半分の胡瓜

(著者)薮坂


──夏だ。それはもう、真っ盛りの夏。

 気が遠くなるような気温の中、私はあてもなく散歩をしていた。ここ新潟は、私の住む街と違って田舎だ。それもドがつくほどの田舎。
 祖父母の家がなければきっと来ない。それが私にとっての新潟。

 中学生ともなれば日常が忙しくなる。授業に部活に友達付き合い。だから本当は来たくなかったけど、祖父母は私と弟に会えるのを楽しみにしている。だから無視できない。
 親と帰省したはいいけど、やることがない。六歳離れた弟は、おじいちゃんと笹舟遊びに夢中だ。今日も川へと行っているから、私は一人で散歩するしかない。

 照りつける太陽がヤバい。午後二時から散歩なんてするもんじゃない。
 日差しから逃げるよう木陰に避難して、額の汗を拭う。ふうと一息ついたところで、幹の後ろに何かが蹲っているのを見つけた。

 ぱっと見、私と同い年くらいの男の子。行き倒れ? ぎょっとした私に、彼は息も絶え絶えに言う。

「……みず。みず、」

 熱中症? 持っていた水筒を慌てて渡す。おばあちゃんに持たされたものがこんな形で役に立つなんて。
 彼は水筒を受け取ると、いきなり頭から被った。いやなんで頭から? 当然、麦茶まみれになる彼。
 
「あぁ、生き返った。死ぬところだった」
「ええと、」
「ありがとう、本当に助かった。この恩は絶対に忘れない。今はこんなのしかないけど、いつかきっと恩を返すから」

 彼はそう言うと、どこから取り出したのか一本のそれを差し出した。
 ……いやいや。なぜにきゅうり?

「もしかして、胡瓜嫌いだった?」
「いや、好きだけど……」
「なら良かった。美味しいよ」

 ぱきりと半分に割って、片方を私に差し出す。ニカリと笑いながら、彼はもう片方を齧る。夏に映えるその笑顔。まるで胡瓜のCMみたい。
 その笑顔に促されて、私もおずおずと胡瓜を齧る。その胡瓜は、不思議と夏の味がした。

 彼は自分を「河太郎」と名乗った。私も「夏乃」と名乗り返す。
 どうやら彼も帰省中らしく、今は祖父母の家で過ごしているという。聞けば私と同い年。ここから遠く離れた街に住んでいるらしいけど、詳しいことはわからない。

「カノはいつまで新潟にいるの?」
「来週までかな。部活とか忙しいし」
「ならそれまで一緒に遊ぼうよ」
「いいけど何して遊ぶの? こんな田舎で」
「川遊びして、そのあと胡瓜食べるんだよ」

 また彼はニカリと笑った。不思議とその笑顔に惹かれて、私と河太郎は翌日から一緒に川遊びをするようになった。
 一応これでも年頃の女の子なので、水着を晒すのは少し気が引ける。でも河太郎は水着の私を見ても特別な反応を示さない。ちょっとムカつく。もっと有り難がれってものだ。

 次の日は弟のナツキを連れて行った。引っ込み思案のナツキとすぐに打ち解けた河太郎は、河原で相撲を取り始めた。きっと精神年齢が同じに違いない。
 あぁ、男ってほんとバカ。でも楽しそうに笑う二人を見て、少しだけ羨ましくもなった。
 河太郎と私、そして弟のナツキ。三人で過ごす夏は存外、悪くない。

 この夏がしばらく続けばいいのに。
 でも時間は止まらない。まして夏は、待ってくれない季節だ。

 地元へ帰る前日。天気予報が大きく外れて、ゲリラ的な豪雨となったその午前中のこと。

 ……ナツキがどこにもいない。靴もない。
 私は思い出した。昨日の夜、ナツキが嬉しそうに言っていた言葉。

「明日、河太郎兄ちゃんと笹舟で遊ぶんだ」

 私は雨の中、三人で遊んだ川へ走った。全身ずぶ濡れの全力疾走。
 濁流に姿を変えつつある川の中州で、横たわるナツキをついに見つけた。

「ナツキ! 何してんのバカ!」

 どうどうと流れる水に、成す術がない。誰かを呼ぼうにもナツキから目が離せない。どうしよう、と思った瞬間。後ろから私を呼ぶ声が聞こえた。河太郎だ。

「カノ、ナツキは僕が助ける。心配しないで、泳ぎは得意だから」
「正気? あんたまで流されるよ!」

 待って、という前に河太郎が濁流に飛び込む。橋の上からの大ジャンプ。一度大きく沈んだ河太郎は、ナツキがいる中州に勢いよく上がってくる。

 その姿はまるで。まるでというか、あれは。
 どこからどう見ても、緑色の河童だ。

「え……?」
「カノ、いつか言ったよね。必ず恩を返すって」
「河太郎……?」
「ナツキは無事だよ。心配しなくていい」
「待って!」
「短い間だったけど、楽しかった。ありがとう」
「河太郎!」

 それが、河太郎を見た最後になった。

 次の夏も、その次の夏も。私は新潟に帰省して、河太郎を探した。人にも聞いたけど「河太郎」なんて男の子はどこにもいなかった。まるで夏の幻だ。

 私はあの橋の上で、手にした胡瓜を半分に割る。その片方を川に投げ入れる。

 ぷかぷかと流れていく半分の胡瓜。
 それがいつか、河太郎に届くといい。
 
 もう半分を自分の口へと運んで、齧る。
 やっぱりそれは、どこまでも夏の味がした。