海の上のバレリーナ

(著者) 中丸 美り

 海に面した壁の大部分を占めるはめごろしの窓。縦二メートル、横三メートル程の一枚ガラスの窓だ。この店の、唯一の宮村のこだわりだ。かなり値が張る買い物だったが、これだけは譲れなかった。
 この地に移り住んで六年、この海岸沿いにカフェをオープンして五年になる。六年前、宮村は会社員だった。ある日、偶然見かけた海の画像。この佐和田の海だった。この海の青に惹かれた。一目ぼれだった。三か月後会社を辞め、全く土地勘のないこの地に移り住んだ。一人暮らしで少々の貯えがあったのが幸いした。古民家を安価で買い、改装した。もちろん宮村の人生最大の冒険だった。
 
 はめごろしの窓からは佐和田の海が見える。遠くに岬がかすんでいる。海は一日のうちに何度もその姿を変えるが、宮村は、中でも昼と夜が交差する時間が、一番のお気に入りだった。海の青と空の青が溶け合うその隙間に、夕日が最後の命を燃やすようにオレンジ色の光を滑らせる。その様は一日とて同じ姿にはならない。毎日姿を変える海を額縁の中で見ることができる。これほどの贅沢があるだろうか。
 オープンして五年、「海の絵のあるカフェ」として、旅行雑誌にも取り上げられるようになり、なんとか暮らしていけるくらいには客が来るようになった。午後のひととき、いつもなら客が途絶えることのない時間帯だが、今日は、誰もいない。
 目の前の海は、今日は凪いでいて、春の日差しがで踊っていた。
 とその時、入口のドアが開き、一人の少女が入ってきた。初めて見る顔だ。少女は、遠慮する様子もなく店の中に入り、一通り中を眺めた後、窓際の席に座った。アップにした髪は大人びて見えるが、眼差しにはまだ子どもっぽさが残り、大人でも子どもでもない微妙なバランスを保っていた。ピンと伸びた背筋に、静かな意志を感じた。制服を着ている。高校生か。この辺りでは見かけない制服だ。
 宮村は、突然の来客に驚いて言葉を失っていたが、ようやく我に返り言った。
「いらっしゃい」
「コーヒーって苦い?」
「えっ?」
「コーヒー飲んだことないんだ」
 少女は、今時の若者らしく遠慮がない。
「じゃあ、オレンジジュースにしますか」
「コーヒーちょうだい。お砂糖とミルクつきで」
「かしこまりました」
 少女の注文通りコーヒーを淹れ、少女の席に運んだ。

「ねえ、海の上の群舞見たことある?」
 ふいに、少女が尋ねた。
「グンブ?」
 とっさに漢字が浮かんでこない。
「そう、群舞。『群れる』に『舞う』。この海には特別にたくさんのバレリーナがいる。」
 少女が窓から海を見ながら言った。
「昔からね、凪いでる海を見てるとバレリーナの群舞が見えるの。足先が海の上で動いているのが見えるの。どんなに凪いでいても、はかすかに動いていて……。強く弱くリズムを刻んで、高く低く跳んで、揃っては別れて、近づいては遠ざかって、一糸乱れぬ群舞……」
 少女は今まさに目の前の群舞を見ているかのように、半ば夢見心地な眼差しで海を眺めていた。
 宮村は、ふと、この眼差しを、いつかどこかで見たことがあるような気がした。そう、あのとき。娘の莉生を海に連れて行ったとき……。
 莉生と会わなくなって十年以上経つ。妻の景子とは結婚して十年も経たないうちに別れた。その時一人娘の莉生は五歳だった。莉生は妻が引き取った。もともと仕事が好きだった景子は、実家の援助も受けて、フルタイムで働きながら娘の莉生を育てているはずだ。宮村は、今もわずかな額の養育費を毎月振り込んでいる。
 景子と別れてから、莉生とは一度も会っていない。だから、宮村の中の莉生は五歳のままだ。

「あたし、大きくなったらバレリーナになるの」
 海を見ながら莉生が言った言葉が蘇る。娘がバレエを習い始めて間もない頃だった。あの時のあの海は、どこかしらこの佐和田の海に似ていたような気がする。
「ほら、パパ。バレリーナのお姉さんたちが、海の上でおどってるよ」
 五歳の莉生には本当にバレリーナが見えていたのかもしれない。

 もしかして莉生なのだろうか。今ちょうどこの少女ぐらいのはずだ。いやそんなはずはない。自分に都合のいい発想に呆れる。莉生が住むのは遠くの町。こんな平日にこんな離島の海辺までやって来るはずがない。

 少女は、コーヒーにたっぷりとミルクと砂糖を入れ、満足そうに飲んだ。ときおりカップを置いて、海を眺める。
 黙ってコーヒーを飲み干した少女は、立ち上がり会計を済ませた。入口のドアを開けながら、宮村のほうを見て言った。
「ここの海、あの時の海に似ているね」
「えっ?」
 少女は、かすかに微笑んでみせたが、その微笑みはドアから入ってきた汐風と一緒に消えてしまった。気づくと少女はいなくなっていた。
 
 しばらくして我に返り、宮村は店を飛び出した。店の前の道路を左右眺める。車が何台か通ったが、少女の姿はなかった。街中に続く脇道に出てみたが、やはり少女の姿はなかった。
 店に戻り、額縁の中の海を眺めた。もうすぐ昼と夜が交差する時間だ。青かった海と空はその色を変え、境目が溶け始めていた。