卒業証書

著者) 如月芳美


 我が家は毎年夏休みになると、新潟のお婆ちゃんちに遊びに行く。新潟には大きくて広い海がある。
 もちろんここにだって海はあるし、日本海よりは太平洋の方が大きいことは知ってる。だけど遠浅でお魚やカニがいっぱいいる方がずっと楽しい。私の住んでいるところの海は埋め立て地で、港とかもあって、泳げるところなんか全然無い。
 だから私はいつもとても楽しみにしていた。

 三年生になった年の夏休みはちょっと事情が違った。到着するなりママは「去年も来たから大丈夫だよね?」と何度も念を押した。いったい何が「大丈夫だよね?」なのかよくわからなかったけど、「もう三年生だよ?」って胸を反らした。
 ちょうどその時、お婆ちゃんちのお隣のヒロちゃんが縁側から顔を出した。
「あっ、ナミちゃん今年も来たんだ!」
 ヒロちゃんとは去年たくさん遊んだから覚えててくれたんだ。嬉しくて「ヒロちゃんと遊んで来る!」と家を飛び出した。

 いっぱい遊んで帰って来たら、ママもパパもいなかった。お婆ちゃんに聞いたら東京に戻ったと言った。
 びっくりした。私を置いて行ったんだ。
 夏休みが終わるころに迎えに来るから心配しなくていいとお婆ちゃんは言ったけど、それなら私は夏休み中ずっとここにいるんだろうか。
 あの「大丈夫だよね」ってそういう意味だったんだ。
 私は両親に裏切られたような気持になって、それからずっと隠れて泣いていた。泣きながらいっぱい考えて、なんとなくわかった。両親は二人とも働いているから、夏休み中ずっと家に私がいると仕事ができないんだ。だからお婆ちゃんちに置いて行ったんだ。最初からそのつもりで。
 夕食にはお婆ちゃんが甘い卵焼きを作ってくれたけど、気持ちは晴れなかった。

 翌日はさっさと朝ご飯を食べて、すぐにヒロちゃんのところに行った。
 昨日の悲しい出来事をヒロちゃんに話したら、毎日一緒に遊ぼうって約束してくれた。

「ゆびきりげんまん、嘘ついたらハリセンボン飲ーます!」

 ヒロちゃんは毎日遊んでくれた。ほんとに毎日。
 裏山を探検しようと言っては虫取り網と野球帽、海へ行こうと言ってはバケツと麦わら帽子を私の分も持って来る。
 そして一歩を踏み出すのをためらう私の前に、いつも右手を差し出してくれるんだ。
 ランニングに短パン、ちょっと穴の開いた麦わら帽子、膝小僧の絆創膏がトレードマークの彼は、ヤンチャだけど紳士だった。
 近道と言いながら遠回りして変なところを通ったりするのはいつものことで、よその家の庭を通る時に縁側で囲碁をしているお爺ちゃんから桃をもらったりするのも楽しかった。そこのお婆ちゃんはよく「休んでいぎなせえ」と言っては麦茶を出してくれた。今でもその家の名前は知らないけど。
 その家を抜けて裏山を登ると線路がある。それが信越線だと気づいたのはずいぶん後だけど、そのときは電車が通るたびにずっと二人で手を振っていた。それが貨物列車であっても。
 汗だくで戻って来ると、お婆ちゃんがスイカを切ってくれた。
 私たちは仲良く縁側に並んで座り、足をブラブラさせながら入道雲に向かってスイカの種飛ばしをした。ヒロちゃんはとても遠くまで種を飛ばせた。
 お婆ちゃんちには古いリヤカーがあって、交代でそれに乗ってタクシーごっこをした。ヒロちゃんのお兄ちゃんが私たちを乗せて引いてくれたこともある。
 夜はヒロちゃんの家族とみんなで花火をして遊んだ。落ちてくる落下傘を二人で競い合うように追いかけた。
 魚釣りも、木登りも、貝釣りも、ザリガニ獲りも、カブトムシやセミを捕まえるのも、裏山の攻め方も、笹船の作り方も、草笛の吹き方も、スイカの種の飛ばし方も、ぜんぶぜんぶヒロちゃんに教えて貰った。学校では教えてくれないことばかりだった。

 楽しい毎日が過ぎて夏休みが終わりに近づいた。両親が明日迎えに来るって電話をかけてきた。
 ヒロちゃんにそれを言うと、「海行こうぜ」と私の手を取った。
「一つ教えてないことがあったのを思い出したんだ」
 そう言って彼は平べったい石を選んで海面ギリギリに投げた。石は波の上を跳ねるように渡って行った。
「水切りっていうんだ」
 それから夢中になって石を投げて、やっと水切りをマスターしたころにヒロちゃんが言った。
「これでオレが教えられることは全部教えた。ナミは卒業な!」
 知らぬ間に『ナミちゃん』が『ナミ』になっていた。
 この時私は、初めて新潟の夕日は海に沈むことを知った。

 翌日、両親が迎えに来て私は帰ることになった。車に乗り込んだところでヒロちゃんが現れた。私はあわてて窓を開けた。
「ナミ、絶対来年も来いよ」
「うん。約束」
 ゆびきりげんまんの後、ヒロちゃんは私の手に綺麗な貝がらを乗せてくれた。
「これ今年の夏の卒業証書。来年は別のことを教えるからな」
「じゃ、毎年集めるよ。卒業証書」
 私は小さくなっていくヒロちゃんに、いつまでも車の窓から手を振った。

 小学校三年生。あれが私の初恋……だと思う。