親友

(著者)如月芳美


 初めてアイツの病室を訪問した。
 日増しに暴力的になって来る日光が、薄手のカーテン越しに遠慮なく差し込んでいる。
 その窓際のベッドにアイツはいた。

「よぉ、武田」

 俺が声をかけると、アイツはゆっくりこちらへ首を回して白い歯を見せた。

「お前練習サボってこんなとこ来てていいの?」
「サボって来るわけねーだろ、今日は休み。それより体調どうよ?」
「ぼちぼち」

 ぼちぼちなんて言葉を使うヤツじゃなかった。いつだって絶好調だった。
 思えば数か月前に体重が落ちて来た時に初めて「ぼちぼち」って言った気がする。あの時もっとしつこく病院行けって言っときゃよかった。
 まぁ治らない病気じゃないし、時間はかかるけど辛抱強く治療するより仕方ない。

「早くお前と走り回りたいよ」
「俺が退院する頃には俺ら引退だろ」
「引退した後でもいいじゃん」
「それもそっか」

 喘息持ちの俺は昔から何かあればすぐに病院へ行っていた。持病がある方がなんだかんだで病院へ行く。だから何かあってもすぐに見つかる。
 武田みたいにまるっきり健康優良児だと、そもそも病院に縁がない。縁がないからちょっとやそっとじゃ行きたがらない。点滴や採血に慣れてる俺と違って、やたらと注射針を怖がったりする。
 案外病気持ちの方がメンテナンスに気を使うから大事に至らないのだ。

「もう夏になんのなー」
「早よ退院しろや」
「ここの夏は病院の方が快適だよ」

 そう言えば去年の夏、コイツは熱中症になったんだっけ。甲府から引っ越してきたばかりの武田は上越の夏を知らなかった。確かに甲府も暑い、だが日本海に面しているここは湿度で殴って来る。それで一発KOだ。

「なあ、覚えてる? 俺が去年熱中症でぶっ倒れた時さ、みんなが水飲ませろって騒いでさ。そんでお前だけが『血中塩分濃度が下がると危険だから、塩分も摂らせろ』って言ったのな。俺、朦朧としながらそれ聞いてて、コイツ冷静だわーって思ってたんだわ」
「そんなこと言ったっけ?」
「言った言った。んでさ、誰か塩タブ持ってねーかって聞いて回って、結局なくてさ。奇跡的にポケットに一粒残ってた塩タブ俺の口にねじ込んで、お前スポドリ買いにコンビニまで走ってくれたじゃん」

 そう言えばそんなこともあったな。

「あとで聞いたんだけどさ、今川のやつ、塩飴持ってたんだわ。だけど俺がぶっ倒れたの見て、自分も熱中症になったらやべえって思ったらしくてその場で食ったんだと」
「信じらんねーアイツ。自分のなんか後で買えよ」
「でもああいうヤツが出世するんだって北条が言ってて笑ったわ」

 それ、万年補欠のお前が言うなって案件だぞ北条。

「それ聞いて体育祭で今川と北条ボッコボコにしてやったの、気づいてた?」
「何それ知らん。いつよ」
「騎馬戦に決まってんじゃん」

 あー。そう言えば武田の騎馬隊は最強だって今川がぼやいてたな。

「江戸の敵を長崎で討ったんかい」
「それな。だけどあいつら弱くて話になんねえ。お前との一騎打ちが一番楽しかったよ」
「俺も俺も! 夏は無理でも体育祭までには退院できるんだろ? また一騎打ちやろうぜ」
「おう」

 そこまで来て武田は少し考えて「だからさ」と言葉を継いだ。

「だから、お前には言っとかなきゃと思ってさ」
「ん? なに?」
「俺、病院嫌いでドックもマトモに受けなかったじゃん?」
「だからこうなったんだろ。反省しろ」
「うん。誰でもやるべき時にやらなきゃならないことがある、それを俺はサボった」

 何を言い出すんだ?

「今やるべきこと。俺は治療。今川は勉強。北条は彼女との仲直り。そんでお前はな――」

 ?

「上杉、検診だ」

コリウスの恋

(著者)つちだなごみ


「ガーデニングなんて、淋しい女がすることよ」
 園芸店の店先で、キャリアウーマンだった母は吐き捨てるようにそう嘲笑った。なんてバカバカしい偏見なんだろう。母の心のフィルターは間違いなく曇っている。中学生だった私は、花を美しいと思えない母を哀れんだ。

***

 今日は朝から日差しが強い。連日の夏日で庭の花たちが水を欲している。外水栓の蛇口をひねる。シャワーノズルを握ると水が噴き出し、小さな虹ができた。シャワーを浴びた花たちはキラキラ笑っている。
 決まった時間に私は庭に出て花に水をやる。朝は8時、夕方は6時。夏の強い日差しを避けるため。というのは口実で、あなたが私の家の前を通る時間だったから。
 真っ白いYシャツ姿のあなたが、自転車を立ちこぎしネクタイをなびかせながら、風のように通りを駆け抜けて行く。寝坊したのかしら。そんなふうにあなたの姿を追うと、その瞬間にこちらを振り返り照れくさそうに笑った。

***

「子どもは私が育てたい」
「わかったよ。おふくろにはそう伝えておく」
 長女が1歳の誕生日を迎えるころ、近所に住む義母が「子守をしてあげるから」と私に働きに出るよう話を持ち掛けてきた。都合のいい時だけ我が家に上がり込み、娘の生活リズムを引っかき回して帰る義母に子守ができるわけがない。

「そろそろ働きに出たいわ」
「君の好きにすればいいよ」
 次女が小学校に上がり、私は時間を持て余すようになってしまった。社会に取り残されているような焦燥感に襲われていた。

「最近体調が良くないの」
「家でゆっくりしたら? 無理に働きに出なくても、僕の稼ぎで充分やっていけるのだから」
 どんなわがままを言っても、夫は私を受け入れてくれる。こうして私はパートを辞めて家に入った。日がな一日ぼんやりと過ごす私を見て「庭に花でも植えてみたらどう?」と夫が提案してきた。
 なんの色もない庭だった。女一人で手入れができる手狭さがちょうどよかった。
 夫は私を自由にさせてくれる。文句も言わなければ関心も持ってくれない。季節に移ろう庭の花々の変化に気づくこともない。私はそれを責め立てることもなく、淋しさを埋めるように花を植えた。

***

「花壇のチューリップがきれいに咲きましたね」
 日が長くなり始めた4月末の夕暮れだった。庭仕事をしていた私に、スーツ姿の男性が声をかけてきた。それがあなたと私の初めてだった。
「今年は春が早かったから咲くのも早かったみたいです」
「新潟は良い所ですね。街の至る所に花が咲いている」
「県外からお越しなんですか?」
「ええ、三年前にここに越してきました。新潟は酒と米ばかりと思っていましたが、チューリップ畑はまるでオランダのようで見事だ」
 無防備なあなたのえくぼが私の目をのぞいた。
「こちらの庭を眺めて通るのも、毎日の楽しみなんですよ」
 色気のないカーキー色のガーデニングエプロンが急に恥ずかしくなった。土で汚れた指先でエプロンのすそを握りしめた。
「花はお好きですか?」
「ええ、花と女性を『きれいだ』と思えなくなったら男はおしまいですよ」
 あなたがそう笑うと、ミモザの葉が風にそよいだ。

***

 私は夢中になって園芸店に通い、季節のポットを買い込んで庭に植えた。
 私は「淋しい女」なんかではない。毎日が輝きだした生活に淋しさのかけらもない。もっと私を見て欲しかった。
 夏の照りつく夕日が、通りを赤く染めた。仕事帰りのあなたが、私を見つけて自転車の速度をゆるめて止まった。
「葉色と模様がきれいですね。なんという花ですか?」
「コリウスです」
「花は咲かないんですか?」
「咲きますよ。でも、花は摘み取るの」
「どうして? もったいないな」
「色あせちゃうんです、葉っぱが」
 自転車を降りて、フェンスに手をかけ不思議そうにコリウスを覗き込んだ。その左手薬指にある指輪は鈍い光を放っていた。
「花の犠牲があるから葉がこんなに美しいの」
 マニキュアを塗り整えた自身の爪を見て、あなたに視線を移した。
「コリウスの花言葉も素敵ですから調べてみてください」
 私を見つめたあなたの頬が、夕日に染まっている。思わず口にした言葉に慌てて目をそらし、シャワーノズルを握った。
 気まぐれな風が一吹きすると、シャワーのしぶきが私のワンピースを濡らした。

長岡花火

著者) 圭琴子


「はい、出来ましたよ」
 着付けもしてくれる美容院で、ヘアセット、ネイル、メイクと共に浴衣も着せて貰い、鏡の前に導かれた。
「うわぁ……」
 思わず、声が漏れてしまう。感嘆の声だ。鏡の中の自分は、別人みたいに綺麗だった。
(これで髪が黒かったらなあ)
 和音(かのん)は、生まれつき髪が茶色いのがコンプレックスだった。同級生たちには羨ましがられたが、高校のとき『生まれつきの色』と学校に認めて貰うまで、親も巻き込んで三ヶ月かかった。
 ついでに言えば、『和音』という名前もそうだ。もっと日本人らしい、『子』とか『美』が最後に付く名前だったら良かったのに、と思ってしまう。
 和音は更衣室を出て、先に着付けを終えて待っていた浩樹(ひろき)の前に出る。彼も明るく声を上げた。
「うお、和音、すっごく綺麗。かんざしもめちゃ似合ってる」
「ありがと。でもやっぱり髪、黒く染めた方が良かったかなあ?」
 和音のコンプレックスを知っている浩樹は、笑って彼女のセットされた前髪を撫でた。
「大丈夫だよ。和音は、茶髪でも黒髪でも可愛い」
 二人は笑顔を見交わして、信濃川に向かうのだった。
 大学の夏休みに海外に行く友人も多かったが、浩樹と和音は新潟を選んだ。日本一、いや世界一とも言われる長岡花火が観たかったからだ。
 浴衣でカロンカロンと下駄を鳴らし、手を繋いで混雑し始めた道を往く。
 河原には簡素な長椅子が、見渡す限り設置されていた。指定席に並んで座り、屋台で買った林檎飴など舐める。
 浩樹の隣には背の高い男性が座っていて、和音と目が合うと、人懐こく歯を見せた。薄暗い中にも金髪だと分かって、和音は思わず身構える。
「コンバンハ」
「あっ、今晩は」
 浩樹が応えている。
「楽シミデスネ」
「はい。僕ら、初めて観るんです」
「オー! 私ハ、第一回カラ観テイマス」
「へえ~。凄いですね」
 和音は、ホッと胸を撫で下ろした。容姿から、外国人に声をかけられることがたびたびあるのだが、英語は話せないからだ。彼が日本語で話しかけてくることに安堵して、和音も会話に加わった。
「今晩は。お国はどちらですか?」
「英国デスガ、神父トシテ、長ク日本ニ住ンデイマス」
「だから、一回目からなんですね」
「ソウデス。焼キ鳥、食ベマセンカ?」
「良いんですか? あ、じゃあ、僕らお酒買い過ぎたんで、ワンカップと交換で」
「オー、オ酒、久シブリデス! アリガトウゴザイマス」
 浩樹と男性が、和やかに物々交換している。
 やがて、花火大会が始まった。音楽と共に、打ち上げ音が大音響で河原に響く。色鮮やかだったり、とてつもなく巨大だったり、ひとつとして平凡なものはなかった。
 世界一と言われるだけあって、「復興祈願花火フェニックス」とアナウンスされた演目は、開花幅が視界に収まりきらないくらい、圧倒的なスケールのスターマインだった。幅、数キロはあるに違いない。
 夢のような時間が過ぎて、音と光の饗宴が終わると、周囲がざわざわとし始めた。硬いものを折るパキッという音があちこちで響いたかと思ったら、沢山のサイリウムの花が咲く。対岸にも灯り、カラフルな蛍のように美しい。
 隣を見ると、男性も古ぼけた大きな懐中電灯を振っていた。
「それ、何ですか?」
 浩樹が訊くと、男性は対岸に揺れる光を観ながら言った。
「花火師サンニ、アリガトウヲ伝エテイルンデス」
「へえ~! 僕らも持ってくれば良かったな」
「うん。来年は、持ってこよう」
 すると男性が、終了のアナウンスを待たずに、立ち上がった。
「もうお帰りですか? 楽しかったです。あの、これ。良かったら連絡ください」
 浩樹は、オフ会などで渡す、SNSアカウントが書かれた名刺を渡す。男性は微笑んだ。
「アリガトウ。浩樹ト、イウンデスネ。私ハ、ジョーデス」
「ありがとうございました、ジョーさん!」
 と、二人で手を振って別れたのが、さっきのことだ。

 ホテルに帰ってくつろいでいたら、LINEの着信音が鳴った。
『浩樹、楽しかったです。和音をよろしく』
 差出人には、『ジョー=船戸=スミス』の文字。それを見て、和音はあっと息を飲んだ。彼女のコンプレックスは全て、ひいお爺さんの代に婿入りしたという、その名前の男性からきていた。
 再び着信音が鳴る。
『和音、君は美しい。胸を張って生きなさい』
 そのLINEに返信しようと小一時間二人で格闘したが、ついにそれは叶わず、いつの間にかメッセージは消えていた。
 和音が母にその不思議な体験を報告したら、こんな返事が返ってきた。
『お爺ちゃんはね、長岡空襲で亡くなったんだよ。長岡花火はその翌年から、慰霊のために始まったの。だからきっと、和音に会いに来てくれたんだね』

 それから毎年、浩樹と和音は長岡花火に通ったが、二度と再び彼に会うことは出来なかった。
「丈(じょう)、何処に行ってたの? 手を離しちゃ駄目だって言ったでしょ」
「あのね、これもらった」
「えっ、誰に?」
「ぼくと、おんなじなまえなんだって」
 初めて三人で新潟を訪れた夜、そう言って小さな方の『ジョー』は、チョコバナナをかじって花火みたいな笑顔を見せた。

ルーツ

著者) 大野美波


 百合子と知り合ったのは大学時代だ。同じサークルで仲良くなり、俺の方から告白した。俺達は付き合い、就職して2年目に結婚した。そしてなんと子どもを授かったのだ。俺はこれ以上ないくらい喜んだが、百合子の表情がぱっとしない。妊娠からくるフォルモンの乱れで気分が落ち込んだり体調が乱れたりすると聞いたことがある。心配していると突然新潟に行こうと言われた。あまりにも強い瞳で言われたので俺は即休暇をとった。
 そして、二人で新潟の海を見ている。
「赤ちゃんね、堕ろそうと思うの」
「え?」
 俺は驚いた。百合子がそんなことを考えていたなんて。
「あのね、私おばあちゃんが新潟の人なの」
「うん」
「新潟水俣病って知ってる?工場から出たメチル水銀に汚染された川の魚を食べた人が、手足のしびれを訴えたの」
「四大公害事件って社会でやった気がする」
百合子はうなずいた。
「ひいおばあちゃんが被害者でその時おばあちゃんがお腹にいたの」
しばらく沈黙があった。
「幸い赤ちゃんのおばあちゃんに障がいは出なかったし、遺伝する病気じゃないらしいんだけど、それまで私達の家は医者の家系だったの。そうでなくなったのは新潟水俣病のせいだっておばあちゃんもお母さんも言われて育って来たのを私知ってるの」
『だから、産むのが怖いの。私はそんなこと思うような母親になりたくない』
 百合子は言った。俺は手を伸ばして百合子の涙をぬぐった。
「俺は科学者じゃないから、科学的なことはわからない。けど、百合子とこの子と生きていきたい。それに…」
俺は続けた。
「また公害を起こしてはいけないという決意が自分のルーツなんて、すごく大事なことじゃないか?それに見ろよ。この景色を」
 夕日が海に沈んでいく。それは美しいの一言だった。
「俺、百合子とこの子を守る」
「たかし…そうね。産むわ」
俺達はしばらく手を握りあい夕日を見ていた。

酒天童子はミニスカートで走りたい

著者) つぐみざき あさひ


 五月、今日は天気がいい。僕は男の子を拾った。
 新聞を取りに外に出たら、段ボール箱に入った男の子にえらく達筆な手紙が添えられていて、要約すると拾ってくださいと書いてあった。
 立派な家には住んでいるんだけど、そういうのは受け付けてない。とはいえ、近頃暑くなってきているし、死んだりすることがあってはこまるから、と思ってなかに入れてやったのが間違いだったらしい。
「僕は半田あきらだ。君は?」
「酒天童子」
 と来たもんだ。
 酒天童子は確かに新潟県出身だから、京都で倒された後、魂が故郷のここににたどり着いていたとしてもおかしくはないけど。僕は源頼光の子孫でも国上寺の関係者でもないんだけど。
 僕はなにも考えないことにした。
 着ているものがぼろぼろでぼさぼさの髪、顔は良さそうだけど身なりが汚いな。と思った僕は、酒天童子の身ぐるみ剥いで風呂に入れた。
 するとまあ、あっという間に市の方に行ってもそうそういない美少年が現れた。
 現れた訳だが。
「君が着る服がないか。君は小柄だし昔の僕の服が合うかもしれないな」
 昔の服を納戸から引っ張り出している間に、酒天童子が僕の部屋に忍び込んでそこらじゅうひっくり返し、しかも僕の制服を着て、どや顔をするという非常識っぷりだ。
「みじけぇ袴らね。ツンツルテンら」
「それはスカートだ。女子の制服だよ」
 酒天童子が形のいい目を丸くして、
「あきら、髪、みじけえ」
 と片言で言う。
「今の女子はこんな格好をしていることが多い。もちろん僕みたいに違う格好をしたいひともいるけどな」
 と、ファッション雑誌を見せ、イマドキの女子の衣装を教えてやった。
 酒天童子はなにごとか考え込んでいたけれど、おもむろにこう言った。
「あきら、おんなっこんがにおんなっこのかっこしねえ。そいらば、俺がおんなっこしてもいいが?」
「いいんじゃないか?そういう人もいる」
 酒天童子の目がこれでもか、というほどきらっきらに輝いた。
 第一僕が男装趣味だし、変人に女装癖が加わっても、いまさら態度を変える方が疲れる。
「でも、とりあえず、制服はやめてくれ。セーラー服は手入れが大変なんだ」
 僕が着ないワンピースを着て、姿見を眺めていた酒天童子がおもむろに呟いた。
「あきら」
「どうかしたのか?」
 さらっさらになった髪をふわりとなびかせて振り向いた。
「いとしげらな、俺」
「………」
 更にナルシストが追加。
「あきら、街にいごうれ」
 ぴょんぴょん跳ねながら酒天童子が言う。
「あんまり自分が可愛いから見せびらかしたいのか?」
 ふんふんふん、と元気よく酒天童子が頷く。
「じゃあ、今度NEXT21でやるファッションショーに出てみるか?」
「ふぁ?」
 六月にNEXT21で、専門学校の学生によるファッションショーがあるらしい。僕はそういうことにはてんで疎いけど、幼なじみのおしゃれ番長はるかが言ってたのを覚えていた。
 チラシを引っ張り出して、色々と説明をしてやる。
 返事はもちろん即答で、
「やりてえ!」
 だった。
 ということで六月。
 酒天童子がまとったのはおしゃれ番長のはるかに借りた、僕にはなんかもうよくわかんない流行りのすっごい可愛い服だ。
 僕とはるかがいるのは客席だ。ファッションショー会場のNEXT21曲線のエスカレーターの降り口、ランウェイが設置され、客席が作ってあった。
「てんちゃんは超可愛いけど、今までのモデルさんはみんなプロだし、メイクも衣装もプロのひとだし、大丈夫かな?」
 はるかがエスカレーターのステップの上で気取ったポーズのままスーッと降りてくるモデルを見ながら言う。五泉や見附の繊維業が全面に押し出された、特産品だのなんだのをモチーフにした衣装でしゃなりしゃなりとランウェイを歩いてくる。
「大丈夫だよ」
 僕は酒天童子を真似て、自信たっぷりに言った。
「なんでよ?」
「だって、酒天童子は女子を自然発火させるほどのイケメンだから、女子になっても同等かそれ以上の破壊力があるに決まっているんだ」
 ちょっと説明をはしょりすぎだけど、その昔寺で稚児をしていた酒天童子に対する恋患いで死んだ女性の恋心が煙になって酒天童子を鬼にしたらしいし。
 エスカレーターの乗り口が見える席の辺りで、ショッキングイエローの悲鳴があがった。一部なんか野太いけど、それははるかセレクトの勝負服の効果だろう。僕にはなんかもうよくわかんないあれの。
 すらりと白い足がミュールでランウェイに降り立った。
「な、はるか、誰にも負けないだろ」
 スポットライトを浴びて、この世のものとは思えないくらい輝く酒天童子が、軽やかにランウェイに踏み出す。
「そうだね」
 他の一般的な女子なんかかすむほど可愛い酒天童子が、重力から解放されているようにふわりと跳んだ。ガラス貼りの壁から射し込む光をまとって、どんな宝石より輝く笑顔を振り撒きながら。

闇と関取

著者) 大坪覚


 街歩きツアーの新企画を考えながらネットを検索中、「ダークツーリズム」という言葉に遭遇した。戦争、自然災害、公害などの負の遺産の現場や関連施設を訪れるという新しい観光のことだった。今まで注目されなかった、避けていた地域の悲しみに目を向けるという発想が新鮮で、私はかつて地元の富山県で多くの人々を死に至らしめたイタイイタイ病を伝えるために作られた資料館を訪れたことを思い出した。街の中心からずいぶん離れた地にあったが路線バスで近くまで行くことができて、旅行のプロである私の目から見ても充実した内容であり入場無料、富山県のミュージアムの中でもベスト3に入ると思ったが、入館者は私一人だった。観光案内所でも、ガイドブックにもパンフレットにも一切登場していなかった。風評被害を恐れて、折角作った施設が人の目に触れないということは問題だと思った。
 そしてお盆休みで帰省し、思い出したのはお隣の新潟県の阿賀野川で発生した新潟水俣病だった。新潟は日本海側随一の都市であるから、ダークツーリズムの観点からも富山とは異なるアプローチをしているのではないか。検索すると「新潟県立環境と人間のふれあい館~新潟水俣病資料館~」があった。環境と人間のふれあいというのはかなり婉曲な言い回しで、サブネームがなければ新潟水俣病のミュージアムであることが伝わらない。ウィキペディアを見ると、当事者の方々から風評被害への強い懸念があったようだ。難しい問題である。これは実際行って自分の目で確かめてみようと思った。
 富山から新潟へ行くのは初めてだった。糸魚川、直江津、越後湯沢、長岡という駅名は鉄道の乗り換えで利用していて懐かしいが新潟は完全に初見だ。新潟は思っていた以上に大きな街で地方都市というよりも大阪や神戸のようだった。市内見物は翌日にして、私は新発田行きの電車で豊栄駅へ向かった。資料館HPでは豊栄駅からタクシー5分、徒歩30分となっていたが観光型コミュニティバスなどがあるだろうと考えていた。いくらなんでも徒歩30分というのはブラックジョークだ。駅に降りたらアクセス手段が見付かるだろうと思っていたがそれは完全に甘い考えだった。まず豊栄駅には資料館の案内は一切存在していなかった。HPの地図を頼りに歩き出してみると、夏場の新潟で昼間に徒歩で移動しようというのが最悪であることに気付いた。地図は大雑把で、カネのない好奇心だけは旺盛な客の来訪を拒んでいるようだった。豊栄という町は瀟洒な大きな家が多く、道も綺麗に整備されていて歩くこと自体は楽しいのだが、肝心の資料館へのアクセスを示す標識は皆無だった。徒歩30分というのは明らかに少なめで、30分過ぎても何も見付けることができず、グーグルマップも反応せず、暑さもあって不安が募ってきた。まるで結界でもあるかのように資料館の手掛かりは見付からない。ところがそのとき、ちょっと不思議な感じの、町中で明らかに違和感のある整備された散歩道に出くわした。私は何か感じるものがあってその道を進んだ。そしてその散歩道が不意に終わり、目の前に見えたのは、ごく当たり前の、農村の中にある見通しのよい交差点だった。その見通しの良さに感じたのは、この土地がようやく私に対して開いた、というニュアンスだった。まるで目に見えない土地神の祠に出くわしたような感触だった。
 それからすぐ大きな駐車場が見えた。遂に辿り着いた、と思ったがそこは遊水館という名の地域のプールで夏休みらしく大盛況だった。私はプールから聞こえてくる歓声を耳にしながら、この地にプールを作った人物の発想に感服した。地域で起きた悲しい水の記憶を伝える施設の傍で、年月と世代を更新しながら、楽しい水の記憶を上書き保存していく。これは普通の役人の仕事ではなく、正統な魔術の知識のある人間の発想である。
新潟水俣病資料館の展示はとても見ごたえがあった。特に当時の地域の住民が追い詰められ、意見の相違から派閥のように対立し、分断されたことに踏み込んでいたことを伝える常設展示には感銘を受けた。館内全体が水俣病関連の展示ではなく、落としどころを見付けるためにかなり苦心したことがうかがえた。全国の公害関連の資料館の紹介コーナーもあり、この施設がしっかり活動していることがわかって嬉しかった。
 いつかこのような施設を巡り、話しをうかがうツアーを企画したいと考えながら豊栄駅へ向かった。そしてそのとき駅前で見つけたのは、地元出身の大相撲・豊山を応援するパネルだった。そのパネルは資料館へ向かうちょうどスタート時点に設置されていた。ここに力士のモニュメントがあるということは、声にはならないが神聖な大地への祈りのメッセージではないか。誰にも気付かれなくてもいい。そんな想いを受け止めて、私は新潟駅まで戻った。

隠れ〇〇大国

著者) 伊藤テル


「というわけで、このゆるキャラの名前はにしあちゃんでしたー」
 少しとぼけた声で、そう言ったワタリくん。
 俺は指摘する言い方で、
「いや見ただけでは花を被ってるなとしか思わないわ」
 とツッコんだ。
 ワタリくんは少し唸ってから、
「でも実際、西会津は新潟の県境だから知っていると思ったんだよね」
「いやこのご時世、福島県には行けないから」
「もっと前からいるよ、 にしあちゃん は」
 ワタリくんは少しムッとした声でそう言った。
 このご時世はコロナ禍の影響で、県外には行けない。
 が、こんな時代だからこそ、ネットとテレビゲームで知り合った友達と簡単にビデオ通話ができる。
 俺とワタリくんは週に一度、ワタリくんは福島の、俺は新潟のクイズを出し合っている。
 さて、お次は俺のクイズのターンだ。
「新潟は隠れ○○大国というクイズだ」
「あれでしょ、枝豆でしょ。ご当地テレビ番組でやっていたよ」
「俺が出したい答えはそれじゃない」
「じゃあラーメンだ、これも同じ番組でやってた」
 いや
「ワタリくん、その番組好きだな。でも違うんだよ。まずヒントを言わせてくれよ」
 ワタリくんは腕を組んで、小首を傾げてから、
「じゃあ黄色信号長め県!」
「いやだからヒントを言わせろ!というかそうなのっ?」
「そうそう、前に長野県へ行った時、新潟普通で長野めっちゃ短かった」
「長野黄色信号短め県のエピソードじゃん!」
 俺は強めにツッコむと、ワタリくんは『てへへっ』という感じに後ろ頭をかいた。
「とにかくヒントを言うから、ヒント1、写真を撮る」
「えっ、でも新潟に映えスポットはないからな」
「シンプル失礼じゃん、まあそんな浮かばないけども」
 悩んでいるワタリくんにまたヒントを出す。
「ヒント2、観光地にある」
「えっ、でも新潟って観光地が飛び飛びで、もっと密集した場所がほしい」
「建設的な意見ありがとう。でもそうじゃない」
 ワタリくんは全く分からないといった感じだ。
 じゃあ
「大ヒント出すぞ」
「待ってよ!一回答える!じゃああれだ!隠れ映え大国!」
「結局、映えにしたのかよ、でも不正解だ。ただし考え方によっては映えるかもしれない」
「考え方によっては映える?ということは派手なのかなぁ?」
「まあ派手と言えば派手かな、本来そんなモノはここにないから」
 ワタリくんは驚きながら、
「えっ? ホラーなのっ?」
「ホラーではない」
「幻術使い?」
「忍者とかいないから。じゃあ大ヒントいくぞ」
 ワタリくんはちょっと不服そうに、
「じゃあいいよぉ」
 と言ったので、反比例するかのように俺は意気揚々と、
「大ヒント、板状です」
「ガムかよ、今は風船ガムとか流行らないよ」
「いや違うけども」
「じゃあ米菓!」
「隠れてないだろ、それは」
 ワタリくんはうんうん頷きながら、
「全然隠れてない」
「ちなみにその隠れ○○の答えも隠れはしない」
「板の裏とかに隠れないのっ? かくれんぼじゃないのっ?」
「全然違う。写真映えするから」
 と言ったところでワタリくんが叫んだ。
「顔ハメ看板だ!」
 俺は満を持してといった感じに、
「正解!」
 と答えた。
 ワタリくんは目を丸くしながら、
「えっ、そうなのっ? ……あっ、でも!確かに新潟って顔ハメ看板多いかも!」
「新潟には顔ハメ看板で初めてインターネット受注を始めたお店もあるんだ」
「そうなんだ、いや隠れ顔ハメ看板大国かぁ、すごいなぁ、でもあれだね」
 ワタリくんは少し前のめりになったので、
「何?」
 と聞くと、
「その一面、もっと顔出せばいいのにね」
「まあな」

(了)

リンゴと私とそして君

著者) 丸和 華


 出口に向かって狭くなっていくトンネル、苔むした壁。
 心臓がギブアップ目前。お願い、早く抜けて。
 バスに座った時から膝の上に置いたままのリュックをギュッと抱えてみる。
『黒姫山は山全体が神体化されている』
 オリエンテーションの時にそう聞いた瞬間なんだか怖くなっちゃって。弟からお守りリンゴを借りて入れてきたんだ。クリスタル製でちょっと重たかったけれど持って来て良かった。ドキドキが収まってき……。

「わ!」
「きゃっ! お、脅かさないでよ、虎太朗《こたろう》くん」

 バスに乗るなりすぐ眠りに入った虎太朗くん。私、話し相手がいなくて寂しかったんだよ。ここは「寝ちゃって悪いね」って言うところじゃない?
 もー。久住虎太朗、君のこと、見損なった!

「俺、すぐバス酔いする質でさ。目を閉じながら『大丈夫』って自己暗示法で乗り切ることにしてたんだ。そろそろかなって目を開けてみたら、愛矢《あや》ってば引きつった顔してんだもん。お化け、ダメ系?」
「う、うん。お父さんの車の中でも、トンネルの時は息を止めてるの。『早く抜けろ』って心の中で唱えながら」
「やっぱりな。だけどさ、ビクビクしてるやつのところに近づいてくるもんじゃねーの?そういう悪い霊的なやつってさ」
「ちょっ、ちょっとやめてよ、悪い霊なんて言い方。めっちゃ怖いよ」
 今、虎太朗くんのこと見直しかけていたんだけど、前言撤回!すんごくヤな奴ー!
 もう何か話しかけてきたって、絶対口聞かないもんね。

 そう思ったのも束の間、バスはすぐ目的地のマイコミ平駐車場へと滑り込んでいった。
「わー。気持ち良いー」
 バスから地面に足を下ろした瞬間、ついさっきまでの憤りが嘘のように消えていった。
 ひんやりした空気に身体中の毛穴が引き締まる。冷蔵庫を開けた時みたい。それに、なんだかとっても透明な感じ。澄んだ空気ってこういうのを言うのかな?

 私たち青海南中《おうみみなみちゅう》、一年生十五人は、山を知り尽くすガイドさんと学芸員さんとを先頭に、日本一深い縦穴洞穴に向かって歩きだした。
 人の手が加わっていない露頭だらけ。学者さんが調査に入ることすら許されていない地域なんだって。二十人限定で年数回開催されるこのツアーに申し込むことでしか入ることの出来ない秘境。

 巨木が立ち並ぶ林道。ガイドさんはサワグルミだって言ってたっけ。私、うねうねグイッと成長し続けているこの木たちがなんだかちょっと怖い。

 林道を抜けると、スリリングな登山が始まった。命綱を付けて挑みたいほどの鎖場を通ったり、岩場の裂け目をまたいだり。

「さあ、ここが最後の目的地、日本一の深さを誇る縦穴鍾乳洞、白蓮洞《びゃくれんどう》です」

 ガイドさんの解説を聞いているうちに「ここで虎太朗くんにお守りリンゴを見せてみたい」という衝動に駆られた。虎太朗くんはちょうど私の隣にいる。
「虎太朗くん」
 私は囁き声で彼のことを呼ぶと、リュックの脇からお目当てのリンゴを引き出した。
「ひゅー」
 虎太郎くんはかすかな口笛を吹くと私の目を見てニヤリとした。
 ん?その笑みの意味は一体……。

「あ!」
 大切なお守りリンゴを落としてしまった。重たいクリスタルを持つ手の力が無意識に緩んじゃったんだ。

 隣にいた虎太朗くんが咄嗟に手を伸ばしてくれたんだけれど、あと一歩のところで届かなかった。お守りだったリンゴは細長い穴の中へと吸い込まれるように消えていった。

「ど、どうしよう」
「ごめんな。俺が口笛なんか吹いて驚かせちまったから」
「あ、ううん。違う。私がボーっとしちゃってただけだよ」
「思い出が詰まってた?」
「あのリンゴは絵描きだったおじいちゃんからもらったものなの。弟の誠は生まれた時から体が弱くてね。あのリンゴをお友達って呼んで話相手によくしていたんだ。でも今年、幼稚園に入園出来て。本物のお友達も出来てきたんだよ。リンゴの役目が終わったってことなのかもしれないね」
 私は頑張って口角を上げて見せた。
「なあ、愛矢。この穴は五百十三メートルの深さがあって、それはそこで終わりじゃないんだ。そこから真っすぐ、何キロも先の福来口《ふくがぐち》鍾乳洞へと続いている」
「うん」
 私は口を真一文字に結んだまま、ただ静かに頷いた。
「この黒姫山に降った雨はぜーんぶそうしたジオフロントを通過して田海川《とうみがわ》へと流れ出る。そうした奴らが流れ着く先にあるのは?」

 私は「日本海?」とおずおずと答えた。
「ああ、そうだ。壮大なロマンじゃね?」
「もしかしたら私の……ううん、弟のリンゴもひょっとすると」
「ああ。きっと糸魚川のどこかの海岸に流れ着いて、必要としている誰かが拾うんじゃね?」
「そうかもしれないね」
 私はカラリと笑いながら大きく頷いた。
 虎太朗くんが「良かった」と低く呟いたのを私の耳はきちんと拾っていた。

「良いコンビですね」
 ふいに届いたその声はガイドさん。ガイドさんにもご迷惑をかけちゃったな。
 私は静かに黙礼をした。
 
 良いコンビ――か。そうなれたら良いな。

「さぁ、そろそろ駐車場に引き返しますよ」

 ガイドさんの掛け声に、みんな素直に洞穴に背を向け始めた。虎太朗くんも。
 私はそんな虎太朗くんの背中を見つめながら洞穴に向かって振り向くと、彼と近づくきっかけをくれた白蓮洞に向かって、静かに深くお辞儀をした。

「愛矢ー。迷子になるぞー」
「わかってるー」

 小走りをして虎太朗くんに追いつくと、彼の背中を意味もなくポンっと叩いた。

 私は今、サワグルミの巨木が立ち並ぶ森を優しい気持ちで歩いている。

 了

風鈴の中の風景

著者) 鈴香


 その日は何をやってもうまくいかず、気持ちがささくれ立っていた。
 空高くには灼熱の太陽、アスファルトからの照り返し、四方から聞こえる蝉の声は耳障りで、じっとりと張り付くような湿気に息が詰まった。
 歩いているうちに呼吸が荒くなり、額から汗が噴き出る。
 肩にかけていた重たい鞄を下ろし、苛立ちまぎれにため息をついたとき、どこからか風鈴の音が聞こえてきた。
 チリン。
 風に乗り、耳元をかすめて行った音は透き通っていて、思わず音の出所をさがす。
 チリン。
 再びの、凛とした音。つま先が、小道へと向く。
 チリン。
 誘うような音に、歩き出す。
 家と家の隙間をぬって伸びる小道は細く、薄暗さに一瞬だけ視界が奪われる。
 目をつぶり、ゆっくりと開く。
 チリン。
 音を頼りに歩き出す。どこの家からか、煮物の良いにおいが漂ってくる。甘く煮詰めた醤油の香りを胸いっぱいに吸い込み、ふと懐かしい思いがこみ上げてくる。
 夏休みの間、忙しい両親の代わりに預けられていた祖母の家。必ず食卓に上がった煮物は、祖母の得意料理だった。
 チリン。
 ひときわ大きく聞こえた音に視線を巡らせば、日に焼けた藍色の暖簾が目に飛び込んできた。
 白抜きされた風鈴屋の文字は達筆で、風格のある木造の建物は周囲から浮いて見えた。
 チリンチリン。
 入っておいでと言うように、軽やかな音が手招きをする。
 どうしようかと悩む前に、つま先が暖簾をくぐる。
 お店の中は暗く、所狭しと吊られた風鈴が、どこからか吹く風に揺れている。
 チリン。
 奥に吊られていた一つが音を鳴らす。他の風鈴も揺れているのに、音は聞こえてこない。
「いらっしゃい」
 暗がりから声を掛けられ、肩がビクリと上下する。小柄な老人が、にこやかな表情で立っていた。
「風鈴に呼ばれてきたんだね。 ……さあて、どの子が呼んだのかね」
 深いしわが刻まれた手が、1つの風鈴に伸ばされる。
 オレンジ色と深い青色で彩られた風鈴が、再びチリンと鳴る。
「さあ、どうぞ。手に取ってごらんなさい」
 短冊には紙風船の絵柄。ひんやりとしたガラスの表面は滑らかで、緩やかな丸みが不思議と掌になじんだ。
「もっとよくごらんなさい。もっと顔を近づけて」
 言われるままに、風鈴を目の高さにもっていき、じっと色に目を凝らす。
 オレンジ色は夕焼けのような複雑な色で、深い青色は夜に染まりつつある海の色だった。
 この光景を、覚えている。まだ幼いころ、確かにこの色を見たことがある。
 曖昧な記憶を形作ろうと目を凝らしたとき、グニャリと視界が歪んだ。
 突然のめまいに眉根を寄せ、強く目をつぶる。チリリと痛むこめかみを指で押す。
 近くを誰かが通り過ぎる気配に目を開ければ、飛び込んできたのは鮮やかな色の夕暮れだった。
 耳には規則正しい波の音、通り過ぎていく風は日本海独特の濃い磯の香りをまとい、テトラポットに打ち付けられた波が白く泡立つ。
 海に背を向ければ山がそびえ、海岸線を通る道の向こうには、家々が肩を寄せ合うように建っている。窓に明かりは灯っているものの人通りはなく、車の往来もあまりない。
 祖父母が亡くなり、もう二度と来ることはないと思っていた、あの町。
 目の前の町と、記憶の中の思い出が重なる。
 丸い石を探しに祖父と歩いた海岸、祖母に連れられて泳いだプールでは、小さなカエルが飛び跳ねていた。遊びに来た父と一緒に入った海では波に飲まれ、塩辛い海水に大泣きした。
 たった一軒の雑貨屋さんで本を買うために、祖母と歩いた道。日傘をさしてゆっくりと歩む祖母の数歩前を、石を蹴りながら歩いた。
 自宅のバルコニーから見た花火大会は小規模で、祖父が買ってきた花火を追加でやっていた。打ち上げ花火をあげるたび、懐中電灯を持った手を大きく振って、家で見ている祖母に合図を出していた。
 友達と遊べない夏休みが悲しくて、両親と過ごせない日々が寂しくて、でも泣いていることを悟られたくなくて、じっと見つめ続けた夜空。東京で見るよりも広い空には無数の星が輝いていて、星を追ううちに目が良くなってしまった。
 チリン。
 手の中で鳴った風鈴に、目を開ける。
 細い路地裏は整然としており、規則正しく並んだ花壇では、あまりの暑さに花が萎れている。
 頭上でセミが鳴き、全身にじっとりとした湿気がまとわりつく。
 慌てて先ほどの店を探すが、藍色の暖簾はどこにもなく、どんなに耳を澄ませても風鈴の音は聞こえてこない。
 立っているだけで汗が噴き出す暑さに、白昼夢でも見たのかと思うが、手の中にはしっかりと風鈴が収まっている。
 チリン。
 指先に引っ掛けた風鈴が鳴り、先ほどまで見ていたあの町の景色が脳裏をよぎる。
 時が止まったのかと思うほど穏やかな時間が過ぎていたあの町、出雲崎。
 一人で過ごす夏休みの象徴であり、思い出すたびに苦い気持ちがよみがえる場所ではあるが、思えばあの町にいたころの祖父母は幸せそうで、いつも穏やかに微笑んでいた。

その夜桜は門出の花

著者) 北野椿


「桜を見に行こう」
 彼のその一言に頷いただけで、まさか新潟県まで連れて来られるとは思ってもいなかった。最寄りの東京駅で落ち合って、八重洲中央口でいつも通り定期券を出した私の手の上に、彼は新幹線の切符を乗せた。印刷された「上越妙高」の四文字に目を見張る間もなく、彼は私のもう一方の手を握る。中央北口へと歩き出した彼の背中に「本当に?」と思わず投げかける。歩みを止めずに横顔を見せた彼は「本当だよ」と優しく笑った。
 北陸新幹線はくたかに乗って上越妙高駅までは二時間、そこからタクシーを拾って高田城址公園に着いたのは二〇時半を回る頃だった。車中で、ライトアップは二一時までだと聞かされたときは呆れてしまったけれど、急ぎ足で駆け込んだその場所は桃源郷のような美しさだった。所々星を散りばめながらも漆黒に広がる空が、照らされて浮いた桜の桃色を際立たせている。満開の花びらを時よりそよ風に震わせる桜は、見上げて歩く人達に微笑みかけるようだった。足取りは自然と遅くなる。いつの間にか、右手に慣れ親しんだ温かさがあった。節くれだっていて、強すぎず握っていてくれる彼の手だ。視線を移すと、前に進もうとでもいうように、彼が目配せをする。しだれ桜に目を奪われて思わず歩みを止める人の間を、私たちは縫うように進んだ。
道が広がり、開けた空間の先に一際目を引く薄紫があった。はっと息を飲む。空にあるのは妖艶な桜の川だ。並木が道の両側からアーチのように枝を広げ、その先に咲いた花がうっすらと色づいた光で照らされている。桜と言えば白か薄桃色で陽の光に良く映える。太陽のもとで見る桜が一番だと私は信じて疑わなかった。目の前に広がる薄紫の桜は、穏やかな春の訪れを祝うあの天真爛漫な昼の桜とは一線を画している。木々の間から妖が手招くような怪しい色気は、私の中にあった夜桜のイメージを一瞬で塗り替えた。
「綺麗だよね。大人の桜って感じ」
 立ち尽くす私の傍らで、彼が溜め息を漏らした。いつも飄々として掴みどころのない彼から零れた素直な言葉に、私は思わず彼を覗き見る。仄かにライトに照らされて、いつもよりも血色がよく見えるけれど、細めた目元にはうっすらとくまがあった。仕事が忙しいらしく、会うのはふた月ぶりだ。しっかり寝られていないことは、顔を合わせたら一目瞭然だった。話せばその顔に浮かぶ表情や纏う微笑みで誤魔化されてしまうけれど、何もしていないときの彼は酷く疲れた顔をしている。さっと一陣の風が吹いて、桜の花びらがはらはらと降った。散る桜と身を削る彼が重なって見えて、繋いだ手を握りしめる。
「どうしたの」
 不思議そうにこちらを向いた彼は、私の不安が伝わったのか宥めるように微笑んだ。この人にもう微笑ませてはいけないと思った。
「お仕事、まだ忙しい?」
「もうしばらくはね」
「それなら」
喉の奥で言葉がつかえる。「それなら?」と不思議そうに繰り返した彼の瞳を見返した。
「私と一緒に暮らしてください」
 彼がぽっかりと口を開けた。今まで見たことのない間の抜けた表情に、思わず口元が緩んでしまう。
「私の家の方が会社に近いし、眠れないほど忙しいなら、家事は私がやるから。だから、なるべく自分の身体を大事にしてほしいの」
 戸惑ったように視線を動かした彼は、「わあ、そうきたか」と呟いて、自由になっている手で頭を掻いた。受け入れられない話だっただろうか。見切り発車で提案してしまったことに後悔が過る。不安を抱きながら見つめていると、手を上着のポケットに突っ込んだ彼と再び目が合った。
「これ」言って
 そう言って何かを差し出した彼の手を見る。小さなベルベット生地に包まれた箱を彼は握っていた。
「指輪は好きなものを選んだ方がいいと思って、ネックレスだけど。仕事が落ち着いたら、結婚してほしい」
 そっと彼に手を離されて、私は両手で箱を開けた。一粒の宝石が、何重にも輝きを放っている。「俺たち花見で知り合ったから、桜が綺麗なところがいいと思って」と言葉を続ける彼の顔をぼんやりと見つめてしまう。次第に目頭が熱くなって、頬を伝ってからようやく涙だと気づいた。両手で拭っていると、彼がハンカチを手渡してくれた。
「変に心配させて悪かったよ。家の事は困ったら代行サービス頼むし、そういうのは抜きで一緒にいてほしいんだ。伝わってるかな」
 答えようとすると変な声が出てしまいそうで、彼の言葉にただ頷いていた。それでも心配なのは変わらないから、同棲の前倒しだけは譲らないと心に誓った。