(著者)桜川天青
「私のこと、いくらで買ってくれるの?」
新潟駅前の裏通り、待ち合わせた彼女は開口一番に言った。酒場から漏れる照明にその姿が浮かび上がる。肩甲骨ほどまである黒く長い髪に、血が通っているとは思えないほど白い肌、風が吹いたら飛んで行ってしまいそうな華奢な体。今にもこの夜に溶けてしまいそうなほど、物憂げで儚い。その割に、ハイブランドのショルダーバッグを肩に下げている。「マッチングアプリ」という名の体のいい出会い系アプリで友達作りのために遊び半分でつながり、とりあえず会ってみようと軽い気持ちだったが、想定外の事態が起こっていることは明白だ。
「まず、ご飯食べに行こう」
事態を今一つ飲み込めないまま、空いていそうなイタリアンレストランに誘う。明るい照明の下、改めて見るとあどけない顔をしている。20歳と聞いていたが、お世辞にもそうは見えない。
「もしかして、学生?」
「ううん、学校には行ってない」
彼女はメニューも見ず、虚ろな目をテーブルに落としている。
「ねえ、何食べる?」
メニューを差し出すと、彼女は「これ」とぶっきらぼうにペスカトーレの写真に人差し指を置き、面倒くさそうな表情をぶら下げてトイレへと立った。その拍子に、スカートがひらりと膝の上ほどまでまくれる。ちらりと、青いシミのような何かが見えた。敢えてそのことに触れる勇気もなく、戻ってきた彼女と共に供された料理を黙々と口に運ぶ。食事中も彼女の表情はほとんど変わらず、美味しいのか不安になってくる。それでも彼女はしっかりと全て平らげた。ごちそうさまの一言も言わず、お会計している横でぴったりと付いている彼女の無礼さを咎めるでもなく、彼女が行こうとする方向とは逆方面に「散歩しよう」と半ば強引に連れていく。
「今はどこで働いてるの?」
「無職」
「そっか、じゃあ趣味はある?」
「ない」
「うーん、なら、好きな歌手は?」
「いない」
何を聞いても単語で返す彼女との会話を無理やりつなげようと、手当たり次第に質問してみる。自分でも彼女とこの後どうしたいのかわからないまま、車通りの少なくなった夜の大通りをまだ見ぬ目的地を探して歩く。
「じゃあ、家は?」
「ない」
「……やっぱりね」
虚を突かれた彼女が、一瞬びくっとさせて足を止める。
「なに、弱みでも握ったつもり?」
こちらを窺う彼女は、無表情を装いつつも眼光が少し鋭い。会ってから初めて、人間らしさを表に出した。
「そんなつもりはないよ」
「じゃあ、何だって言うの?」
「なんだろうな。強いて言うなら、君ってすごく頑張って生きてるんだなって。自分を隠して、殺して、我慢して」
「知ったような口利かないで!」
金切り声が萬代橋の往来に響く。咄嗟のことに若干うろたえつつも、目に涙を湛えた彼女に対峙する。
「そりゃ何も知らないよ。でも、イヤでも分かっちゃうことがあるんだよ。……俺は、あなたを買うつもりはない。お金が欲しいなら、少しならあげる。それでいい?」
その言葉に彼女は目を丸くし、口をぽかんと開けて呆気にとられた。我に返ると、彼女は微笑んで橋の欄干に腕を置いた。
「お兄さんが初めてだよ、買わないって言った人。男の人はみんな私のことを道具として見てるものだと思ってた。私ね、明日で18歳なんだ。お兄さんと出会ったのはきっと、そんな私への誕生日プレゼントだね」
彼女はそう言って、こちらを見て笑顔のまま堰を切ったように泣き始めた。
「何が誕生日プレゼントだよ、年齢詐称なんかするなよな」
妙な照れくささを感じて視線を外し、港の方を向いた。信濃川の水面に、まん丸の月がゆらゆらと揺れている。
ホテル代と連絡先を握らせて帰したあの夜から3年が経った。彼女は翌日「泊まるお金がないから泊めて」と言ってうちに大きなキャリーバッグと一緒にやって来て、それ以来うちに住み着いた。最初は不慣れだった家事も、今ではすっかり板についた。相変わらず顔は幼いままだが、体のあざはすっかり消えた。
そんなある日の週末、彼女が海岸沿いの水族館へ行きたいと言い出した。もう何十回も訪れた場所に目新しさなど微塵もないが、それでもその時間が尊い。デート終わりに海岸へ出ると、丁度よく綺麗な夕暮れ空が広がる。見慣れた景色に感動する彼女に、あの日の彼女を重ね合わせてみる。
「なあ、俺たちが出会った日のこと、覚えてる?」
「当たり前でしょ?」
「あの時、俺は君のことを買わないって言ったけど、気が変わった。俺は君を買う、分割払いで、俺か君のどっちかが死ぬまで」
差し出した指輪のダイヤモンドが赤く照らされる。
「やっぱり私のこと、道具として見てたの?」
彼女の顔がくしゃくしゃになって、笑っているのか泣いているのかわからない。
「言葉の綾ってものでしょ」
そうだね、と言って差し出された左手の薬指に、そっとリングを通す。