コーヒードリーム

ほんまけいこ(著者)

 ガラスの窓に激しく雨が打ちつけて、うす暗い店内には芳しい香りが漂っている。ブルーマウンテンの香りが近づき、感じのいい微笑を浮かべてウエイトレスがヘレンドのコーヒーカップ「ウイーンの春」を目の前に置いていった。
 いつからあるのか分からないほど昔からある古町のレトロな喫茶店。薄暗い店内、私の他は2組のカップルとにぎやかな奥様グループがボックス席に座っていて、品のいい年輩の紳士がカウンター席で新聞を読んでいる。
 カウンターの向こうには数えきれないほど多くのカップが並んでいる。寡黙なマスターはもはや年齢を超越した存在で、今も昔も静かにカウンターを挟んだ別世界にいる。
今でも彼はブラジルが好きなのだろうか?そう、彼はブラジルがベースのブレンド。私はたいていはキリマンジャロ。懐が暖かい時だけブルーマウンテン。あの頃は学生だからお金がなくてブルマンなんてめったに飲めなかった。この店でブルマンを頼むとこの小花模様の器で出てくる。
バイトのお給料が出たときだけ注文したんだっけ。精一杯の贅沢だった。
『ブルマンは貴族の香り。ブラジルは労働者の香り。君は月に一回だけセレブになるんだよね。』
『なに、それ。すごい偏見じゃない』
『月一セレブもいいね、ってこと』
雨足が激しくなった。窓の外に行き交う人が溶けていくみたい。それと同時に苦い思い出がよみがえってくる。
『後悔しないなんて言えるわけないだろ』君は私を見ないでそう言った。見たことないくらい悲しい顔をしていた。一体何で別れちゃったんだろう。卒業して彼は新潟市内の企業に就職、私は地元長岡の製菓会社の工場勤務、会う機会が減り、すれ違いが多くなった。お互い疑心暗鬼になっちゃって。二人とも疲れてしまった。
 あれから5年も経った。実は2回ほど恋もした。私のコーヒーのこだわりを笑う人もいたし、全く興味のない人もいた。でも香りやら味やらをなんだかんだと君みたいに笑って話せる人はいなかった。
『月一セレブの君と万年労働者のぼく』君はそう言って笑ったね。何がおかしいのかわからなけいど私も笑った。
 何で今頃手紙を出したんだろう。携帯電話の番号もメアドも変わってたんだから手紙出すよりなかった。訪ねていく勇気はなかった。彼が今でもあのアパートにいるかどうか半信半疑だったのに。手紙は戻ってこなかった。
「私のこと覚えていたら、10月8日2時に『ウイーンの春』に来てください。」
ばかだよね。何でいまさら。でも、なんて書けばいいか分からなかった。多分彼には彼女がいるだろう。まさかとは思うけど結婚しているかもしれない。いいんだ。ただ、ここでもう一度彼とコーヒーを飲みたかっただけ。休日に呼び出すなんて、予定あるに決まってるじゃん。彼女とデートの約束があるかもしれないし。来れないなら来れないでいいんだ。自分への言い訳。それでも来てくれるなら・・・時計はもうすぐ2時。私ってほんとばか。来るはずないじゃない。それでも心のどこかで激しく期待してる。その反面、来たらどうしようとも思っている。曇りガラスの向こうはまるで私の心を映し出しているみたいに激しい雨が降っている。天気も最悪。
 2時。胸の鼓動が激しく打っている。外の景色から目を離し私は目を瞑った。ブルーマウンテンの香りが鼻から体中に広がっていく。今、雨の中早足で駆けてくるあなたの姿を思い描いている。ドアがギーと開く音がする。まさかね。ブルマンの香りに全身を委ねる。
足音が聞こえる。その足音は私の前で止まる。そっと目を開けると照れたような笑顔を浮かべた君がいる。とまどうほど大人びて見える。視線がテーブルの上の私のカップに移動する。
 やっぱブルマン?君の口がそうつぶやくのが聞こえた。