を羽ばたいている時に、少女が向けていた眼差しとそっくりだった。

 それでも君は、翌日からたくさん話をしてくれた。

 僕と君の関係性は恋人であること。僕が君に二度断られたにも関わらず、三度目の告白をしてようやく受け入れられたこと。休みの日は柏崎の恋人岬や、糸魚川の親不知海水浴場などいろんな場所に二人で行ったこと。少し見返すのが恥ずかしいような、愛のあるメッセージのやり取りをしたこと。

 実際に写真や文字の記録を見せてもらうと、確かに僕は君のいる世界で生きていたことがわかった。そんな僕の人生の基盤となっている君の存在を、奇妙なことに何ひとつ憶えていなかったのだ。君と過ごした時間だけぽっかりと抜け落ちてしまったような、いや……最初から君という存在がなかったような──。

 もし、僕が君の立場だったら絶望してしまうだろう。
 だから、どうしても思い出したかった。

「ごめんな……」

 僕の呟きに、君は何も言わず窓から空を見つめた。
 埋められない空白が怖くて仕方なかった。

「毎日来てくれてありがとうねえ」

「いえ、家にいても落ち着きませんから」

 ある日、僕が眠るベットの近くで、母親と君が会話をしていた。そんな声で目が覚めた僕は、なんとなく寝たふりをしながら耳を傾けることにした。

 しばらくたわいもない会話をしていた二人だったが、不意に会話のトーンが変わる。

「最近の様子はどう?」

「頑張って思い出そうとしてくれてるみたいです」

「もう……戻らないのかもしれないのよ……?」

 母親の言葉は、決して君から希望を奪おうとしたわけではない。もし僕の記憶が戻らなかった時、君が深く傷付かないように、という優しさだろう。

「あんなに好きだって言ってくれてたのに、それは少し寂しいですね」

「家に帰ったら、いつもあなたのことを話していたわ。それなのにどうして──」

 心が破れてしまいそうだった。思い出せない焦り、自分への苛立ち、恐怖。
 このまま退院する時が来ても、君と過ごした記憶が戻らなかったら……?

「でも、大丈夫です」

 その時、君の力強い声が僕の鼓膜を揺らした。

「もし、私のことを思い出せなかったら、また知ってもらえばいいんです」

 君の息遣いが聞こえる。とても落ち着いているように感じた。

「そしてもう一度、好きになってもらえるように努力します。だけど今度は、私から告白するんです。こんなに大好きなあなたのことを、二度も振った私と付き合ってくださいって。断られても、三度目までは諦めません。きっとその時までには──」

 最後は一縷の望みを託すように、君は泣き笑いのような声で言葉を震わせた。
 もらい泣きしたのか涙ぐむ母親が席を外した隙に、僕は閉じていた瞼を開けると、君と目が合った。

「起きてたでしょ?」

 君には全てお見通しらしく、僕は誤魔化すことなく頷いた。

「まだ告白しないからね。私のことをちゃんと知ってもらってからにしなきゃ」

 そう言いながら、君は近くに置いていたスクールバックから何かを取り出し、頭に付けた。君の手が膝の上に落ちると、ピンクのリボンが視界に入る。

「今日はこれ持ってきたんだ。ずっと大事にしてるんだよ?」

 僕の視線に気付いたのか、いつものように話を始める君。
 その瞬間、記憶が渦巻くように甦り、一人の少女の存在を思い出す。

 僕が長い夢を見ていた時に、ずっと時を共にしていた少女。
 あの少女も、まったく同じリボンを付けていた。

 いや、違う。リボンだけではない。不透明な靄が晴れて少女の全体像が露わになる。あの少女こそが君で、君こそが少女ではないか? 一つ、またひとつと記憶の扉が開いていき、僕は全速力で走り抜けていく。

「そのリボン……僕がプレゼントしたものだよな……?」

 君の瞳に一縷の光明が差し込む。

 ピンクのリボン。あれは僕が君の誕生日の時にプレゼントしたものだ。髪飾りが大好きな君を思い選んだ。リボンに印字されているアルファベットは、君の名前の頭文字で運命的だと思った。受け取ってくれた君は、僕の期待どおりの反応をしてくれた。

『これって私の名前が──だから?』

 肝心な部分がぼやけて聴こえない。けれど、何度も何度も記憶の映像を再生させる。

 やがて最後の凍り付いた扉が、けたたましい音を立ててゆっくりと開いていく。
 ああ、そうだ。僕の大好きな君の名前は──。

 ようやく全てを思い出した僕は、君の名前をゆっくりと、だけど確かに呟いた。
 驚いた君が目を見開く。どうやら間違っていなかったようだ。

「ただいま」

安堵して笑う僕とは対照的に、

「おかえり」

と呟いた君は涙を浮かべて僕に抱きついた。