地球になじんだ頃

(著者)せとやまゆう

 今日は子どもの誕生日。今は夕食の時間。食卓にはのっぺ、しょうゆおこわ、番屋汁、バースデーケーキが並んでいる。子どもはプレゼントのおもちゃを持って、はしゃいでいる。それを見ながら、夫婦は微笑みを浮かべた。家族で過ごす、幸せなひととき。
 
 しょうゆおこわを口に運んだ時だった。急に、父親は思い出した。スパイとして、地球に送り込まれていたことを・・・。慌てて食事を切り上げ、自分の部屋にこもった。その直後、故郷の惑星から連絡がきた。《地球の情報をよこせ》と言っている。そんなことをしたら、地球は侵略されてしまうだろう。大切な妻と子どもを守りたい。惑星からの催促は続いている。何か言わなければ・・・。
「うわー、殺される。助けてくれー!」
 苦しまぎれに、父親は言った。

 その後も、惑星からはスパイが送り込まれたが、みんな連絡が途絶えてしまう。地球は物騒なところだという噂が広まり、侵略計画は中止された。

 スパイには催眠がかけられていた。地球になじんだ頃、任務を思い出すように・・・。しかし、任務を遂行する者は一人もいなかった。

朧灯(おぼろび)の幻影

(著者)石原おこ

 部活を終えて家に帰る道すがら、神社の石灯籠に灯りがともっているのに気がついた。
西の空がだいぶ暗くなっていた時間で、「灯籠に灯りがともるなんてことあったっけ?」とふと考えてみた。
「何かやってんのかな?夏祭りの時期でもないし…」
自転車を置き鳥居をくぐり、小さな拝殿の中をのぞいて見たけれども、建物の中は暗く、何も見えなかった。
 昔はこのあたりのほとんどが田んぼで、民家と呼べるところは少なかった。この土地の守り神として古くからこの神社があり、申しわけ程度の遊具、ところどころ錆びの浮いたブランコと小さなシーソーが置かれてある。
 いつの間にか住宅が立ち並び、田んぼの数は減ってしまった。それでも田植えの時期になると、どこからともなくカエルの鳴き声が聞こえてくる。今もところどころでカエルが鳴いていた。

 幼い頃、祖母に手を引かれてこの神社に遊びに来ていた。家から一番近く、公園と呼ぶには随分と規模の小さなものだったが、よくブランコやシーソーに乗って遊んでいた。
僕が遊具に夢中になっているとき、祖母は拝殿に向かって手を合わせていたのを覚えている。そして祖母は決まって、拝殿の横にある大きな石碑にも手を合わせていた。
 そんな祖母との記憶を思い出しながらふと石碑に目を向けると、石碑を見上げる人影が目についた。はじめは幽霊か何かと思ってびっくりしたけれども、相手も僕の姿を見つけると、
「こんばんは」
と、はっきりとした口調であいさつした。
「あ、こんばんは。」
年齢は僕と同じくらいか、それともちょっと年上か。細身の体をした二十歳前後と思われる男性だった。
「この辺の子?」
「あ、はい。そこの先の、角のところの…」
「中学生?」
「いえ、高校生です」
そんな会話を交わしていたけれども、表情は夕暮れの陰になってよくわからない。男性はまた石碑に目をやると、
「これはなんの石碑?」
と指さして僕に尋ねた。
あたりが暗くなっていたので、石碑に刻まれた文字を読み取ることはできなかった。
そう言えば昔、祖母から、戦争で亡くなった方々を祀る慰霊碑だと聞いたことがある。
「このあたりに住んでいた人で、戦争に行って死んじゃった人の慰霊碑だって聞いたことがあります。」
そう答えたけれども、男性の耳に届いているのか。石碑を見上げたままじっと立ちすくんでいた。
「戦争か」
男性がそう呟くと、
「このあたりは無事だったのか?」
と聞いてきた。
 僕の方を振り向いた瞬間、灯籠の灯りにともされて男性の顔がぼんやり見えた。少し悲しそうな表情をしたその顔を見たとき、なぜか祖母も同じような表情を浮かべていたことを思い出した。
「このあたりのことはよく知らないですけど、長岡で空襲があったことは学校で習いました。」
「長岡で…」
 大学生なのだろう。戦争のことについて研究している大学生が、調査のためにいろいろ歩いてこの石碑にたどり着いたのかもしれない。でもようやく石碑にたどり着いたとしても、あたりがこんなに暗くては、石碑に何が刻まれているのか読み取ることもできない。

 長岡の空襲については小学生の頃、地元の歴史を学ぶ授業で知った。
 昭和二十年の八月一日、B29戦闘機が長岡市の上空から焼夷弾を投下。多くの犠牲者が出て、長岡の街のほとんどを焼き尽くしてしまったという。

「この村は、大丈夫だったのか?」
『村』と言う言い方にちょっとしたひっかかりを覚えたけれども、よそから来た人にとってみればこのあたりの風景は『町』とは言い難い。
「長岡に向かう飛行機が、飛んで行ったみたいですけどね」
そんな話も、九十歳になる近所のばあちゃんから聞いたことがある。
「この村に、私の妻が住んでいるんだ」
???『妻がいる』と言うことは、ひょっとしたら大学生じゃないのかもしれない。妻がこのあたりに住んでいると言うことは、別居状態か?単身赴任中で有給休暇を使って会いにきたとか?
「早く会いに行ったほうがいいんじゃないですか?もう日も暮れましたし」
僕がそう言うと、男はまた少し悲しそうな表情を浮かべて、
「うん、会いたいよ」
とつぶやいた。

 それからしばらく沈黙の時間が続いた。見上げていた石碑ももう暗闇の中に溶け込んでしまっている。住宅街に灯る街灯のあかりに虫たちが集まってきていて、心なしか、灯籠の灯りも小さくなっているようだった。
 僕が家へ帰ろうと、自転車の置いてある場所へ足を向けたとき、
「子供が生まれるんだ」
と、さっきよりも明るい口調で男性はそう言ってきた。僕は振り返って、
「そうなんですね、おめでとうございます。男の子ですか?女の子ですか?」
と質問した。この質問の答えを最後に、僕はもう家に帰ろうと決めていた。
「わからない。でも女の子だといいな。名前はもう決めているんだ」
なるほど、出産のために奥さんは里帰りをしているのか。それとも、出産の準備で病院にいるのかもしれない。その奥さんに会いに来たのだけども、なかなか会えないでいる。奥さんに会えないでいる時間、例えば、安産祈願でこの神社に来たとか。
「幸子って名前にしたんだ。幸せになってほしいから」
男性は『幸子』という名前をかみしめるように口にした。
『幸子』という名前を聞いたとき『今どきの名前じゃないな』と言うのが素直な感想だった。でもそれを口にするのは失礼だ。
「いい名前ですね。幸子ちゃん」
そう声をかけたとき、男の姿が霞んでいるように見えた。灯籠のあかりも乏しく、街灯の灯りもおぼつかない。なぜか、男性の姿が消えていってしまうような、そんな錯覚を覚えた。
「いい名前だろう。田嶋幸子。幸子には何にもおびえることのない、静かで穏やかな暮らしをさせたいもんだよ」
『タジマサチコ』その名前を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。と同時に、この男性の浮かべた悲しそうな表情と、幼い頃、石碑に向かって祖母が浮かべていた表情とが重なり合った。
「田嶋幸子って、オレのばあちゃん……」

 石灯籠の灯りは消えていた。男性ももうそこにはいなかった。
 カエルの鳴き声がよりいっそう大きくなったように感じた。

トルコ村奇譚

(著者)石原おこ

 僕は浜辺に打ち上げられていた。
 いや、他になんて表現したらいいのだろう?
 砂浜に寝転がっていた。目を開いてみたら浜辺にいた。
 確かに、気がついたら浜辺に大の字になって横たわっていたのだが、この体の疲れ、節々の痛みは単純に浜辺で寝そべっていたわけではなく、日本海の荒波にもまれて、ようやく浜にたどり着いたような感じがする。そんなけだるさが全身に残っていた。
 まどろみの中、記憶をたどってみる。
 そして、このけだるさの原因は何だろうかと思いを巡らせてみる。
 ふと頭に浮かんだのは、彫りの深い顔の、蒼い髪を風に揺らしている女性の姿。そして、片言の日本語。
「コノムラヲタスケテ」
 この言葉が、頭の片隅にこびりついていた。
「この村を助けて」
 僕は勇者にでもなって、ドラゴンとでも戦っていたのだろうか?体の痛みを思えば、あながちそれも嘘ではないような気がする。

 鯨波海岸まで車を走らせてきた。でも決して海水浴が目的ではない。
水着も持っていないし、今は海水浴を楽しむような時期でもない。ましてや僕は泳げない。そう言えばこの時期はクロダイがよく釣れると、愛好家の友人が言っていた。でも残念ながら、僕には釣りをたしなむような趣味はない。となると、ただただこの渚からの景色を眺めるために僕はやって来たのだろうか?
 もう一度、頭の中にあの言葉がこだまする。
「コノムラヲタスケテ」
 そうなんだ、僕はきっと、この『ムラ』を救うためにこの地に降り立ったのだ。

 イスラム教の礼拝所、モスクを思わせるような円形のドームを見上げていた。ドームの四辺に立っている円柱は潮風にさらされて錆つき、すでに廃墟を思わせるようなたたずまいだった。
「ソータ!こっちよ!」
アラナイがそう叫んだ。
振り向くと、視界の先には何本もの円柱が立っていた。柱の先端はクルクルとパーマをまいたような彫刻が施してあり、ギリシャの神殿に立つ円柱のようにも見える。何本も並ぶ柱の一つ、その陰にアラナイの姿があった。
「アラナイ!」
僕は叫びながら走り出す。
 アラナイは琥珀色をした長いスカートをはいていて、頭にはトルコ石をあしらったティアラのような髪飾りを載せていた。その姿はアニメのアラジンに出てくるヒロイン、ジャスミンの姿を思わせた。
「ソータ、この村を守って。もう敵がそこまで来ているの。ムスタファを助けなきゃ。」
柱の陰でアラナイがそう告げる。アラナイも走ってここまでやって来たのか、息が上がっていた。
「ムスタファはどこに?」
「円形劇場よ!トロイの木馬に潜んでいた敵が出てきて、今一人で戦っている。」
「一人で!なんて無謀な!」
僕は円形劇場の方へと向かった。後ろからアラナイもついてくる。
遠くから怒号が響いている。そしてその声は徐々に大きくなっていった。

 円形劇場にたどり着くと、すぐにムスタファの姿が目に飛び込んできた。観覧席のその先、舞台の上でムスタファは十人近くの敵と対峙している。
ムスタファもすぐに僕の姿を見つけたようで、
「ソータ!」
と低い声を響かせた。応戦しなければとムスタファのいる舞台へと向かったが、すぐに三、四人の敵に囲まれてしまった。
残念なことに、僕はこれといった武器を手にしていなかった。相手の剣を振りかざすその隙に、みぞおちのあたりにこぶしを入れるのが精いっぱいだったが、それでも運よくクリーンヒットし、敵の何人かは腹を抑えながらその場にうずくまった。
 丸腰のまま何人かの敵を蹴散らしながらムスタファの方へと駆け寄っていくと、ムスタファは腕や足に刀傷を負っていて、すでに立っていることもままならないような状態だった。それでも僕が近づくとホッとしたのか、白い歯を見せて笑ってみせた。
「ソータ、すまない。この村はまもなく滅びる。」
「ムスタファ将軍、何を弱気なこと言っているんです。あなたが支えてきた村じゃないですか!」
「ソータ。それでも時の流れには逆らえない。私はこの村で、多くの人が笑い、楽しみ、そして若い男女が結ばれ、皆がそれを祝う、そんな理想を描いていたのだ。ソータと…この村の姫であるアラナイの二人の結婚も…」
「結婚…」
そう呟きながら、ふと後ろを向くと、僕の後をつけてきたアラナイが頬を染めている。
 その瞬間、敵の剣の一振りが僕の背中を走った。しかし、刃先がほんの少し触れただけで、深手と言えるような傷でもなさそうだった。
 僕はムスタファの手にしていた剣を奪い、ふり返って敵と向き合った。
「アラナイ!ムスタファを連れて海へ!海へ逃げるんだ!」
応戦する僕の後ろを懸命についてきたアラナイは、僕の顔を見上げ一つうなずくと、ムスタファの手を取り、舞台の袖の方へと駆けていった。
 僕は手にしたムスタファの剣で中段の構えをとり、左のわき腹にぐっと力を込めた。そして力強く叫んだ。
「この柏崎トルコ村は、僕が守る!」

 オレンジ色の夕日の光が目を刺した。
ゆっくりと起き上がり、服に着いた砂を叩き落とす。とにかく、駐車場まで行くことが最優先だと思った。でもどこに車を停めたのかもよく覚えていなかった。
「僕は、トルコ村を守ったのだろうか?」
夢を見ていたのだと思う。だけど、体の節々に感じる痛みは、一連の出来事を現実のもののように感じさせる。
砂浜の砂に足を取られながらなんとか歩みを進めていくと、砂にまぎれてキラリと光る何かを見つけた。
近づいてみると、パチンコ玉くらいの大きさのトルコ石だった。
 いや、本物のトルコ石かどうかはよくわからない。でも、淡い水色の小さな丸い石は、アラナイ姫が頭につけていたもののように思えた。

なめらかな、愛

(著者)山村麻紀

 私の部屋の本棚から、日に日に本が消えてゆく。本にかじられた様子がないことから、屋根裏のねずみの犯行ではないと悟る。
『ねぇ、私の本知らないよね?』
 寝そべって尻を掻き、テレビを見ているタツヤのだらしない背中に問う。
『あぁ、食べたよ。君の本棚にある本、美味しいからさ』
 やはりと思った。出会った半年前と比べて、タツヤは倍くらいの大きさになっている。本でも食べなければ、こんなに短期間で太ることはないはずだ。先日タツヤとデートで行ったマリンピア日本海で、そっくりな生き物を見た。あれはイルカじゃなくて、ペンギンじゃなくて、アザラシでもなくて、何だっただろう。
『ねぇ、どうして私の作った料理はちっとも食べないのに、本を食べるのよ?』 
 強い調子で言ったにもかかわらず、タツヤは振り返りもせずに答える。
『料理なんてファミレスでも居酒屋でも食べられるよ』 
 返答の意味がわからず、頭にきた私は、タツヤの背中に思いきり蹴りを入れた。
『この本泥棒!このトドまがい!本を返しなさいよ!』 
 タツヤは驚いて、なめらかに身体をスライドさせた。
『君ほど美味しい本をくれる人はいなかった。でも、その魅力に気付けなかった君とはさよならだ』 
 タツヤの手足はヒレに変化し、手を振ってそのまま部屋から消えてしまった。ふと本棚に目をやると、消えた本がすべて元に戻っていた。ただ、全ページがしわしわになっていて、潮の香りがした。
 使い物にならないので、全部水に流すつもりだ。

スペシャルなイルカショー 

(著者)せとやまゆう

 新潟にある水族館。今はイルカショーの時間。たくさんの観客で賑わっている。僕の隣には、好きな女の子。イルカがジャンプする。ザッパーン。水しぶきが上がって、涼しい。
「手つながなくて、いいの?」
 ジャンプしながら、イルカが話しかけてくる。1人だけに、聞こえる周波数で・・・。黙ったまま、僕は首を縦に振る。
「まだ、付き合ってないパターンか。告白は?」
「今日、しようと思ってる」
 僕は、小声で答える。
「今しちゃえば?これから、大回転を決めるから」
 高く飛んで、クルクルクルクルクルー。五回転して、ザッパーン。大きな水しぶきが上がる。
「きゃー、すごいね!」
 キラキラした女の子の笑顔。せっかく、イルカが背中を押してくれたんだ。僕も男を見せないと・・・。
「好きです。付き合ってください」
 真剣な顔で、僕は言った。驚いた表情の女の子。ついに、言ってしまった。僕の鼓動は速くなった。

「はい、お疲れ様でした。ゴーグルを回収しますね」
 スタッフの声とともに、周囲の観客が姿を消した。隣に座っていたはずの、女の子も。水槽の中では、イルカが静かに泳いでいる。
「かわいかったでしょう。たくさん話せましたか?」
「はい、ありがとうございました!」
 ああ、ドキドキした。ドキドキしたら、お腹が空いてきた。レストランに移動し、僕はわっぱ飯を食べた。薄い塩味のご飯の上に、鮭といくらがたっぷり。追加で、メギスの唐揚げをオーダー。心もお腹も満たされた。

 帰りながら、僕はチケットの半券を取り出す。
《開館前 貸し切りイルカショー!》
 どうして、こんなチケットを持っていたかというと・・・。幸運なことに、抽選で当たったからだ。余韻に浸っていて、気付いた。半券に書いてある文章。
《もう一度、ご利用いただけます。ぜひ、ペアでお越しください!》
 なんて、太っ腹なんだろう・・・。嬉しい、嬉し過ぎる。振り返って、僕はお辞儀をした。また、必ず来ます。
「よしっ!」
 勇気を出して、あの子を誘うぞ。

オンラインぽっぽ焼き 

(著者)せとやまゆう

 医師がアプリケーションを開いて、患者のデバイスに接続。
「こんにちは。はじめまして」
「こんにちは。よろしくお願いします」
 声が聞こえるけれど、画面には誰も映っていない。ぽっぽ焼きだけが、宙に浮いている。
「あれ、お姿が見えないですね。画面の前に、来ていただけますか」
「実は、昨日の朝から透明人間になってしまいまして・・・」
 ぽっぽ焼きはゆっくり降下し、平皿の上へ。
「はあ、そうでしたか・・・。失礼しました。私はこういう者です」
 医師は医師資格証を提示した。患者は健康保険被保険者証を提示した。
「会社には電話して、体調不良ということで休みをもらっています。このまま透明人間のままだと、車にひかれたり、人にぶつかられたりするでしょう。怖くて外に出られません。家にいても、すぐに家族とぶつかってしまいます。どうか、元に戻してください」
「しかし、私は専門ではないんですよね・・・」
 医師は顎に手を当てて、しばらく考えた。

「フィクションの世界では、透明人間がいたずらをしようとする。すると、元の姿に戻ってしまう。これは、よくあるパターンですよね」
「はい」
「あなたは透明人間になってから、何かいたずらを考えましたか?」
「いいえ、そんな余裕ありませんでした」
「では、試しに考えてみましょうか」
 医師は、左手の人差し指を立てた。
「えっ、でもどんな?」
「そうですね・・・。《小学生男子が考えそうなこと》なんて、どうでしょう」
「ああ、なるほど。はいはい」

「想像できましたか?」
「はい」
「おっ、だんだん輪郭が見えてきましたよ。おお、もうお顔がはっきり見えます」
「本当ですか?」
 患者は画面からフレームアウトした。どうやら、姿見がある位置へ移動したようだ。
「おお、本当だ。戻っている!」
「よかったですね。はっはっは。また、症状が現れることも考えられます。近いうちに、対面で受診されることをお勧めします。お大事になさってください」
 医師は胸を撫でおろした。
「はい、わかりました。ありがとうございました!」
「ちなみに・・・。どんなことを想像したんですか?」
「えっと、それは秘密です。はっはっは」

脈ありハートマーク

(著者)せとやまゆう

「あの子の気持ちが、読めたらなあ」
 僕はつぶやいた。
「ついに完成したぞ!努力したかいがあった」
 博士は振り向いた。
「何が完成したのですか?」
「君にぴったりのものだよ。相手の好意がわかる薬、脈あり判定薬だ。これを飲むと、その人が見ている相手への恋心が見える。好意があれば完全なハートマーク、好意がなければひび割れたハートマークというように・・・」

 次の日、廊下の向こうから、好きな女の子が歩いて来る。僕は急いで薬を飲んだ。すると、彼女の頭上に完全なハートマークが浮かんだ。放課後、僕は告白した。しかし、返事はノー。
 
 博士に泣きついて、文句を言った。博士は首をかしげながらも、気の毒そうな顔をした。僕は親友の家にも行った。彼はしっかり話を聞き、なぐさめてくれた。二人で笹団子を食べて、心が少し落ち着いた。やはり、持つべきものは親友だ。帰り道、日本海に沈む夕日を見ながら、そう思った。

 いつも、われわれは一緒にいる。トイレに行くときも、移動教室のときも。そういえば、あの女の子とすれ違うときも、一緒にいたっけ・・・。

清流

(著者)亜済公


 柿崎の海岸に座っていると、
「釣れますか?」
 と声がした。振り返ると、しわくちゃの顔をした老人が、こちらの様子をうかがっている。散歩にでも来たのだろうか。釣り場にやって来る人間なんて、今時そういるものではない。
「見ての通りです」
 答えつつ、竿をぐい、と引っ張った。海中から、ペンキ缶が顔を出す。僕は丁寧に針を外して、そいつを傍らへ放り投げた。同じ動作を、もう何遍も繰り返している。ペットボトル、空き缶、ボール、旅行鞄……雑多な品の数々が、山のように釣り上がるのだ。肝心なモノは、かかる気配すらないというのに。
「昔は、私も、よくここへ来たもんですわ」
 懐かしそうに、老人はいう。
「新潟で一番の釣り場だった。最近じゃ、どこへ行ったって魚なんかとれやしない。引っかかるのはゴミばっかりだ。あいつら、一体、どこへ行っちまったんでしょうなぁ」
「何でも、南極の近くでは、まだ少し上がるそうです」
 そりゃいいや、と老人は愉快そうに笑っていた。
「何百万とつぎ込んだ竿も、みんなゴミになっちまって。売ろうにも、買い手がいないんじゃしょうがない……どうです? 竿は釣れますか?」
 ええ、たまに。と答えると、彼はつまらなそうに、つばを吐いた。
「竿が海を汚すなんざ、あっちゃいけない話ですぜ」
 海はどんよりと曇っていた。ぷかぷかと、遠く、小さな野球ボールが、顔を出したり引っ込めたり、波間に揺れているのが分かる。空に立ちこめる灰色の雲には、黄色だとか、紫だとか、工場の排気が混じっていた。
 やがて、竿が再びしなった。引き上げると、人間の手によく似たものが、ひょいと海中から姿を現す。――やったか? 僕は僅かに期待し、すぐに落胆を味わった。それは、単なる、マネキンであった。
 中性的な顔立ちで、胸が少し膨らんでいる。四肢には、海藻が絡みつき、海中のどこかで別のゴミと繋がっているようだった。ある時点で、それはピクリとも動かなくなり、ぎりぎりと釣り針をいじめたあとに、とうとう海へと戻ってしまう。ひん曲がった針を取り替え、僕はまた、釣りを続けた。
「何を、狙っているんです? 大物が来ると良いですがねぇ」
「正直なところ、大して、期待はしていないんです」
 僕は、ふと思い出す。彼女のしなやかな肉体が、海へ落ちていく様子。それはどこか、人魚を連想させるのだった。
 水しぶきには、無数のプラスチック片が混じっている。油が浮いて、空気の抜けた浮き輪が漂い、全体に茶色がかった海面に……彼女は二度と、浮かばない。
 その自殺が、いかなる理由によるものなのか、今となっては分かるはずもないけれど。
「ただ、どうにも諦めきれないんですよ」
 老人は、そうでしょうなぁ、と頷きながら、「では」とどこへか去ってしまう。僕は一人残されて、釣り竿を握りしめていた。
 ――もしも、彼女の肉体を、釣り上げることが出来たなら。
 きっと僕は、それを家へと持ち帰るだろう。衣類は汚れているだろうから、僕のジャケットを貸してやるのだ。車の後部座席に横たえて、泳ぎ続けたその肉体を、たっぷり休ませる必要がある。帰り着いたら、風呂に入れよう。その間に、僕は来客用の上等な布団を、押し入れから引っ張り出しておかなくちゃ。夕食は、豚の生姜焼きで良いだろうか。彼女はそれが、好きだった。
 やがて、子供用の帽子がかかった。青い染みが出来ていて、ツンと妙な匂いがした。裏側に、マジックで名前が書かれている。放り投げると、綺麗な放物線を描きつつ、波間にぱしゃりと落ちていった。
 くるくると、何度か円を描いたあとに、帽子はゆっくり、沈んでいく。
 ――もしかすると。
 と、僕は思った。
 ――もしかすると、彼女は沈みたかったのかもしれないな。
 それは、ずっと以前の会話だった。
「海のずっと底の方には、綺麗な部分がまだ残っているんだって」
「綺麗な部分?」
「そ。工場の排水が、たどり着かないくらい、深い場所。水が昔みたいに澄んでいて、魚もいっぱい泳いでいる――ねぇ、見てみたいって、思わない?」
 その話が本当なのか、あるいは単なる与太話なのか、実際のところはどうでも良かった。彼女にとって大切なのは、その空想が、とても美しいものだということである。
 ――だとしたら。
 彼女を釣り上げようとするよりも、僕が沈んでいく方が、ずっと幸福なのではあるまいか?
 その考えは、僕を強く誘惑した。
 日はゆったりと傾いて、気がつけば水平線へと近づいている。
 僕は釣り竿を引っ張り上げて、ジャムの瓶を針から外した。
 それから、海へと近づいて――足を踏み出そうか迷ったあとに、「やめた、やめた」と、引き返す。僕の目には、海の底は見えなかった。ただ表面の、汚染された色彩が、目に入っただけであった。
 ――あの帽子は。
 ――あのマネキンは。
 その他無数のゴミたちは、海の奥底の清流へ、たどり着くことが出来るだろうか?
 遠く、ボウッと鐘が鳴る。工場が、排水を始める時間だった。ざぶざぶと、遙か向こうに新たな油の波が生まれて、こちらへゆっくり近づいてくる。
 僕は荷物を手早くまとめ、家へと向かって歩き出す。
 ツンと、風が臭っていた。

夜捕り

(著者)泳夏(えいか)

「先生、夜を捕まえに行きませんか。」
 突然、彼女はこんなことを言う。
「君ね、意味の解らないことを唐突に言うなと言っただろう。それから、状況をわかって言っているんだろうな。」 
 俺はいつもの様に無機質に心電図の数字を確認した。
 七十、六十、五十、四十―。
「先生、それってなんの数字なの?」
 また彼女はこんなことを言う。
「だからね、これは…、大事な目安で、頻回に確認しなければならない…俺の仕事で、つまり…所謂、なんだっけ。」
 俺としたことが、日頃の冷静さと決断力からは到底想像しえない歯切れの悪さだ。
「ふふ、いつもの先生じゃなくって面白い。このバタフライピーのお茶のおかげね。先生ってば、いつも真面目なんだもの。少しはお仕事のこと、忘れましょ。」
 彼女は微笑んだ口元を隠すようにカップを持ち上げた。それから、カップの中を覗いて、
「ほら見て、夜の信濃川。」
と呟いた。俺は自分の持っているカップの中身を確かめた。そこには確かに川が流れていて、高層マンションと夜の電車の灯りが反射した深くて重たい蒼色の流れがあった。
彼女がカップに息を吹きかけると、その深くて蒼い流れは白い湯気を放って、部屋中に立ち込めた。
「もうここ、飽きちゃった。変わらない白い天井。少ししか開かない不便な窓。重くて軽い、あって無いような扉。鳴りやまないアラーム。終わらない治療。もうここに未練はありません!」
 彼女がそう宣言すると、部屋中の湯気が真っ青になって、何も見えなくなった―。
 
 蒼い広葉樹に、蒼い草、ところどころに生息しているのは、蒼い彼岸花。
「ようこそ、蒼の島へ!」
「蒼の島?」
 どうにもついていけない事態なのに、俺はこの場所を知っている気がした。
「忘れちゃったの?ほら見て、服。」
 ふと見下ろすと、俺はいつもの白衣ではなかった。学生の頃、よく着ていたライブのTシャツに細身のダメージジーンズとお気に入りのスニーカーを履いていた。
「夜を捕まえるの。さあ、行きましょう。」
 彼女はそういうと、俺の手を強引に取って速足で進み始めた。坂を上ると、石の階段があって、彼女は一段一段、うんしょと上った。
「まるで神社の階段だな。」
体力に自信はあるものの、俺だってこんな傾斜のきつい階段、いつぶりだろう。
「着いたわ。ここ。確かここで見たの。」
上った先には、銅板が埋め込まれた石の門があった。
「高校?」
「そう、ここにはあったはずなの。熱血な先生がいてね。いっつも、『問題解決には生きる底力が必要だ!』なんて言っていたわ。」
ふっと笑った彼女の横を、ヒラヒラと何かが通った。蒼く光る四枚の羽根に、俺は見惚れて身動きが取れなくなった。チョウトンボだ。異変を感じた彼女が俺の目線を追う。
「あ、待って!待って、お願い!」
 立ち尽くす俺を置いて、彼女は駆けた。だが、もう遅かった。チョウトンボは空高く飛んで、姿を消した。
「綺麗だったね。」
「そう、あれが夜。皆ああやって元の姿になって、この島を自由に飛び交うの。綺麗よね。それなのに皆捨てたがる。私は捨てたくて捨てたんじゃないんだけど、先生はやっぱりお仕事の関係で仕方がなかったのかしら。」
 俺はようやく彼女が何を探しているのか分かり始めた。それは俺にはもう必要のないものだと思っていたが、こうしてここに彼女といるということは、きっと今の俺にはそれが必要なのだろう。
「俺も捨てたつもりはなかったかな。でも押し込めているうちに、消えてなくなった。つまり、捨てたのと何ら変わらないかもしれない。」
 彼女は少し黙ってから、
「もうすぐバスが来るわ。急いで下りましょう。」
と言って、また俺の手を引っ張った。

 バスを降りると彼女はずんずんと怪しげな茂みに入っていった。こんなところを一体誰が通るのだろう。砂利を踏み鳴らして進んだ先には、宝石のように輝く水面があった。
「虫谷の入り江。ここかもしれない。」
 その海水は、果てしなく長い時の中で、人々の悲しみも愛も吸い込んできたような色をしていた。俺はその美しさに屈して、観念した。
「どうしても今日じゃないとだめなのか。」
 俺は閉じ込めていた心の声を漏らした。
「先生、嬉しい。」
俺と彼女の瞳に朝日が差し込んで、キラキラと頬を伝った。
「ほら、捕まえた。」
蒼く輝くチョウトンボが彼女の指先にとまった。
「先生、ありがとう。私、頑張ったの。もうつらいのは卒業。また、ここに会いに来てね。」
 三十、二十、十―。
 俺は一人になった。チョウトンボが何匹も飛び交い、水面を一層輝かせた。それから激しい波が押し寄せて、俺の情けない嗚咽と涙を優しく包んだ。そして俺の震える掌に、一匹のチョウトンボがとまって羽を休めた。

「おかえり。俺の―。」

三〇グラムの便り

(著者)尾見苑子

 おはようございます。こんにちは。こんばんは。いつお読みになられるか分からないので、思いつく挨拶を並べてみました。
 ぴったりなものはありましたか。もしどれでもなかったらごめんなさい。
 さて、まず自己紹介からはじめましょう。わたしは早坂といいます。早坂まりこです。
 このままでは味気がないので、少し昔話をさせてください。
 わたしは内遊びが好きな子どもでした。たとえば読書、たとえば折り紙、たとえばお絵かき。ご存じのものはあるでしょうか。
 とくに、本を読むことが好きでした。まわりの皆が音読をする中、わたしだけは黙読ができたのです。頭の中で文字を追う。大人になるとできるのは当然のように思えますが、これとっても難しいことなんですよ。
 なんて、話が逸れてしまいました。お察しの通り、内遊びは好きでしたが、だからといって自分の世界に閉じこもるでもなく、非常におしゃべりな子どもだったのです。
 一人娘のわたしは、休みのたび両親によって連れ出されました。夏は潮風香る海、木々が鮮やかに揺れる山。冬は顔が映るほどぴかぴかに磨かれたスケートリンク。
 その中でも、特に思い出深いのは苗場のスキー場です。はじめて訪れたときのことは忘れられません。ホテルを出るなり真っ白な空間で視界が埋め尽くされ、目がおかしくなったのではないかと瞬きを繰り返しました。
 いつかの童話で、悪い魔女がお城に魔法をかけ、吹雪の中に閉じ込めてしまう話があったのですか、まさにそれです。恐々と吐き出した息までもが白く染まり、ゾッとしたことを覚えています。
 けれど、そんな不安は父の足の間で、数回斜面を滑るうちに絆されていきました。ガラスの靴ではありませんでしたが、無骨なシューズはあつらえたようにしっくりきました。
 母は麓で微笑み、そろそろ降りていくわたしを迎えてくれました。冷気で真っ赤な頬を手袋で挟まれると、あたたかいと思いました。
 そのときにわたしは、美しいものは、その美しさに比例して恐ろしいのだと知りました。
 真っ白な空間は、何ものにも替えがたく綺麗でした。だからこそ、わたしは最初に恐怖を感じたのです。
 そして、その場所を何より愛しく思うようにもなりました。
 すみません。少し文字が滲んでしまいましたね。久しぶりに二人を思い出したためです。

 本題に入りましょう。
 この手紙は、お願いなのです。祈りととらえてくださっても構いません。
 どうか、いまのわたしたちに、いえ、主語が大きいのはあまり良くありません。わたしに、あのスキー場を残してください。
 情けない話ですが、気がついたとき、もう取り返しはつきませんでした。
 技術の発展と引き換えに、冬の始まりは遅くなり、終わりは早まりました。一冬の雪量は減りましたが、一晩の雪量は増え、雪害と呼ばれる災害が年毎に増加していきました。
 そして、数年前に起きた積雪事故をきっかけに、それがなくても本来の機能を失っていましたが、ついに、わたしの大好きなスキー場は取り壊されてしまいました。
 残念で、かなしくて、つらくてなりません。
 そこでわたしはとある決意をしました。さきほど「技術の発展」と申しましたが、そのひとつがこれです。なんといえば言いのでしょう。タイムマシンといえば伝わりますか。
 わたしには子どもがおりませんので、財産のほとんどを使い、ようやく三〇グラム分の権利を購入することができました。
 手紙一通分です。場所も指定できるそうなので、いつか宿泊した、スキー場に面したあのホテルのフロントにいたしました。
 手紙を拾われたあなた。お客さんでしょうか、それともスタッフの方でしょうか。あの時のわたしと同じくらいの幼子かもしれませんね。
 白寿を迎えた私より、この手紙が少しでも胸に止まれば嬉しい限りです。