新潟県糸魚川翡翠と山梨県の隠し金山

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国上寺は、新潟県燕市にある真言宗豊山派の寺院である。
709年(和銅2年)、泰澄によって開山された。弥彦神社から神託があり、泰澄が創建したものという。泰澄は修験道の僧侶であり、修験道の寺院であったが、その後、法相宗、天台宗、真言宗醍醐派へと変わり、最終的には真言宗豊山派となっている。
平安時代末期に源義経が奥州藤原氏を頼って奥州に逃れる途中、当寺に一時身を隠していたという伝説がある。戦国時代、上杉謙信が七堂伽藍として整備したが、後に兵火で焼失している。江戸時代中期になり萬元によって中興された。
当寺には「五合庵」と呼ばれる草庵がある。この庵は当寺を再建した萬元の住居として建てられたものである。名称の由来は、萬元が1日5合の米を寺より支給されていた事による。後に良寛が移り住んだ事で有名になった。
ちなみに、新潟県における戦国大名として上杉謙信が知られ、そのライバルとして山梨県・長野県における戦国大名で武田信玄がいる。
資源としては「信玄の隠し金山」と「新潟の糸魚川翡翠」がある事で知られている。

「風林火山」で有名な、戦国時代の猛将・武田(晴信)信玄には武田二十四将の優れた武将達がおり、武田家を支えていた。24将は後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人を指して呼ばれるようになった武田家家臣団の呼称である。
武田家はそれだけの資金を、一体何処から調達していたのであろうか。
それは元々、信玄の拠点である甲斐では砂金が大量に取られていたという事が理由に挙げられる。さらに武田家は山梨県のあちこち隠し金山を有していたと言われている。その中でも1000人以上が住んでいたと言われ、武田家を支え続けたのが黒川金山だ。黒川金山は、現在でいうと山梨県の甲州市北部に位置している。
1959年(昭和34年)には奥野高廣『武田信玄』において、甲斐金山は武田信玄(1521年 – 1573年)の時代に最盛期を迎え、武田勝頼(1546年 – 1582年)の時代には衰退したとされ、これが定説となっていた。遅くとも16世紀前半には本格的な金の採掘が始まっており、専門の職人集団としての金山衆を記した文書も多く存在する。1987年には黒川金山の、1992年には湯之奥金山の発掘調査が実施され、また両金山から出土した中世陶磁の年代観からこれを遡る武田信昌・信縄期にあたる1500年前後の戦国時代初期の開始が指摘される。
黒川金山衆に関わる最古の文書として、永禄3年(1560年)卯月18日の「武田家朱印状」(「田辺家資料」)がある。同文書によれば、同年に黒川金山衆の田辺家当主である田辺清衛門尉が青梅街道沿いの小田原(甲州市塩山下小田原・塩山上小田原)において問屋業を営むことを安堵されており、田辺氏が流通にも携わっていたことが確認される。
黒川金山のある鶏冠山山頂に奥宮が存在する鶏冠神社には随身半跏像(阿行・吽形)が伝来している。阿行像の背面に銘があり、永禄2年(1559年)9月に薩摩国の僧・林賀が造営したと記されており、これは黒川金山の最盛期と重なる事が指摘されている。
一方、同じく鶏冠神社に伝わる数点の御正体は天正5年(1577年)の銘がある。こちらは黒川金山の金産出量が減少していた時期の奉納であると指摘される。なお、『甲斐国志』では鶏冠神社の御正体を「神鏡」としている。
そのほか、山梨県は水晶で有名であり、宝石が有名であるが、世界最古の翡翠大珠が見つかった事でも知られている。
特に翡翠の一大産地は新潟県の糸魚川であり、戦国大名・上杉謙信で有名な新潟県である。
翡翠は、地球上で日本が誕生するはるか昔の5億年前の石と言われている。
とても硬くて比重が高く(物凄くごく高い圧力で圧縮された石)半透明で光を当てると光りる。ヒスイは古代の宝石として珍重され玉(ぎょく)と呼ばれてきた。
玉(ぎょく)には硬玉(ジェダイト・Jedeite)と軟玉(ネフライト・Nephrite)とがあり、一般的にヒスイはジェード(Jade)と総称されている。
糸魚川産のヒスイは硬玉(本翡翠)と呼ばれ、ミャンマー産の軟玉(ネフライト)は見た目は同じでも全く別物。ミャンマー産のヒスイは産出量も多く、軟玉なので加工もしやすく一般に安価である。
糸魚川ヒスイは微細な結晶が絡み合っているため非常に壊れにくく堅牢な石で、大変加工がしにくいのが特長だ。
日本では、古代縄文時代の遺跡から翡翠を加工した宝石(勾玉など)が見つかっており、日本の宝石の原点と言われている。
その後、奈良時代以降、日本のヒスイは歴史から姿を消しており、海外(ミャンマー)でしか翡翠は採掘できないとされ、日本の古代ヒスイの宝石も大陸から持ち込まれたものとされていた。
しかし昭和13年頃、新潟県姫川上流小滝川辺りでヒスイの原石が発見され、日本にも古代から翡翠文化が続いていたという説を裏付けた。
その後日本にヒスイブームが起こるが、松本清張の小説『万葉翡翠』が出版されてからと言われている。
沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)は、日本神話に登場する神様である。古事記には、糸魚川市付近を治めていた豪族の娘、奴奈川姫に大国主命が出雲から求婚し、その際に翡翠を贈ったという神話が残されている。
実際に大国主命を奉った出雲大社の真名井遺跡からは、糸魚川産と見られる大きな勾玉が出土している。
「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」
(万葉集 巻十三 三二四七 作者未詳)

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