芦沢シン(著者)
「なあ柊斗(しゅうと)、新潟では卒業式の日に雪が降りやすいって言われてるらしいぜ」
「うん」
「それって、新潟から離れたくない卒業生が冬に戻れと空に祈ってるからなんだって」
「うん…ん?まさか!」
まさかそんな。僕は耳を疑う。小学生の噂じゃあるまいし。
でも晶(あきら)が言う通り、卒業式当日の今日、三月一日は、春の訪れを阻止するかのような雪が降っている。今年は例年になく気温が高く暖冬傾向とニュースでも耳にしたが、今日の空はそんなのはお構いなしと告げているかのようだ。
そういえば、卒業シーズンと桜はセットで語られることが多いけど、新潟に住んでいるとイメージできない。今日なんて、桜どころか、春の訪れを感じることもない。いまだにホッカイロは必須だ。でも、だからって空に祈る人なんているのだろうか。
「まあ、たまたまなんじゃないの。それよりも早く行こうぜ」
僕は卒業後、東京都内の大学に進学する。新潟から離れるが、寂しさはない。これからの都会での暮らしにワクワクしているからだ。僕は晶を促して、三年間過ごした学び舎へ駆けていった。
卒業式は、特にトラブルもなく進んでいった。
校長先生の長い話もこれが最後かと思うと多少感慨深いものはあったけど、話している内容は去年と同じような感じだったし、卒業証書を受け取るのは代表者だから、当日にやることはあまりない。そんな中でメインといっていい儀式。閉式の言葉の前、卒業生による合唱が始まった。
「旅立ちの日に」
どこか懐かしくもあり、切なさを感じさせる前奏のピアノの音が流れる。その瞬間、ここで過ごしてきた想い出が走馬灯のように浮かんできた。
本当はサッカー部に入ろうとしたのに、隣の席で仲良くなった晶から誘われて陸上部に入ったこと。
その陸上部の400mリレーで県大会まで行けたこと。
でも部活で忘れられないのが、合宿の夜にみんなで徹夜で話していて、翌日の朝に寝坊して顧問の先生から大目玉を食らったこと。
前日まで完璧だったのに本番で音程が外れてしまい、最優秀賞を逃した合唱祭。
行きは寝坊して走って向かい、帰りは部活で疲れてしまい、いつも乗り過ごしてしまいそうだった通学電車。
どんなに忙しい時も、朝早く起きて作ってくれた母の色とりどりのお弁当。
初めて好きな人ができた時の高揚感、告白してフラれた時の絶望感。
フラれたショックも、友達と万代で一日中遊んでいたら嘘のように消えていったこと。
うだるように暑くて汗が止まらなかった夏も、凍える寒さの中で雪が降り止まなかった冬も、クラスのみんなと会える楽しみが上回っていたこと。
まだ、ここにいたい。
卒業、したくない。
新潟、離れたくない。
何かの間違いで天変地異が起こって時間が巻き戻しにならないだろうか。過去を変えたいわけじゃない。楽しい想い出も、苦い想い出も、全く同じでいいから、最初からやり直せないだろうか。
気づいたら、目頭が熱くなるのを感じていた。前が霞んで見えづらい。こんな姿を見られるのが恥ずかしくて、とっさに顔を逸らす。すると、見上げた先にある体育館の窓は、白一色に染まっていた。登校時よりも雪がさらに強まっているみたいだ。
あれ……!?
もしかして、誰かが空に祈ってる噂って本当なのかもしれない。
しかも、それって……。
式が終わった後の、高校生活最後のホームルーム。クラスのみんなで卒業アルバムの寄せ書きをすることになった。晶をはじめ、男子たちは一角になって固まっている。
「ねえ柊斗くん、私のアルバムに早く書いてよ!」
振り向くと、目の前に弥生(やよい)が立っていた。心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。それは、いきなり話しかけられて驚いたのもあるけど、実は三年生で同じクラスになった時から気になっていたからだ。目鼻立ちがくっきりしていて、セミロングの黒髪は艶やか。「透明感」という言葉がこれ以上なく似合っている佇まい。学級委員としてクラスをまとめ、誰とでも分け隔てなく話している優しさがある人柄に、気になっている男子が何人かいると聞いたことがあった。まあ僕は、結局あまり話せないままだったけど。
そんな弥生とアルバムを交換して、互いにメッセージを書く。
僕は、『ありがとう。学級委員お疲れ様でした』と、ありきたりな内容を書いた。
彼女から渡されたアルバムを見て、僕は思わず目が点になる。
『大学生活でもよろしくね!』
「えっ?これって……」
「あっ、そっか。まだ話してなかったっけ。柊斗くんと一緒の大学に入ること」
「そうなの?」
「うん。本当は本命の大学があったんだけど、そこは落ちちゃって。だから滑り止めで受けたところで、あまり気が進まなかったんだけど…。でも良かった、柊斗くんが一緒なら」
「ああ、そう。ありがとう」
そっけなく返事をした自分が情けない。さっき卒業したくないと思っていたのが嘘のように、心が沸き立つものを感じている。
「あっ!書き忘れてたことがあったから貸して!」
弥生からアルバムを受け取り、僕も彼女と同じく『大学生活でもよろしくね!』と綴る。
教室内には、卒業とこれからの大学生活をお祝いするかのような、まぶしいほどの日差しが降り注いでいた。
その日差しを浴びながら、僕はこれからの東京での生活が、この日差しのような明るいものとなるよう空に祈った。