(著者) 若杉圭
海に面したその町の丘の上に、先生の家はあった。
二階の書斎からは日本海が一望できる。
その日も、佐渡へと向かうフェリーがゆっくりと海を渡っていくところだった。
夕日がね、下からやって来るんだよ。
いつだったか、先生がそんなことを言っていた。夕日に顔を赤く染めながら。
先生が死んだということを、私はだいぶ後になってから知った。
「そのままなのよ」
弔問に来た私を書斎にとおして、洋子さんがそう言った。
「でもよかったわ、由香ちゃんが来てくれるのなら、そのままにしておいて」
木製の書架を満たしている夥しい数の楽譜を、私はずいぶん久しぶりに見た。
机の上の楽譜も先生が置いたままなのだろう。
Pergolesi, Stabat Mater
開いてみると、無数の書き込みが見える。8分音符ごとに振られた数字、ブレスの追記、6種類に分けられた独特の音色記号、強弱の変更、フレージングの注意事項。
全然変わっていない。
団員には伝えられない指揮者用の記号さえ、まったく同じだった。
それらひとつひとつに込められた意図が、私には今でもはっきりと分かる。
不意に涙が浮かんで、こぼれそうになった。
「その曲も演奏はできなかったわ」
「そうですか」
Eja Materが始まったばかりの頁で書き込みは終わっていた。
机の端には、いまも青い電動式の鉛筆削りが置かれていた。
「いつ買ってきたのかしらね、そんなのがあるって気がつかないでいたのよ」
私が見つめていたせいだろう、洋子さんがそう言った。
「お葬式の後よ、気がついたのは」
「そうなんですか」
やっとのことで、私はそれだけを言った。
先生の書き込みがわからない時がある。
そう先生に言ったことがあった。
なんで?
と、先生は聞いた。
「先生のその丸まった鉛筆のせいですよ」
私はそう言った。
「そうかなあ、僕のメソッドが理解されていないせいじゃない」
「鉛筆使いのメソッドですね、わからないのは」
大学で先生の指導を受けていた私は、まだ卒業もしないうちから、先生の合唱団に参加した。アマチュアのその合唱団のなかで、先生の指示を団員に伝えるのがいつの間にか私の役目になった。
「だいたい、鉛筆じゃないとダメなんですか?」
私がそう言うと
「鉛筆じゃなきゃ・・・」
先生はそう言ってから、手に持っていた鉛筆を削り始めた。小学生が筆箱のなかに入れてあるような、プラチック製の小さな鉛筆削りだった。それに鉛筆を突っ込んで、面倒そうに回転させているところだった。
「鉛筆削り、そんなのしか無いんですか」
「だって、ほかにどういうのがあるの?」
「鉛筆を入れると、がーって、機械が削ってくれるの、あるじゃないですか」
「へー、そんなのある?」
「知らないんですか」
私は驚いてそう言った。
(ほんとに、なんにも知らないんだな、先生って。私のことだって)
「気が済んだら、下に来てね、お紅茶あるから」
そう言うと、洋子さんは書斎から出て行った。
青いその電動式鉛筆削りは、先生のお誕生日プレゼントとして私が買ったものだった。もうとっくに誕生日は過ぎていたけれど。
あの日、先生の書斎にあった鉛筆という鉛筆を、全部私が削ってあげた。
「もう当分、鉛筆削りはしなくてもよさそうだね」
「だめですよ、すぐ丸くなっちゃうんですから、ちゃんと削ってくださいよ」
「面倒だなあ」
「じゃあ・・・」
そこまで言って私は思わず黙ってしまった。
(じゃあ、私がいつも来て、削ってあげますよ)
そう言おうとしたのだった。
ん?
と先生は言ったきりだった。
鉛筆削りの表面を覆う青い塗料は、ところどころ剥がれ落ちて、金属の地肌をわずかに露出させていた。下の方に、削り屑を入れるプラスチック製の容器が装置されている。半透明のその容器を何気なく引き出して、私は思わず、あっと声を上げた。泡でも吹き出すみたいに、詰め込まれていた削り屑が溢れて机の上に広がったのだ。
木片の生々しい匂いが立ち上がった。
(こんなに、たくさん)
削った鉛筆で、いったい何冊の楽譜に先生は書き込みをしたのだろう。
机の上に置かれた楽譜を、私はもう一度開いてみた。2Bの鉛筆で書かれた記号が、つぶれることなく、はっきりとした線で描かれている。間違いなくそれは、削られたばかりの鋭利な鉛筆の先端が描いた線だった。
(鉛筆使いの、メソッド)
たちまち涙があふれ、楽譜の文字が滲んでいった。
その日、私は初めて声をあげて泣いた。
それからどれぐらいの時間が経ったのだろう。部屋の中が少しだけ暗くなったようだった。太陽が水平線へと沈むところだった。
(もう行かなくちゃ)
私は削り屑をゴミ箱に入れて書斎を出た。
書斎に続いている廊下は、西側の小さな窓から射し込む夕日で真っ赤に染められていた。
階段を上ってきた先生が、ちょうどその窓を背にして、ゆらりと大きな影を、その赤く染めぬかれた廊下に落としたものだった。
ほらね、夕日が下からやって来るだろう。
先生の声が聞こえたような気がした。
赤いその光のなかに、私はいつまでも立ちつくしていた。