朧灯(おぼろび)の幻影

(著者)石原おこ

 部活を終えて家に帰る道すがら、神社の石灯籠に灯りがともっているのに気がついた。
西の空がだいぶ暗くなっていた時間で、「灯籠に灯りがともるなんてことあったっけ?」とふと考えてみた。
「何かやってんのかな?夏祭りの時期でもないし…」
自転車を置き鳥居をくぐり、小さな拝殿の中をのぞいて見たけれども、建物の中は暗く、何も見えなかった。
 昔はこのあたりのほとんどが田んぼで、民家と呼べるところは少なかった。この土地の守り神として古くからこの神社があり、申しわけ程度の遊具、ところどころ錆びの浮いたブランコと小さなシーソーが置かれてある。
 いつの間にか住宅が立ち並び、田んぼの数は減ってしまった。それでも田植えの時期になると、どこからともなくカエルの鳴き声が聞こえてくる。今もところどころでカエルが鳴いていた。

 幼い頃、祖母に手を引かれてこの神社に遊びに来ていた。家から一番近く、公園と呼ぶには随分と規模の小さなものだったが、よくブランコやシーソーに乗って遊んでいた。
僕が遊具に夢中になっているとき、祖母は拝殿に向かって手を合わせていたのを覚えている。そして祖母は決まって、拝殿の横にある大きな石碑にも手を合わせていた。
 そんな祖母との記憶を思い出しながらふと石碑に目を向けると、石碑を見上げる人影が目についた。はじめは幽霊か何かと思ってびっくりしたけれども、相手も僕の姿を見つけると、
「こんばんは」
と、はっきりとした口調であいさつした。
「あ、こんばんは。」
年齢は僕と同じくらいか、それともちょっと年上か。細身の体をした二十歳前後と思われる男性だった。
「この辺の子?」
「あ、はい。そこの先の、角のところの…」
「中学生?」
「いえ、高校生です」
そんな会話を交わしていたけれども、表情は夕暮れの陰になってよくわからない。男性はまた石碑に目をやると、
「これはなんの石碑?」
と指さして僕に尋ねた。
あたりが暗くなっていたので、石碑に刻まれた文字を読み取ることはできなかった。
そう言えば昔、祖母から、戦争で亡くなった方々を祀る慰霊碑だと聞いたことがある。
「このあたりに住んでいた人で、戦争に行って死んじゃった人の慰霊碑だって聞いたことがあります。」
そう答えたけれども、男性の耳に届いているのか。石碑を見上げたままじっと立ちすくんでいた。
「戦争か」
男性がそう呟くと、
「このあたりは無事だったのか?」
と聞いてきた。
 僕の方を振り向いた瞬間、灯籠の灯りにともされて男性の顔がぼんやり見えた。少し悲しそうな表情をしたその顔を見たとき、なぜか祖母も同じような表情を浮かべていたことを思い出した。
「このあたりのことはよく知らないですけど、長岡で空襲があったことは学校で習いました。」
「長岡で…」
 大学生なのだろう。戦争のことについて研究している大学生が、調査のためにいろいろ歩いてこの石碑にたどり着いたのかもしれない。でもようやく石碑にたどり着いたとしても、あたりがこんなに暗くては、石碑に何が刻まれているのか読み取ることもできない。

 長岡の空襲については小学生の頃、地元の歴史を学ぶ授業で知った。
 昭和二十年の八月一日、B29戦闘機が長岡市の上空から焼夷弾を投下。多くの犠牲者が出て、長岡の街のほとんどを焼き尽くしてしまったという。

「この村は、大丈夫だったのか?」
『村』と言う言い方にちょっとしたひっかかりを覚えたけれども、よそから来た人にとってみればこのあたりの風景は『町』とは言い難い。
「長岡に向かう飛行機が、飛んで行ったみたいですけどね」
そんな話も、九十歳になる近所のばあちゃんから聞いたことがある。
「この村に、私の妻が住んでいるんだ」
———『妻がいる』と言うことは、ひょっとしたら大学生じゃないのかもしれない。妻がこのあたりに住んでいると言うことは、別居状態か?単身赴任中で有給休暇を使って会いにきたとか?
「早く会いに行ったほうがいいんじゃないですか?もう日も暮れましたし」
僕がそう言うと、男はまた少し悲しそうな表情を浮かべて、
「うん、会いたいよ」
とつぶやいた。

 それからしばらく沈黙の時間が続いた。見上げていた石碑ももう暗闇の中に溶け込んでしまっている。住宅街に灯る街灯のあかりに虫たちが集まってきていて、心なしか、灯籠の灯りも小さくなっているようだった。
 僕が家へ帰ろうと、自転車の置いてある場所へ足を向けたとき、
「子供が生まれるんだ」
と、さっきよりも明るい口調で男性はそう言ってきた。僕は振り返って、
「そうなんですね、おめでとうございます。男の子ですか?女の子ですか?」
と質問した。この質問の答えを最後に、僕はもう家に帰ろうと決めていた。
「わからない。でも女の子だといいな。名前はもう決めているんだ」
なるほど、出産のために奥さんは里帰りをしているのか。それとも、出産の準備で病院にいるのかもしれない。その奥さんに会いに来たのだけども、なかなか会えないでいる。奥さんに会えないでいる時間、例えば、安産祈願でこの神社に来たとか。
「幸子って名前にしたんだ。幸せになってほしいから」
男性は『幸子』という名前をかみしめるように口にした。
『幸子』という名前を聞いたとき『今どきの名前じゃないな』と言うのが素直な感想だった。でもそれを口にするのは失礼だ。
「いい名前ですね。幸子ちゃん」
そう声をかけたとき、男の姿が霞んでいるように見えた。灯籠のあかりも乏しく、街灯の灯りもおぼつかない。なぜか、男性の姿が消えていってしまうような、そんな錯覚を覚えた。
「いい名前だろう。田嶋幸子。幸子には何にもおびえることのない、静かで穏やかな暮らしをさせたいもんだよ」
『タジマサチコ』その名前を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。と同時に、この男性の浮かべた悲しそうな表情と、幼い頃、石碑に向かって祖母が浮かべていた表情とが重なり合った。
「田嶋幸子って、オレのばあちゃん……」

 石灯籠の灯りは消えていた。男性ももうそこにはいなかった。
 カエルの鳴き声がよりいっそう大きくなったように感じた。