新潟県糸魚川翡翠と山梨県の隠し金山

キャップ(著者)

国上寺は、新潟県燕市にある真言宗豊山派の寺院である。
709年(和銅2年)、泰澄によって開山された。弥彦神社から神託があり、泰澄が創建したものという。泰澄は修験道の僧侶であり、修験道の寺院であったが、その後、法相宗、天台宗、真言宗醍醐派へと変わり、最終的には真言宗豊山派となっている。
平安時代末期に源義経が奥州藤原氏を頼って奥州に逃れる途中、当寺に一時身を隠していたという伝説がある。戦国時代、上杉謙信が七堂伽藍として整備したが、後に兵火で焼失している。江戸時代中期になり萬元によって中興された。
当寺には「五合庵」と呼ばれる草庵がある。この庵は当寺を再建した萬元の住居として建てられたものである。名称の由来は、萬元が1日5合の米を寺より支給されていた事による。後に良寛が移り住んだ事で有名になった。
ちなみに、新潟県における戦国大名として上杉謙信が知られ、そのライバルとして山梨県・長野県における戦国大名で武田信玄がいる。
資源としては「信玄の隠し金山」と「新潟の糸魚川翡翠」がある事で知られている。

「風林火山」で有名な、戦国時代の猛将・武田(晴信)信玄には武田二十四将の優れた武将達がおり、武田家を支えていた。24将は後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人を指して呼ばれるようになった武田家家臣団の呼称である。
武田家はそれだけの資金を、一体何処から調達していたのであろうか。
それは元々、信玄の拠点である甲斐では砂金が大量に取られていたという事が理由に挙げられる。さらに武田家は山梨県のあちこち隠し金山を有していたと言われている。その中でも1000人以上が住んでいたと言われ、武田家を支え続けたのが黒川金山だ。黒川金山は、現在でいうと山梨県の甲州市北部に位置している。
1959年(昭和34年)には奥野高廣『武田信玄』において、甲斐金山は武田信玄(1521年 – 1573年)の時代に最盛期を迎え、武田勝頼(1546年 – 1582年)の時代には衰退したとされ、これが定説となっていた。遅くとも16世紀前半には本格的な金の採掘が始まっており、専門の職人集団としての金山衆を記した文書も多く存在する。1987年には黒川金山の、1992年には湯之奥金山の発掘調査が実施され、また両金山から出土した中世陶磁の年代観からこれを遡る武田信昌・信縄期にあたる1500年前後の戦国時代初期の開始が指摘される。
黒川金山衆に関わる最古の文書として、永禄3年(1560年)卯月18日の「武田家朱印状」(「田辺家資料」)がある。同文書によれば、同年に黒川金山衆の田辺家当主である田辺清衛門尉が青梅街道沿いの小田原(甲州市塩山下小田原・塩山上小田原)において問屋業を営むことを安堵されており、田辺氏が流通にも携わっていたことが確認される。
黒川金山のある鶏冠山山頂に奥宮が存在する鶏冠神社には随身半跏像(阿行・吽形)が伝来している。阿行像の背面に銘があり、永禄2年(1559年)9月に薩摩国の僧・林賀が造営したと記されており、これは黒川金山の最盛期と重なる事が指摘されている。
一方、同じく鶏冠神社に伝わる数点の御正体は天正5年(1577年)の銘がある。こちらは黒川金山の金産出量が減少していた時期の奉納であると指摘される。なお、『甲斐国志』では鶏冠神社の御正体を「神鏡」としている。
そのほか、山梨県は水晶で有名であり、宝石が有名であるが、世界最古の翡翠大珠が見つかった事でも知られている。
特に翡翠の一大産地は新潟県の糸魚川であり、戦国大名・上杉謙信で有名な新潟県である。
翡翠は、地球上で日本が誕生するはるか昔の5億年前の石と言われている。
とても硬くて比重が高く(物凄くごく高い圧力で圧縮された石)半透明で光を当てると光りる。ヒスイは古代の宝石として珍重され玉(ぎょく)と呼ばれてきた。
玉(ぎょく)には硬玉(ジェダイト・Jedeite)と軟玉(ネフライト・Nephrite)とがあり、一般的にヒスイはジェード(Jade)と総称されている。
糸魚川産のヒスイは硬玉(本翡翠)と呼ばれ、ミャンマー産の軟玉(ネフライト)は見た目は同じでも全く別物。ミャンマー産のヒスイは産出量も多く、軟玉なので加工もしやすく一般に安価である。
糸魚川ヒスイは微細な結晶が絡み合っているため非常に壊れにくく堅牢な石で、大変加工がしにくいのが特長だ。
日本では、古代縄文時代の遺跡から翡翠を加工した宝石(勾玉など)が見つかっており、日本の宝石の原点と言われている。
その後、奈良時代以降、日本のヒスイは歴史から姿を消しており、海外(ミャンマー)でしか翡翠は採掘できないとされ、日本の古代ヒスイの宝石も大陸から持ち込まれたものとされていた。
しかし昭和13年頃、新潟県姫川上流小滝川辺りでヒスイの原石が発見され、日本にも古代から翡翠文化が続いていたという説を裏付けた。
その後日本にヒスイブームが起こるが、松本清張の小説『万葉翡翠』が出版されてからと言われている。
沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)は、日本神話に登場する神様である。古事記には、糸魚川市付近を治めていた豪族の娘、奴奈川姫に大国主命が出雲から求婚し、その際に翡翠を贈ったという神話が残されている。
実際に大国主命を奉った出雲大社の真名井遺跡からは、糸魚川産と見られる大きな勾玉が出土している。
「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」
(万葉集 巻十三 三二四七 作者未詳)

悪魔とすし

大野美波(著者)

 オレはモブ。本当のなまえはナンバーA503。悪魔である。人間の世界では出世コースにのれなかった労働者を『まどぎわ』というらしいが、それを言うならオレはまどぎわ悪魔だ。他に優秀な悪魔はごまんといる。今日も仕事は夜からにして、昼は遊びほうけよう。オレの姿は人間そのもので、本来の姿になっても羽が生える程度であまり悪魔っぽくない。大柄なのがとりえと言えばとりえだ。特殊能力は飛ぶことと、人間の心をよむことと、万が一人間界でいざ大きな事件をおこしてしまったときのため、人間の記憶を消す力など、他の悪魔と変わらない。
 「よしえちゃん、今彼氏と別れてさみしいんでしょう」
 「わかる?」
 オレは『まどぎわ』なのでこれらの特別な力もたいてい女をひっかける時に使う。
 「じゃあオレのとっておきのやつみせちゃおうかな」
オレはコインを取り出した。そしてコップをさかさまにしてテープルに置き上にコインを乗せた。その上におしぼりを置いて、上からおした。
 『カラン』
 いい音がしてコインがコップをすり抜けテーブルに当った。すごーい。感心したようによしえちゃんはいうが、これも悪魔の力だ。せっかくいい雰囲気になってきたのに通信機器から連絡が入った。明日の食材が足りないから調達してくるようにということだった。オレは舌うちして通話を切ると席にもどって行った。
 そして夜適当に入った店でいいターゲットを見つけた。会社でミスをして落ち込んでいる男、佐藤航。素直で正直な性格だ。彼ならついてきてくれるだろう。
 オレの故郷は魔界4番地だが、新潟出身だと言う佐藤に話を合わすと意気投合するのに時間はかからなかった。しかし、この男妙なクセがある。すしにしょうゆをつけないなんて、考えられない。
 回転ずしに行こうということになって外に出た。人間は寒そうだったが、魔界はもっと寒い。だんだん店が少なくなって、山道に入った時、さすがに警戒されるかなと思ったが、多少不思議に思ってるくらいだった。と、そこを黒猫がよこぎった。あれは使い魔503。通称にゃんにゃんだ。オレが仕事をしてるか不安になって、店長がよこしたのだろう。クッ。いらぬまねを。さすがにここまで来て帰れはしないだろうが、人間は案外敏感だ。にゃんにゃん早く立ち去れ。
 おっと大切なことを忘れてた。
「おまえさん、塩はもってないだろうな」
 佐藤はそんな変人じゃないと多少気分を害したようだ。もってなければいい。以前、偶然塩をもっていた客を紹介してしまい、大騒動になったことがあった。思えば、それが『まどぎわ』になったきっかけだったのかもしれない。
オレは悪魔にむいてないと思う。本業に手をだすより、人間のおねぇちゃんと遊んでいた方が楽しいし、なにより魔界に帰って、ジグソーパズルという人間界の遊びをするのにハマっている。人間界でもできるが、あれは室内の遊びた。ザ・インドア。ザ・魔界。ザ・働きたくない。がまどぎわなりに仕事をしないとくびになってもっといやな仕事を押し付けられる。それだけは勘弁。
ほっと息を吐く気配がした。寿司屋の明かりに安心したのだろう。うまく仕事をこなせてオレも安心した。ありがとう。佐藤航。
こいつには食えない。オレは確信がある。

ガラガラと寿司屋に入って、佐藤は目のまえの状況を理解して、というか、お品書きを見て固まった。
『肛門のユッケ』
『貴婦人のモモ握り』
『赤ちゃんの舌』
ここでは寿司を食べる人は客で食べない人は食材だ。
そのことを告げると佐藤はさらに固まった。これで仕事終了。佐藤を店長に任せて帰ろうとした時だ。
ばぁさんがうぉーっという勢いで入ってきた。髪を逆立て塩をまいてる。
「ばあちゃん!」
佐藤は驚きながら、しかし確実にすし屋から出た。
「航に手を出すのは許さん!」
いつのまにか佐藤もばあさんも消えていた。

 ただそこには草むらだけがあった。

雪舞う卒業式

芦沢シン(著者)

「なあ柊斗(しゅうと)、新潟では卒業式の日に雪が降りやすいって言われてるらしいぜ」
「うん」
「それって、新潟から離れたくない卒業生が冬に戻れと空に祈ってるからなんだって」
「うん…ん?まさか!」
まさかそんな。僕は耳を疑う。小学生の噂じゃあるまいし。
でも晶(あきら)が言う通り、卒業式当日の今日、三月一日は、春の訪れを阻止するかのような雪が降っている。今年は例年になく気温が高く暖冬傾向とニュースでも耳にしたが、今日の空はそんなのはお構いなしと告げているかのようだ。
そういえば、卒業シーズンと桜はセットで語られることが多いけど、新潟に住んでいるとイメージできない。今日なんて、桜どころか、春の訪れを感じることもない。いまだにホッカイロは必須だ。でも、だからって空に祈る人なんているのだろうか。
「まあ、たまたまなんじゃないの。それよりも早く行こうぜ」
僕は卒業後、東京都内の大学に進学する。新潟から離れるが、寂しさはない。これからの都会での暮らしにワクワクしているからだ。僕は晶を促して、三年間過ごした学び舎へ駆けていった。

卒業式は、特にトラブルもなく進んでいった。
校長先生の長い話もこれが最後かと思うと多少感慨深いものはあったけど、話している内容は去年と同じような感じだったし、卒業証書を受け取るのは代表者だから、当日にやることはあまりない。そんな中でメインといっていい儀式。閉式の言葉の前、卒業生による合唱が始まった。

「旅立ちの日に」

どこか懐かしくもあり、切なさを感じさせる前奏のピアノの音が流れる。その瞬間、ここで過ごしてきた想い出が走馬灯のように浮かんできた。

本当はサッカー部に入ろうとしたのに、隣の席で仲良くなった晶から誘われて陸上部に入ったこと。
その陸上部の400mリレーで県大会まで行けたこと。
でも部活で忘れられないのが、合宿の夜にみんなで徹夜で話していて、翌日の朝に寝坊して顧問の先生から大目玉を食らったこと。
前日まで完璧だったのに本番で音程が外れてしまい、最優秀賞を逃した合唱祭。
行きは寝坊して走って向かい、帰りは部活で疲れてしまい、いつも乗り過ごしてしまいそうだった通学電車。
どんなに忙しい時も、朝早く起きて作ってくれた母の色とりどりのお弁当。
初めて好きな人ができた時の高揚感、告白してフラれた時の絶望感。
フラれたショックも、友達と万代で一日中遊んでいたら嘘のように消えていったこと。
うだるように暑くて汗が止まらなかった夏も、凍える寒さの中で雪が降り止まなかった冬も、クラスのみんなと会える楽しみが上回っていたこと。

まだ、ここにいたい。
卒業、したくない。
新潟、離れたくない。
何かの間違いで天変地異が起こって時間が巻き戻しにならないだろうか。過去を変えたいわけじゃない。楽しい想い出も、苦い想い出も、全く同じでいいから、最初からやり直せないだろうか。
気づいたら、目頭が熱くなるのを感じていた。前が霞んで見えづらい。こんな姿を見られるのが恥ずかしくて、とっさに顔を逸らす。すると、見上げた先にある体育館の窓は、白一色に染まっていた。登校時よりも雪がさらに強まっているみたいだ。
あれ……!?
もしかして、誰かが空に祈ってる噂って本当なのかもしれない。
しかも、それって……。

式が終わった後の、高校生活最後のホームルーム。クラスのみんなで卒業アルバムの寄せ書きをすることになった。晶をはじめ、男子たちは一角になって固まっている。
「ねえ柊斗くん、私のアルバムに早く書いてよ!」
振り向くと、目の前に弥生(やよい)が立っていた。心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。それは、いきなり話しかけられて驚いたのもあるけど、実は三年生で同じクラスになった時から気になっていたからだ。目鼻立ちがくっきりしていて、セミロングの黒髪は艶やか。「透明感」という言葉がこれ以上なく似合っている佇まい。学級委員としてクラスをまとめ、誰とでも分け隔てなく話している優しさがある人柄に、気になっている男子が何人かいると聞いたことがあった。まあ僕は、結局あまり話せないままだったけど。
そんな弥生とアルバムを交換して、互いにメッセージを書く。
僕は、『ありがとう。学級委員お疲れ様でした』と、ありきたりな内容を書いた。
彼女から渡されたアルバムを見て、僕は思わず目が点になる。

『大学生活でもよろしくね!』

「えっ?これって……」
「あっ、そっか。まだ話してなかったっけ。柊斗くんと一緒の大学に入ること」
「そうなの?」
「うん。本当は本命の大学があったんだけど、そこは落ちちゃって。だから滑り止めで受けたところで、あまり気が進まなかったんだけど…。でも良かった、柊斗くんが一緒なら」
「ああ、そう。ありがとう」
そっけなく返事をした自分が情けない。さっき卒業したくないと思っていたのが嘘のように、心が沸き立つものを感じている。

「あっ!書き忘れてたことがあったから貸して!」
弥生からアルバムを受け取り、僕も彼女と同じく『大学生活でもよろしくね!』と綴る。
教室内には、卒業とこれからの大学生活をお祝いするかのような、まぶしいほどの日差しが降り注いでいた。
その日差しを浴びながら、僕はこれからの東京での生活が、この日差しのような明るいものとなるよう空に祈った。

木漏れ陽に揺れる宿

ベッカム隊長(著者)

 去年のGW、久々に北国街道の歩き旅に出かけ、関山神社に到着した。
 境内の正殿の階段に腰掛け、汗を拭ってぼんやりしていると不意に、40年ほど前のことが甦ってきた。

 大学の先輩から、
「妙高山に登るルートにゴンドラリフトが設置されたから、夏にちょっと行ってみねぇか!?」
と誘われた。ゴンドラに乗って一気に山を登るなんて、ヨーロッパみたいやなぁ・・・と思いを馳せると夏が来るのが愉しみで仕方なくなった。
 8月に入るとすぐ出かけた。
 天気は快晴。景色は絶景。山頂駅から天狗堂を通過して登頂し、帰りは燕に降りて、温泉に入ってひと息つこう!というのがコースだった。だけど、登頂するちょっと前から先輩の体調がおかしくなり、
「俺、ゴンドラリフトで降りて帰るわ」
「じゃ、オレもそうします」
「バカ野郎、お前は燕へ行ってチャンと温泉に浸かって来てくれ!」
「そんな」
「本隊は常に目的を達成することが登山のルールなんだからさ」
 よく言うぜ、と思ったが、そんなふうに言われると行かないわけにはいかなかったし、行きたかった。
 先輩とは天狗堂で別れ、ひとり燕温泉を目指した。
 ところがその頃から天候がおかしくなり始めた。風が吹き出し、霧が出て、雷が鳴り出した。どこかで道を間違えたりしたらどうしよう。不安が不安を膨らませ、雷鳴と雨風に叩き付けられながら、這う這うの体で燕温泉に辿り着いた。
 旅館の入り口でゴアを脱いだら、迎えてくれた女将さんが壊れかけた折り畳み傘と一緒に乾燥室の方に持って行ってくれた。親父さんが、
「すぐお風呂に入って暖まりな」
 チェックインの手続きもしないまま、半地下にある風呂場に向かったのだった。

 翌朝、雨は上がっていた、でも歩き出したら、またパラパラと降って来て、折り畳み傘を出した。
「?」
 その瞬間、ハッとした。
 傘を留めるボタンがちぎれていたのに、付いている。
 ハッと思ってバッグに仕舞ったゴアを取り出しチャックのところを確かめた。
「!」
 いかれていた箇所が直っている。
「??」
 夜中、自販が、千円札が使えないものだったので、両替して貰おうと思って下に降りた。
 女将さんの、
「そんなとこで寝ちゃったら風邪ひくよ」
と御主人に呼びかけている声がした。すると、
「寝とらんよ」
 愚図る子どものような声音で言葉を返すやり取りが微笑ましかった。
 遠い昔、田舎の両親が毎夜繰り返していた光景と同んなじやな、と思うと、なんだか急に故郷が恋しく思われた。
 管理人室に声をかけるのが憚られ、部屋に戻ろうかどうしようかとちょっと逡巡した瞬間、揺れたカーテンの隙間から女将さんが何か繕い物をしているのが見えた。
 もう両替なんかええわぁ、と部屋に引き返した。
 もしかしたら、あの時繕ってくれていたのがオレの折り畳み傘とゴアのチャック・・・。
 宿に戻ってお礼を言おうかなぁ、と思いながらも私の足は関山駅に向かう坂道を止まることなく下って行った。

「40年か・・・」
 思わずため息が漏れた。
 いつかお伺いして、と思っているうちに日々が過ぎてしまった。
 これから燕温泉に行って、あの宿を探してみようか・・・。
 歩き疲れてこの神社の正殿でひと休みして、駅に向かったことが蘇えって来た。
 関山神社の境内で、木洩れ陽が揺れている。
 まるで今と昔が交錯しているかのように。

朱鷺の舞

芦沢シン(著者)

ひらっ、ひらっ。
白い羽根を、きらびやかに羽ばたかせている。
あれは……朱鷺?
まさか、ね。頼人(らいと)はかぶりを振る。しかし、目の前に広がる神秘的な光景は変わらない。
新潟県新潟市にある、万代シテイバスセンター。周辺に商業施設が立ち並ぶ中にあって交通拠点となっているこの地は、老若男女の人たちがそれぞれの目的に向かって行き交っている。その2Fのイベントスペースに、頼人はいる。四方八方が背の高い建物で囲まれているイベントスペースでは、アーティストのライブやテレビ番組のイベントなどで利用されている。
頼人は、朱鷺が立っているステージを見つめている。
暑さもほんの少しだが和らぎ、雲一つない青空が広がっている今日の新潟市。田んぼには、黄金色をした稲穂が一面に広がっているのを、ここに向かうまでに見た。とはいっても、ここは田んぼではない。こんな人工的な造りの場所に降り立つわけがない。これは、一体何だろう?夢でも見ているのだろうか?

ひらっ、ひらっ。
一目散に駆けだして、リュックを慌ただしく羽ばたかせている。
「ごめん!今日、用事があるから昼飯一緒に食えないわ」
土曜の午前にある大学のゼミの授業。最近、昂太(こうた)はこんな感じで抜け出すことが多くなった。大学で同じゼミに通っている昂太とは、とりわけ気が合い何かと行動を共にしている。授業がある日の昼は食堂に集合するのが、いつの間にかお決まりのようになっていた。
用事って何だろう?バイトならバイトって言うだろうし、何か秘密でも隠しているのだろうか?ある日のゼミが始まる前に頼人は一度聞いてみたことがあるが、「まあ、用事は用事だから」とはぐらかされてしまった。
今日は、同じゼミの人たちもバイトで帰ってしまった。頼人は手持ち無沙汰になったが、ちょうど欲しい文房具もあり、LOFTに寄るついでに久しぶりに万代で何か食べようと、その道すがらバスセンターを通ったところだった。

ひらっ、ひらっ、バサッ!
ゆったり舞うように、かと思えば時に激しく羽ばたかせている。
流れる曲に合わせて、リズムよく朱鷺たちは舞っている。遠目で見ると朱鷺たちは同じように見えるが、じっくり観察してみると、背の高さや舞い方が微妙に違うのがわかる。
ステージの前は、大勢の人で埋め尽くされている。音楽に合わせて手拍子をする人。サイリウムを振る人。うちわを持っている人。中には大声で叫んでいる人もいる。ステージ前だけでなく、2Fと3Fのバルコニーにいる人たちの視線もステージに注がれている。気が付けば、頼人の視線もステージに向いていた。
どうしてだろう?頼人は、心が沸き立つものを感じていた。こんな感情は今までに記憶がない。まるで催眠術にかかったように身体が動き出しそうだ。どうして、こんなに眩しいんだろう?

ひらっ、ひらっ、パタっ。
朱鷺たちの動きが止まった。今度は横一列に並んだかと思うと、ひときわ背の高い朱鷺が前に出た。
あっ!
「皆さんこんにちは!私たち…」
朱鷺……じゃなかった。これは、夢ではない。ということは、今見ているものは現実なのか。都会の中でしかいないと思っていた存在。ここでは、テレビやYouTubeの中でしか見れないと思っていたような存在。それが今、目の前で踊っている。
「それでは引き続き、よろしくお願いします」
挨拶を終えて、彼女たちは先ほど立っていた場所に戻る。柔和な表情から一転、切り裂くような真剣な目つきに変わり、ふたたび舞いはじめた。

ひらっ、ひらっ。
「今日はありがとうございました。ぜひ、劇場に遊びに来てくださいね!」
観客に笑顔で手を振りながら、彼女たちがステージを降りていく。
どうやら、今日の彼女たちのライブは終わったみたいだ。
いなくなったステージは、華やかさがまだふんわりと残っているようにも感じる。
でも……。
どうしてだろう?胸騒ぎがとまらないのは。
どうしてだろう?切なさの香りがするのは。
彼女たちがいなくなるとともに、ステージに視線を向けていた人たちがそれぞれの現実に帰っていく。
すると、
「あっ!」
頼人の視線は、歩いている人たちに紛れている一人の若者を捉えた。
「あいつ、用事ってまさか!」
昂太に向かって一目散に駆けだす。
どうしてだろう?不思議と顔には笑みが浮かんでいる。
なんだよ、用事って!
こんなにワクワクする秘密、隠し持ってんじゃねーよ!

バシッ!
昂太を捕まえる。普段は見せない頼人の前のめりな姿勢に、昂太は驚いた表情を見せる。
「どうしたの?なんでここに…」
どうしてだろう?気が付くと、口が勝手に動いていた。
「あの朱鷺とどうやって会えるか教えてよ!」
「え!?あ、ああ、あそこだな」
指を差しながら、昂太はいつもの柔らかな表情に戻る。
「今度、一緒に行こうぜ」
その指は、バスセンターから見て右斜め上を差している。
万代シテイ、ラブラ2の4F。
白と赤を基調とした看板。
どうやらそこが、彼女たちの活動拠点らしい。
「ところでさ、頼人の推しって誰?」
それは……。
「えっと、それは……、今度劇場に行ったときに決めるよ」
頼人も同じく、白と赤を基調とした看板を指差す。
二人が新たに共有した秘密。

ひらっ、ひらっ。
朱鷺たちの舞を見て、頼人は自分にも羽根が生えたかのように、心が舞っているのを感じていた。

馬上のひと

圭琴子(著者)

 未明。急に美空(みく)が、火がついたように泣き出した。夜泣きなんかしたことがない子なのに、なんでこんなときに限って。
 夫とは授かり婚でつわりが酷かったから、未空が一歳になってようやく訪れた夫の実家での出来事だった。
 経験値はゼロに近いから、私はオロオロするばかりで要領を得ない。まず夫が起きて、その内隣室からも話し声が細く聞こえ、お義父さんとお義母さんも起こしてしまったことを知る。
 どうしていいのか分からずに、取り敢えず未空を抱えて家を出た。海の近くだったから、海沿いの道を未空をあやしながら、途方に暮れてとぼとぼ歩く。
 朝焼けの気配と、まだ街灯の光が残る、朝と夜とが交代する時間帯だった。道なりに歩いていたらいつの間にか砂浜に降りていて、汗ばむ季節に潮風が心地良い。
 不意に、水平線を赤く燃やして陽が昇り始める。私は埼玉県出身だったから、海からの日の出はおろか、日の出さえ見るのが初めてだった。
 海面に光の一本道が揺らめいて美しい。不思議と未空は泣き止んでいて。ワンオペ育児に、疲れていたのかもしれない。
 色んな思いが入り混じって、私は海を見詰めてぽろぽろと泣いていた。陽が昇りきるまでが長く長く感じられて、私はその間ずっと涙を零していた。
 そのとき。突然だった。地面が跳ねた。――地震! そう気が付くまでに三秒かかった。
 立っていられないほどの揺れに、膝をついてうずくまり、未空を胸の中に抱き込んで必死に守る。
 一分以上揺れていた。かなり大きな地震だ。こんな地震に遭ったことは初めてで、砂浜に膝をついたまましばらく呆然としてしまう。五感が異常に鋭くなって、潮騒が大きく響いていた。
 ――なにか聞こえる。動物の鳴き声みたいな。
 遠くから、なにかが駆けてくる。馬だ。競馬中継で見るようなサラブレッドじゃなくて、もっと小さいずんぐりむっくりの馬。背にひとを乗せている。
 近くまで来ると、馬は荒い息を吐いて足を止めた。田舎だからだろうか、背に乗った男性はレトロな和装だ。
「おなご! 大事ないか!」
 声をかけられたことで今更地震の恐怖が蘇って、私は咄嗟に答えられなかった。
「ややがおるな。おなご、母親ならしゃっきりせい! 間もなく津波が来る。馬には乗れるか?」
 そ……そうだ。未空が居る。私はともかく、未空を助けなきゃ。
「の、乗れます!」
 昔乗馬クラブに通っていたことを思い出し、大声で答える。
「では後ろに乗れ。何処から参った?」
「あっちです!」
 地名には不慣れだったから、夫の実家の方を指差す。
 馬の体高が低かったことが幸いして、私は男性の後ろに未空を抱いてまたがった。さっきは素早く駆けてきたけれど、未空を気遣うように馬は並足で進む。
 あんなに大きく揺れたのに、未空はやはり泣いてはいなかった。片手で男性の腰に掴まった私の片腕の中で、すやすやと寝息を立てている。
「坊か?」
「えっ?」
 少し考えて、男の子かという意味だと悟る。
「いえ、女の子です」
「泣き声ひとつ立てぬとは、如何にも大物になりそうじゃ」
 男性はそう言って横顔でちらりと笑った。こんなときにも関わらず、人生を深く知った魅力的な笑みだと思った。
「あっ、ここです」
「そうか。まだ津波は来てないようじゃが、用心せい。高台に向かえ」
「はい、ありがとうございます!」
 馬から下りると、家の中から話し声が聞こえた。お義父さんとお義母さんと、夫の声。大丈夫、全員無事だ。
「わしも城が心配だから戻る。おなご、ここでよいか?」
「あっ、はい」
 男性は今にも馬で駆け出しそうで、慌てて訊いた。
「あの、お名前は?」
「謙信。上杉謙信じゃ」
「……えっ」
 小さくなっていく背中に、見覚えがあったのを思い出す。昨日観光に行った春日山城跡に、銅像があった。
「春子!」
「春子さん、未空ちゃんも大丈夫ら!?」
「あっはい、無事です! お義父さんは?」
「今ペットボトルの水をリュックに詰めてるが、すぐ来るがね」
「よかった」
「春子これ、上着とマザーズバッグ」
「ありがと、真くん」
「未空ちゃんがさ、泣いてくれたから助かったがね。あれで起きてなかったら、本棚の下敷きでぺしゃんこだったろ」
 そう言えば、と未空を見る。未空は目を覚ましていたが静かに、にこにこと笑って親指をしゃぶっていた。
 ハッとして男性が去った方を振り返ったが、もう影も形も見えなかった。
 それから私たちは、高台へ向かう。幸いと言っていいものか津波は数十センチで被害はなかったけれど、あのまま砂浜に居たらどうなっていたか分からない。
 でもあの体験をひとに話したら、正気を疑われるだろうという分別はあった。
 埼玉に帰る前、駅で見た謙信公祭のポスターにある顔は、確かに私に笑いかけた、あの馬上のそのひとなのだった。

(※私信※地震お見舞い申し上げます。皆様のご無事を祈っております!)

地獄改装中

高木淳(著者)

 久々に新潟に帰って来たが、私のいない間に何か街に変わったことはないかと散策してみた。最近は新潟駅や古町付近に新しいビルが建っていることも少なくない。目新しいビルを見つけては、こんなもの有ったかと記憶をたどり、いやなかった。そう断定してまた歩き出す。とにかく私の慣れた町である、ということを自ら再確認するために、更新することが必要であった。周りから見れば何らつまらない散歩である。
古町を抜けて西大畑の辺りに出た。さすがにこの辺りには新しいビルなどは建たないが、料亭や土蔵が並ぶ風情のある静謐という言葉が似合う通りがある。そこに差し掛かろうとしたとき、場にそぐわない激しい機械音がした。眉間にしわを寄せて、その音の方へと向かうと、大きく“工事中”と書かれたオレンジ色の看板と迂回を促す係員が立っていた。この工事中の通りは地獄極楽小路である。狭い道だからアスファルトでも張り替えるのかと覗くと、係員がすぐさま私の前に立ちはだかった。

「駄目じゃないですか。覗いたら。今は改装中なんですから。」
「それもそうですが、道路の工事かなんかですか?」
と係員の背後を覗こうとしながら聞いてみた。
「なにおかしなことを言っているんですか。道路なんかは万全ですよ。今は地獄の改装中なんです。ほら、ここは地獄極楽小路でしょ。向こう側が行形亭とかがある極楽、こちら側がいわゆる地獄です。刑務所があったころからどうにかもってたんですけど、新潟駅の方とかも開発してますでしょ。この際思い切って地獄の方も新しくしようと思いましてね。」
私はこの時話しかける相手を間違えたと思った。
「ここは刑務所があったから地獄なんですよね?改装も何もありませんよ。」
「あら、あなたここの地獄をご存じない?いやはや、新潟にまだそんな人がいたんですね。恐ろしいことだ。」
そう言って係員は私に背を向けて工事現場の方へ歩いて消え去ってしまった。おかしいのは向こう側だとわかっている。だけれど、それから半年ほどたって工事が終わったことを知っていてもなかなか、改装した地獄、に足を踏み入れられないでいる。

高架下のシンボル

芦沢シン(著者)

「椿生(つばき)、お疲れ様!今日だけど、残業で今仕事が終わったから、これから向かうね。集合場所はいつも通り高架下の歩道でいい?」
「うん。僕もこれから向かうからちょうどいい。今日も楽しみだな!」
会社を出る前に、友里(ゆり)とLINEを交わす。
月1回、新潟駅周辺の居酒屋でお酒を飲みながら、色んな話に花を咲かせる。それが2人にとってのルーティンになっている。顔馴染みのお店もできて、気づけばビールよりも日本酒を飲むようになり、実家に帰った時には両親をびっくりさせていた。頬にほんのりと赤みを帯びながら微笑む友里の姿が脳裏に浮かぶ。だけど、最近は残業が多いらしく、そのことが気がかりにもなっている。今日の大切なルーティンが、彼女にとって素敵なひと時となるようにしたいと胸に刻みながら歩を進める。
「あ、CoCoLoの看板ができてる」
現在、新潟駅は高架下の再開発工事が進められている。まるでSNSのトレンドのように、見える景色は日に日に変わっていく。仕事でミスをして落ち込んだ時も、変わりゆく駅舎を見ると、僕も変わらなきゃと踏み出す足の力を強くさせてくれる。そして、友里と出会ってからのことを思い出す。
友里と出会ってから2年が経とうとしている。出会った場所もここ、新潟駅だった。

「すいません!ブレスレットをなくしてしまって。もしかしたら駅で落としたかもしれないんです!」
突然話しかけられた時はびっくりしたけど、すがるような目で見つめられて、気づけば時間を忘れて探していた(その影響で、友人との待ち合わせに遅れたことは僕だけの秘密だ)。その後、しばらく探してから見つかった時は、瞳を潤ませながら何度も頭を下げられた。しかも、「今日のお礼に今度お食事に行きませんか?時間は合わせますから」と言われた時はびっくりして、その場でしばらく固まってしまった記憶がある。
確か最初のデートの時は、仮設的に作られた改札の前に集合したんだよな。女性と話すのが苦手な僕だけど、県外からやってきたこと、お酒が好きなことなど……。共通することが色々あって、思わず前のめりになってしまい、彼女を笑わせてしまったな。服の着こなしがおしゃれで肌が白く華やかさがある。彼女の名前にぴったりな佇まいが頭から離れなかった。
その後、何回か会ってから付き合い始めた。
いつの間にか改札口も変わっていて、万代口に集合の時に外で待っていたら、実は2階の改札口で、それで喧嘩をしたこともある。工事の影響で次々とシャッターが閉まっていくお店の様子を見て寂しさを感じたりはしたけど、新たに開店したお店も最近になって増えている。友里は、改札口のそばにある雑貨店が気に入っているらしい。

周りの音がキュッと締まったような感じがする。高架下の歩道に着いたようだ。
今年の春に完成した高架下の連絡通路により、以前よりも万代口と南口の行き来が便利になった。南口にアパートがある僕にとっては、出勤前に寝る時間が増えたことにも一役買っている。これから先、どんなお店ができるのだろうか?飲食店、食料品店、雑貨店、ファッション、お土産……。
「ねえ、なにぼーっとしてるの?」
いつの間にか友里がいた。
こんな感じで待っている時に考え事をしていて、彼女の方から呼ばれることは一度や二度ではない。
「えっ?ああ、ごめんごめん。さあ、行こうか」
目元にはうっすらとクマができているような気がするが、どこか充実したような表情をしている。
「そういえば最近、仕事頑張ってるよね」
「え?ああ、ありがとう。実はね、私が働いてるお店、高架下のテナントに新しく出店するんだけど、そこの店長になるかもしれなくて」
あの時の食事に誘われた時と同じく、僕はびっくりする。
友里はアパレル店員として働いている。きっと最近の残業も、それに関係しているのかもしれない。
「すごいじゃん、おめでとう!僕もめちゃくちゃ嬉しい。今日はお祝いだな!」
「いやいや!まだ正式に決まったわけじゃないから!でも…いっか。じゃあ、今日は椿生のおごりね」
「えー?まあ今日はちょうど給料日だし、いっか」
今日の日本酒は、いつも以上に美味しさが身体に染み渡るかもしれないな。

来月には、友里の誕生日が待っている。今度は、僕が彼女をびっくりさせる番だ。プレゼントはすでに決まっている。2人にとって大事なもの……。
今は仮囲いによって灰色に染まっている新潟駅の高架下。来年の春には工事が終わり、鮮やかな色に溢れた駅へと変わる。一生懸命で華やかな彼女は、きっと多くの人にとって光り輝くシンボルのような存在となるだろう。そのシンボルをこの目で見届けたい。そして、これからもずっと一緒にいたい。そんな想いを込めて、僕は友里と腕を組む。その瞬間、鮮やかな色に溢れた様々なお店があらわれ、老若男女の人々が行き交う光景が見えたような気がした。

異動願い

楽市びゅう(著者)

「おたちゃん、そろそろ起きたら」
 和貴の声に目を覚ますと、起き抜けの嗅覚に隣の部屋から漂う味噌汁の匂いを感じた。
 枕元のスマートフォンに目をやる。土曜日の昼前。
「おはよう」
「お早くないよ。今晩には向こうに着いておきたいんでしょ」
「うん。まあ大丈夫」
 この「大丈夫」は昼まで寝ていたのを誤魔化しているのではなく、本当に大丈夫なのだ。あらかたの荷物はすでに新居に搬入しているし、身支度も済ませてある。それに、新幹線で東京から2時間。想像していたよりも随分近いと感じた。
 だから、万一、和貴とこの家に何かあってもすぐに戻れる。そういう安堵があった。
「和貴」
「ん?」
 男兄弟の割に大きな喧嘩もなく、仲良くやってきたと自分では思っている。ただ、和貴がどう思っているかは分からない。
「ごめんな。迷惑かける」
「うん、大丈夫。おたちゃんのことのほうが僕は心配だよ」
 和貴はさっき自分がしたのと同じような返事をして笑顔を見せた。
 だが今の「大丈夫」は先程のよりも、もっとずっと危うい。
 自分勝手に東京を離れる兄を許してくれ。

 商店街の端に小さく座る老婆に頼らざるを得ないほどに道標を見失っていた。
「私は理由あって家を出たいと思っています。しかし、弟を残して行けないという思いもある」
 老婆はぎろりと目を見て言った。
「ご自身の目に見える転機はおありですかな」
 私は少し考えて、「勤めている会社が春に異動の時期を迎えます。ひょっとすると、ということはあるかもしれない」と言った。
「さすればひとまずそこへ目がけて願うのです。願った結果叶わないとすれば、それはお主の弟様との縁を優先すべしと授けられたということ」
 老婆の言葉に私は思いがけず納得した。
「願うとは、どのように」
「次の春で転勤になってくれと強く願うのです」
「なるほど」
 私は老婆の面前で目を閉じ、頭の中で(転勤になってくれ)と祈った。
「具体的に、お主の行く先を思い描いてみなさい」
「東京以外では埼玉と横浜、それに新潟に支社があります。しかし関東では結局家からの勤めになる」
「そのことも含めて強く念じなされ」
「わかりました」

 新潟に転勤になってほしい。次の異動で、新潟になってくれ。
「もっと、もっとです」

 新潟になってほしい。
「もっと!」

 にいがたになってほしい!

「おたちゃんはここたるよりも絶対たいよ、せっかく手たれた機会だもん。ただ向こうたる以上はその土地たっぱい順応するんだよ、俗たう『郷たっては郷に従え』ってね。でもおたちゃん頑張りやだから、仕事はほどほどにね。営業トップなんか目指さなくたって、たでもいいんだよ。そうだ、カップ麺をビたル袋たれてあるからね。あっ、スたカーの紐が解けてるよ。それじゃ、たたゼミが鳴く頃にでも近況を聞かせてね、おたちゃん」

夢をかなえ屋

ほんまけいこ(著者)

「こめっこクッキーくださーい」
明るい光が降り注ぐ店内に、元気な男の子の声が響いた。茶色やベージュ色のクッキーが10個ほど入っている小さなビニール袋をカウンターの上に置く。
「はい、250円です!」
と元気のいい声で返事をするのはお店のご主人ユキちゃんだ。ポニーテールが頭の後ろで揺れている
「はい、250円!」
「お、ぴったりだね。ありがとうございまーす。また来てねー」
袋を抱えて店を飛び出す男の子の背中に明るい笑顔を送るユキちゃん。
「この梅ジャムちょうだいな。これ、甘すぎないでいいのよね」
今度は少し年配のおばさんがビン詰めのジャムを持ってくる。その他にも店内には、手作りパンやヨモギ饅頭などを物色している近所のおばさんがいる。
 ぼくはユキちゃんとお話ししたかったけど、ユキちゃんが忙しそうなので、店の外に出て入り口の横に置いてある木のベンチに座って日なたぼっこをはじめた。
 ユキちゃんのお店の名前は「かなえ屋」。もともとは酒屋さんだった。だが、今は地元のお米を使ったお菓子やパン、農家のおばさん手作りのジャムやクッキーなどを売っていて、お茶やコーヒーが飲めるテーブル席もある。
可愛いラッピングのお菓子は全てユキちゃん手作りだが、その中でも米粉入り、香ばしくてサクサクと歯ごたえのいい「こめっこクッキー」はおいしいと評判で、この前は地元の情報誌に載ったそうだ。
 ぼくは、首をもたげて「かなえ屋」と書かれた看板を見上げた。酒屋さんだった時代、ユキちゃんのおじいちゃんが帳簿をつけるときに使っていた机で作った看板だ。あちこちに傷がついたその看板にはおじいちゃんの苦労や汗、思い出がしみこんでいる。
お店を改装するときにユキちゃんが真っ先に決めたのがこの看板だった。
 ぽかぽかとお日様が照ってきて、いつの間にかぼくはうとうとしてきた・・・
「夢が叶うの『かなえ屋』か。いい名前だ」
 だれかがぼくの頭をなでている。あれえ?この声はおじいちゃん?ぼくはびっくりした。いつのまにかおじいちゃんがぼくの隣に座っている。おじいちゃんは看板を見上げてうれしそうに目を細めていた。そう、この店の名前はおじいちゃんとユキちゃんが二人で知恵を絞って考えたのだ。
 おじいちゃんは古町商店街で明治時代から続く老舗の「福原酒店」の五代目だった。昔は港町の顔として栄えていた古町だが、最近は駅近くの若者向けのお洒落な商店街や、郊外にできた大型ショッピングモールに押され、昔のような賑わいはなくなっていた。
 本当はおじいちゃんは息子の和也さんに店を継いでほしかったのだが、和也さんは酒屋に見切りをつけ、会社員になってしまった。おじいちゃんは自分の代でお店を終わらせる決心をして細々と商売を続けていたのだ。
「さびしいのお・・・」
おじいちゃんは時々ぼくの頭をなでながらそう呟いていた。ところがある日、帰郷していた孫娘のユキちゃんが
「おじいちゃん、わたしこのお店もらっていい?」
と言い出したのだ。おじいちゃんはもちろん、お父さんの和也さんやお母さんもびっくりした。だがユキちゃんは大真面目、本気だった。
「その代わり、酒屋さんでなくてもいい?」
またまたみんなびっくりした。東京の調理専門学校に行っていたユキちゃんは、地元の食材を使って、だれもが安心して食べることができる地産地消の手作りの食品が買えるお店を作りたかったというのだ。
「わたし、この店も古町も大好きだから」
 ぼくはおじいちゃんがとても喜んだのを知っている。おじいちゃんのシワシワの目元には涙が浮かんでいた。
もうお店はおじいちゃんの代で終わりと決めていた和也さんとお母さんは猛烈に反対した。
「やっと酒屋を畳むと決めたのに・・・大体商売のいろはも知らないお前に何ができるんだ。商売なんてそんなに甘いもんじゃないぞ」
「せっかく調理師免許を取ったのに何を考えてるんだか。私たちはあんたに苦労させようと思って東京に出したんじゃないのよ」
そんな風に言って渋る二人をユキちゃんは粘り強く、本当に粘り強く説得してとうとう許してもらった。ユキちゃんの熱意が勝ったのだ。
 それなのに・・・いよいよお店の改装が始まった去年の冬。おじいちゃんは肺炎をこじらせて突然亡くなってしまった。新しいお店ができるのを一番楽しみにしていたおじいちゃん。店番をするつもりで張り切っていたおじいちゃん・・・僕の頭をいつも撫でてくれたおじいちゃん。
「ジロー!このねぼすけ!」
はあん?・・・・ぼくは頭をふって目をあけた。ぼくの目の前にはユキちゃんの尖った口と笑いを含んだ目。あれ?おじいちゃんはどこに行ったんだろう。ぼくは辺りを見回した。
「気持ちよさそうに寝てたね、ジロー。今日もこめっこクッキーよく売れたよー」
ユキちゃんはうーん、と大きく伸びをして看板をしばらく見つめていたが、
「おじいちゃんにこのお店見せたかったな」
と、ぽつんと呟いた。
 ぼくはユキちゃんにおじいちゃんが今来てたんだよ、と教えようと一生懸命にゃあにゃあと鳴いてユキちゃんのエプロンをひっかいた。ユキちゃんはふっと笑って、ぼくの頭をくしゃくしゃっとなでた。
「でもどこかできっと見ててくれるよね」
そうだよ、見てるよ、とぼくはユキちゃんの膝に乗って一声大きくにゃあ、とないた。お店の空にはおじいちゃんのシワシワの笑顔のように見える雲がぽっかりと浮かんでいた。