ひかりの悩み事

(著者)烏目浩輔

 住宅メーカーの営業職に就いて五年。二十代後半の藤谷ひかりはおおいに悩んでいた。
 その悩みは前々から身近にあるものだった。しかし、今までは現実逃避して目を背け、するっとスルーできたのである。ところが、ついにそうもいかなくなってしまった。いよいよあれが現実味を帯びて、直視すべき問題になったのである。
 考えても解決策にたどり着けないひかりは、十年来の親友である由美に相談してみた。しかし――。
「ひーちゃん、そんなこと気にしちゃダメだよ。気にしないのが一番」
 そう応じた由美の顔はニヤついていた。
「笑ってるし! 本気で悩んでるのにひどい!」
「わ、笑ってないって!」
 言いながら由美は笑いを堪えていた。こいつはダメだ。相談する相手を間違えた。二度と由美には相談しないと、ひかりは半ば拗ねながら決断した。
 ひかりを悩ましているのは彼氏の浩志(ひろし)だった。
 浩志と出会ったのは大学生のときだ。ある講義でたまたま席が隣同士になり、それがきっかけでよく話をするようになった。そして、いつしか親密な関係になった。
 ただ、席が隣同士になったのは、実は偶然ではなかったらしい。
「前からひかりのことが気になってたんだよ。めっちゃかわいいって。はっきり言えばひとめぼれだな。それで友達に協力してもらって、隣の席になるよう仕込んでもらった」
 あとになってから仕込まれていたと知った。しかし、浩志の話が本当であれば女冥利に尽きる。めっちゃかわいい。ひとめぼれ。そんなことを言われたらキュンである。人差し指と親指をクロスである。
 浩志は彼氏として申しぶんなかった。ほどよく優しいし、浮気はしないし、仕事に真面目だ。しかし、いつしかふたりはいいお年頃になり、とうとうプロボースされたのである。
「ひかり、結婚してほしい」
 結婚となるとあれが問題になる。あれをするっとスルーできなくなるのだ。
 浩志の両親は農業を家業にしている。浩志は大学を卒業してからその家業を手伝っており、いずれは広大な稲田を引き継ぐつもりでいるらしい。ひかりも浩志と結婚すれば、必然的に家業を手伝うことになる。
 農業は『キツい、汚い、危険』のまさに3Kである。だが、ひかりはそれをネックとは思っていない。むしろ、今現在就いている営業職よりも、どろんこになって働くほうが性に合っているような気がする。
 だから、農家への嫁入りは枷になっていない。問題は別にある。
「ひーちゃん、そんなこと気にしちゃダメだよ。気にしないのが一番」
 由美の言う通りだというのはひかりにだってわかっている。しかし、やはり気になる。浩志の名字が……。
 浩志の名字は越(こし)。もし、浩志と結婚すれば、ひかりのフルネームは『越ひかり』になる。しかも、ひかりは新潟生まれの新潟育ちだ。新潟産の越ひかりなのである。さらに、越家の稲田ではコシヒカリを育てている。
 未来のことは誰にもわからない。一寸先は闇とも言う。しかし、順調にいけばひかりはあと六十年くらい生きる。おそらくこの先六十年間、こう言っていじられ続けるだろう。
 新潟産の越ひかりが、コシヒカリを育てている。これはもう悪夢である。
 しかし、その悩みはあっさりと解決した。
 あるときひかりは浩志に気持ちを伝えた。名前が越ひかりになってしまう。ちょっとイヤ。というかだいぶイヤ。すると――。
「いやなら夫婦別姓にすれば?」
「え、いいの?」
「別にいいよ。今どき夫婦別姓なんて珍しくもないし」
 夫婦別姓という方法をすっかり失念していた。こうしてひかりの悩みはあっさり解決したのである。
 いざ解決してしまうと、なんだかバカらしくなった。どうしてこんなことで悩んでいたのだろうか。名前なんてどうでもいいし……。
 別に越ひかりでいいや、と夫婦別姓にする気も失せた。

 結婚式の披露宴のことである。ひかりは新婦の挨拶でこう言ってみせた。
「どうも。新潟産の越ひかりです」 
 生涯通してのお約束ネタが生まれた瞬間である。ちなみに、このとき一番笑ったのは親友の由美だった。しかし、しばらくして彼女は大泣きした。
 披露宴のフリータイム的な時間に、由美は新郎新婦の席までやってきた。そして、涙と鼻水を大量に撒き散らして、嬉しさを大爆発させたのだった。
「ひーちゃん、結婚おめでとう。すっごい綺麗、すっごい嬉しい。ひーちゃんがお米になっても、私たちはずっと友達だからね」
 嬉しく思ってくれるのはありがたい。だが、こいつはやはりダメだ。ひかりは決してお米になんてならないのだ。フルネームが越ひかりになっただけで、結婚しても種族は人間のままである。
「私はこれからも人間だから!」
 しかし、即座にそう抗議した声は、たぶん由美に届かなかった。大泣きする由美つられてひかりも大泣きしていたからだ。きっとちゃんと声になっていなかった。
 ひかりの名前はこの先ずっといじられ続けるのだろう。おそらく六十年以上。だが、いくらでもいじってくれたらいい。どんとこいだ。
 新潟産の越ひかりは、浩志とコシヒカリを作る。なんだったら、新潟で一番美味しいコシヒカリを作ってやる所存である。