リンゴと私とそして君

著者) 丸和 華


 出口に向かって狭くなっていくトンネル、苔むした壁。
 心臓がギブアップ目前。お願い、早く抜けて。
 バスに座った時から膝の上に置いたままのリュックをギュッと抱えてみる。
『黒姫山は山全体が神体化されている』
 オリエンテーションの時にそう聞いた瞬間なんだか怖くなっちゃって。弟からお守りリンゴを借りて入れてきたんだ。クリスタル製でちょっと重たかったけれど持って来て良かった。ドキドキが収まってき……。

「わ!」
「きゃっ! お、脅かさないでよ、虎太朗《こたろう》くん」

 バスに乗るなりすぐ眠りに入った虎太朗くん。私、話し相手がいなくて寂しかったんだよ。ここは「寝ちゃって悪いね」って言うところじゃない?
 もー。久住虎太朗、君のこと、見損なった!

「俺、すぐバス酔いする質でさ。目を閉じながら『大丈夫』って自己暗示法で乗り切ることにしてたんだ。そろそろかなって目を開けてみたら、愛矢《あや》ってば引きつった顔してんだもん。お化け、ダメ系?」
「う、うん。お父さんの車の中でも、トンネルの時は息を止めてるの。『早く抜けろ』って心の中で唱えながら」
「やっぱりな。だけどさ、ビクビクしてるやつのところに近づいてくるもんじゃねーの?そういう悪い霊的なやつってさ」
「ちょっ、ちょっとやめてよ、悪い霊なんて言い方。めっちゃ怖いよ」
 今、虎太朗くんのこと見直しかけていたんだけど、前言撤回!すんごくヤな奴ー!
 もう何か話しかけてきたって、絶対口聞かないもんね。

 そう思ったのも束の間、バスはすぐ目的地のマイコミ平駐車場へと滑り込んでいった。
「わー。気持ち良いー」
 バスから地面に足を下ろした瞬間、ついさっきまでの憤りが嘘のように消えていった。
 ひんやりした空気に身体中の毛穴が引き締まる。冷蔵庫を開けた時みたい。それに、なんだかとっても透明な感じ。澄んだ空気ってこういうのを言うのかな?

 私たち青海南中《おうみみなみちゅう》、一年生十五人は、山を知り尽くすガイドさんと学芸員さんとを先頭に、日本一深い縦穴洞穴に向かって歩きだした。
 人の手が加わっていない露頭だらけ。学者さんが調査に入ることすら許されていない地域なんだって。二十人限定で年数回開催されるこのツアーに申し込むことでしか入ることの出来ない秘境。

 巨木が立ち並ぶ林道。ガイドさんはサワグルミだって言ってたっけ。私、うねうねグイッと成長し続けているこの木たちがなんだかちょっと怖い。

 林道を抜けると、スリリングな登山が始まった。命綱を付けて挑みたいほどの鎖場を通ったり、岩場の裂け目をまたいだり。

「さあ、ここが最後の目的地、日本一の深さを誇る縦穴鍾乳洞、白蓮洞《びゃくれんどう》です」

 ガイドさんの解説を聞いているうちに「ここで虎太朗くんにお守りリンゴを見せてみたい」という衝動に駆られた。虎太朗くんはちょうど私の隣にいる。
「虎太朗くん」
 私は囁き声で彼のことを呼ぶと、リュックの脇からお目当てのリンゴを引き出した。
「ひゅー」
 虎太郎くんはかすかな口笛を吹くと私の目を見てニヤリとした。
 ん?その笑みの意味は一体……。

「あ!」
 大切なお守りリンゴを落としてしまった。重たいクリスタルを持つ手の力が無意識に緩んじゃったんだ。

 隣にいた虎太朗くんが咄嗟に手を伸ばしてくれたんだけれど、あと一歩のところで届かなかった。お守りだったリンゴは細長い穴の中へと吸い込まれるように消えていった。

「ど、どうしよう」
「ごめんな。俺が口笛なんか吹いて驚かせちまったから」
「あ、ううん。違う。私がボーっとしちゃってただけだよ」
「思い出が詰まってた?」
「あのリンゴは絵描きだったおじいちゃんからもらったものなの。弟の誠は生まれた時から体が弱くてね。あのリンゴをお友達って呼んで話相手によくしていたんだ。でも今年、幼稚園に入園出来て。本物のお友達も出来てきたんだよ。リンゴの役目が終わったってことなのかもしれないね」
 私は頑張って口角を上げて見せた。
「なあ、愛矢。この穴は五百十三メートルの深さがあって、それはそこで終わりじゃないんだ。そこから真っすぐ、何キロも先の福来口《ふくがぐち》鍾乳洞へと続いている」
「うん」
 私は口を真一文字に結んだまま、ただ静かに頷いた。
「この黒姫山に降った雨はぜーんぶそうしたジオフロントを通過して田海川《とうみがわ》へと流れ出る。そうした奴らが流れ着く先にあるのは?」

 私は「日本海?」とおずおずと答えた。
「ああ、そうだ。壮大なロマンじゃね?」
「もしかしたら私の……ううん、弟のリンゴもひょっとすると」
「ああ。きっと糸魚川のどこかの海岸に流れ着いて、必要としている誰かが拾うんじゃね?」
「そうかもしれないね」
 私はカラリと笑いながら大きく頷いた。
 虎太朗くんが「良かった」と低く呟いたのを私の耳はきちんと拾っていた。

「良いコンビですね」
 ふいに届いたその声はガイドさん。ガイドさんにもご迷惑をかけちゃったな。
 私は静かに黙礼をした。
 
 良いコンビ――か。そうなれたら良いな。

「さぁ、そろそろ駐車場に引き返しますよ」

 ガイドさんの掛け声に、みんな素直に洞穴に背を向け始めた。虎太朗くんも。
 私はそんな虎太朗くんの背中を見つめながら洞穴に向かって振り向くと、彼と近づくきっかけをくれた白蓮洞に向かって、静かに深くお辞儀をした。

「愛矢ー。迷子になるぞー」
「わかってるー」

 小走りをして虎太朗くんに追いつくと、彼の背中を意味もなくポンっと叩いた。

 私は今、サワグルミの巨木が立ち並ぶ森を優しい気持ちで歩いている。

 了