流れのままに在った日々

(著者)レバンタール

 その人が新潟と聞いてまず思い浮かべるのは、「長岡まつり大花火大会」でもなければ「マリンピア日本海」でもなく、方々を畑に囲まれた一軒の家だ。その人は、その家の正確な住所もアクセス方法も知らない。身を委ね、運ばれて、長く短い期間をそこで過ごしたことがある。身を委ね、運ばれて?一体どんな体験だ、と思う人も多いだろう。しかしざっくばらんにいうとその表現が正しく、当の本人は何が起きているかわからないまま、夢の中にいたような日々の記憶なのだ。

 その人はその年、東日本大震災を福島の仕事場で迎えた。新卒入社2年目で、ようやく仕事場の環境に身体も心も慣れた頃だった。まさかそのまま、職場とも自宅ともお別れになるとは想像もし得ないうちに、翌日職場の上司の的確な判断と指示のもと、相乗りして避難をした。トランクルームに荷物のように座るのは、あれが最初で最後になるだろう。グループ会社のある新潟で、普段住まいしていない持ち家を提供してくれた人がいて、希望者はそちらで仮住まいさせてもらえることになった。19歳から60代までの15人ほどでの突然のシェアハウス生活。

 その人は、ただ、そこに居た。地域の人が野菜やお米、お下がりで良かったらと衣類も提供してくれた。恰幅の良い同僚のおじさんがそこから選んだのは、たぶん中学生サイズのトレーナーで、ピタッとさせて着こなしていた。その人は心の中でクスクスと笑えていた。お料理上手な同僚の奥さんが、その人の自炊ではお目にかかれない、バランスのとれた食事を毎食作ってくれ、お腹一杯食べた。白米があまりに美味しかったので、魚沼産のコシヒカリだったのかもしれない。胃がギュウギュウになった後は、2部屋分に敷き詰められた布団の一つで眠った。時に大勢でいることのストレスを感じ、時に大勢でいることの楽しさを知りながら、生かされていた日々だった。

 あれほどまでに、何をせずとも与えてもらえるのはまるで赤ん坊のようで、だからその人は、あの時、生まれ変わったのかもしれないと今になって思う。そして、どんどん歳を重ね出来ることが増えるうち、自分で生きているつもりになっているけれど、口にするもの手にするもの、全て誰かや何かを介して届けられている。与えられ、生かされていることには変わりないのだ、とも気づくのだった。

 そして驚くことに、その人があの生活中に1番嬉しかった差し入れは、何度思い返しても「化粧水」だった。こういう物も欲しいかなと思って、と持参してくれた女性に、抱きつきたいほど心が動いた。衣食住、生きるための必需品が満たされると、それ以外が欲しくなっていった。プライベートな空間、美容品、自由に出歩けること。こうした欲求をもてることは、土台に安心して生きられる環境があってこそ。そして、欲求がありそれを満たそうとすることが人間を人間らしくしているのかもしれないと、その人は思った。その人の欲求が、その人の人間性を創っている、と。

 突然のシェアハウス生活を終えて後、その人は北海道のグループ会社へ出向となり、そのままその地で生活している。出向先には、3月11日生まれの同僚がいて、仕事を教わるうちに仲良くなった。彼女は毎年その日を迎えると、その人を気遣ってくれた。心中は複雑だっただろう。大きな悲しみを背負ったその日は、彼女や誰かにとっては喜びの日でもあるのだった。

 その人は毎年彼女に、心を込めて「おめでとう」を伝えている。