(著者)月の砂漠
古町通りから一本外れた路地裏のどん突きに、私のバーはある。
店の名は「Bar どんづまり」
私はこのバーのマスターだ。今宵も一時の酔いを求めて、様々な客が店の戸を叩く。
ほら、今もまた、一人。
「いらっしゃいませ」
「まだ、やってますか?」
「ええ。気ままな店ですから」
初めて見る客だった。わずかに気怠さを漂わせながら止まり木に座ったその女は、美しかった。
「何をお作りしましょう?」
「そうね。お任せするわ。私が欲しがっているものを、作ってみせて」
女は、いたずらな笑顔でそう言った。
試されている。私はそう思った。彼女は、私のバーのマスターとしてのセンスを見極めようとしている。あるいは、男としての。
「お見受けしたところ、一人で酒を飲むことに慣れていらっしゃるようですね」
「寂しい女と思われたかしら?」
「ありきたりのカクテルでは満足して頂けないのでしょうね」
「ええ、私、平凡は嫌いなの。お酒も、男も」
「今、お持ちしますよ。あなたにぴったりなものをね」
経験豊富な私には、女が何を求めているのかすぐにわかった。この手の女が欲しているのは酒ではない。刺激だ。サプライズだ。私は渾身の一品を女に差し出した。
「お待たせしました。焼きうどんです」
「はぁ?」
「あなたにぴったりの、焼きうどんです」
「馬鹿じゃねぇの?」
女は席を立ち、外に出て行った。違ったのか。焼きうどんではなかったのか。やれやれ、難しいな。女ってやつは。
私が男女の仲という永遠の命題について懊悩していると、ドアベルがまた音を立てた。今宵は随分と繁盛しているようだ。
入って来たのは、先程の美女に劣らない、これまた妖艶な女だった。
「まだ、開いてる?」
「あなたが開けろと言うのなら」
女は、妖艶だがやや幼さも残していた。そのアンバランスが、かえって女の魅力を引き立てていた。
「何か食べるものある?」
「ええ、焼きうどんが」
「じゃあ、それを頂くわ」
私は、女に焼きうどんを差し出した。無駄にならなくて良かったと胸をなでおろす。
「あなたダンディーね。私、タイプかも」
女は私に微笑んだ。上目遣いの、かすかな媚びを含んだ視線。私のような大人はともかく、未熟な男なら動揺してしまうだろう。
「あ、あり、ありがががとうございます」
「あら、照れてる。かーわいー」
「お、おたわむれを」
「煙草吸う?」
「い、いただきます、熱っ!」
「驚いた。火の着いてる方を吸うのね」
私はせわしなく煙草を吹かしながら、懸命に心を静めた。ふっ、いかんいかん、私としたことが。こんな小娘に翻弄されるとは。
「マスター、お名前は?」
「私は、マスター、ですよ」
「マスダさん?」
「マスダではなく、マスターです。いや、あの、本名はちゃんとあるんですが、みんな、私をマスターと呼ぶものですから」
「冗談よ。そんな必死になって説明しなくても平気よ。うふっ、かーわいー」
「ど、どうもありがとうございます」
「私のこと、おかしな女だと思ってる?」
「い、いえ。そんなことは」
「私、いくつに見える?」
「ええと、そうですね」
その女は三十手前くらいに見えた。だから私はわざと、少し若い年を言った。女性を喜ばせるテクニックの初歩中の初歩だ。
「二十五歳くらいでしょうか?」
「あら、嬉しい。私、六十二歳よ」
「ええっ!?」
「楽しかったわ。また来るわね、マスター」
焼きうどんを三口で食べ終え、還暦過ぎの女は颯爽と去って行った。
古町通りから一本外れた路地裏のどん突きに、私のバーはある。
店の名は「Bar どんづまり」
私はこのバーのマスターだ。今宵も一時の酔いを求めて、様々な客が店の戸を叩く。
ほら、今もまた、一人。
【了】