ヤキモチ焼き

(著者)せとやまゆう

 駅前にある、大判焼き屋さん。黒あん、白あん、カスタード、抹茶クリーム、タレカツ、イタリアン・・・。色々な味が楽しめる。生地には、新潟県産の米粉が練り込まれていて、モチモチ。もちろん、全部おいしい。でも、今日はどれも注文しない。この店には、裏メニューがある。

「いつもの、ひとつ」
 私は小声でささやく。
「180円」
 店主のおばちゃんは、真剣な目をして言う。私は100円玉を2枚、トレーの上に。
「20円のおつりね。さあ、準備はいい?」
 そう言いながら、おばちゃんはピンク色の焼き器を用意した。
「はい、お願いします」
「それじゃあ、思い浮かべてみて」
 
 私は目を閉じて、今日の出来事を思い返した。好きな人が、他の子と話している場面。とても、楽しそう。デレデレしちゃって、最低。見たくないけど、気になっちゃう。気になっちゃうけど、見たくない。クシャクシャになって、乱れる心。必死に、興味がないフリをしてた。あー、思い出したらイライラしてきた。頭が熱くなっているのがわかる。

「それっ!」
 私の頭上で、おばちゃんが焼き器を振り回した。
「オッケー、つかまえた。焼いちゃうね」
 ジューッ・・・。いい音がする。

 ゆっくり目を開けると、心が穏やかになった。
「また、いつでもおいで」
 おばちゃんは、微笑んだ。
「ありがとうございました!」
 そう言って、私は店を出る。おかげで、あの人の前で素直になれる。変な意地を張らずにね・・・。

陽の花に溺れる

(著者)ramune

 四月の中旬頃、桜は散り始め、太陽がたくさん顔を出す時期。

 雲一つ無い快晴の日、菜の花を見に行った。
 『福島潟』という場所は、一面に菜の花が咲き誇っていた。
 一つ一つが「私を見て」と主張するように上を見上げている。
 疲れ切って根本から折れている花に、私はそっと手を伸ばす。
 近くに居た警備員らしき人に「この花、持っていっても良いですか」と話し掛ける。
 許可を得てから、私は幼い赤子を抱えるように、その花を両手で抱えた。
 その人は、最後まで不思議そうな顔をしていた。
 周りから見たら変なのかもしれない。
 でも、私は他人の目を気にせずに、菜の花畑の真ん中へと走った。

 本当ならば立ち入り禁止。
 警備員の止める声も聞かず、私は真ん中へ走る。
 でも決して、菜の花は折らないよう。

 陽葵、と大好きな親友の名をそっと呟くように呼んだ。

 茶髪の、雰囲気の落ち着いている陽葵は私を見ると微笑んだ。
 やっぱりあの時と変わってない。

「来てくれたんだね、ありがとう」

 何だかこちらまで眠くなってきそうな声に、少し目眩がした。
 無言で陽葵に折れた菜の花を差し出す。
 驚いたように目を見開いた陽葵は、その後すぐに笑って受け取ってくれた。
 追い掛けてきた警備員は立ち止まっていた。
 みんな、みんな私達を見ている。
 まるで二人の空間にだけ、見えない仕切りがあるみたいだ。
 折れてボロボロになった陽の花を大事そうに抱えた陽葵は、ゆっくり私に背を向けた。

 どこ行くの、と不安になって呼び掛ける。

「どこ行くと思う?」

 いたずらっ子のような笑みを浮かべて、あの時と変わらない姿で言った。
 陽葵はしゃがんだ。
 私からはもう見えなくなってしまう。

 陽葵?、ともう一度呼び掛ける。
 それでも返事は返ってこなくて、涼しい風が吹いていった。
 その風が花を揺らした。
 その花が心を揺らした。

「昔、君とここで遊んだ」

 しゃがんでしまった陽葵は、私には見えない。
 けれど、姿だけがそこにあるように言葉だけが聞こえる。

「みんなに話し掛けても、誰も返事なんてしてくれなかった」

 …どういう事、何を言ってるの、言葉は出ずに頭の中を暴れ回る。

「でも君は、君だけは私に話し掛けてくれた」

 しゃんっ

 鈴みたいな音がして、背中に温もりを感じる。
 陽葵が居る、振り向かなくても分かる事だった。

「振り返らないでね、絶対に」

 しゃん しゃん しゃん

「………陽葵、」

 声が震えた。
 怖くなんかない、陽葵は私の友達だ。

「ありがとう、あの時声を掛けてくれて」

 そっと、私の頬に陽葵の手が触れる。
 腕に折れた菜の花が当たってくすぐったい。

「…ねぇ、変な事聞いても良いかな?」

 嫌だ、聞くのが怖い。
 耳を塞いでここから逃げたい、助けて、助けて……

 陽葵……。

「君の名前、何て言うんだっけ?」

『ねぇ、ねぇってば!』

 ハッとした。
 目の前には心配そうな表情をしている陽葵が立っている。

「っ、」

 さっきの出来事を思い出して、思わず後退りする。

「…大丈夫?」

「…………ぁ」

 まともな言葉なんて、私は考えている余裕すら無かった。
 周りを見渡せば、警備員や他の人はその場から居なくなっていた。
 そして、やっと気付いてしまった。

「ここ…どこ?」

 絞り出した一言は、目覚めた途端知らない場所に居た人が発するものだった。
 陽葵は、目をぱちぱちと何回か瞬きした後、乾いた笑い声を響かせた。

「何言ってるの、ここは…」

 一面には、折れた菜の花が咲き誇っていた。
 何が何だか分からない、今の陽葵は誰なのかも、

 私は誰なのかも、ここがどこなのかも、全部、全部____。

「陽の花の花言葉は、快活、明るさ」

 その花が折れている、どういう意味なのか分かった。
 そして、全部理解した。
 今の陽葵は本物だ、さっきの陽葵は私の想っている陽葵だ。
 明るい陽葵は、知らない。
 そうだ、ずっと友達だと、親友だと思っていた陽葵は裏の君だった。

 じゃあきっと、ここの私も陽葵の想っている私だ。

 ここは現実、さっきまで居た所は私の脳内の中の平和なはずの世界だった。
 ぐにゃりと視界が歪んでいく。
 …ああ、きっと私もこの花達の仲間入りだ。
 最期に、私の前に現れたのは、

 折れ曲がった陽の花を持って微笑んでいる、大好きなはずの陽葵だった。

アシウスギの森

(著者) 中丸 美り

木々が深呼吸する季節になると、風花は落ち着かなくなる。五月に入り、ホームページで「遊歩道オープン」の文字を見つけ、週末には、この森の入口に立っていた。
 この季節の「森」は特別だ。半年もの間雪に閉ざされていた森が、大きく深呼吸するのがこの季節なのだ。
 風花がこの佐渡の天然杉に会いに来るようになって五年経つ。風花は、勝手にこの森の天然杉たちを同士だと思っている。ともにたくましく生きる同士。

 五年前の五月のあの日も、風花はこの森の入口に立っていた。
 一週間前に会社を辞めたばかりだった。いわゆるブラック企業だった。おまけに、会社を辞めたその日に彼氏にふられた。
 何日か悶々とし、風花は、生まれ変わることにした。何か今までにしたことのない体験をして、体の細胞をすべて新しくするのだ。そこで、思い出したのが、数日前に見た雑誌に載っていたこの森の写真だった。思い立った次の日には、この森の入口に立っていた。
 すぐには森に入る勇気がなく立ち止まっていると、一人の男性が声をかけてきた。
「よかったらガイドしましょうか?まだ見習いなので、ボランティアでご案内しますよ」
失礼だが、見習いとは思えない年齢。どう見ても七十は超えているだろう。ただ当然だが足腰はしっかりしているようだ。悪い人には見えない。風花は甘えることにした。
 森に一歩足を踏み入れたとたん空気が変わった。杉の木が何本も生えているのは分かるが、うっすらと霧に包まれ、視界は限られている。風花は、ふと今の自分の心の中のようだと思った。
 ガイドの男性について木道を歩く。
「あの、私、宮村風花といいます。お名前を伺ってもいいですか?」
「サワタリといいます」
サワタリと名乗った男性は、ときどき後ろを振り返り、風花の歩調に合わせて歩いてくれている。
 霧に包まれた杉の木が、近づくにつれて少しずつ姿を現わしてくるが、どの杉も幹が太いだけでなく、その幹の様相、枝ぶりが特徴的だった。あるものは幹がうねり、あるものは枝が折れ曲がり、あるものは曲がった枝がトンネルを作りと、どの杉も一般的な杉とは姿が異なっていた。
 風花は、無意識のうちに、ある杉の前で立ち止まっていた。羽衣杉という札が立っている。それまで見た杉の中でとりわけ太く、枝が四方へ伸びている。ある枝は地を這い、木道のすぐそばまできていた。風花は、その杉の木から何か特別な力を感じた。けっして威圧的ではない。だが、静かに圧倒的な存在感をもってそこに立っている。風花が、言葉を失って杉を眺めていると、サワタリが声をかけてきた。
「びっくりしましたか?ここの杉はアシウスギという杉です。形が悪くて木材にはできないので、伐採されることなく残った杉たちなんですよ。この森は約半年もの間雪に閉ざされます。多い時で五~六メートルもの雪が降る。だからその半年の間は、ここの杉たちにとって試練の時なんです。本来杉は上へ上へと生長していくものです。でも雪があって上へ伸びることができない。だから形を変えて生長するんです」
「形を変えて?」
「ええ、あるものは枝を横に伸ばします。あるものは枝が折れてしまいます。でもそれで終わりじゃない。折れた枝から根が生えて、そこでまた生長を続けるんです」
「折れた枝から根が生えるんですか?」
「ええ。倒れた木の上に杉の種が落ちて、そこから生長するものもあります。まさに生命力のかたまりです」
 サワタリは、いくつかの巨樹の特徴と、名前の由来を解説しながら、風花と一緒に森を歩いてくれた。サワタリの話は、杉のことはもちろん佐渡島の成り立ちにもおよんだ。
 何本もの杉の木を見て、サワタリの話を聞くうちに、風花は、この森の木々は、人間にも似た、いや人間以上の生への貪欲さや無骨さを持っていることに気づいた。悠遠のときを刻む天然杉。それらを、どこか神聖なもののように思っていた風花だったが、いつの間にかある種の親近感さえ覚えていた。
 生まれ変わらなくてもいい。上へばかり伸びなくてもいい。上に伸びることができなければ、横でも下でもいい。自分なりのやり方で、自分の思う方向へ進んでいけばいい。進めない時は休んで、自分の中に力を蓄えればいい。風花の心の中の霧が晴れていくようだった。
 森を抜けて現実世界に戻ってきた。陽光がまぶしい。
「サワタリさん、記念に写真撮らせていただいていいですか」
スマホを取り出し、顔をあげた。サワタリがいない。今一緒に森から出てきたばかりのはずだ。しかし、辺りを見渡してもサワタリはどこにもいなかった。
 風花は、サワタリの知識が見習いのそれではなかったこと、天然杉を見る目、語る口調が、家族や友人に対するもののように優しく温かかったことに気づいていた。

 あれから五年。風花は新しい会社に就職した。佐渡島のアシウスギたちのように、たくましく生きている。今年も同士たちに会いに行こう。風花は、森に一歩足を踏み入れた。

海の上のバレリーナ

(著者) 中丸 美り

 海に面した壁の大部分を占めるはめごろしの窓。縦二メートル、横三メートル程の一枚ガラスの窓だ。この店の、唯一の宮村のこだわりだ。かなり値が張る買い物だったが、これだけは譲れなかった。
 この地に移り住んで六年、この海岸沿いにカフェをオープンして五年になる。六年前、宮村は会社員だった。ある日、偶然見かけた海の画像。この佐和田の海だった。この海の青に惹かれた。一目ぼれだった。三か月後会社を辞め、全く土地勘のないこの地に移り住んだ。一人暮らしで少々の貯えがあったのが幸いした。古民家を安価で買い、改装した。もちろん宮村の人生最大の冒険だった。
 
 はめごろしの窓からは佐和田の海が見える。遠くに岬がかすんでいる。海は一日のうちに何度もその姿を変えるが、宮村は、中でも昼と夜が交差する時間が、一番のお気に入りだった。海の青と空の青が溶け合うその隙間に、夕日が最後の命を燃やすようにオレンジ色の光を滑らせる。その様は一日とて同じ姿にはならない。毎日姿を変える海を額縁の中で見ることができる。これほどの贅沢があるだろうか。
 オープンして五年、「海の絵のあるカフェ」として、旅行雑誌にも取り上げられるようになり、なんとか暮らしていけるくらいには客が来るようになった。午後のひととき、いつもなら客が途絶えることのない時間帯だが、今日は、誰もいない。
 目の前の海は、今日は凪いでいて、春の日差しがで踊っていた。
 とその時、入口のドアが開き、一人の少女が入ってきた。初めて見る顔だ。少女は、遠慮する様子もなく店の中に入り、一通り中を眺めた後、窓際の席に座った。アップにした髪は大人びて見えるが、眼差しにはまだ子どもっぽさが残り、大人でも子どもでもない微妙なバランスを保っていた。ピンと伸びた背筋に、静かな意志を感じた。制服を着ている。高校生か。この辺りでは見かけない制服だ。
 宮村は、突然の来客に驚いて言葉を失っていたが、ようやく我に返り言った。
「いらっしゃい」
「コーヒーって苦い?」
「えっ?」
「コーヒー飲んだことないんだ」
 少女は、今時の若者らしく遠慮がない。
「じゃあ、オレンジジュースにしますか」
「コーヒーちょうだい。お砂糖とミルクつきで」
「かしこまりました」
 少女の注文通りコーヒーを淹れ、少女の席に運んだ。

「ねえ、海の上の群舞見たことある?」
 ふいに、少女が尋ねた。
「グンブ?」
 とっさに漢字が浮かんでこない。
「そう、群舞。『群れる』に『舞う』。この海には特別にたくさんのバレリーナがいる。」
 少女が窓から海を見ながら言った。
「昔からね、凪いでる海を見てるとバレリーナの群舞が見えるの。足先が海の上で動いているのが見えるの。どんなに凪いでいても、はかすかに動いていて……。強く弱くリズムを刻んで、高く低く跳んで、揃っては別れて、近づいては遠ざかって、一糸乱れぬ群舞……」
 少女は今まさに目の前の群舞を見ているかのように、半ば夢見心地な眼差しで海を眺めていた。
 宮村は、ふと、この眼差しを、いつかどこかで見たことがあるような気がした。そう、あのとき。娘の莉生を海に連れて行ったとき……。
 莉生と会わなくなって十年以上経つ。妻の景子とは結婚して十年も経たないうちに別れた。その時一人娘の莉生は五歳だった。莉生は妻が引き取った。もともと仕事が好きだった景子は、実家の援助も受けて、フルタイムで働きながら娘の莉生を育てているはずだ。宮村は、今もわずかな額の養育費を毎月振り込んでいる。
 景子と別れてから、莉生とは一度も会っていない。だから、宮村の中の莉生は五歳のままだ。

「あたし、大きくなったらバレリーナになるの」
 海を見ながら莉生が言った言葉が蘇る。娘がバレエを習い始めて間もない頃だった。あの時のあの海は、どこかしらこの佐和田の海に似ていたような気がする。
「ほら、パパ。バレリーナのお姉さんたちが、海の上でおどってるよ」
 五歳の莉生には本当にバレリーナが見えていたのかもしれない。

 もしかして莉生なのだろうか。今ちょうどこの少女ぐらいのはずだ。いやそんなはずはない。自分に都合のいい発想に呆れる。莉生が住むのは遠くの町。こんな平日にこんな離島の海辺までやって来るはずがない。

 少女は、コーヒーにたっぷりとミルクと砂糖を入れ、満足そうに飲んだ。ときおりカップを置いて、海を眺める。
 黙ってコーヒーを飲み干した少女は、立ち上がり会計を済ませた。入口のドアを開けながら、宮村のほうを見て言った。
「ここの海、あの時の海に似ているね」
「えっ?」
 少女は、かすかに微笑んでみせたが、その微笑みはドアから入ってきた汐風と一緒に消えてしまった。気づくと少女はいなくなっていた。
 
 しばらくして我に返り、宮村は店を飛び出した。店の前の道路を左右眺める。車が何台か通ったが、少女の姿はなかった。街中に続く脇道に出てみたが、やはり少女の姿はなかった。
 店に戻り、額縁の中の海を眺めた。もうすぐ昼と夜が交差する時間だ。青かった海と空はその色を変え、境目が溶け始めていた。

各駅停車

(著者) 中丸 美り

 西へ向かう列車は海沿いに出た。日本海を眺める。水面はどこまでも美しく、わずかな風に水の粒を煌めかせている。日本海というと寂しさの代名詞のように言われることが多いが、この季節の日本海は穏やかで、どこまでも凪いでいて景子は好きだった。
 しかし、今眺める日本海は、景子にとってどこか遠い異国の海のようにそっけなかった。
 景子は、自分がそのような境遇に身を置くことになろうとは、かけらも思ったことがなかった。小さいころから優等生で曲がったことがきらい、といえば聞こえがいいが、実のところ周りの目が気になるただの平凡な人間だった。
 ところが、妻子のある人を好きになってしまった。そして、妊娠。分かったのは一週間前だった。
「三か月です。おめでとうございます」
 産婦人科の医師の言葉を、景子は、どこか遠いところから全く知らない人に起こった出来事のように聞いていた。
 日常から逃げ出した。会社には、たまっている休暇を消化すると言って休みをとった。小さな命が、景子の一存でどうにでもなるという、責任の重さを受け入れることは、今の景子には難しいことだった。
 そして、景子はどこへ行くともなく電車に乗った。各駅停車の電車だ。景子の心の波を鎮め、そして、決断するためには時間が必要だった。
 長岡駅から電車に乗った。しばらく内陸部を走る電車は、柏崎から海沿いに出た。
 青海川駅から親子連れが乗ってきた。通路をはさんだ反対側のボックス席に座った。小さな男の子と母親だ。男の子は三歳ぐらいだろうか。母親は、景子より幾分年上だと思われた。
 母親は、飾り立ててはいないが薄化粧をしていて、子育てに忙しい中でも、自分を大切にしていることがわかった。息子に注ぐ視線が優しい。
 景子は、自分でも気づかぬうちに男の子をじっと見ていた。それに気づいたのか、男の子が、景子に向かって笑顔を作ってみせた。自分以外の人間を無条件に信頼している透き通ったまなざし。もし、自分の中の小さな命が、みなに祝福されて生まれてくるとしたら、小さな男の子に笑みを返せたことだろう。だが、どうしてもできなかった。母親は、景子のことをただの子ども嫌いの女だと思ったのだろうか。息子にお利口にするように言っている。
 男の子は、窓の外を見ては、母親に何か言っている。景子は、その後も無意識のうちに、ちらちらと何度も親子に目をやっていた。
 しばらくすると、男の子が景子のところにみかんを持ってきた。小さな手に小さなみかんが乗っている。冷凍みかんだろうか。顔を上げると、母親が
「よかったらどうぞ」
 と声をかけてきた。景子は
「ありがとうございます」
 と返事をしつつ、男の子を見た。すると、男の子は、景子に向かって、思いがけないことを口にした。
「お姉ちゃんもおなかに赤ちゃんいるの?ぼくのお母さんね、こんど赤ちゃん生むんだよ。ぼくの妹だよ」
 男の子の瞳に戸惑う景子の顔が映っている。何も言葉を返せないでいると、母親があわてて謝った。
「すいません。若い女の人を見ると、みんなおなかに赤ちゃんがいると思ってるんです。まあくん、ごめんなさいは?」
 まあくんと呼ばれた男の子は、何がいけなかったのかわからないという顔をしている。
 次の瞬間、景子は自分でも思ってみなかったことを口にしていた。
「そうだよ。お姉ちゃんもおなかに赤ちゃんいるんだ。まあくんの妹さんと同じだね」
「うん、おんなじだね」
 男の子は嬉しそうに座席にもどった。母親は半信半疑の表情だ。本当にこの女性が妊娠しているのか、息子をがっかりさせないように話を合わせてくれているのか。
「私も来年、母親になります。初めての子どもです」
 今度は、はっきりとした意志を持って景子は母親に言った。
「まあ、同じですね」
 母親がほっとしたように笑顔になった。
「はい」
 景子もぎこちない笑顔を返した。
 もらったみかんの皮をむく。季節外れのみかんは思った以上に甘く、冷たく、景子の口の中で溶けていった。
 何駅か過ぎ、犀潟駅で親子連れは席を立った。
「おねえちゃん、ばいばい」
 男の子が手をふった。母親もわずかに頭を下げた。親子は、ほんのり甘いみかんの香りとともに電車を降りていった。

 あれから三十年の月日が流れた。景子は、あの時と同じ各駅停車の電車に乗っている。景子は一人で息子を育て上げた。あの日、景子の人生の傍らを通り過ぎて行った親子を思い出す。景子にほんの少しの勇気と幸せをくれた。
 息子は、今年人生の伴侶を見つけ、我が家を巣立っていった。何年振りかで一人暮らしになった景子は、気づいたら、あの時の電車に乗っていた。
 自分の人生は、各駅停車だと景子は思う。少し走って、少し止まって、景色を眺めて、また走り出して……。これからもゆっくりと生きていこう。景子は窓の外の海を眺めた。
 あの日、景子から顔をそむけていた海は、今日は優しいまなざしで景子を包み込んでいる。どこまでも穏やかな海は水面に無数の光のリボンを躍らせている。

鉛筆

(著者) 若杉圭

 海に面したその町の丘の上に、先生の家はあった。
 二階の書斎からは日本海が一望できる。
 その日も、佐渡へと向かうフェリーがゆっくりと海を渡っていくところだった。

 夕日がね、下からやって来るんだよ。
 いつだったか、先生がそんなことを言っていた。夕日に顔を赤く染めながら。

 先生が死んだということを、私はだいぶ後になってから知った。

「そのままなのよ」
 弔問に来た私を書斎にとおして、洋子さんがそう言った。
「でもよかったわ、由香ちゃんが来てくれるのなら、そのままにしておいて」
 木製の書架を満たしている夥しい数の楽譜を、私はずいぶん久しぶりに見た。

 机の上の楽譜も先生が置いたままなのだろう。
 Pergolesi, Stabat Mater

 開いてみると、無数の書き込みが見える。8分音符ごとに振られた数字、ブレスの追記、6種類に分けられた独特の音色記号、強弱の変更、フレージングの注意事項。
 全然変わっていない。
 団員には伝えられない指揮者用の記号さえ、まったく同じだった。
 それらひとつひとつに込められた意図が、私には今でもはっきりと分かる。
 不意に涙が浮かんで、こぼれそうになった。

「その曲も演奏はできなかったわ」
「そうですか」
 Eja Materが始まったばかりの頁で書き込みは終わっていた。

 机の端には、いまも青い電動式の鉛筆削りが置かれていた。
「いつ買ってきたのかしらね、そんなのがあるって気がつかないでいたのよ」
 私が見つめていたせいだろう、洋子さんがそう言った。
「お葬式の後よ、気がついたのは」
「そうなんですか」
 やっとのことで、私はそれだけを言った。

 先生の書き込みがわからない時がある。
 そう先生に言ったことがあった。
 なんで?
 と、先生は聞いた。
「先生のその丸まった鉛筆のせいですよ」
 私はそう言った。
「そうかなあ、僕のメソッドが理解されていないせいじゃない」
「鉛筆使いのメソッドですね、わからないのは」
 大学で先生の指導を受けていた私は、まだ卒業もしないうちから、先生の合唱団に参加した。アマチュアのその合唱団のなかで、先生の指示を団員に伝えるのがいつの間にか私の役目になった。

「だいたい、鉛筆じゃないとダメなんですか?」
 私がそう言うと
「鉛筆じゃなきゃ・・・」
 先生はそう言ってから、手に持っていた鉛筆を削り始めた。小学生が筆箱のなかに入れてあるような、プラチック製の小さな鉛筆削りだった。それに鉛筆を突っ込んで、面倒そうに回転させているところだった。
「鉛筆削り、そんなのしか無いんですか」
「だって、ほかにどういうのがあるの?」
「鉛筆を入れると、がーって、機械が削ってくれるの、あるじゃないですか」
「へー、そんなのある?」
「知らないんですか」
 私は驚いてそう言った。
(ほんとに、なんにも知らないんだな、先生って。私のことだって)

「気が済んだら、下に来てね、お紅茶あるから」
 そう言うと、洋子さんは書斎から出て行った。

 青いその電動式鉛筆削りは、先生のお誕生日プレゼントとして私が買ったものだった。もうとっくに誕生日は過ぎていたけれど。
 あの日、先生の書斎にあった鉛筆という鉛筆を、全部私が削ってあげた。
「もう当分、鉛筆削りはしなくてもよさそうだね」
「だめですよ、すぐ丸くなっちゃうんですから、ちゃんと削ってくださいよ」
「面倒だなあ」
「じゃあ・・・」
 そこまで言って私は思わず黙ってしまった。
(じゃあ、私がいつも来て、削ってあげますよ)
 そう言おうとしたのだった。
 ん?
 と先生は言ったきりだった。

 鉛筆削りの表面を覆う青い塗料は、ところどころ剥がれ落ちて、金属の地肌をわずかに露出させていた。下の方に、削り屑を入れるプラスチック製の容器が装置されている。半透明のその容器を何気なく引き出して、私は思わず、あっと声を上げた。泡でも吹き出すみたいに、詰め込まれていた削り屑が溢れて机の上に広がったのだ。
木片の生々しい匂いが立ち上がった。

(こんなに、たくさん)
 削った鉛筆で、いったい何冊の楽譜に先生は書き込みをしたのだろう。

 机の上に置かれた楽譜を、私はもう一度開いてみた。2Bの鉛筆で書かれた記号が、つぶれることなく、はっきりとした線で描かれている。間違いなくそれは、削られたばかりの鋭利な鉛筆の先端が描いた線だった。

(鉛筆使いの、メソッド)

 たちまち涙があふれ、楽譜の文字が滲んでいった。
 その日、私は初めて声をあげて泣いた。

 それからどれぐらいの時間が経ったのだろう。部屋の中が少しだけ暗くなったようだった。太陽が水平線へと沈むところだった。

(もう行かなくちゃ)
 私は削り屑をゴミ箱に入れて書斎を出た。

 書斎に続いている廊下は、西側の小さな窓から射し込む夕日で真っ赤に染められていた。

 階段を上ってきた先生が、ちょうどその窓を背にして、ゆらりと大きな影を、その赤く染めぬかれた廊下に落としたものだった。

 ほらね、夕日が下からやって来るだろう。
 先生の声が聞こえたような気がした。

 赤いその光のなかに、私はいつまでも立ちつくしていた。

予感

(著者) 圭琴子

 SNSの普及で、最近は『顔を知らない』『名前を知らない』『何処に住んでいるのか分からない』友人というものが増えてきた。
 私のフォロワーさんは、三百人弱。ひと言も交わしたことのないひとも居れば、毎日冗談を言い合うひとも居る。
 広告代理店で働く私は、時々SNSでも企画をするのが好きだった。年末のお歳暮の季節、ふと思いついたことがある。思い立ったが吉日。私は、スマホに指を走らせた。
『値段を決めて、お歳暮を贈り合いませんか? 地元の名産品なんかどうでしょう。興味のある方、リプください』
 いいねが、ポツリポツリとつく。でもリプはない。お風呂に入ってから確認したら、DMが一通届いていた。
 差出人は、『ひろりん』さん。たまにいいねをくれるひとで、特に親しいという訳ではなかったから、意外だった。
『今晩は、アビさん。お歳暮企画に興味があってDMしました。二千円くらいならぜひ参加したいと思うのですが、いかがでしょう?』
 うん、ちょうどいい額だな。すぐに賛成の返事をして、盛り上がる。ひろりんさんは、楽しいひとだった。
『ちなみにわたし、群馬です。まさかと思うけど、かぶったら目も当てられませんね笑』
『お! ニアピンですね! 私、新潟です。確認しておいて良かったですね。お隣とはビックリ』
 夜遅かったので、その日はそれくらいで話を終わらせ、就寝した。

 ひとに贈るプレゼントを考えるのは、楽しいものだ。あれこれ調べて、二千円前後の名産品を探す。嫌いなものや嗜好品をお互い確認すると、自然と候補は絞られた。
 ひろりんさんは、甘いものが好きだという。それなら、選択肢はひとつだ。
 新潟銘菓、笹団子。越後の上質米を原料に、ヨモギを加えた餅につぶあんが入った、もっちり美味しいお団子だ。それを香り豊かな笹の葉で包んだ、歴史ある和菓子。
 冬だからクール便じゃなくても良いかな、などと考えていたら、ひろりんさんからDMが届いた。
『アビさん、わたし、出張で新潟に行くことになりました。もしよかったら、直接手渡ししませんか?』
 仕事中にも関わらず、笑ってしまう頬をこらえて返信する。
『良いですね! 私はその日休みなので、狭いんですがうちにご招待しますよ。まだ宿が決まっていなければ、泊まっていってください』
 ひろりんさんは、喜んでその提案を受け入れてくれた。

 待ち合わせは、新潟駅の新幹線コンコースにある忠犬タマ公像前。
 十九時半。帰宅ラッシュで、たくさんのひとが通り過ぎていった。
 ……ん? 人波も途切れて、ふとさっきから少し離れたところに立っていた長身の青年が気になり始める。チラチラとうかがっていると、バチっと目が合った。まさか。
「あの……失礼ですけど、アビさんですか?」
 先んじられて、自分の思い込みにめまいがする。
「はい。ひろりんさんですか?」
「はい。初めまして。でも……参ったな。アビさん、よく『俺』って言うから、男性だと思ってました」
「私も……ひろりんさんのアイコンが、ピンクの服で猫を抱いてる感じだったから、女性だと思ってました……」
「実家の猫を抱いてる、妹の写真なんですよ」
「はあ」
 兎にも角にも、徒歩十分のマンションに向かい、改めて自己紹介をする。
「鵜飼成恵(うかいなるえ)です」
「佐々木弘樹(ささきひろき)です」
 そして本題、お歳暮交換をした。弘樹さんからは、お酒の肴(さかな)にぴったりな、生ハムタイプの味付きこんにゃくを頂いた。私が、お酒が好きだって言ったから。
「新潟のひとの口に合うか分からないけど、群馬の地酒も持ってきました」
 弘樹さんはコーヒーと笹団子、私は日本酒とこんにゃくの、奇妙な宴が始まった。笹をほどいてひと口頬張り、相好を崩す。
「美味い! 素朴な味わいですね。餅の食感も良い。わたし、甘いものが好きだけど甘過ぎるものは苦手っていう我が儘だから、凄く美味しいです」
「良かった」
 和やかに話が弾んだが、ふと弘樹さんが声を上げる。
「そう言えば……独り暮らしの女性の家に、泊まる訳にはいきませんね。宿を探します」
 手分けして電話をかけたけど、ビジネスホテルに空きはなかった。かといって、シティホテルに泊まるほどの持ち合わせはないという。意を決して私は言った。
「あの……弘樹さんのこと、悪い方だとは思ってません。もしよければ、泊まって頂いても」
「え、良いんですか? わたしは構わないのですが……」
 お風呂をご馳走して、八畳の寝室に布団を並べる。恐いとは思わなかった。電気を消して、暗闇の中ささやき合うのが、何だか修学旅行みたいで楽しかったくらいだ。
 やがてウトウトとまどろむ耳に、弘樹さんの声が木霊する。
「成恵さんは、お付き合いしてる方は、いらっしゃるんですか?」
 駄目だ……眠い。
「成恵さん? ……寝ちゃったかぁ。でもまずは、お友達からじゃないと失礼だよなぁ」
 弘樹さんが、小さく独りごつ。
 不思議だ。初めて会ったのに、こんなに安心感のあるひとは居ない。
「おやすみなさい、成恵さん」
 おやすみなさい、弘樹さん。心の内で呟いて、何かが始まる予感に口角を上げながら、私は心地良く眠りのふちに落ちていった。

利き酒の出来る女

(著者) 圭琴子

「うわっ……」
 思わず、声が出てしまった。
 東京でひとり暮らしの岩飛(いわとび)は、女性週刊誌で誌面半分の小さなコーナーを任されていた。各地の地酒を紹介したり、日本酒を使ったオリジナルのカクテルレシピを考案するのが主な内容だ。
 今日は、コーナー一周年記念の取材に、念願の新潟を訪れていた。日本酒の生産量は全国第三位だが、七〇年代に『幻の酒』として注目され地酒ブームの火付け役となった、越乃寒梅(こしのかんばい)の大ファンだからだ。
 もちろん東京でも?んだことは多々あるが、酒蔵(さかぐら)と契約して出来たてを提供するという日本酒バーでひと口やって、出たのが冒頭の感嘆符だった。
 カウンターを挟んで正面でグラスを磨いていたマスターが、レンズ越しに目を細める。
「どんな褒め言葉より、嬉しい反応ですね」
「あっ、すみません。あんまり美味しくて」
 岩飛は、タブレットに簡潔に感想をメモしながら、開店前に取材に応じてくれたマスター、船村(ふなむら)に質問する。
「東京で?むのより、とてもフルーティな感じがするんですけど……秘密は何ですか?」
「僕が謝る番ですね。すみません、企業秘密なんです」
「なるほど」
 ふたりは顔を見合わせて、朗らかに笑い合う。
 岩飛はこんな商売をやっているが、人見知りで口下手なのが悩みだった。だが趣味の話が思いがけず弾んで転がるように、取材でそのコンプレックスを感じることはない。
 それに。再びグラスに口をつけてから、岩飛はチラリと船村を盗み見る。
 三十代後半とおぼしい面差しには、年相応に小じわが刻まれ柔和だが、フレームレスのスクエア眼鏡が知的な渋みを演出している。
 ――タイプかもしれない。
 岩飛は惚れっぽい方ではないのだが、何だか鼓動が騒ぐのを感じていた。
「本場でやってみたかったんですよね。?み比べ」
「ほう。岩飛さん、お強いんですね」
「トビって呼んでください。あだ名なんです」
「では、トビさんですか。全種類いきます?」
「もちろん!」
 越乃寒梅は、日本酒のランク、精米歩合別に六種類あるのが特徴だった。
 嫌味でない程度のうんちくと共に提供される一杯一杯を味わいながら、船村とのふたりきりの語らいは心地良く岩飛を酔わせるのだった。
    *    *    *
 『越乃寒梅』を本場でテイスティングするのは、私トビの夢でした。
 日本酒バー、その名も『KANBAI』のマスター船村さんの耳心地の良いうんちくと、これも新潟名産こだわりの柿の種が添えられた越乃寒梅は、まだ十五時だというのに深い大人の時間を味わわせてくれました。
 原料米『五百万石』の持つ特性を活かしきり、淡麗辛口の中にもそれぞれ甘みや旨みがしっかりと立って、個性が表現されています。
 新銘柄『純米吟醸 灑』で感じたのは、現代的ですっきりとした味わい。それでも越乃寒梅らしい日本酒本来の旨みはしっかりと感じ取れます。
 昔ながらの味わいを連綿と守りつつも、時代に合わせて進化を遂げている『越乃寒梅』。これからも歴史に名を残す銘酒なのだろうと、確信したテイスティングになりました。
 ――ライター:岩飛亮子
 私信。蛇足になりますが、六番目に出されたお酒が、一番最初にも出された『普通酒 白ラベル』でした。
 私を試してらっしゃるのかしら? 船村さん。うふふ。
    *    *    *
 関係者用に送られてきた発売前の週刊誌の記事を読んで、船村はすぐに岩飛の名刺を取り出した。裏面には、手書きの携帯番号。
 あの取材の日から、SNSで交流を持ってはいたが、電話するのは初めてだった。
『……もしもし?』
 受話器の向こうで、少し戸惑ったような応答がある。
「トビさん、船村です。記事、読ませて頂きました」
『ああ、はい。ありがとうございます。感想かしら? お手柔らかにお願いします』
 笑みを滲ませた岩飛だったが、船村は真剣そのものだった。緊張か興奮か、声は僅かに震えて、要領を得ない言葉が飛び出す。
「トビさん、新潟に来られますか?」
『え? いつですか? 私もお酒が美味しくて楽しかったので、是非また寄らせて頂こうと思ってました』
「ずっとです」
『え?』
「僕も楽しかったです。お酒の話も、それ以外の話も。でも僕の条件には『利き酒が出来る女性』というのがあって、この歳まで独身でした。結婚してください。トビさん」
 ひと息にまくし立ててしまってから、急に沈黙が不安になる。五秒待ち、船村は恥ずかしくなって不明瞭に絞り出した。
「あ、あの」
 その言葉を、明るい笑い声がかき消す。しばらく続いて、やがてクスクスと小さくなった。
『ただ利き酒の出来る女性なら、星の数ほど居ると思いますよ。皆さん分かっても、気を遣って言わなかったんじゃないかしら。私が無遠慮だっただけで』
 船村はホッとひと息ついて、言い募る。
「そんなところも好きなんです。本音で語り合えなきゃ、夫婦なんてやってられないんじゃないでしょうか」
『船村さん、本気ですか?』
「本気です! 新潟に、来てくれませんか?」
 季節は春。奇しくも、恋の季節だった。
 モミジが紅く染まる頃、日本酒バー『KANBAI』では、沢山のオリジナルカクテルがメニューに加わることになったという。

End.

スワンソング

(著者) 海人

 久しく思い出していなかったその人を夢に見た。子どものようにころころ笑いながら、懐かしい声で僕を呼ぶ。まだ若者だった頃、凍えるような独り身の時期に求めていた、幸せを感じる瞬間だ。

 やがて水面に浮かぶ無数の白鳥が一斉に飛び立った。バサバサと翼を広げ、冬の澄んだ青空を埋めていく。越冬により三千キロも広大な空を翔ける彼らに、我々人間は憧憬や尊敬という念を抱くべきなのではないか。あの頃にはない考えで遥か彼方へ飛んでいく姿を見守る。やがて景色は色褪せ、名もない夢の形は騒がしく始まる日常に消えていく。

「おとなしくするんだ」
 物騒な台詞とともに、ポケットナイフで誰かが誰かを脅している。そんな光景が僕の故郷でもある阿賀野の瓢湖で繰り広げられていた。

 十二月初旬。軽石を蹴飛ばしながら、初雪を観測した湖のほとりを歩いていた。やがて軽石は雪に埋もれる。将来懸命に生きても同じように埋もれていくのかな、と俯き加減の顔を上げると、さっきの光景が視界に飛び込んできた。ドラマの撮影かと思うが、カメラや撮影クルーは見当たらない。目の前のフィクションのような出来事が本当の事件だと考えつくのに時間はかからなかった。

「ねえ、聞いているの。今日は美花を迎えに行ってね」
 妻に言われハッとする。着替えを済ませ、まだ朝食のテーブルの前に座っていた。悠長にしていては会社に遅れるぞ、と思いつつも上手に焼き目のついた食パンに手を伸ばす。
 美花が生まれて五年が経った。僕には不釣り合いな可愛い娘に、どんな時も支えてくれる妻の存在。先ほど夢に見た幸せとは違うけど、今を生きる僕は確かに幸せを掴んでいた。

 サスペンスの世界に迷い込んだようなあの日、彼女に出会った。冬の空気に舞う長い髪に不安げな表情。同じ十七歳のように感じて、緊迫した状況には似つかわしくない親近感が湧いてくる。
「何してるんだ」
 そう声をかけると男は振り返り、こちらを睨めつける。ニット帽を被る男は一回りほど上の年齢を思わせた。悠長に考えている暇はないと気づき、目の前の彼女をどうしても救わなければと思った。それに、最近習い始めたキックボクシングの実技にしては緊張感があるが、その成果を見せるほかなかったのだ。

「どうしても人質になりたかった?」
 思わず聞き返していた。僕たちは湖の近くにある小さな喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
「それにしても、さっきの右キックは強烈だったね」
 儚げな第一印象の彼女とは思えないはしゃぎようだった。格闘技が好きなのかはともかく危険な行動はよしてくれと話すと「ごめんなさい」と頭を下げられた。

 彼女はヴァイオリンを持ち歩いていて、湖のほとりでその音色を聴かせてくれることもあった。「今日がスワンソングになるよ」と時折怖いことを言う彼女を僕は何度も笑い飛ばしていたが、その表情は寂しそうで、いつ彼女がいなくなってもおかしくないような、そんな気さえしていた。
「私たち、白鳥みたい」
 何度目かのデートの時、彼女はそう言った。今頃になってその言葉だけが浮かび上がってくる。当時は何も気にしていなかった。今ではどういう意味なのか、直接聞いてみたい。

 高校を卒業し小さな会社で働き始めた頃、地元の地方紙に数々のコンテストで賞を総なめにした少女が亡くなったという記事が掲載された。彼女と出会ってから聞けずにいた、あの日人質になりたがっていた理由をようやく察することができた。

 その記事は会社で支給された名刺よりも小さくて、そんな文量でしか彼女を語れないのなら記事にするなと腹立たしく思った。「病死」だとか「白血病により」という文字が目に入ったが僕はそれを読む気になれず、すぐに新聞を丸めてゴミ箱に捨てた。

 その後しばらくして今の妻に出会った。長い冬を越え、やっと再会した幸せだった。違いは、愛すると決めた相手が彼女から今の妻になったことだけだった。
「パパとママって白鳥さんみたいだね」
 ほのかに春の息吹を感じ始めた日、小さな手と妻の手が繋がっている姿をぼんやり見ていると、湖に浮かぶ白鳥のつがいを指差しながら美花がそんなことを言った。
 この二羽も、まもなく広い空を求めて飛び立っていくのだろう。二羽はすいすいと水面を滑りながら身を寄せ合っていた。

「おとなしくするんだ」
 聞き覚えのある声がし振り向くと、二十年前も同じことをしていたあの男が懲りずに愚かな行為を繰り返していた。手にはやはりポケットナイフが握られており、向かいには顔ははっきり見えないが、若い女性が追い詰められたような表情で後退りしている。僕は妻へ美花と一緒にこの場から離れるよう伝えると、男の前に飛び出した。
「まだこんなことしているのか」そう告げると、男は一瞥し記憶を辿るような顔つきになる。数秒経ってようやく「あの時のお前か」とだけ言った。

「待ってたよ」
 いたいけな彼女の声が後ろから聞こえてきた。そんなことがあり得るのかと逡巡すれば、二十年前と同じサスペンスの世界に紛れ込んでしまったのだと思えば不思議と合点がいった。

 やがて、水面の白鳥達が意を決するように一斉に飛び立った。その光景を見て、やはりあの時と同じ方法しかないと鈍った足首を軽くストレッチする。そして、僕は彼女のスワンソングを口ずさみながら、三千キロの旅路に幸あれと、渾身の右キックを武器にして白鳥のように宙を舞った。

ハルさん

(著者)七寒六温

 諸上寺公園。
 ここに来るたびに思い出す。ハルさんという女性のことを……

 あれは僕が高校生の頃、嫌なことがあって気晴らしにでもなればと、ベンチに座って桜を眺めていた。死んでもいいなんて思ったのは、人生で2度目だった。

 そんな僕に、1人の女性が声を掛けてきた。
「こんにちは 君は地元の子?」

「あ、はい。生まれも育ちも新潟です」

「あっ、君……」
「ごめんなさいね、私 顔を見たら分かっちゃうの。君、死のうとしてるでしょ?」

 自分では、暗い表情をしていたつもりはないけれど、ズバリ当てられた。正確には、死んでもいいと思っただけで、死のうとまではしていないけれど。

「何があったの? 私でよければ話聞くよ?」

「……いえ、大丈夫です。名前も住んでいる所も知らない人に話すことではありません」

「じゃあ、名前はハルさん。今、住んでいるのは、ここよりずーっと遠い所。年齢は、まあ……58歳になるのかな。これでいい?」
 年齢以外は、正確な情報をもらえていない。その年齢さえも本当のことを言っているようには思えなかった。見た感じ、ハルさんは20代に見えた。実年齢より若く見える事はあるとはいえ、さすがに20代と50代を間違える程、僕は、馬鹿ではない。
 
 それなのに、なぜか僕は、ハルさんのことを信用し、悩み事、思っている事をハルさんに話した。

 何をやっても中途半端で、他人と比べて自分には秀でているものがない事、やりたい事や試してみたいことが阻止されることに対する苛立ち、将来、このまま自分、周りの人がどうなるのかという不安。

 そのすべてを、ハルさんは黙って聞いてくれた。1度も否定することも笑うこともなく、ただ僕の話を一生懸命に。

「すみません。一方的に話してしまって」

「……大丈夫よ。話を聞きたいって言ったのは私だから。ただ、私からも少しだけ言わせて」

「君は、新潟は好き? 地元は好き?」

「あ、はい。もちろん大好きです」

「なら心配することはないよ。そんなあなたのことは、新潟がきっと守ってくれる。大切にしている人に対しては、その恩返しってのは必ずくるんだから……地元ってそういう所よ」

 何にも根拠のない言葉だけれど、その言葉には優しさがあった。この言葉が、僕が求めていた言葉だったのかも分からないけど、心が少しだけ軽くなった、もう少しだけ生きてみようと思った。

「……えっ あれっ?」
 僕が生きようと思った瞬間、役目を果たしたと思ったのか、ハルさんの姿が見えなくなった。ありがとうございますと一言お礼が言いたかったのに。 

 いなくなったという表現よりも消えたという表現の方が正しいのかもしれない。
 ハルさんは、幽霊だったのか、ソメイヨシノの妖精だったのか、瞬間移動が使える特殊な人間だったのか。それは、分からない。ただ、ハルさんの正体が何だったとしても、ハルさんには感謝の気持ちしかない。
 
***   

「ハルさん、元気にしていますか? お陰様であれから8年も生きてます。僕は間違えなくあなたに助けられました。本当にありがとうございます」
 僕は、諸上寺公園に来ると毎回、誰もいないあのベンチに向かってそう挨拶をする。