その夜桜は門出の花

著者) 北野椿


「桜を見に行こう」
 彼のその一言に頷いただけで、まさか新潟県まで連れて来られるとは思ってもいなかった。最寄りの東京駅で落ち合って、八重洲中央口でいつも通り定期券を出した私の手の上に、彼は新幹線の切符を乗せた。印刷された「上越妙高」の四文字に目を見張る間もなく、彼は私のもう一方の手を握る。中央北口へと歩き出した彼の背中に「本当に?」と思わず投げかける。歩みを止めずに横顔を見せた彼は「本当だよ」と優しく笑った。
 北陸新幹線はくたかに乗って上越妙高駅までは二時間、そこからタクシーを拾って高田城址公園に着いたのは二〇時半を回る頃だった。車中で、ライトアップは二一時までだと聞かされたときは呆れてしまったけれど、急ぎ足で駆け込んだその場所は桃源郷のような美しさだった。所々星を散りばめながらも漆黒に広がる空が、照らされて浮いた桜の桃色を際立たせている。満開の花びらを時よりそよ風に震わせる桜は、見上げて歩く人達に微笑みかけるようだった。足取りは自然と遅くなる。いつの間にか、右手に慣れ親しんだ温かさがあった。節くれだっていて、強すぎず握っていてくれる彼の手だ。視線を移すと、前に進もうとでもいうように、彼が目配せをする。しだれ桜に目を奪われて思わず歩みを止める人の間を、私たちは縫うように進んだ。
道が広がり、開けた空間の先に一際目を引く薄紫があった。はっと息を飲む。空にあるのは妖艶な桜の川だ。並木が道の両側からアーチのように枝を広げ、その先に咲いた花がうっすらと色づいた光で照らされている。桜と言えば白か薄桃色で陽の光に良く映える。太陽のもとで見る桜が一番だと私は信じて疑わなかった。目の前に広がる薄紫の桜は、穏やかな春の訪れを祝うあの天真爛漫な昼の桜とは一線を画している。木々の間から妖が手招くような怪しい色気は、私の中にあった夜桜のイメージを一瞬で塗り替えた。
「綺麗だよね。大人の桜って感じ」
 立ち尽くす私の傍らで、彼が溜め息を漏らした。いつも飄々として掴みどころのない彼から零れた素直な言葉に、私は思わず彼を覗き見る。仄かにライトに照らされて、いつもよりも血色がよく見えるけれど、細めた目元にはうっすらとくまがあった。仕事が忙しいらしく、会うのはふた月ぶりだ。しっかり寝られていないことは、顔を合わせたら一目瞭然だった。話せばその顔に浮かぶ表情や纏う微笑みで誤魔化されてしまうけれど、何もしていないときの彼は酷く疲れた顔をしている。さっと一陣の風が吹いて、桜の花びらがはらはらと降った。散る桜と身を削る彼が重なって見えて、繋いだ手を握りしめる。
「どうしたの」
 不思議そうにこちらを向いた彼は、私の不安が伝わったのか宥めるように微笑んだ。この人にもう微笑ませてはいけないと思った。
「お仕事、まだ忙しい?」
「もうしばらくはね」
「それなら」
喉の奥で言葉がつかえる。「それなら?」と不思議そうに繰り返した彼の瞳を見返した。
「私と一緒に暮らしてください」
 彼がぽっかりと口を開けた。今まで見たことのない間の抜けた表情に、思わず口元が緩んでしまう。
「私の家の方が会社に近いし、眠れないほど忙しいなら、家事は私がやるから。だから、なるべく自分の身体を大事にしてほしいの」
 戸惑ったように視線を動かした彼は、「わあ、そうきたか」と呟いて、自由になっている手で頭を掻いた。受け入れられない話だっただろうか。見切り発車で提案してしまったことに後悔が過る。不安を抱きながら見つめていると、手を上着のポケットに突っ込んだ彼と再び目が合った。
「これ」言って
 そう言って何かを差し出した彼の手を見る。小さなベルベット生地に包まれた箱を彼は握っていた。
「指輪は好きなものを選んだ方がいいと思って、ネックレスだけど。仕事が落ち着いたら、結婚してほしい」
 そっと彼に手を離されて、私は両手で箱を開けた。一粒の宝石が、何重にも輝きを放っている。「俺たち花見で知り合ったから、桜が綺麗なところがいいと思って」と言葉を続ける彼の顔をぼんやりと見つめてしまう。次第に目頭が熱くなって、頬を伝ってからようやく涙だと気づいた。両手で拭っていると、彼がハンカチを手渡してくれた。
「変に心配させて悪かったよ。家の事は困ったら代行サービス頼むし、そういうのは抜きで一緒にいてほしいんだ。伝わってるかな」
 答えようとすると変な声が出てしまいそうで、彼の言葉にただ頷いていた。それでも心配なのは変わらないから、同棲の前倒しだけは譲らないと心に誓った。