風鈴の中の風景

著者) 鈴香


 その日は何をやってもうまくいかず、気持ちがささくれ立っていた。
 空高くには灼熱の太陽、アスファルトからの照り返し、四方から聞こえる蝉の声は耳障りで、じっとりと張り付くような湿気に息が詰まった。
 歩いているうちに呼吸が荒くなり、額から汗が噴き出る。
 肩にかけていた重たい鞄を下ろし、苛立ちまぎれにため息をついたとき、どこからか風鈴の音が聞こえてきた。
 チリン。
 風に乗り、耳元をかすめて行った音は透き通っていて、思わず音の出所をさがす。
 チリン。
 再びの、凛とした音。つま先が、小道へと向く。
 チリン。
 誘うような音に、歩き出す。
 家と家の隙間をぬって伸びる小道は細く、薄暗さに一瞬だけ視界が奪われる。
 目をつぶり、ゆっくりと開く。
 チリン。
 音を頼りに歩き出す。どこの家からか、煮物の良いにおいが漂ってくる。甘く煮詰めた醤油の香りを胸いっぱいに吸い込み、ふと懐かしい思いがこみ上げてくる。
 夏休みの間、忙しい両親の代わりに預けられていた祖母の家。必ず食卓に上がった煮物は、祖母の得意料理だった。
 チリン。
 ひときわ大きく聞こえた音に視線を巡らせば、日に焼けた藍色の暖簾が目に飛び込んできた。
 白抜きされた風鈴屋の文字は達筆で、風格のある木造の建物は周囲から浮いて見えた。
 チリンチリン。
 入っておいでと言うように、軽やかな音が手招きをする。
 どうしようかと悩む前に、つま先が暖簾をくぐる。
 お店の中は暗く、所狭しと吊られた風鈴が、どこからか吹く風に揺れている。
 チリン。
 奥に吊られていた一つが音を鳴らす。他の風鈴も揺れているのに、音は聞こえてこない。
「いらっしゃい」
 暗がりから声を掛けられ、肩がビクリと上下する。小柄な老人が、にこやかな表情で立っていた。
「風鈴に呼ばれてきたんだね。 ……さあて、どの子が呼んだのかね」
 深いしわが刻まれた手が、1つの風鈴に伸ばされる。
 オレンジ色と深い青色で彩られた風鈴が、再びチリンと鳴る。
「さあ、どうぞ。手に取ってごらんなさい」
 短冊には紙風船の絵柄。ひんやりとしたガラスの表面は滑らかで、緩やかな丸みが不思議と掌になじんだ。
「もっとよくごらんなさい。もっと顔を近づけて」
 言われるままに、風鈴を目の高さにもっていき、じっと色に目を凝らす。
 オレンジ色は夕焼けのような複雑な色で、深い青色は夜に染まりつつある海の色だった。
 この光景を、覚えている。まだ幼いころ、確かにこの色を見たことがある。
 曖昧な記憶を形作ろうと目を凝らしたとき、グニャリと視界が歪んだ。
 突然のめまいに眉根を寄せ、強く目をつぶる。チリリと痛むこめかみを指で押す。
 近くを誰かが通り過ぎる気配に目を開ければ、飛び込んできたのは鮮やかな色の夕暮れだった。
 耳には規則正しい波の音、通り過ぎていく風は日本海独特の濃い磯の香りをまとい、テトラポットに打ち付けられた波が白く泡立つ。
 海に背を向ければ山がそびえ、海岸線を通る道の向こうには、家々が肩を寄せ合うように建っている。窓に明かりは灯っているものの人通りはなく、車の往来もあまりない。
 祖父母が亡くなり、もう二度と来ることはないと思っていた、あの町。
 目の前の町と、記憶の中の思い出が重なる。
 丸い石を探しに祖父と歩いた海岸、祖母に連れられて泳いだプールでは、小さなカエルが飛び跳ねていた。遊びに来た父と一緒に入った海では波に飲まれ、塩辛い海水に大泣きした。
 たった一軒の雑貨屋さんで本を買うために、祖母と歩いた道。日傘をさしてゆっくりと歩む祖母の数歩前を、石を蹴りながら歩いた。
 自宅のバルコニーから見た花火大会は小規模で、祖父が買ってきた花火を追加でやっていた。打ち上げ花火をあげるたび、懐中電灯を持った手を大きく振って、家で見ている祖母に合図を出していた。
 友達と遊べない夏休みが悲しくて、両親と過ごせない日々が寂しくて、でも泣いていることを悟られたくなくて、じっと見つめ続けた夜空。東京で見るよりも広い空には無数の星が輝いていて、星を追ううちに目が良くなってしまった。
 チリン。
 手の中で鳴った風鈴に、目を開ける。
 細い路地裏は整然としており、規則正しく並んだ花壇では、あまりの暑さに花が萎れている。
 頭上でセミが鳴き、全身にじっとりとした湿気がまとわりつく。
 慌てて先ほどの店を探すが、藍色の暖簾はどこにもなく、どんなに耳を澄ませても風鈴の音は聞こえてこない。
 立っているだけで汗が噴き出す暑さに、白昼夢でも見たのかと思うが、手の中にはしっかりと風鈴が収まっている。
 チリン。
 指先に引っ掛けた風鈴が鳴り、先ほどまで見ていたあの町の景色が脳裏をよぎる。
 時が止まったのかと思うほど穏やかな時間が過ぎていたあの町、出雲崎。
 一人で過ごす夏休みの象徴であり、思い出すたびに苦い気持ちがよみがえる場所ではあるが、思えばあの町にいたころの祖父母は幸せそうで、いつも穏やかに微笑んでいた。