(著者) 丸和 華
いつぶりだろう? 潮の香りをこんな風に心地良く感じたのは。
この海岸に最後に足を運んだあの日来、違うかな?
あれから二十五年……か。
でもまさかこうして、ここを我が娘と訪れる日が来るだなんて。
私は、駐車場からビーチへと延びる石段の上に新一と並び立ちながら、そこを小鹿のように駆け下りて行く白雪の背中を見つめた。
「白雪ー、慌てないのー」
私の呼びかけが聞こえているのか、いないのか。白雪は振り向いて笑顔を見せることも返事をすることもなく、一目散に波打ち際へと向かっていく。
「ママー。見てー。太陽さんが白雪に来て欲しいってー」
ふいに振り向いた白雪が驚嘆の声を上げた。
「そうねぇ。ばあにも太陽さんの声が聞こえるよ。お嬢ちゃんのお名前が白雪なのかい?」
砂浜のゴミ拾いをしているらしい老婆が、白雪のはしゃぐ声に顔を綻ばせた。
私と新一は砂浜へ降り立つと、老婆に会釈で応じた。ところが白雪は、沈みゆく太陽が作った置き土産に興奮した勢いのままに答えた。
「うん、名前が白雪。あのねー、白雪は湊幼稚園のたんぽぽ組さん。あのねー。白雪は金井先生がだーい好き」
イルカのようなジャンプを見せながら、息継ぎも忘れ夢中になって自分を語る白雪。横浜の砂浜をお散歩していても、こういう一期一会が起こることなんてなかった。
連休の行き先にここを選んで本当に良かった。白雪の特技とも言えるんじゃないかしら。初対面の人ともこうして臆することなくおしゃべりを楽しめるところ。
「白雪ちゃん。幸せだねー。お父さんとお母さんを大切にするんさよ。そうすればきっと神様も白雪ちゃんのことを守ってくださるから」
「はーい。白雪、ママのこともパパのことも、だーい好き。大切にするもん」
背の低い申し訳程度の白波が私たちの足元を寄せては返していく。
耳に響いてくる波の音が、遠い日の記憶を呼び覚ます。
私が生まれ育った町、能生。だけど小四の時、横浜に引っ越すこととなって。以降ずっと横浜の町で育った。白雪にとっても、おばあちゃんちは横浜。
ゆかりがあるというにはあまりに短いたった十年。
されど。そこに詰め込まれている記憶はまるで宝箱。
ふと私は、その宝箱の中から一つのアイテムを取り出していた。
海の向こうにそびえているあの岩礁『弁天岩』に置いてきた神さまへのプレゼントの記憶を。
「あ、そうそう」
回想を途絶えさせる老婆の声が突然耳に飛び込んできた。彼女はまん丸に曲がった腰のまま、前掛けのポケットの中にある何かを探しているようだった。
「これ、さっきそこでゴミ拾いしている時に砂浜で拾うてね」
老婆がポケットから取り出し白雪に差し出したのはガラス製のリンゴ。透き通ったその中を色鮮やかな三本線が美しい螺旋を描いている。緑、青、白。まるで清流の流れのよう。
それらが、海面を反射しながら届く夕日の光と静かに共鳴していく。
「わー。きれー」
「白雪ちゃんにあげるさ」
白雪は目と口をまん丸にさせ、恐る恐るの様子で両手を差し出した。黒目がキラキラと輝いている。ほっぺも耳まで真っ赤に染めて。
「ゴミにするのは惜しゅうてさ。ばあのもんにしようとしたっちゃけど。白雪ちゃんにあげる」
白雪の手にそれが収まると白雪は「あっ!」と声を上げてガクンと砂浜に崩れ落ちた。リンゴを落とさないよう、しっかり両手で守ったまま。
「おっもーい」
白雪は砂まみれの腕や足を気にする素振りも見せずにケタケタ笑いながら立ち上がった。
「ごめんねー。重いよって言わのうちゃいけんかっちゃね」
老婆は幸せな人生を思わせる深く刻まれた笑いジワをさらに深く見せた。
私は一瞬、「ゴミ拾いの最中に拾ったとはいえ、拾得物として警察に届けた方が」と言おうとしたがやめた。
この場でそれを口にするのは野暮だ。後で交番に寄って相談してみよう。
そう思った刹那、それまで静かなさざ波を立てていた波が、ひと際大きな波音を立てながら私たちの足をさらった。
「あ!」
白雪は一声発してすぐその場にしゃがみ込むと、老婆から受け取ったリンゴを器用に太ももに置き、足元の砂の中から何かを拾い上げた。
「ママ、見て―。くすぐったくてカニさんが来たのかと思ったらこれだったー。キレイな輪っかだねー」
白雪は重たいリンゴを左腕全体でしっかりと掲げ、右手には今拾った『翡翠色のミサンガ』をつまみ私に見せながら立ち上がった。
え? これって……。
きっとそうだ。
私が二十五年前、引っ越し当日にあの弁天岩の祠にお供えしたミサンガ。一生懸命幅広になるように工夫して、一カ月かけて完成させたんだ。大好きな友達と別れたくない、引っ越さなくて済むようにって祈りながら。
でも引っ越すことは変わらなくて。完成したのも能生を離れる当日になってしまって。
――能生に住むみんなが、ずっと幸せでありますように。海の神様、お願い。みんなのことを見守っていてね。
そう願いを変えたんだっけ。
白雪の前で揺れる幅の広い翡翠色をした輪っかが「ただいま」と言っているように感じた私は、思わず心の中で「おかえり」と呟いていた。
了