父と私の新潟鉄道紀行

(著者) 蜜柑桜


 チリン……
 和室の出窓を開けると頭上で涼やかな音がした。ふと見上げれば飴色のガラスの下で若草色の細い帯が棚引く。
 途端に肺まで圧迫していた空気がほどけて柔らかくなり、それを思い切り吸い込んだ。風が肌を撫でても昼間のような気怠さはなく、逆に生半可に冷えた温度が心地よい。さっきまで赤紫に染まっていた空には闇が広がり、その中に真白の光が煌々と浮かび上がる。
「お父さん、月が綺麗だよ」
 紅い線香の先から煙がたゆたい、独特の香が畳の湿っぽい匂いと溶け合った。前にこの感覚を覚えたのはもう一年前か。
「あのねお父さん、次の出張、新潟になったよ」
 お鈴の音が消えるのを待って話しかける。窓際のチリン、という音が明瞭さを取り戻す。
「新潟、懐かしいねぇ」
 位牌の横に並んだSLの模型に目をやった。その後ろには、停止した列車を背に手持ちの地図を指差す父の写真。こぢんまりとした車体は白に青と赤のラインが可愛らしい。
 飽きるほど聞いたあの説明。柏崎と新潟を繋ぐ越後線。「東日本管内で115系が走るのはもうここだけだぞ」と自慢げな言葉に、自分の手柄かと私も弟も突っ込んだ。
 父の最後の旅行。この時から、新潟は私の特別な場所になった。
 無類の鉄道好きだった父。日本全国あらゆるローカル線を目指し、暇さえあればふらっと出かけていた。何をするでもなくただ乗るだけ。土産もなしに帰ってきたと思えば、乗り潰しマップにマーカーを引いては満面の笑みを浮かべていた。そうして季節が巡るたび、マップの白丸は減っていった。
 だがもう少しで地図が全て染まるというところで、白丸の連なりはそのままになった。
 病気が見つかってから、付き添い無しの自由な旅は難しくなった。
 それでも日々鉄道雑誌を広げ、最新の時刻表の確認をし続けた父。そんな父を見た母が、地図上無色の線を一つだけでも無くしに行こうと提案した。
 候補の中から越後線を選んだ理由はいくつかあった。東京から新幹線一本というアクセスの良さに加え、自然溢れる海山と、鉄男なら皆が惹かれる魅力の数々。父には最適だった。
 そして出かけた家族旅行。早朝に家を出て、上越新幹線で長岡、信越本線に乗り換え柏崎下車。そこから始まる鉄道巡りの二泊三日。
 念願の越後線、「一次新潟色」の車両に乗り込んだ父の興奮は病気が嘘だと思わせるほど。そのまま越後線全線制覇を果たし、新潟駅から向かったのは新津鉄道資料館。私はよく知らないが、Nナントカ編成で六色あるという越後線の六つの車両を満喫し、鉄道の歴史展示を食い入るように見学した父。
 さらに父のロマンの蒸気機関車、SLばんえつ物語で新津を出発。乗車区間は短かったのに少年のごとくはしゃいだ後には、旅館で山海の美味に舌鼓。食が細くなっていたはずが「米が甘い」とおかわりする。
 翌朝、レンタカーを走らせた入広瀬の道の駅で神秘的なエメラルドの鏡ヶ池を前にシャッターを切りまくり、森林浴をしつつ只見線で小出まで。スキーが得意だった父の案で塩沢で一泊。お風呂嫌いのくせに温泉を堪能し、疲れを癒して北越急行ほくほく線へ。車窓の外には魚沼盆地の広大な田圃で稲が揺れ、いくつも渡った橋梁の下では地を彩る草花や銀に光る川の飛沫が目に眩しい。
 線路で揺られて約一時間、犀潟駅で乗り換え直江津、さらに糸魚川まで海沿いを走り、長野を通って東京へ。
 マップの弓形の列島に新たな黄色い線が引かれた。これが父が引いた、最後の線。
 私は、この線を辿ったことがない。
 旅程の決定後に急の仕事が入った。私がリーダーのプロジェクトだった。代理を頼むと言った私を止めたのは、根っから仕事人だった父その人だ。「自分のために仕事を中途半端にするな」と初めて厳しく叱られた。
 だから私の知る新潟は、つぶさなお土産話と父が撮った色鮮やかな写真からだけ。
「でも、私も知りたくてね」
 父をこんな風に笑わせてくれた場所は、一体どんなところなのかと。自分で感じて、ありがとうと言いたかった。
「鉄道もいいけど、私は美食も気になるな」
 冷えた瓶の蓋を回すと、キュッと音が立つ。
「今日は、新潟のお酒を選んでみました」
 とっとっと……と、二つのお猪口を満たしていく。
 ——いい酒はな、酔わないんだぞ。
 まったく、通ぶっちゃって。
 カツンと合わせたお猪口の一つを仏壇に置いた。一礼して、くい、とお猪口を傾ける。まろやかな甘みが広がったあと、凛とした刺激が喉を通って胸に落ちる。
「ん、ほんとだ。んまい」
 きりりと冷えた雫が、湯を浴びた体の火照りを和らげる。
 仏壇の横から父のガイドブックを手に取った。名所旧跡、それから名産、工芸品。
 仕事の後は有給二日。お土産は、揃いのお猪口もいいかもしれない。
「あ、お父さんのは別ね」
 もう一杯目を注いで付け加える。
「実は、紹介したい人がいるもので」
 帰ったら、今度は私のお土産話、しっかり聞いてもらうから。
 線香の煙が窓辺へ流れ、虫の声と一緒に風鈴が鳴った。