(著者)海人
「永遠の愛なんて、ないんだよ。きっと」
夏の日。君は僕に背を向けたまま、そう言った。後ろ髪が潮風に揺れる。穏やかな波の音と海鳥の鳴き声だけが鼓膜に届く。
二十数年間生きてきた中で初めて、拙いながらもプロポーズをした時の、君の返事。
それは僕にとっては得体の知れない、捉えどころのないものだった。
君はそれきり何も言葉にしない。このまま振り返ってもらえないような気さえした。
ただ、水平線に夕陽が沈んでいくのを静かに見つめている。一世一代のプロポーズよりも、毎日繰り返される黄昏の方が心地よいものなのだろうか。
愛してる。誰しも簡単に口にできる言葉。
いざ、その愛とやらを真剣に考えてみればみるほど、なんて途方もない存在を語ろうとしていたのか、愕然とする。
「ねえ。何か言ったら?」
さっと振り返り、膨れた顔が言う。僕はどこまで本気なのか、さっぱり分からなかった。
「君こそ、何か言ったらどうなんだ」
至極真っ当なことを言っているのは僕の方なのだと、その時ばかりは確信した。
思えば最初の出会いも、あの時と同じ、海を一望できる無人駅だった。
青海川と名乗るその駅に、僕は居眠りしたまま運ばれていた。スマートフォンの時刻表から次の電車が到着する時間を教えられ、ため息をつく。眠っている時間よりも長い時間、電車を待つのかと空に問いかけてみる。その幼い中身にまた、どうしようもなくため息が出た。すると、向かいのプラットホームから同じようなため息が聞こえる。線路を挟んで目が合う。それが初めて見た君の姿だった。
君と話していると、時間の感覚さえ狂ってしまう。あっという間に電車が来てしまい、また離れ離れになりそうになる僕らを繋げてくれたのは、今なお著しい成長を遂げる文明の利器だった。
メールの文章だけで、僕たちは一日百通近くもやり取りをした。そんなに話すことがあったのかと問われれば、恐らくあったのだろう。海まで写真を撮りに来たものの、乗車予定だった電車を逃した君と、暇を持て余していた僕。種類は違えど、互いに誰かを欲していた。無限に思える時間の波に何もかも押しやられてしまわぬように。
「今の若者は愛の告白もメールなんだよ。そんな人間に愛は語れないよ」
「君だって今の若者だろ」とツッコミを入れつつ、その瞬間から君への告白はあの無人駅でしようと決めていた。
病室の窓から見えるのは、やはり海だった。
「いつか言っていただろう。愛は永遠じゃないって」
あの夏の日から何十回同じ季節が巡ったのか。少なくとも五十回は堅いなと思えば、咳が出る。大した稼ぎもないのに、君は長年一緒にいてくれた。「何か言いました?」と言いながら、ポケットナイフを器用に駆使し林檎をむく君は、とぼけた顔をこちらに向けている。
最近知った、ある事実がある。君は若い時から耳が悪かった。
この先そんなに長くないと医者に宣告されてから、そう言われた。僕にすれば二重に告白されたようなものだったが、君の中では僕がこうなるまで言うつもりはなかったのかもしれない。生活に支障をきたすほどではないが、少し大きめの声でないと聞こえないそうだ。
あの時の、僕のプロポーズの言葉は、君の耳に届いていなかった。
今さらながら、そんなことに気がついた。今では大した意味さえ持たない気もする。
当時、あのプロポーズですっかり自信を喪失したのか、実をいうと君に振られたのだとさえ思っていた。
でも、僕たちの関係は続いていった。それに、大学で哲学を専攻していた君の話は飽きなかった。現実ばかり見て嫌気が差すたび、僕は君の話す言葉を思い出していた。
「世の中を変えたいわけじゃないの。普段の生活、世界の情勢、人々が何に喜んで何に苦しんでいるのか。どんなに経済的に豊かになっても、心に貧しさだけは抱えたくないから」
ここから見える水平線は変わることなく、僕たちに寄り添っている。
僕は君に与えられてばかりだった。だから、せめて君に想いを伝えたかったけど、結局その言葉さえ、波の狭間に消えていった。
「もし生まれ変わっても、君はきっと、あの駅で電車を逃すよ」
頭を過るのは、あの景色だった。五十年も経っているのに、君の内面は何一つ老いていない。そんな気さえした。
「あなたも、また寝過ごしてあの駅に運ばれてくるの。必ず」
「必ず、ときたか」
それきり声を出すことができない。耳が聞こえづらい君のために大きな声で話そうとすればするほど、喉に力が入らない。
「少し横になったら」優しく君は毛布を掛けてくれる。
ゆっくり目を瞑る。僕たちは若い頃のように手を繋ぎ温かさを感じ合う。
「好きよ」
「おいおい。先を越さないでおくれ。僕にプロポーズさせてくれよ」
耳元で聞こえる声に心の声が応える。あの日と同じ波の音と海鳥の鳴き声は、確かに僕の鼓膜を揺らしている。