馬上のひと

圭琴子(著者)

 未明。急に美空(みく)が、火がついたように泣き出した。夜泣きなんかしたことがない子なのに、なんでこんなときに限って。
 夫とは授かり婚でつわりが酷かったから、未空が一歳になってようやく訪れた夫の実家での出来事だった。
 経験値はゼロに近いから、私はオロオロするばかりで要領を得ない。まず夫が起きて、その内隣室からも話し声が細く聞こえ、お義父さんとお義母さんも起こしてしまったことを知る。
 どうしていいのか分からずに、取り敢えず未空を抱えて家を出た。海の近くだったから、海沿いの道を未空をあやしながら、途方に暮れてとぼとぼ歩く。
 朝焼けの気配と、まだ街灯の光が残る、朝と夜とが交代する時間帯だった。道なりに歩いていたらいつの間にか砂浜に降りていて、汗ばむ季節に潮風が心地良い。
 不意に、水平線を赤く燃やして陽が昇り始める。私は埼玉県出身だったから、海からの日の出はおろか、日の出さえ見るのが初めてだった。
 海面に光の一本道が揺らめいて美しい。不思議と未空は泣き止んでいて。ワンオペ育児に、疲れていたのかもしれない。
 色んな思いが入り混じって、私は海を見詰めてぽろぽろと泣いていた。陽が昇りきるまでが長く長く感じられて、私はその間ずっと涙を零していた。
 そのとき。突然だった。地面が跳ねた。――地震! そう気が付くまでに三秒かかった。
 立っていられないほどの揺れに、膝をついてうずくまり、未空を胸の中に抱き込んで必死に守る。
 一分以上揺れていた。かなり大きな地震だ。こんな地震に遭ったことは初めてで、砂浜に膝をついたまましばらく呆然としてしまう。五感が異常に鋭くなって、潮騒が大きく響いていた。
 ――なにか聞こえる。動物の鳴き声みたいな。
 遠くから、なにかが駆けてくる。馬だ。競馬中継で見るようなサラブレッドじゃなくて、もっと小さいずんぐりむっくりの馬。背にひとを乗せている。
 近くまで来ると、馬は荒い息を吐いて足を止めた。田舎だからだろうか、背に乗った男性はレトロな和装だ。
「おなご! 大事ないか!」
 声をかけられたことで今更地震の恐怖が蘇って、私は咄嗟に答えられなかった。
「ややがおるな。おなご、母親ならしゃっきりせい! 間もなく津波が来る。馬には乗れるか?」
 そ……そうだ。未空が居る。私はともかく、未空を助けなきゃ。
「の、乗れます!」
 昔乗馬クラブに通っていたことを思い出し、大声で答える。
「では後ろに乗れ。何処から参った?」
「あっちです!」
 地名には不慣れだったから、夫の実家の方を指差す。
 馬の体高が低かったことが幸いして、私は男性の後ろに未空を抱いてまたがった。さっきは素早く駆けてきたけれど、未空を気遣うように馬は並足で進む。
 あんなに大きく揺れたのに、未空はやはり泣いてはいなかった。片手で男性の腰に掴まった私の片腕の中で、すやすやと寝息を立てている。
「坊か?」
「えっ?」
 少し考えて、男の子かという意味だと悟る。
「いえ、女の子です」
「泣き声ひとつ立てぬとは、如何にも大物になりそうじゃ」
 男性はそう言って横顔でちらりと笑った。こんなときにも関わらず、人生を深く知った魅力的な笑みだと思った。
「あっ、ここです」
「そうか。まだ津波は来てないようじゃが、用心せい。高台に向かえ」
「はい、ありがとうございます!」
 馬から下りると、家の中から話し声が聞こえた。お義父さんとお義母さんと、夫の声。大丈夫、全員無事だ。
「わしも城が心配だから戻る。おなご、ここでよいか?」
「あっ、はい」
 男性は今にも馬で駆け出しそうで、慌てて訊いた。
「あの、お名前は?」
「謙信。上杉謙信じゃ」
「……えっ」
 小さくなっていく背中に、見覚えがあったのを思い出す。昨日観光に行った春日山城跡に、銅像があった。
「春子!」
「春子さん、未空ちゃんも大丈夫ら!?」
「あっはい、無事です! お義父さんは?」
「今ペットボトルの水をリュックに詰めてるが、すぐ来るがね」
「よかった」
「春子これ、上着とマザーズバッグ」
「ありがと、真くん」
「未空ちゃんがさ、泣いてくれたから助かったがね。あれで起きてなかったら、本棚の下敷きでぺしゃんこだったろ」
 そう言えば、と未空を見る。未空は目を覚ましていたが静かに、にこにこと笑って親指をしゃぶっていた。
 ハッとして男性が去った方を振り返ったが、もう影も形も見えなかった。
 それから私たちは、高台へ向かう。幸いと言っていいものか津波は数十センチで被害はなかったけれど、あのまま砂浜に居たらどうなっていたか分からない。
 でもあの体験をひとに話したら、正気を疑われるだろうという分別はあった。
 埼玉に帰る前、駅で見た謙信公祭のポスターにある顔は、確かに私に笑いかけた、あの馬上のそのひとなのだった。

(※私信※地震お見舞い申し上げます。皆様のご無事を祈っております!)

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