美味しい珈琲は美味しい

(著者) モグ


「内野君」
 多分、声の震えは隠しきれなかったと思う。
「なんでこんな所にいるんだよ」
振り向いた彼は少し黙ってからそう言った。
「明日出発なの」
 やすらぎ堤アートフェスタのすぐ後、東京行きが決まった。写真コンテスト部門最優秀賞に選ばれてからは、物凄い早さで変わっていく生活に必死にしがみつく毎日、その頃から内野君と話す機会を失っていたままだった。
「そっか。頑張ってこいよ」
「…うん」
 話したいことは沢山あって、伝えなきゃいけないことだって沢山あって、だけど言葉にはならなくて。
「時間あるなら少しウチに寄っていけよ」
 いつもそう、手を差し伸べるかのように声をかけてくれるの。内野君の優しさに私はあの日の事を思い出す。
 内野君が誘ってくれた撮影会、真新しいカメラの使い方がわからず困る私に「まずは撮り方をイチから教えるな」とフォローしてくれたよね。今でも笑えてくるよ、だって私あの時、デートに誘われたと勘違いして浮かれちゃったんだもの。結局は撮影会で、恥ずかしいから勘違いは絶対バレないようにしたけれど、それでもあの日が私の写真の始まりだったの。
「いいの?」
あの日の思い出が鮮明に脳裏へ浮かび、変に笑いながらの返事になってしまった。
「あぁ。珈琲くらいは出してやるからよ」
笑い返してくれたように見え、嬉しくてまた少し変に笑ってしまった。

「へぇ…こんな家に住んでるんだ。なんか意外」
「どういう意味だよ?」
「怒った?ごめん。でも、そんなダサいスウェットとサンダル、それに寝癖のままでコンビニ行ける人の家がこんなオシャレだなんて、そりゃ意外に思うよ」
 驚いた顔で髪を抑え、私を見てる。
「寝癖、ちゃんと直したはずなのに…」
「そこ?完全にスウェットのダサさの方がヒドいよ?」
 両手で髪を抑えたまま部屋を出ていくと、すぐに水の音がした。私は、それよりスウェットが、と心の中で呟いた。

 何事も無かったかのよう戻ってきた内野君はお湯を沸かし始めた。寝癖が直された後頭部は随分と濡れていた。
「豆を挽くところからやるの?」
「あぁ」
 豆を挽く顔が真剣でドキッとした。
「すごい。挽いてるだけでもうこんなにいい香り」
 内野君の口元がニヤリとする。
「だろ?エチオピアのブクな 」
「ブク?」
「まぁわからなくていいんだよ。とりあえずブクという俺が好きな豆を使って珈琲を淹れるから、穂村はただ飲んでくれりゃいい。」
よくわからないけれど、コーヒーもカメラのように拘ってるんだろうなと伝わってきた。
「なんかいいね」
「お、やっぱりブクがどんな豆なのか語ってやろうか?」
「んー、めんどくさそうだし遠慮しておくね」
 内野君の好きな事を語るとちょっと面倒臭い感じになるというとこ、実は正直嫌いじゃないけども、でもその感じになったところを拒否するとわかりやすくいじけちゃうところが可愛くて好き、だからとにかくここは遠慮しておくの。

「どうぞ」
 テーブルの上にあったカメラを隅に寄せ、コースターを敷き、コーヒーを置いてくれた。
「ありがとう。いただきます」
 どこかのお店みたいで素敵なコーヒーに私は少し畏まり、カップをゆっくり口に運ぶ。
「なにこれ…」
「なっ」
 驚く私に内野君は満面の笑顔。
「今まで飲んだ事の無い味。これが珈琲なんだ。美味しい、すごく美味しい。こんなに美味しい珈琲初めて飲んだ。なんか上手く言えないけれど一口飲んだだけで…あぁ幸せ、って感じた」
 笑顔で私の感想を聞いた内野君は急に真面目な顔。
「…ブクってさ、穂村の写真に似てるんだよ」
「何それ」
「みんなが知ってる珈琲じゃないけどさ、一度出会ってしまった者は皆、心奪われる。口にした瞬間、幸せを感じさせてくれる。穂村は人の笑顔を写すのが上手いからな。それも風景やシチュエーションが生み出す笑顔、その時その場所が感情を動かして生んだ笑顔を写すのが。だから撮られた方も幸せを感じる、写真を見た人も幸せな気持ちになる」
「褒めすぎだよ」
「でも幸せを感じた時、ダサい話だけどさ、同時に俺は自分の小ささも感じさせられてしまうんだよ。苦しくなるんだよ」
 息を呑む。内野君の次の言葉を待つ。不安が押し寄せる。
「アートフェスタの時だって苦しくなった。もっと言うなら初めてカメラ教えた時に撮ったやつだって俺は苦しくなった」
 違うよ私は内野君にーーー声にはならず、内野君は続ける。
「だけどさ。美味しい珈琲は美味しい」
「え?」
「どんなに醜く、妬み、拗ねて逃げたって、結局辿り着くんだよ。美味しい珈琲は美味しいんだってところに」
「はぁ…」
 戸惑う私に構わず、内野君はまだ続ける。
「美味しい珈琲は美味しいし、素晴らしい写真は素晴らしいし、素晴らしい写真を撮れるヤツは素晴らしいんだよ。穂村の写真はすごいんだよ。大丈夫、やれる。東京でもやっていける。俺はお前の写真が好きだ」
 今度は間をとる事もなく私が言う。
「私も内野君の写真が好き。内野君の写真が私の世界を広げてくれたの」
「俺もまだまだ成長して胸を張れる写真家になるから」
 内野君の言葉に「私もそうなるから」と胸の中で答えた。

 静かな時間が続く。お互い思いついたまま話し、深く考えもせず返事をする。そしてまた沈黙の繰り返し。東京のどこへ住む事にした?千駄木ってとこ。自炊できるのか?目玉焼きは得意だよ。あ、「料理もダメそうだ」と思っている顔だ。料理も、ってなんなの。もう。

「なんだか今日は初めての撮影会の日の事ばかり思い出すの」
「実は俺も」
「あの時撮影会に誘ってもらえなかったら今の私はないんだよね」
 でもね本当は今でもね、あの時デートだったら良かったのにと思ったままの私もいるよ。

「『美味しい珈琲は美味しい』あたりから、すごく馬鹿っぽかったよね」
 我慢はしてたけど、耐えきれず言いながら笑いが込み上げてきた。
「それは…珈琲がこうして目の前にあるからさ…仕方ないだろ」
「照れてる」
「違うって」
 予想外に動揺してる姿が可愛い。
「顔、赤くなってるよ」
「うるせえな。なってねえから。…赤くない顔は赤くない」
「日本語おかしいよ」
「おかしくない日本語はおかしくない」
「日本語が」
 全力で怪訝な顔、変な人を見る目で内野君の顔を覗きこんだ。内野君は顔を逸らし更に続ける。
「あれ…なんか…腹痛が痛い」
「バカですね」
「バカにされても負けない。不屈の精神。腹痛だけに」
「バカです」
 こちらへ顔を戻し、今度は私の顔を覗き込みながら言う。
「でもよ、少しは労ってくれよ。昨日酒呑みすぎて頭痛も痛いんだから」
「バーカ」
 そしてまた珈琲を口にした。きっとこれまでの人生で飲んだ珈琲で一番美味しい。好きな人が淹れてくれた一番美味しい珈琲を好きな人と一緒に飲んで、自然に笑顔になっている。こういうのを幸せっていうんだろうな。この瞬間を写真に残したいな。咄嗟にテーブルに置かれていたカメラを手に取る。
「内野君」
 振り向いた瞬間、シャッターを押す。撮れた、と確信した。内野君は笑顔から少し驚いた顔になっていく。鳩が豆鉄砲ってこういう事をいうのかな。
「美味しい珈琲を一緒に飲めて嬉しかったからね、この瞬間を残したかったの。現像したら送ってね」
 私の大好きな内野君の表情が撮れてる。絶対送ってもらうんだ。東京での新しい生活の御守りにしよう。