シンボル

(著者)山村麻紀

「いい人生らった」と言い残し、じいさんが死んだ。隣のばあさんが畑仕事をする中、おんぼろの家で、安らかに息を引き取った。
 じいさんは、孤児の私を引き取り、四十五のくたびれた中年になる今まで面倒をみてくれた。じいさんの命が長くないと知ったとき、頭に浮かんだのが、じいさんのワイフだった。
「俺のワイフは良い女だったっけのう」
 仏壇には、水玉のワンピースを着たソバージュとえくぼがよく似合う美人が飾られている。じいさんのワイフは結婚して三年後、交通事故で亡くなった。二十五歳だった。じいさんは再婚せず、同居していた両親が他界して間もなく、私を養子として受け入れた。
 私はじいさんのワイフを見つけるため、結婚相談所に向かった。相談所に行くと、痩せたスーツの男が私を迎えた。プロフィールシートには、「二十五歳希望」と書き、男に「こんな女性と出会いたい」とじいさんのワイフの写真を見せた。
「今どき二十歳差なんて当たり前です。大丈夫ですよ。必ず素敵な女性を紹介します」
 三日後、男から紹介の電話が掛かってきた。
「いいお嬢さんがいましたよ。二十五歳で美人さんです。早速デートのお手配をしますね」
 ワイフ候補との待ち合わせは、万代のバスセンターだった。きょろきょろする私に、白いコットンワンピースを着た女性が話しかけてきた。
「山田さんですよね?初めまして」
 顔を見て驚いた。女性は、じいさんのワイフと瓜二つの顔をしていたのだ。慌てて会釈した後、近くの喫茶店に入った。
「もうすぐなくなるんですよね。レインボータワー。残念です」
 着席するなり、女は言った。
「シンボルがなくなるって、悲しいですよね」
 彼女は、遠くの何かを見つめて呟いた。
「私は、おととい結婚相談所に登録しました。理由は、寂しいからです。男手一人で育ててくれた父が、先月急性白血病で亡くなったんです。私には兄弟もなく、父しかいませんでした。だから、だから」
 大粒の涙が女の目から落ちた。私は慌てて言葉を挟んだ。
「正直に言います。私は誰とも結婚したいと思っていません。私が探しているのは、育ての父であるじいさんの、亡くなったワイフです。あなたのお父さんと同じく、私の父はもうすぐ天国に逝ってしまう。その前に、嘘でもいいから会わせてやりたいんです」
 私が言うと、女は大きく頷いた。
「とてもいいアイディアだわ。私がおじいさまのワイフになりましょう」
 翌週の日曜、ソバージュヘアになった女が家にやって来た。
「ただいまぁ」
「あぁ、おかえりなさい」
 私が言うと、女が手を振る。じいさんを横目で見ると、何度も目をこすっている。
「あら、あなたどうしたのよ。花粉症?」
 じいさんは、首を激しく左右に動かした。
「おかえりやぁ、マイワイフ」
 その日から、私とじいさんと偽ワイフとの生活が始まった。
「おぉ、ワイフの作った里芋の煮っころがしは最高だ。うまいうまい。なぁ?」
「あぁ、うん」
 生返事する私の横で、女が頬を緩める。思わずうっとりと見惚れるほどの美しさだった。
「あなたは、昔っからこれ好きだものね」
 女は、私が渡したワイフ情報をすべて記憶していた。所作も完璧に再現している。
「ワイフや、茶をくれ」
 ワイフを呼ぶじいさんは、誰よりも幸せに見えた。日ごとに食は細くなっていったものの、血色は良く、表情はまぶしかった。
「あなたは、おじいさんが亡くなってから、どうするつもりなの?」
 近所のファミレスで、女が私に問いかけた。
「何も考えていないよ。今はじいさんに最高の最期を贈ってあげること以外考えられない」
 女は、苦笑してうつむいた。
「おじいさんの本当の幸せって、何なのかしらね」

 じいさんが死んで一週間が経った頃、家のちゃぶ台に封筒が上がっていた。
 封筒には付箋があり、何か書かれている。
「結婚相談所に来た、おじいさんから預かったものです。黙っていてごめんなさい。」
 封筒の中には、メモの切れ端と、私が結婚相談所に払った十倍以上の金が入っていた。
「息子を頼みます。あの子の幸せが、私の一番の幸せなんです」
 震えていたが、間違いなくじいさんの字だった。私はメモを握り、ひたすら走った。しかし、どこまで行っても、シンボルは見つからない気がした。あるいは、はじめから存在しなかったのかもしれない。
 戻らぬ時間だけが、宙にぷかぷかと浮かんだ。