イエスタディをあなたに

ほんまけいこ(著者)

「お母さん、驚いたわ!お母さんが歌を歌うなんて・・・しかもなんと!ビートルズ!」
「ばぁば!すっごくじょうじゅだった!」
娘の悌子と孫の礼の言葉に松枝はほほを赤く染めた。
 10月半ばを過ぎた秋晴れの日曜日。今日は二日に渡る中央公民館の文化祭の最終日。洋楽サークルに所属していた松枝は、140席もあるホールで初めて独唱を披露したのだ。
「お父さんがね・・・歌ってくれって」「え!?」
悌子の笑顔が固まった。それもそのはず。松枝の夫で悌子の父である信義は三か月前に肝臓がんでこの世を去っていた。
「お父さん、歌あまり好きでなかったよね・・・特に洋楽は」
「そうね、私もそう思ってたけど本当は好きだったのかも・・・」

 結婚したてのある日、松枝は居間の掃除をしていた。棚の上のラジカセからはビートルズのイエスタディが流れ、松枝は曲に合わせて一緒に歌っていた。すると、突然音がぷっつり途絶えた。驚いて振り向くと引き抜いた電気コードを手にして立っている夫信義がいた。
「あ、おかえりなさい・・・」
「おかえりなさいじゃない、ビートルズだかビールスだか知らんが、こんな歌聞いているから俺がかえって来たのも分からないんだ」
 当時は洋楽ブーム。松枝は高校時代、合唱部に所属していて、ビートルズのイエスタディは松枝のお気に入りの歌だった。
 唖然としている松枝にプイっと背中を向けて信義は居間から出て行った。
 その日以来松枝は洋楽を聞くことも歌うこともやめてしまった。そして長い年月が過ぎた。子供が生まれ、笑ったり、喧嘩したり。それなりに充実した人生だった。
 そして子供が巣立ち、定年を迎える頃信義が病魔に襲われた。一度は回復したものの数年後に再発し、長くつらい闘病生活が始まった。
 県立がんセンターに何度目かの入院をしたある日、病室でぼんやり窓の外を眺めていると松枝は背中に信義の視線を感じた。
「お前は俺には過ぎた女房だった・・・」
「なんですか、唐突に。TVドラマのセリフのようなこと言って」
内心どきっとした松枝だったが、軽く受け流した。
「俺はいつも心配だった。お前が幸せなのかどうか。お前ならもっと立派な男と結婚できたはずだ・・・」
松枝はことばに詰まったが笑顔を作って明るい口調で切り替えした。
「あら、ありがとうございます」
しばらく沈黙が続いた。
「おれはお前に悪いことをしたと思っている・・・」「何を・・・」
「俺はお前から音楽を取り上げた」
松枝ははっとした。電気コードを手にして立っていた信義の姿がよみがえった。
「あの時の自分の気持ちはよく分からない・・・何であんなことをしたのか・・・」
「もういいですよ、やめてください。たかが歌ですよ。とっくに忘れていました」
「あの頃の俺は、いつも不安に苛まれていた。お前は利発でだれにでも好かれるのに、俺は風采のあがらない平凡な男だ。お前はそのうち俺に愛想を尽かすのではないか・・・お前の歌声は俺の中の劣等感を掻き立てた。」
「もう辞めてくださいな。とっくに忘れてました」
「『イエスタディ』俺でも知っている。いい曲だ。お前の歌声は天使のようだった」
松枝の心の中は信義への愛しさでいっぱいになっていた。
「ずっと・・・ずっと・・・後悔していた。おまえから歌をうばったことを。」
松枝は信義の骨の浮き出た手を優しく握り、二人は暫く見つめ合った。
「イエスタディ・・・歌ってくれるか」
三十五年間歌っていない歌だった。だが、若い頃歌いこみ、脳の奥深くに刻み込まれた歌は忘れられてはいなかった。松枝は囁くように歌い始めた。信義は微笑みながら目を閉じた。

「さあ、今日はおばあちゃんのおごりだよ!礼ちゃん、何でも好きなもの食べていいよ!」「やったー!」
人は忘れない限り心の中で生き続ける。昨日を思い返すのも悪くない。イエスタディを歌う時、喜びや悲しみ、色んな思いの向こうに信義と歩んだ私のささやかな人生がいつでも思い出されるのだ。