(著者) 海人
久しく思い出していなかったその人を夢に見た。子どものようにころころ笑いながら、懐かしい声で僕を呼ぶ。まだ若者だった頃、凍えるような独り身の時期に求めていた、幸せを感じる瞬間だ。
やがて水面に浮かぶ無数の白鳥が一斉に飛び立った。バサバサと翼を広げ、冬の澄んだ青空を埋めていく。越冬により三千キロも広大な空を翔ける彼らに、我々人間は憧憬や尊敬という念を抱くべきなのではないか。あの頃にはない考えで遥か彼方へ飛んでいく姿を見守る。やがて景色は色褪せ、名もない夢の形は騒がしく始まる日常に消えていく。
「おとなしくするんだ」
物騒な台詞とともに、ポケットナイフで誰かが誰かを脅している。そんな光景が僕の故郷でもある阿賀野の瓢湖で繰り広げられていた。
十二月初旬。軽石を蹴飛ばしながら、初雪を観測した湖のほとりを歩いていた。やがて軽石は雪に埋もれる。将来懸命に生きても同じように埋もれていくのかな、と俯き加減の顔を上げると、さっきの光景が視界に飛び込んできた。ドラマの撮影かと思うが、カメラや撮影クルーは見当たらない。目の前のフィクションのような出来事が本当の事件だと考えつくのに時間はかからなかった。
「ねえ、聞いているの。今日は美花を迎えに行ってね」
妻に言われハッとする。着替えを済ませ、まだ朝食のテーブルの前に座っていた。悠長にしていては会社に遅れるぞ、と思いつつも上手に焼き目のついた食パンに手を伸ばす。
美花が生まれて五年が経った。僕には不釣り合いな可愛い娘に、どんな時も支えてくれる妻の存在。先ほど夢に見た幸せとは違うけど、今を生きる僕は確かに幸せを掴んでいた。
サスペンスの世界に迷い込んだようなあの日、彼女に出会った。冬の空気に舞う長い髪に不安げな表情。同じ十七歳のように感じて、緊迫した状況には似つかわしくない親近感が湧いてくる。
「何してるんだ」
そう声をかけると男は振り返り、こちらを睨めつける。ニット帽を被る男は一回りほど上の年齢を思わせた。悠長に考えている暇はないと気づき、目の前の彼女をどうしても救わなければと思った。それに、最近習い始めたキックボクシングの実技にしては緊張感があるが、その成果を見せるほかなかったのだ。
「どうしても人質になりたかった?」
思わず聞き返していた。僕たちは湖の近くにある小さな喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
「それにしても、さっきの右キックは強烈だったね」
儚げな第一印象の彼女とは思えないはしゃぎようだった。格闘技が好きなのかはともかく危険な行動はよしてくれと話すと「ごめんなさい」と頭を下げられた。
彼女はヴァイオリンを持ち歩いていて、湖のほとりでその音色を聴かせてくれることもあった。「今日がスワンソングになるよ」と時折怖いことを言う彼女を僕は何度も笑い飛ばしていたが、その表情は寂しそうで、いつ彼女がいなくなってもおかしくないような、そんな気さえしていた。
「私たち、白鳥みたい」
何度目かのデートの時、彼女はそう言った。今頃になってその言葉だけが浮かび上がってくる。当時は何も気にしていなかった。今ではどういう意味なのか、直接聞いてみたい。
高校を卒業し小さな会社で働き始めた頃、地元の地方紙に数々のコンテストで賞を総なめにした少女が亡くなったという記事が掲載された。彼女と出会ってから聞けずにいた、あの日人質になりたがっていた理由をようやく察することができた。
その記事は会社で支給された名刺よりも小さくて、そんな文量でしか彼女を語れないのなら記事にするなと腹立たしく思った。「病死」だとか「白血病により」という文字が目に入ったが僕はそれを読む気になれず、すぐに新聞を丸めてゴミ箱に捨てた。
その後しばらくして今の妻に出会った。長い冬を越え、やっと再会した幸せだった。違いは、愛すると決めた相手が彼女から今の妻になったことだけだった。
「パパとママって白鳥さんみたいだね」
ほのかに春の息吹を感じ始めた日、小さな手と妻の手が繋がっている姿をぼんやり見ていると、湖に浮かぶ白鳥のつがいを指差しながら美花がそんなことを言った。
この二羽も、まもなく広い空を求めて飛び立っていくのだろう。二羽はすいすいと水面を滑りながら身を寄せ合っていた。
「おとなしくするんだ」
聞き覚えのある声がし振り向くと、二十年前も同じことをしていたあの男が懲りずに愚かな行為を繰り返していた。手にはやはりポケットナイフが握られており、向かいには顔ははっきり見えないが、若い女性が追い詰められたような表情で後退りしている。僕は妻へ美花と一緒にこの場から離れるよう伝えると、男の前に飛び出した。
「まだこんなことしているのか」そう告げると、男は一瞥し記憶を辿るような顔つきになる。数秒経ってようやく「あの時のお前か」とだけ言った。
「待ってたよ」
いたいけな彼女の声が後ろから聞こえてきた。そんなことがあり得るのかと逡巡すれば、二十年前と同じサスペンスの世界に紛れ込んでしまったのだと思えば不思議と合点がいった。
やがて、水面の白鳥達が意を決するように一斉に飛び立った。その光景を見て、やはりあの時と同じ方法しかないと鈍った足首を軽くストレッチする。そして、僕は彼女のスワンソングを口ずさみながら、三千キロの旅路に幸あれと、渾身の右キックを武器にして白鳥のように宙を舞った。