夢をかなえ屋

ほんまけいこ(著者)

「こめっこクッキーくださーい」
明るい光が降り注ぐ店内に、元気な男の子の声が響いた。茶色やベージュ色のクッキーが10個ほど入っている小さなビニール袋をカウンターの上に置く。
「はい、250円です!」
と元気のいい声で返事をするのはお店のご主人ユキちゃんだ。ポニーテールが頭の後ろで揺れている
「はい、250円!」
「お、ぴったりだね。ありがとうございまーす。また来てねー」
袋を抱えて店を飛び出す男の子の背中に明るい笑顔を送るユキちゃん。
「この梅ジャムちょうだいな。これ、甘すぎないでいいのよね」
今度は少し年配のおばさんがビン詰めのジャムを持ってくる。その他にも店内には、手作りパンやヨモギ饅頭などを物色している近所のおばさんがいる。
 ぼくはユキちゃんとお話ししたかったけど、ユキちゃんが忙しそうなので、店の外に出て入り口の横に置いてある木のベンチに座って日なたぼっこをはじめた。
 ユキちゃんのお店の名前は「かなえ屋」。もともとは酒屋さんだった。だが、今は地元のお米を使ったお菓子やパン、農家のおばさん手作りのジャムやクッキーなどを売っていて、お茶やコーヒーが飲めるテーブル席もある。
可愛いラッピングのお菓子は全てユキちゃん手作りだが、その中でも米粉入り、香ばしくてサクサクと歯ごたえのいい「こめっこクッキー」はおいしいと評判で、この前は地元の情報誌に載ったそうだ。
 ぼくは、首をもたげて「かなえ屋」と書かれた看板を見上げた。酒屋さんだった時代、ユキちゃんのおじいちゃんが帳簿をつけるときに使っていた机で作った看板だ。あちこちに傷がついたその看板にはおじいちゃんの苦労や汗、思い出がしみこんでいる。
お店を改装するときにユキちゃんが真っ先に決めたのがこの看板だった。
 ぽかぽかとお日様が照ってきて、いつの間にかぼくはうとうとしてきた・・・
「夢が叶うの『かなえ屋』か。いい名前だ」
 だれかがぼくの頭をなでている。あれえ?この声はおじいちゃん?ぼくはびっくりした。いつのまにかおじいちゃんがぼくの隣に座っている。おじいちゃんは看板を見上げてうれしそうに目を細めていた。そう、この店の名前はおじいちゃんとユキちゃんが二人で知恵を絞って考えたのだ。
 おじいちゃんは古町商店街で明治時代から続く老舗の「福原酒店」の五代目だった。昔は港町の顔として栄えていた古町だが、最近は駅近くの若者向けのお洒落な商店街や、郊外にできた大型ショッピングモールに押され、昔のような賑わいはなくなっていた。
 本当はおじいちゃんは息子の和也さんに店を継いでほしかったのだが、和也さんは酒屋に見切りをつけ、会社員になってしまった。おじいちゃんは自分の代でお店を終わらせる決心をして細々と商売を続けていたのだ。
「さびしいのお・・・」
おじいちゃんは時々ぼくの頭をなでながらそう呟いていた。ところがある日、帰郷していた孫娘のユキちゃんが
「おじいちゃん、わたしこのお店もらっていい?」
と言い出したのだ。おじいちゃんはもちろん、お父さんの和也さんやお母さんもびっくりした。だがユキちゃんは大真面目、本気だった。
「その代わり、酒屋さんでなくてもいい?」
またまたみんなびっくりした。東京の調理専門学校に行っていたユキちゃんは、地元の食材を使って、だれもが安心して食べることができる地産地消の手作りの食品が買えるお店を作りたかったというのだ。
「わたし、この店も古町も大好きだから」
 ぼくはおじいちゃんがとても喜んだのを知っている。おじいちゃんのシワシワの目元には涙が浮かんでいた。
もうお店はおじいちゃんの代で終わりと決めていた和也さんとお母さんは猛烈に反対した。
「やっと酒屋を畳むと決めたのに・・・大体商売のいろはも知らないお前に何ができるんだ。商売なんてそんなに甘いもんじゃないぞ」
「せっかく調理師免許を取ったのに何を考えてるんだか。私たちはあんたに苦労させようと思って東京に出したんじゃないのよ」
そんな風に言って渋る二人をユキちゃんは粘り強く、本当に粘り強く説得してとうとう許してもらった。ユキちゃんの熱意が勝ったのだ。
 それなのに・・・いよいよお店の改装が始まった去年の冬。おじいちゃんは肺炎をこじらせて突然亡くなってしまった。新しいお店ができるのを一番楽しみにしていたおじいちゃん。店番をするつもりで張り切っていたおじいちゃん・・・僕の頭をいつも撫でてくれたおじいちゃん。
「ジロー!このねぼすけ!」
はあん?・・・・ぼくは頭をふって目をあけた。ぼくの目の前にはユキちゃんの尖った口と笑いを含んだ目。あれ?おじいちゃんはどこに行ったんだろう。ぼくは辺りを見回した。
「気持ちよさそうに寝てたね、ジロー。今日もこめっこクッキーよく売れたよー」
ユキちゃんはうーん、と大きく伸びをして看板をしばらく見つめていたが、
「おじいちゃんにこのお店見せたかったな」
と、ぽつんと呟いた。
 ぼくはユキちゃんにおじいちゃんが今来てたんだよ、と教えようと一生懸命にゃあにゃあと鳴いてユキちゃんのエプロンをひっかいた。ユキちゃんはふっと笑って、ぼくの頭をくしゃくしゃっとなでた。
「でもどこかできっと見ててくれるよね」
そうだよ、見てるよ、とぼくはユキちゃんの膝に乗って一声大きくにゃあ、とないた。お店の空にはおじいちゃんのシワシワの笑顔のように見える雲がぽっかりと浮かんでいた。

世阿弥と大工見習い

門歩 鸞(著者)

 この佐渡の島での暮らしにもようやく慣れ、大工の見習い仕事も一区切りがついたある日のこと。若狭からこの島までの道中をともにしたあの老人が私のもとを訪ねてきた。
 翁は都で世阿弥という名で能楽をしていたこともあり、この島の住民たちを相手に、能を演じたり教えたりしているようだった。
 そんな彼がこの私に、能楽堂を建ててほしいと相談してきたのだ。
 早速棟梁にそのことを伝えると、あっさりと断られる始末。そもそも能楽堂なる建物がどんなものか見たことがないという。
 翁にそのことを伝えると、紙に能楽堂の図面のようなものを書き始めた。
 よくよく話を聞いてみると、この島の領主が能楽堂建立の資金を全て出してくれるという。
 この世阿弥と名乗る翁はいったい何者なのか。ただの能楽師とも思えなかった。
 棟梁のほうは、領主の屋敷を建てる仕事はもう終わったからと、妻子の待つ故郷に向けて島を出ていってしまった。
 私は大工としての野心もあって、この島に残ることにした。
 この能楽堂建立の仕事を無事やり遂げれば、夢にまで見た宮大工に近づけるかもしれない……そう思ったからだ。
    *
 材料と資金がそろい、いざ仕事を始めてみると、工事は難航を極めた。その原因はもっぱら大工としての経験が未熟なこの私に責任があったが、一番の問題は、詳細な設計図が翁の頭の中にしかなかったということだった。
 それでも二年近い年月をかけてようやく能舞台は、完成の運びとなった。
 翁は新しい能楽堂で本格的に能を教え始めた。
 能を学んだ地元民の中には、彼のもとへ弟子入りしたり、その教えを広めるため、自ら教える立場になる者も出てきた。
 佐渡領主の庇護のもと、能楽は島全体に広がっていった。
    *
 それから二年後。突如として領主が交代した。
 新しい領主は、多くの島民が能楽に親しんでいることが気に入らなかった。農作業や仕事の妨げになるものと思ったからだ。
 領主は、島内に能楽禁止令を出した。
 能楽を指導する立場である翁には謹慎命令を出した。
 将軍を怒らせたこの人物が、島内で人望を集めているのも面白くなかった。
 島内に増えつつあった能楽堂もすべて取り壊されることとなった。
 もちろん、この私がはじめて棟梁として建てたあの能楽堂もこの災禍から免れることはできなかった。
 それでもなお能楽を教え続ける翁を牢屋に幽閉するにいたって、島民たちの怒りがとうとう爆発。多くの島民が領主のもとへ押しかける事態となった。
 領主とはいえ、屋敷には二十人ほどの護衛兵が控えているだけ。押しかけた島民たちの数は百人以上に及んだ。
 身の危険を感じた領主は、その場でしぶしぶ能楽禁止令を撤回した。
 幽閉中に体調を崩していた翁は、家に戻るとそのまま帰らぬ人となった。
    *
 しばらくすると、私のもとに一通の書状が届いた。以前お世話になったあの棟梁からだ。読むと、都で宮大工が不足しているから急ぎ帰ってこいとのことであった。戻ったあかつきには、将軍家御用達の宮大工見習いに推薦してもいいという。
 夢にまで見た宮大工。私は大いに迷った。
 この島での生活にも慣れ、愛着もある。
 だが、翁はもうこの世におらず、手塩にかけてつくった能楽堂も今はもうない。
 私は都へ戻ることに決めた。
    *
 島を去る前日の夜。
 真夜中に目を覚ますと、枕元に一人の老人が立っていることに気づく。
 なぜか怖くはなかった。それどころか、懐かしささえ覚えるその輪郭……
 翁だ。世阿弥翁だった。
 翁は懐から巻物のようなものを取り出し、床に置いた。
『これを弟子に預けてあるので、皆の役に立たせてほしい』
 翁はそう言うと、その姿は足下から薄くなって全身が消え始めていく。
 同時に、床に置かれた巻物も消え失せてしまった。
 夢か……いや、幻か。それとも亡霊か。
 翁の霊はまだ成仏できていないのかもしれない……
    *
 翌朝、船着き場へ向かう途中、翁の自宅へ立ち寄った。
 彼の弟子の一人が中から出てきた。
 彼は私の顔を見るなり、一本の巻物を差し出した。
「これは『花伝書』というもので、世阿弥様が残した大変貴重なものです。あなたに預けるよう言付かっております」
 翁は亡くなる寸前まで、能の極意をこの巻物に書き記していたそうだ。
「一介の大工見習いに過ぎないこの私が、このような大切なものを預かってどうすればいいのですか?」
「島の人間であるこの私がこのまま持っていても仕方がありません。あなたが都へ戻られたあかつきには、世阿弥様ゆかりのお弟子さんや、その流儀を引き継ぐ方たちにこれを渡してほしいのです」
    *
 ようやく船着き場に来ると、船頭が退屈そうに客待ちしている姿が目に入る。
「ひとっ走り頼むよ、若狭まで」と声をかけると、「そんな遠くまで行くもんかい」と、乗り気のない返事。
「船賃ははずむよ」と言って、銅貨がぎっしり詰まった袋を彼に投げつけた。
 それを見た船頭は「よっしゃ!」と叫ぶやいなや、岸につないだ舫(もや)いを離し始める。
 それから、船頭も私も後ろを振り向くことはなかった。

母校

如月芳美(著者)

 東京に来て何年経つだろうか。娘の結婚式があったばかりだから、かれこれ四半世紀になるか。
 ここにも今シーズン初の雪が降った。雪と言ったって積もるほどではない。道路に落ちた雪もあっという間に融けてなくなってしまう。結晶を見るのはほぼ不可能だ。
 子供の頃は雪がたくさん降り、雪だるまはもちろんのこと、かまくらや謎の雪像を作って遊んだ。
 小学校へはスキーを履いて行った。田んぼの真ん中を斜めに突っ切って行くと早いのだ。夏には絶対にできない芸当だが、冬場はみんなそうやって登校していたので、スキー板の轍ができていてその跡に添って進むのも楽しかった。
 そして必ずと言っていいほど誰かが新雪の中に倒れ込んで自分の形を残した跡があり、途中で小便をしたらしい黄色い穴があった。
 当然だが、休み時間は全校生徒が校庭に出る。誰一人教室になんか残っちゃいない。山の中の分校で、全校でも四十五人くらいしかいないのだ。全員が全校生徒の名前を知っている。
 みんなでやるのは雪合戦だ。一年生から六年生までいるのだから、当然ルールは必要になる。五、六年生は低学年を狙ってはならない。雪玉の中に石や氷柱の破片を入れてはならない。顔や頭を狙ってはならない。広範囲の学年で遊ぶには必要なルールだったし、それはずっと先輩たちの代から受け継がれていたルールだったので誰も疑問に思わなかった。
 毎日やっているとだんだん要領がよくなってくる。二手に分かれたチームの中で、雪玉を作る係と投げる係に分かれるのだ。そのうちに『要塞』と名付けられた雪の壁を作るようになり、雪玉を作る係はその要塞の影でせっせと雪を丸めて弾を作り始める。攻撃部隊は決められたラインから出ないようにしてひたすら相手の攻撃部隊に雪を投げる。
 こんな感じでやるものだから、攻撃部隊でコントロールのいいやつはヒーローになる。当然人気者だ。
 俺はいつも攻撃部隊には居たが、コントロールが悪すぎて上手いヤツの引き立て役にしかならなかった。
 そんな俺ももうすぐ還暦だ。もう雪玉も投げられないだろう。

 と、ぼんやり考えていたのが先週だ。今日は新潟の実家に帰っている。無性に「積もった雪」が見たくなったのだ。
 上越新幹線も埼玉辺りまでは東京とさほど変わらない。それがどうだ、少し経つと一面の雪景色。長岡に着く頃には川端康成の気分だった。
 実家に帰ると母が得意の『のっぺ』を作ってくれていた。これはのっぺい汁とは違う。新潟の『のっぺ』は煮物であって汁物ではないのだ。俺は母の作る『のっぺ』が大好物だった。
 コタツに潜ってさっぱりわからない新潟のニュースを見ていると、母がボソリと言った。
「あんたの学校、なくなったよ」
 小学校のことだった。町中の学校に併合されて廃校になったとのことだった。
 仕方のないことだ。こんな山奥に住むのは、今では昔から住んでいる年寄りだけだ。若い人はみんな町の方に住みたがる。こんな不便なところでは買い物さえままならないし、雪が積もれば家から出られなくなる。俺が子供の頃は、雪が積もって玄関が開かない時は二階から出入りしたものだが。
 俺は少し懐かしくなって、母校を見に行くことにした。辿り着けるかどうかわからないが、とにかく覚えている限り通学路を進んでみる。
 あの頃砂利道だった道路は舗装されたらしいが、こう雪が積もっていれば舗装されていようがいまいが関係ない。できる事なら田んぼを斜めに突っ切って行きたいところだが、スキーの板も履いていないし家が建っていたり小さな駐車場ができていたりコイン精米機が置いてあったりするのでそうもいかない。仕方なく夏のルートで歩いてみたが、驚くほど記憶が明確で、あっさりと学校に辿り着いた。
 こんなに小さな学校だっただろうか。あの頃は俺も小さかったから、学校が大きく見えていたのかもしれない。
 校庭のブランコの上に小さな雪だるまが置いてある。近所の子供が置いたのだろう。器用に鉄棒や雲梯のわずか数センチの幅に十センチも積もっている。体育館の屋根から氷柱が下がっているのを見て、俺は一瞬で子供に戻った。
 雪をぎゅっと握りしめて雪玉を作り氷柱めがけて投げる。子供の頃はこうやって氷柱を落として遊んだのだ。みんなで一斉にやっていたら体育館のドーム状の屋根から氷柱ごと雪がどさーっと落ちて来て驚いたことがある。だが、それも含めてみんな氷柱落としが好きだったのだ。
 今はなんと氷柱に雪玉が届かない。投げても投げても掠る程度だ。あの頃どうやって投げていたのだろう。
 しばらく投げて諦めた。新雪の中に仰向けで寝ころんだ。子供の頃に戻った気分だった。
 後ろ頭が冷たくなってきて起き上がった。明日は会社だ、夕方には新幹線に乗らなければならない。俺は後ろ髪を引かれる思いで学校を後にした。

 春になった。母から校舎が取り壊されたと電話があった。あの時行っておいて良かった。翌日筋肉痛で仕事にはならなかったが。