アシウスギの森

(著者) 中丸 美り

木々が深呼吸する季節になると、風花は落ち着かなくなる。五月に入り、ホームページで「遊歩道オープン」の文字を見つけ、週末には、この森の入口に立っていた。
 この季節の「森」は特別だ。半年もの間雪に閉ざされていた森が、大きく深呼吸するのがこの季節なのだ。
 風花がこの佐渡の天然杉に会いに来るようになって五年経つ。風花は、勝手にこの森の天然杉たちを同士だと思っている。ともにたくましく生きる同士。

 五年前の五月のあの日も、風花はこの森の入口に立っていた。
 一週間前に会社を辞めたばかりだった。いわゆるブラック企業だった。おまけに、会社を辞めたその日に彼氏にふられた。
 何日か悶々とし、風花は、生まれ変わることにした。何か今までにしたことのない体験をして、体の細胞をすべて新しくするのだ。そこで、思い出したのが、数日前に見た雑誌に載っていたこの森の写真だった。思い立った次の日には、この森の入口に立っていた。
 すぐには森に入る勇気がなく立ち止まっていると、一人の男性が声をかけてきた。
「よかったらガイドしましょうか?まだ見習いなので、ボランティアでご案内しますよ」
失礼だが、見習いとは思えない年齢。どう見ても七十は超えているだろう。ただ当然だが足腰はしっかりしているようだ。悪い人には見えない。風花は甘えることにした。
 森に一歩足を踏み入れたとたん空気が変わった。杉の木が何本も生えているのは分かるが、うっすらと霧に包まれ、視界は限られている。風花は、ふと今の自分の心の中のようだと思った。
 ガイドの男性について木道を歩く。
「あの、私、宮村風花といいます。お名前を伺ってもいいですか?」
「サワタリといいます」
サワタリと名乗った男性は、ときどき後ろを振り返り、風花の歩調に合わせて歩いてくれている。
 霧に包まれた杉の木が、近づくにつれて少しずつ姿を現わしてくるが、どの杉も幹が太いだけでなく、その幹の様相、枝ぶりが特徴的だった。あるものは幹がうねり、あるものは枝が折れ曲がり、あるものは曲がった枝がトンネルを作りと、どの杉も一般的な杉とは姿が異なっていた。
 風花は、無意識のうちに、ある杉の前で立ち止まっていた。羽衣杉という札が立っている。それまで見た杉の中でとりわけ太く、枝が四方へ伸びている。ある枝は地を這い、木道のすぐそばまできていた。風花は、その杉の木から何か特別な力を感じた。けっして威圧的ではない。だが、静かに圧倒的な存在感をもってそこに立っている。風花が、言葉を失って杉を眺めていると、サワタリが声をかけてきた。
「びっくりしましたか?ここの杉はアシウスギという杉です。形が悪くて木材にはできないので、伐採されることなく残った杉たちなんですよ。この森は約半年もの間雪に閉ざされます。多い時で五~六メートルもの雪が降る。だからその半年の間は、ここの杉たちにとって試練の時なんです。本来杉は上へ上へと生長していくものです。でも雪があって上へ伸びることができない。だから形を変えて生長するんです」
「形を変えて?」
「ええ、あるものは枝を横に伸ばします。あるものは枝が折れてしまいます。でもそれで終わりじゃない。折れた枝から根が生えて、そこでまた生長を続けるんです」
「折れた枝から根が生えるんですか?」
「ええ。倒れた木の上に杉の種が落ちて、そこから生長するものもあります。まさに生命力のかたまりです」
 サワタリは、いくつかの巨樹の特徴と、名前の由来を解説しながら、風花と一緒に森を歩いてくれた。サワタリの話は、杉のことはもちろん佐渡島の成り立ちにもおよんだ。
 何本もの杉の木を見て、サワタリの話を聞くうちに、風花は、この森の木々は、人間にも似た、いや人間以上の生への貪欲さや無骨さを持っていることに気づいた。悠遠のときを刻む天然杉。それらを、どこか神聖なもののように思っていた風花だったが、いつの間にかある種の親近感さえ覚えていた。
 生まれ変わらなくてもいい。上へばかり伸びなくてもいい。上に伸びることができなければ、横でも下でもいい。自分なりのやり方で、自分の思う方向へ進んでいけばいい。進めない時は休んで、自分の中に力を蓄えればいい。風花の心の中の霧が晴れていくようだった。
 森を抜けて現実世界に戻ってきた。陽光がまぶしい。
「サワタリさん、記念に写真撮らせていただいていいですか」
スマホを取り出し、顔をあげた。サワタリがいない。今一緒に森から出てきたばかりのはずだ。しかし、辺りを見渡してもサワタリはどこにもいなかった。
 風花は、サワタリの知識が見習いのそれではなかったこと、天然杉を見る目、語る口調が、家族や友人に対するもののように優しく温かかったことに気づいていた。

 あれから五年。風花は新しい会社に就職した。佐渡島のアシウスギたちのように、たくましく生きている。今年も同士たちに会いに行こう。風花は、森に一歩足を踏み入れた。