私の宝石

著者) 萩野 智


「これ、ほら。これ、違う?」
隆が嬉しそうに角ばった白い石を持ってきた。大きさはちょうど消しゴムくらい。ここにあるほとんどの石が綺麗に丸くなって、つやつやと黒っぽく輝いていたから、その石は目立ったのだろう。
「うーん。ちょっと違うみたい」
私は隆のごつい手の平から白っぽい石をつまみ上げて言った。

私と隆は二か月前に結婚をしたばかりだ。
新居からほど近いところに糸魚川が流れていて、川沿いを下っていくと海岸に出る。いわゆるヒスイ海岸というところだ。
日曜日の今日は、二人で翡翠拾いにやって来た。
それらしき石はたくさんあるのだけれど、本当に翡翠かどうかは素人には分からない。あとで鑑定してもらわないと。
「あ、これそうだよ。これ」
日差しの照り付ける中、隆が無理に浮かれたような声を出している。
ああ、気にしてるんだな。そう思った。
隆は本来、もの静かで、冒頓としている。見た目も派手さはなく、これと言って突出するものもないけれど、その分、穏やかな性格をしていた。
私はここ新潟の糸魚川市が地元で、とある銀行の上越支店で働いている。隆は三年ほど前に転勤で、同じ新潟県内の長岡支店からこの上越支店にやってきた。

そう、昨夜は、私の高校時代の同窓会があった。
こう言っては何だが、高校時代はけっこうモテた。そのなごりで、昨日もちやほやされていたと思う。結婚したと言うと、一様にみんながっかりした素振りをしてくれた。
そんな中、昔、クラスの女子全員が憧れていたと言っていい斉藤くんが家まで送ってくれたのだ。もちろんタクシーだけれど。
家で待っていてくれた彼とまあ、鉢合わせした。
「ああ、ありがとうございます。お世話になりました」
少し目尻を下げて、真面目にお礼を言う隆。
その素朴でほんのちょっと体格のいい隆に、面を食らったように言葉を失くす斉藤くん。その様子に、私だけが笑いをこらえていた。
うん、完全に隆の勝ちだ。
そうだよ、隆。昨日は隆の気にしていることなんて何もなかったし。
だいたい、あの斉藤くんさえも、隆の足元にも及ばなかった。

「この石、それっぽくないか?翡翠っぽい」
そう言って、隆が指先で四角い石をつまんで日に透かすようにして見ている。その隣で、私もさっき見つけたお気に入りの石を太陽に向かってかざした。
「なあ、それは違うんじゃないか?」
一緒になって私が太陽に掲げている石を覗き込む。
「そう?」
「そうだよ」
うん。そうだね。翡翠の特徴とは違うね。翡翠は透明な深緑色が美しい宝石だけれど、原石はだいたい白っぽくて、ほんの少しだけ緑の筋が見えたりして、角ばっている。
私が選んだ石は時に青っぽくも見えるけれど全体的に灰黒色で、楕円形。角が丸まってすべすべとしていた。
――たくさん波に揉まれてきたんだろう。
この海岸にはそんな丸くて滑らかな石がたくさんある。その中でもこの石は穏やかで優しい形をしていた。
「いいの。私はこれが良いの」
「……ふうん」
隆が私の持つ石から私の横顔へと視線を移す。
私はぎゅっとその石を握りしめて、隆の顔を見上げた。
「そうだよ。私が選んだんだから」
隆が少し驚いたように瞳を見開いた後、目尻に皺を寄せて照れくさそうに微笑んだ。

父と私の新潟鉄道紀行

(著者) 蜜柑桜


 チリン……
 和室の出窓を開けると頭上で涼やかな音がした。ふと見上げれば飴色のガラスの下で若草色の細い帯が棚引く。
 途端に肺まで圧迫していた空気がほどけて柔らかくなり、それを思い切り吸い込んだ。風が肌を撫でても昼間のような気怠さはなく、逆に生半可に冷えた温度が心地よい。さっきまで赤紫に染まっていた空には闇が広がり、その中に真白の光が煌々と浮かび上がる。
「お父さん、月が綺麗だよ」
 紅い線香の先から煙がたゆたい、独特の香が畳の湿っぽい匂いと溶け合った。前にこの感覚を覚えたのはもう一年前か。
「あのねお父さん、次の出張、新潟になったよ」
 お鈴の音が消えるのを待って話しかける。窓際のチリン、という音が明瞭さを取り戻す。
「新潟、懐かしいねぇ」
 位牌の横に並んだSLの模型に目をやった。その後ろには、停止した列車を背に手持ちの地図を指差す父の写真。こぢんまりとした車体は白に青と赤のラインが可愛らしい。
 飽きるほど聞いたあの説明。柏崎と新潟を繋ぐ越後線。「東日本管内で115系が走るのはもうここだけだぞ」と自慢げな言葉に、自分の手柄かと私も弟も突っ込んだ。
 父の最後の旅行。この時から、新潟は私の特別な場所になった。
 無類の鉄道好きだった父。日本全国あらゆるローカル線を目指し、暇さえあればふらっと出かけていた。何をするでもなくただ乗るだけ。土産もなしに帰ってきたと思えば、乗り潰しマップにマーカーを引いては満面の笑みを浮かべていた。そうして季節が巡るたび、マップの白丸は減っていった。
 だがもう少しで地図が全て染まるというところで、白丸の連なりはそのままになった。
 病気が見つかってから、付き添い無しの自由な旅は難しくなった。
 それでも日々鉄道雑誌を広げ、最新の時刻表の確認をし続けた父。そんな父を見た母が、地図上無色の線を一つだけでも無くしに行こうと提案した。
 候補の中から越後線を選んだ理由はいくつかあった。東京から新幹線一本というアクセスの良さに加え、自然溢れる海山と、鉄男なら皆が惹かれる魅力の数々。父には最適だった。
 そして出かけた家族旅行。早朝に家を出て、上越新幹線で長岡、信越本線に乗り換え柏崎下車。そこから始まる鉄道巡りの二泊三日。
 念願の越後線、「一次新潟色」の車両に乗り込んだ父の興奮は病気が嘘だと思わせるほど。そのまま越後線全線制覇を果たし、新潟駅から向かったのは新津鉄道資料館。私はよく知らないが、Nナントカ編成で六色あるという越後線の六つの車両を満喫し、鉄道の歴史展示を食い入るように見学した父。
 さらに父のロマンの蒸気機関車、SLばんえつ物語で新津を出発。乗車区間は短かったのに少年のごとくはしゃいだ後には、旅館で山海の美味に舌鼓。食が細くなっていたはずが「米が甘い」とおかわりする。
 翌朝、レンタカーを走らせた入広瀬の道の駅で神秘的なエメラルドの鏡ヶ池を前にシャッターを切りまくり、森林浴をしつつ只見線で小出まで。スキーが得意だった父の案で塩沢で一泊。お風呂嫌いのくせに温泉を堪能し、疲れを癒して北越急行ほくほく線へ。車窓の外には魚沼盆地の広大な田圃で稲が揺れ、いくつも渡った橋梁の下では地を彩る草花や銀に光る川の飛沫が目に眩しい。
 線路で揺られて約一時間、犀潟駅で乗り換え直江津、さらに糸魚川まで海沿いを走り、長野を通って東京へ。
 マップの弓形の列島に新たな黄色い線が引かれた。これが父が引いた、最後の線。
 私は、この線を辿ったことがない。
 旅程の決定後に急の仕事が入った。私がリーダーのプロジェクトだった。代理を頼むと言った私を止めたのは、根っから仕事人だった父その人だ。「自分のために仕事を中途半端にするな」と初めて厳しく叱られた。
 だから私の知る新潟は、つぶさなお土産話と父が撮った色鮮やかな写真からだけ。
「でも、私も知りたくてね」
 父をこんな風に笑わせてくれた場所は、一体どんなところなのかと。自分で感じて、ありがとうと言いたかった。
「鉄道もいいけど、私は美食も気になるな」
 冷えた瓶の蓋を回すと、キュッと音が立つ。
「今日は、新潟のお酒を選んでみました」
 とっとっと……と、二つのお猪口を満たしていく。
 ??いい酒はな、酔わないんだぞ。
 まったく、通ぶっちゃって。
 カツンと合わせたお猪口の一つを仏壇に置いた。一礼して、くい、とお猪口を傾ける。まろやかな甘みが広がったあと、凛とした刺激が喉を通って胸に落ちる。
「ん、ほんとだ。んまい」
 きりりと冷えた雫が、湯を浴びた体の火照りを和らげる。
 仏壇の横から父のガイドブックを手に取った。名所旧跡、それから名産、工芸品。
 仕事の後は有給二日。お土産は、揃いのお猪口もいいかもしれない。
「あ、お父さんのは別ね」
 もう一杯目を注いで付け加える。
「実は、紹介したい人がいるもので」
 帰ったら、今度は私のお土産話、しっかり聞いてもらうから。
 線香の煙が窓辺へ流れ、虫の声と一緒に風鈴が鳴った。

美味しい珈琲は美味しい

(著者) モグ


「内野君」
 多分、声の震えは隠しきれなかったと思う。
「なんでこんな所にいるんだよ」
振り向いた彼は少し黙ってからそう言った。
「明日出発なの」
 やすらぎ堤アートフェスタのすぐ後、東京行きが決まった。写真コンテスト部門最優秀賞に選ばれてからは、物凄い早さで変わっていく生活に必死にしがみつく毎日、その頃から内野君と話す機会を失っていたままだった。
「そっか。頑張ってこいよ」
「…うん」
 話したいことは沢山あって、伝えなきゃいけないことだって沢山あって、だけど言葉にはならなくて。
「時間あるなら少しウチに寄っていけよ」
 いつもそう、手を差し伸べるかのように声をかけてくれるの。内野君の優しさに私はあの日の事を思い出す。
 内野君が誘ってくれた撮影会、真新しいカメラの使い方がわからず困る私に「まずは撮り方をイチから教えるな」とフォローしてくれたよね。今でも笑えてくるよ、だって私あの時、デートに誘われたと勘違いして浮かれちゃったんだもの。結局は撮影会で、恥ずかしいから勘違いは絶対バレないようにしたけれど、それでもあの日が私の写真の始まりだったの。
「いいの?」
あの日の思い出が鮮明に脳裏へ浮かび、変に笑いながらの返事になってしまった。
「あぁ。珈琲くらいは出してやるからよ」
笑い返してくれたように見え、嬉しくてまた少し変に笑ってしまった。

「へぇ…こんな家に住んでるんだ。なんか意外」
「どういう意味だよ?」
「怒った?ごめん。でも、そんなダサいスウェットとサンダル、それに寝癖のままでコンビニ行ける人の家がこんなオシャレだなんて、そりゃ意外に思うよ」
 驚いた顔で髪を抑え、私を見てる。
「寝癖、ちゃんと直したはずなのに…」
「そこ?完全にスウェットのダサさの方がヒドいよ?」
 両手で髪を抑えたまま部屋を出ていくと、すぐに水の音がした。私は、それよりスウェットが、と心の中で呟いた。

 何事も無かったかのよう戻ってきた内野君はお湯を沸かし始めた。寝癖が直された後頭部は随分と濡れていた。
「豆を挽くところからやるの?」
「あぁ」
 豆を挽く顔が真剣でドキッとした。
「すごい。挽いてるだけでもうこんなにいい香り」
 内野君の口元がニヤリとする。
「だろ?エチオピアのブクな 」
「ブク?」
「まぁわからなくていいんだよ。とりあえずブクという俺が好きな豆を使って珈琲を淹れるから、穂村はただ飲んでくれりゃいい。」
よくわからないけれど、コーヒーもカメラのように拘ってるんだろうなと伝わってきた。
「なんかいいね」
「お、やっぱりブクがどんな豆なのか語ってやろうか?」
「んー、めんどくさそうだし遠慮しておくね」
 内野君の好きな事を語るとちょっと面倒臭い感じになるというとこ、実は正直嫌いじゃないけども、でもその感じになったところを拒否するとわかりやすくいじけちゃうところが可愛くて好き、だからとにかくここは遠慮しておくの。

「どうぞ」
 テーブルの上にあったカメラを隅に寄せ、コースターを敷き、コーヒーを置いてくれた。
「ありがとう。いただきます」
 どこかのお店みたいで素敵なコーヒーに私は少し畏まり、カップをゆっくり口に運ぶ。
「なにこれ…」
「なっ」
 驚く私に内野君は満面の笑顔。
「今まで飲んだ事の無い味。これが珈琲なんだ。美味しい、すごく美味しい。こんなに美味しい珈琲初めて飲んだ。なんか上手く言えないけれど一口飲んだだけで…あぁ幸せ、って感じた」
 笑顔で私の感想を聞いた内野君は急に真面目な顔。
「…ブクってさ、穂村の写真に似てるんだよ」
「何それ」
「みんなが知ってる珈琲じゃないけどさ、一度出会ってしまった者は皆、心奪われる。口にした瞬間、幸せを感じさせてくれる。穂村は人の笑顔を写すのが上手いからな。それも風景やシチュエーションが生み出す笑顔、その時その場所が感情を動かして生んだ笑顔を写すのが。だから撮られた方も幸せを感じる、写真を見た人も幸せな気持ちになる」
「褒めすぎだよ」
「でも幸せを感じた時、ダサい話だけどさ、同時に俺は自分の小ささも感じさせられてしまうんだよ。苦しくなるんだよ」
 息を呑む。内野君の次の言葉を待つ。不安が押し寄せる。
「アートフェスタの時だって苦しくなった。もっと言うなら初めてカメラ教えた時に撮ったやつだって俺は苦しくなった」
 違うよ私は内野君にーーー声にはならず、内野君は続ける。
「だけどさ。美味しい珈琲は美味しい」
「え?」
「どんなに醜く、妬み、拗ねて逃げたって、結局辿り着くんだよ。美味しい珈琲は美味しいんだってところに」
「はぁ…」
 戸惑う私に構わず、内野君はまだ続ける。
「美味しい珈琲は美味しいし、素晴らしい写真は素晴らしいし、素晴らしい写真を撮れるヤツは素晴らしいんだよ。穂村の写真はすごいんだよ。大丈夫、やれる。東京でもやっていける。俺はお前の写真が好きだ」
 今度は間をとる事もなく私が言う。
「私も内野君の写真が好き。内野君の写真が私の世界を広げてくれたの」
「俺もまだまだ成長して胸を張れる写真家になるから」
 内野君の言葉に「私もそうなるから」と胸の中で答えた。

 静かな時間が続く。お互い思いついたまま話し、深く考えもせず返事をする。そしてまた沈黙の繰り返し。東京のどこへ住む事にした?千駄木ってとこ。自炊できるのか?目玉焼きは得意だよ。あ、「料理もダメそうだ」と思っている顔だ。料理も、ってなんなの。もう。

「なんだか今日は初めての撮影会の日の事ばかり思い出すの」
「実は俺も」
「あの時撮影会に誘ってもらえなかったら今の私はないんだよね」
 でもね本当は今でもね、あの時デートだったら良かったのにと思ったままの私もいるよ。

「『美味しい珈琲は美味しい』あたりから、すごく馬鹿っぽかったよね」
 我慢はしてたけど、耐えきれず言いながら笑いが込み上げてきた。
「それは…珈琲がこうして目の前にあるからさ…仕方ないだろ」
「照れてる」
「違うって」
 予想外に動揺してる姿が可愛い。
「顔、赤くなってるよ」
「うるせえな。なってねえから。…赤くない顔は赤くない」
「日本語おかしいよ」
「おかしくない日本語はおかしくない」
「日本語が」
 全力で怪訝な顔、変な人を見る目で内野君の顔を覗きこんだ。内野君は顔を逸らし更に続ける。
「あれ…なんか…腹痛が痛い」
「バカですね」
「バカにされても負けない。不屈の精神。腹痛だけに」
「バカです」
 こちらへ顔を戻し、今度は私の顔を覗き込みながら言う。
「でもよ、少しは労ってくれよ。昨日酒呑みすぎて頭痛も痛いんだから」
「バーカ」
 そしてまた珈琲を口にした。きっとこれまでの人生で飲んだ珈琲で一番美味しい。好きな人が淹れてくれた一番美味しい珈琲を好きな人と一緒に飲んで、自然に笑顔になっている。こういうのを幸せっていうんだろうな。この瞬間を写真に残したいな。咄嗟にテーブルに置かれていたカメラを手に取る。
「内野君」
 振り向いた瞬間、シャッターを押す。撮れた、と確信した。内野君は笑顔から少し驚いた顔になっていく。鳩が豆鉄砲ってこういう事をいうのかな。
「美味しい珈琲を一緒に飲めて嬉しかったからね、この瞬間を残したかったの。現像したら送ってね」
 私の大好きな内野君の表情が撮れてる。絶対送ってもらうんだ。東京での新しい生活の御守りにしよう。

一杯だけ、のあいまに

(著者) ベッカム隊長


 新潟でのイベントの仕事に合流する前に、趣味の街道歩きをした。
 けど、今日はちょっと疲れた。
 明日もう一日歩くことにしているけれど・・・。
「バーで一杯だけ、」
 そう思って古町の、小径をちょっと入ったところにある店の扉を開いた。
「いらっしゃいませ!」
 バリトンの澄んだ声が心地良く響き、私はうながされるままカウンター席に腰を落ち着けた。

 朝、古町を歩き出した時は、快調に足も運んだ。〝ドカベン通り〟と言えそうなアーケードを抜け、柳都大橋を渡り、法向院や沼垂白山神社に立ち寄りながら、阿賀野川の土手道にさしかかったあたりから、どうも足が伸びなくなってしまった。
 若干熱射病になっているような気がして、自販を捜しては水分補給をくり返した。
 旧道は聖籠宿へと進む。
 しかし県道46号線に出た時、観念して右折した。内島見東の信号を左折、掘割の交差点までが長かったが、そこを右折、ひたすら黒川駅に向かって足を動かした。
 新潟に戻って古町へ向かって歩いている時、派手な看板のカレー店があり、に入ってみた。一品200円なのである。辛さを一段階上げたら+100円。水は備え付けの自販でペットボトルを買わないといけないシステム。ただし持ち込みはOK!
 だから、実にリーズナブルなのだ。といおうか、リーズナブルすぎて経営の方は大丈夫か、とちょっと心配したくなるほどだった。
 注文し、食べてみると、味もイケてるし、量もちゃんとあるし・・・これで商売がやって行けるなら言うことないなぁ~・・・といたく感激した。
 若干まだ日射病の影響が残っていたけど、ちょっと辛めの400円カレーを、ヒーハーフーハーしながら食べた。なんだか身体もかなり回復してくれた気になるから不思議だ。
 そんな話題をちょっとふると、マスターも贔屓にしているという。
 一杯だけでは済まなかったけど、心地良い気分で、明日に臨めそうなところで切り上げ、宿に戻った。

 次の日・・・。
 昨日の出羽街道の起点から、逆に向かって高田方面に繋がっている北国街道を歩いて行った。
 白山神社に立ち寄ったら、タマ公という犬の銅像があり、その功績を読んでみると、雪国ならではの光景が浮かんできた。何度も雪に埋もれた飼い主を、ここ掘れワンワン!・・・の精神で救った一途なタマ公・・・。
 ステキな逸話に気分をよくして張り切って歩き出したのだけれど、やっぱり昨日の軽い熱中症の後遺症からか、足が全然進まない。
 学校町の交差点では大きく道を間違えてしまい、関屋松波町を抜けていくあたりからは、はっきり、しんどいなぁ~・・・と思うようになって来た。
 だから、国道402号線に入った浜浦橋手前を左折したところでちょっと休憩した。
 コンビニで買った氷菓を首筋に充て、コンクリートの堰堤の日陰に寝転んだ。
 すぐ傍に停まっている車の中から、ローカル放送のラジオが流れていた。
 リスナーからの手紙のコーナーになって、
「こんにちわ、9月になっても暑い日が続きますね」
(そのようで、今ひっくり返ってしまっているところです)
と思いながら耳を傾けた。
「・・・中1の時、新潟に引っ越して来て、毎日が寂しくてしょうがなく、そして小さないじめに遭い、それが段々・・・」
 やがて登校拒否になり、親に心配かけていることにも悩み、リストカットをして・・・。なかなか深刻な内容だった。
 でも中3の時のクラス担任が一生懸命の人で、クラスメートもうちまでいろんなものを届けてくれ、やがて夏休みが終わって2学期が始まった頃、部屋を出て、学校を訪れてみて・・・。すぐにはやっぱり馴染めなかったけど、春、みんなと一緒に卒業できた、ということだった。新潟ではない高校に進んで・・・そこでは3年間休まずに通った・・・ということだった。
 長いこと新潟に訪れることがなかったのだけど、家族で遊びに来た時、かつてのことを思い出し・・・というような内容が後日談のように続いた。
 40を過ぎ、あの頃の自分と同じような年齢になった子どもを持つ今、当時の担任のことやクラスメートのことや親のことをいろいろ思うと・・・と手紙は続いていた。
 女性DJは途中からずっと涙声になっていた。
 いろんな経験をして人は大人になる。
 私の息子も今、中学生だ。思春期の風に吹かれ、いかんともしがたい思いを一杯抱えて毎日学校に通っているのだろう。親はその姿を見守ってやるしかない。そして何かあった時にはすべてを投げ出しても息子のために動く覚悟を持つしかない。なんとか通ってくれていることに、今はホッとするだけだ。だからこうして旧道歩きなんかにも出かけられる。いや、それはちょっと問題が違うことかもしれないなぁ~・・・と思ってみたりする。
 ふと気が付くともうラジオでは別の話題になっていた。
 休憩したおかげで元気が戻っていた。息子の顔を思い浮かべながら、掘割橋を渡った。

「今日も一杯だけ、」
 そう思って夕刻、小径の奥にあるバーの扉を押した。

アマメハギ

(著者) ツキノマコト


 日本の来訪神行事と言えば、秋田の「なまはげ」が特に有名だが、新潟県にも存在する。村上市大栗田の「アマメハギ」だ。
 なまはげとルーツは同じなようで、鬼の面や腰に巻いた蓑など、姿もよく似ている。
 大栗田は過疎化が進み、今ではもう数人しか人が住んでいない。アマメハギの行事も、地元の小中学校の閉校に伴い、一度は途絶えてしまった。近年は村上市の保存会の尽力により、かろうじて小規模に実施されている。

「昔は結構、にぎわったんですよ。毎年1月にね、青年会の若い人や中学生がアマメハギに扮装してね。一件一件、練り歩いてましたね」
 そう語るのは、村上市の出身だというSさんだ。かつて伯父夫婦が大栗田に住んでおり、幼い頃はよく遊びに行ったという。Sさんは古稀を少し過ぎた年齢だから、六十年以上も前の話だ。

「集落には、アマメハギがいると信じて本気で怖がっている子どもも、たくさんいましたよ。でも、私は違った。なぜって、私の伯父がアマメハギだったからですよ」
 Sさんの伯父は、青年会の役員だったので、毎年、アマメハギ役の一人だったという。
「ですから、伯父の家の物置には、真っ赤な鬼の面とか、段ボールの包丁とか、アマメハギグッズが揃ってましたよ」
 Sさんはそう言って愉快そうに笑った。
 ところが、
「でもねぇ。私は一度だけ、不思議な光景を目にしたんですよ」
 ふいに真顔になって、こんな話を聞かせてくれた。

 ある年のことだった。Sさんは例年どおり、アマメハギの行事の時期に伯父の家へ遊びに行ったのだが、熱を出してしまい、寝込んでいた。もとも身体が弱く、すぐに風邪をひく子どもだったという。
 真夜中、ふと目を覚ました。トイレに立とうとしたが、熱と眠気で頭がぼんやりとして、思うように体が起こせない。
 寝返りを打つと、部屋の片隅に人影が見えたので、目をこらしてみた。

「そこにね、立っていたんですよ。アマメハギが」

 アマメハギは微動だにせず、じっとSさんのことを見つめていたという。
「伯父が帰って来て、私の様子を見に来たのだと思いました。ですが」
 Sさんは違和感を覚えた。
「アマメハギの装束のままでいるのは変だし、それに、そのアマメハギは天井に頭が付くくらい大きかったんですよ。伯父は小柄な人だったのに」
 Sさんはしばらくの間、アマメハギと見つめ合っていた。不思議と怖さは感じなかった。アマメハギは優しい顔で笑っているように見えたという。
「その後、すーっと記憶が飛んでいるんです。気が付いたら朝になっていて、部屋には私一人でした。熱はすっかり下がっていました」

 Sさんが食卓に行くと、伯父がすでにいた。Sさんは伯父に、ゆうべ何時頃帰って来たのかを尋ねた。

「帰ってない、と言うんです。青年会の人たちと夜通し新年会をしていて、たった今、朝帰りしたと」

 それ以来、Sさんは、あの時のアマメハギを一度も見ていない。
「不思議な事に、あれ以来、私は風邪をひかなくなったんです。あんなに病弱な子どもだったのに。私は、今でもあれは本物のアマメハギだったと思っているんですよ」
 Sさんは、嬉しそうにそう語った。

神さまからの贈り物

(著者) 丸和 華


 いつぶりだろう? 潮の香りをこんな風に心地良く感じたのは。
 この海岸に最後に足を運んだあの日来、違うかな?
 あれから二十五年……か。
 でもまさかこうして、ここを我が娘と訪れる日が来るだなんて。
 
 私は、駐車場からビーチへと延びる石段の上に新一と並び立ちながら、そこを小鹿のように駆け下りて行く白雪の背中を見つめた。
「白雪ー、慌てないのー」
 私の呼びかけが聞こえているのか、いないのか。白雪は振り向いて笑顔を見せることも返事をすることもなく、一目散に波打ち際へと向かっていく。

「ママー。見てー。太陽さんが白雪に来て欲しいってー」
 ふいに振り向いた白雪が驚嘆の声を上げた。
「そうねぇ。ばあにも太陽さんの声が聞こえるよ。お嬢ちゃんのお名前が白雪なのかい?」
 砂浜のゴミ拾いをしているらしい老婆が、白雪のはしゃぐ声に顔を綻ばせた。

 私と新一は砂浜へ降り立つと、老婆に会釈で応じた。ところが白雪は、沈みゆく太陽が作った置き土産に興奮した勢いのままに答えた。
「うん、名前が白雪。あのねー、白雪は湊幼稚園のたんぽぽ組さん。あのねー。白雪は金井先生がだーい好き」
 イルカのようなジャンプを見せながら、息継ぎも忘れ夢中になって自分を語る白雪。横浜の砂浜をお散歩していても、こういう一期一会が起こることなんてなかった。
 連休の行き先にここを選んで本当に良かった。白雪の特技とも言えるんじゃないかしら。初対面の人ともこうして臆することなくおしゃべりを楽しめるところ。

「白雪ちゃん。幸せだねー。お父さんとお母さんを大切にするんさよ。そうすればきっと神様も白雪ちゃんのことを守ってくださるから」
「はーい。白雪、ママのこともパパのことも、だーい好き。大切にするもん」
 背の低い申し訳程度の白波が私たちの足元を寄せては返していく。

 耳に響いてくる波の音が、遠い日の記憶を呼び覚ます。
 私が生まれ育った町、能生。だけど小四の時、横浜に引っ越すこととなって。以降ずっと横浜の町で育った。白雪にとっても、おばあちゃんちは横浜。
 ゆかりがあるというにはあまりに短いたった十年。
 されど。そこに詰め込まれている記憶はまるで宝箱。
 ふと私は、その宝箱の中から一つのアイテムを取り出していた。
 海の向こうにそびえているあの岩礁『弁天岩』に置いてきた神さまへのプレゼントの記憶を。

「あ、そうそう」
 回想を途絶えさせる老婆の声が突然耳に飛び込んできた。彼女はまん丸に曲がった腰のまま、前掛けのポケットの中にある何かを探しているようだった。
「これ、さっきそこでゴミ拾いしている時に砂浜で拾うてね」
 老婆がポケットから取り出し白雪に差し出したのはガラス製のリンゴ。透き通ったその中を色鮮やかな三本線が美しい螺旋を描いている。緑、青、白。まるで清流の流れのよう。
 それらが、海面を反射しながら届く夕日の光と静かに共鳴していく。

「わー。きれー」
「白雪ちゃんにあげるさ」
 白雪は目と口をまん丸にさせ、恐る恐るの様子で両手を差し出した。黒目がキラキラと輝いている。ほっぺも耳まで真っ赤に染めて。
「ゴミにするのは惜しゅうてさ。ばあのもんにしようとしたっちゃけど。白雪ちゃんにあげる」
 白雪の手にそれが収まると白雪は「あっ!」と声を上げてガクンと砂浜に崩れ落ちた。リンゴを落とさないよう、しっかり両手で守ったまま。
「おっもーい」
 白雪は砂まみれの腕や足を気にする素振りも見せずにケタケタ笑いながら立ち上がった。
「ごめんねー。重いよって言わのうちゃいけんかっちゃね」
 老婆は幸せな人生を思わせる深く刻まれた笑いジワをさらに深く見せた。
 私は一瞬、「ゴミ拾いの最中に拾ったとはいえ、拾得物として警察に届けた方が」と言おうとしたがやめた。
 この場でそれを口にするのは野暮だ。後で交番に寄って相談してみよう。

 そう思った刹那、それまで静かなさざ波を立てていた波が、ひと際大きな波音を立てながら私たちの足をさらった。
「あ!」
 白雪は一声発してすぐその場にしゃがみ込むと、老婆から受け取ったリンゴを器用に太ももに置き、足元の砂の中から何かを拾い上げた。
「ママ、見て―。くすぐったくてカニさんが来たのかと思ったらこれだったー。キレイな輪っかだねー」
 白雪は重たいリンゴを左腕全体でしっかりと掲げ、右手には今拾った『翡翠色のミサンガ』をつまみ私に見せながら立ち上がった。

 え? これって……。
 きっとそうだ。
 私が二十五年前、引っ越し当日にあの弁天岩の祠にお供えしたミサンガ。一生懸命幅広になるように工夫して、一カ月かけて完成させたんだ。大好きな友達と別れたくない、引っ越さなくて済むようにって祈りながら。
 でも引っ越すことは変わらなくて。完成したのも能生を離れる当日になってしまって。
 ――能生に住むみんなが、ずっと幸せでありますように。海の神様、お願い。みんなのことを見守っていてね。
 そう願いを変えたんだっけ。

 白雪の前で揺れる幅の広い翡翠色をした輪っかが「ただいま」と言っているように感じた私は、思わず心の中で「おかえり」と呟いていた。

清流

(著者)亜済公


 柿崎の海岸に座っていると、
「釣れますか?」
 と声がした。振り返ると、しわくちゃの顔をした老人が、こちらの様子をうかがっている。散歩にでも来たのだろうか。釣り場にやって来る人間なんて、今時そういるものではない。
「見ての通りです」
 答えつつ、竿をぐい、と引っ張った。海中から、ペンキ缶が顔を出す。僕は丁寧に針を外して、そいつを傍らへ放り投げた。同じ動作を、もう何遍も繰り返している。ペットボトル、空き缶、ボール、旅行鞄……雑多な品の数々が、山のように釣り上がるのだ。肝心なモノは、かかる気配すらないというのに。
「昔は、私も、よくここへ来たもんですわ」
 懐かしそうに、老人はいう。
「新潟で一番の釣り場だった。最近じゃ、どこへ行ったって魚なんかとれやしない。引っかかるのはゴミばっかりだ。あいつら、一体、どこへ行っちまったんでしょうなぁ」
「何でも、南極の近くでは、まだ少し上がるそうです」
 そりゃいいや、と老人は愉快そうに笑っていた。
「何百万とつぎ込んだ竿も、みんなゴミになっちまって。売ろうにも、買い手がいないんじゃしょうがない……どうです? 竿は釣れますか?」
 ええ、たまに。と答えると、彼はつまらなそうに、つばを吐いた。
「竿が海を汚すなんざ、あっちゃいけない話ですぜ」
 海はどんよりと曇っていた。ぷかぷかと、遠く、小さな野球ボールが、顔を出したり引っ込めたり、波間に揺れているのが分かる。空に立ちこめる灰色の雲には、黄色だとか、紫だとか、工場の排気が混じっていた。
 やがて、竿が再びしなった。引き上げると、人間の手によく似たものが、ひょいと海中から姿を現す。――やったか? 僕は僅かに期待し、すぐに落胆を味わった。それは、単なる、マネキンであった。
 中性的な顔立ちで、胸が少し膨らんでいる。四肢には、海藻が絡みつき、海中のどこかで別のゴミと繋がっているようだった。ある時点で、それはピクリとも動かなくなり、ぎりぎりと釣り針をいじめたあとに、とうとう海へと戻ってしまう。ひん曲がった針を取り替え、僕はまた、釣りを続けた。
「何を、狙っているんです? 大物が来ると良いですがねぇ」
「正直なところ、大して、期待はしていないんです」
 僕は、ふと思い出す。彼女のしなやかな肉体が、海へ落ちていく様子。それはどこか、人魚を連想させるのだった。
 水しぶきには、無数のプラスチック片が混じっている。油が浮いて、空気の抜けた浮き輪が漂い、全体に茶色がかった海面に……彼女は二度と、浮かばない。
 その自殺が、いかなる理由によるものなのか、今となっては分かるはずもないけれど。
「ただ、どうにも諦めきれないんですよ」
 老人は、そうでしょうなぁ、と頷きながら、「では」とどこへか去ってしまう。僕は一人残されて、釣り竿を握りしめていた。
 ――もしも、彼女の肉体を、釣り上げることが出来たなら。
 きっと僕は、それを家へと持ち帰るだろう。衣類は汚れているだろうから、僕のジャケットを貸してやるのだ。車の後部座席に横たえて、泳ぎ続けたその肉体を、たっぷり休ませる必要がある。帰り着いたら、風呂に入れよう。その間に、僕は来客用の上等な布団を、押し入れから引っ張り出しておかなくちゃ。夕食は、豚の生姜焼きで良いだろうか。彼女はそれが、好きだった。
 やがて、子供用の帽子がかかった。青い染みが出来ていて、ツンと妙な匂いがした。裏側に、マジックで名前が書かれている。放り投げると、綺麗な放物線を描きつつ、波間にぱしゃりと落ちていった。
 くるくると、何度か円を描いたあとに、帽子はゆっくり、沈んでいく。
 ――もしかすると。
 と、僕は思った。
 ――もしかすると、彼女は沈みたかったのかもしれないな。
 それは、ずっと以前の会話だった。
「海のずっと底の方には、綺麗な部分がまだ残っているんだって」
「綺麗な部分?」
「そ。工場の排水が、たどり着かないくらい、深い場所。水が昔みたいに澄んでいて、魚もいっぱい泳いでいる――ねぇ、見てみたいって、思わない?」
 その話が本当なのか、あるいは単なる与太話なのか、実際のところはどうでも良かった。彼女にとって大切なのは、その空想が、とても美しいものだということである。
 ――だとしたら。
 彼女を釣り上げようとするよりも、僕が沈んでいく方が、ずっと幸福なのではあるまいか?
 その考えは、僕を強く誘惑した。
 日はゆったりと傾いて、気がつけば水平線へと近づいている。
 僕は釣り竿を引っ張り上げて、ジャムの瓶を針から外した。
 それから、海へと近づいて――足を踏み出そうか迷ったあとに、「やめた、やめた」と、引き返す。僕の目には、海の底は見えなかった。ただ表面の、汚染された色彩が、目に入っただけであった。
 ――あの帽子は。
 ――あのマネキンは。
 その他無数のゴミたちは、海の奥底の清流へ、たどり着くことが出来るだろうか?
 遠く、ボウッと鐘が鳴る。工場が、排水を始める時間だった。ざぶざぶと、遙か向こうに新たな油の波が生まれて、こちらへゆっくり近づいてくる。
 僕は荷物を手早くまとめ、家へと向かって歩き出す。
 ツンと、風が臭っていた。

夜捕り

(著者)泳夏(えいか)

「先生、夜を捕まえに行きませんか。」
 突然、彼女はこんなことを言う。
「君ね、意味の解らないことを唐突に言うなと言っただろう。それから、状況をわかって言っているんだろうな。」 
 俺はいつもの様に無機質に心電図の数字を確認した。
 七十、六十、五十、四十―。
「先生、それってなんの数字なの?」
 また彼女はこんなことを言う。
「だからね、これは…、大事な目安で、頻回に確認しなければならない…俺の仕事で、つまり…所謂、なんだっけ。」
 俺としたことが、日頃の冷静さと決断力からは到底想像しえない歯切れの悪さだ。
「ふふ、いつもの先生じゃなくって面白い。このバタフライピーのお茶のおかげね。先生ってば、いつも真面目なんだもの。少しはお仕事のこと、忘れましょ。」
 彼女は微笑んだ口元を隠すようにカップを持ち上げた。それから、カップの中を覗いて、
「ほら見て、夜の信濃川。」
と呟いた。俺は自分の持っているカップの中身を確かめた。そこには確かに川が流れていて、高層マンションと夜の電車の灯りが反射した深くて重たい蒼色の流れがあった。
彼女がカップに息を吹きかけると、その深くて蒼い流れは白い湯気を放って、部屋中に立ち込めた。
「もうここ、飽きちゃった。変わらない白い天井。少ししか開かない不便な窓。重くて軽い、あって無いような扉。鳴りやまないアラーム。終わらない治療。もうここに未練はありません!」
 彼女がそう宣言すると、部屋中の湯気が真っ青になって、何も見えなくなった―。
 
 蒼い広葉樹に、蒼い草、ところどころに生息しているのは、蒼い彼岸花。
「ようこそ、蒼の島へ!」
「蒼の島?」
 どうにもついていけない事態なのに、俺はこの場所を知っている気がした。
「忘れちゃったの?ほら見て、服。」
 ふと見下ろすと、俺はいつもの白衣ではなかった。学生の頃、よく着ていたライブのTシャツに細身のダメージジーンズとお気に入りのスニーカーを履いていた。
「夜を捕まえるの。さあ、行きましょう。」
 彼女はそういうと、俺の手を強引に取って速足で進み始めた。坂を上ると、石の階段があって、彼女は一段一段、うんしょと上った。
「まるで神社の階段だな。」
体力に自信はあるものの、俺だってこんな傾斜のきつい階段、いつぶりだろう。
「着いたわ。ここ。確かここで見たの。」
上った先には、銅板が埋め込まれた石の門があった。
「高校?」
「そう、ここにはあったはずなの。熱血な先生がいてね。いっつも、『問題解決には生きる底力が必要だ!』なんて言っていたわ。」
ふっと笑った彼女の横を、ヒラヒラと何かが通った。蒼く光る四枚の羽根に、俺は見惚れて身動きが取れなくなった。チョウトンボだ。異変を感じた彼女が俺の目線を追う。
「あ、待って!待って、お願い!」
 立ち尽くす俺を置いて、彼女は駆けた。だが、もう遅かった。チョウトンボは空高く飛んで、姿を消した。
「綺麗だったね。」
「そう、あれが夜。皆ああやって元の姿になって、この島を自由に飛び交うの。綺麗よね。それなのに皆捨てたがる。私は捨てたくて捨てたんじゃないんだけど、先生はやっぱりお仕事の関係で仕方がなかったのかしら。」
 俺はようやく彼女が何を探しているのか分かり始めた。それは俺にはもう必要のないものだと思っていたが、こうしてここに彼女といるということは、きっと今の俺にはそれが必要なのだろう。
「俺も捨てたつもりはなかったかな。でも押し込めているうちに、消えてなくなった。つまり、捨てたのと何ら変わらないかもしれない。」
 彼女は少し黙ってから、
「もうすぐバスが来るわ。急いで下りましょう。」
と言って、また俺の手を引っ張った。

 バスを降りると彼女はずんずんと怪しげな茂みに入っていった。こんなところを一体誰が通るのだろう。砂利を踏み鳴らして進んだ先には、宝石のように輝く水面があった。
「虫谷の入り江。ここかもしれない。」
 その海水は、果てしなく長い時の中で、人々の悲しみも愛も吸い込んできたような色をしていた。俺はその美しさに屈して、観念した。
「どうしても今日じゃないとだめなのか。」
 俺は閉じ込めていた心の声を漏らした。
「先生、嬉しい。」
俺と彼女の瞳に朝日が差し込んで、キラキラと頬を伝った。
「ほら、捕まえた。」
蒼く輝くチョウトンボが彼女の指先にとまった。
「先生、ありがとう。私、頑張ったの。もうつらいのは卒業。また、ここに会いに来てね。」
 三十、二十、十―。
 俺は一人になった。チョウトンボが何匹も飛び交い、水面を一層輝かせた。それから激しい波が押し寄せて、俺の情けない嗚咽と涙を優しく包んだ。そして俺の震える掌に、一匹のチョウトンボがとまって羽を休めた。

「おかえり。俺の―。」

三〇グラムの便り

(著者)尾見苑子

 おはようございます。こんにちは。こんばんは。いつお読みになられるか分からないので、思いつく挨拶を並べてみました。
 ぴったりなものはありましたか。もしどれでもなかったらごめんなさい。
 さて、まず自己紹介からはじめましょう。わたしは早坂といいます。早坂まりこです。
 このままでは味気がないので、少し昔話をさせてください。
 わたしは内遊びが好きな子どもでした。たとえば読書、たとえば折り紙、たとえばお絵かき。ご存じのものはあるでしょうか。
 とくに、本を読むことが好きでした。まわりの皆が音読をする中、わたしだけは黙読ができたのです。頭の中で文字を追う。大人になるとできるのは当然のように思えますが、これとっても難しいことなんですよ。
 なんて、話が逸れてしまいました。お察しの通り、内遊びは好きでしたが、だからといって自分の世界に閉じこもるでもなく、非常におしゃべりな子どもだったのです。
 一人娘のわたしは、休みのたび両親によって連れ出されました。夏は潮風香る海、木々が鮮やかに揺れる山。冬は顔が映るほどぴかぴかに磨かれたスケートリンク。
 その中でも、特に思い出深いのは苗場のスキー場です。はじめて訪れたときのことは忘れられません。ホテルを出るなり真っ白な空間で視界が埋め尽くされ、目がおかしくなったのではないかと瞬きを繰り返しました。
 いつかの童話で、悪い魔女がお城に魔法をかけ、吹雪の中に閉じ込めてしまう話があったのですか、まさにそれです。恐々と吐き出した息までもが白く染まり、ゾッとしたことを覚えています。
 けれど、そんな不安は父の足の間で、数回斜面を滑るうちに絆されていきました。ガラスの靴ではありませんでしたが、無骨なシューズはあつらえたようにしっくりきました。
 母は麓で微笑み、そろそろ降りていくわたしを迎えてくれました。冷気で真っ赤な頬を手袋で挟まれると、あたたかいと思いました。
 そのときにわたしは、美しいものは、その美しさに比例して恐ろしいのだと知りました。
 真っ白な空間は、何ものにも替えがたく綺麗でした。だからこそ、わたしは最初に恐怖を感じたのです。
 そして、その場所を何より愛しく思うようにもなりました。
 すみません。少し文字が滲んでしまいましたね。久しぶりに二人を思い出したためです。

 本題に入りましょう。
 この手紙は、お願いなのです。祈りととらえてくださっても構いません。
 どうか、いまのわたしたちに、いえ、主語が大きいのはあまり良くありません。わたしに、あのスキー場を残してください。
 情けない話ですが、気がついたとき、もう取り返しはつきませんでした。
 技術の発展と引き換えに、冬の始まりは遅くなり、終わりは早まりました。一冬の雪量は減りましたが、一晩の雪量は増え、雪害と呼ばれる災害が年毎に増加していきました。
 そして、数年前に起きた積雪事故をきっかけに、それがなくても本来の機能を失っていましたが、ついに、わたしの大好きなスキー場は取り壊されてしまいました。
 残念で、かなしくて、つらくてなりません。
 そこでわたしはとある決意をしました。さきほど「技術の発展」と申しましたが、そのひとつがこれです。なんといえば言いのでしょう。タイムマシンといえば伝わりますか。
 わたしには子どもがおりませんので、財産のほとんどを使い、ようやく三〇グラム分の権利を購入することができました。
 手紙一通分です。場所も指定できるそうなので、いつか宿泊した、スキー場に面したあのホテルのフロントにいたしました。
 手紙を拾われたあなた。お客さんでしょうか、それともスタッフの方でしょうか。あの時のわたしと同じくらいの幼子かもしれませんね。
 白寿を迎えた私より、この手紙が少しでも胸に止まれば嬉しい限りです。

見合い話

(著者)月の砂漠

 越後線の車内は閑散としていた。この様子だと、吉田駅を出たあたりで乗客は私だけになりそうだ。帰省のシーズンでもないし、終電間際のこんな時間だから、別におかしいことでもない。ただ何となく、私は寂しさのようなものを感じていた。
「ふぅ」
 私は、今朝から何度目かの溜息をついた。
「お嬢さん、さっきから元気がないようですね。何かお悩みですか?」
 ふいに、通路を挟んだ横の席に座っていた老人に声を掛けられた。私は、その老人がいつからそこに座っていたのか、思い出せなかった。何だか突然現れたようにも思えた。
「いえ……すみません、大丈夫です」
 私は会釈して、老人から目をそらした。
田舎特有のお節介といったところか。人の悪そうな老人ではなかったが、だからと言って、見ず知らずの人に、今の自分の悩みを打ち明けようとは思わない。
「まぁまぁ、そう言わずに。誰かに喋ってしまえば、気が楽になることもありますよ」
 気が付くと、老人は私の目の前の席に座っていた。いつ移動したのだろう。全然気が付かなかった。
 私はチラリと老人を見た。年寄りの割にはずいぶんとスタイリッシュな服装をしていた。地元の住人ではなく、私と同じで、都会から故郷へ戻る途中なのかも知れない。
「お国は新潟ですか?」
 老人が尋ねて来た。私は、はいと頷き、故郷の町の名を告げた。老人は、私もそこなんですよと嬉しそうに応じた。
「良い町ですよねぇ。自然は豊かだし、魚も美味しいし」
 老人は独り言のようにつぶやいている。
「退屈で平凡な町ですが、やっぱり好きですねぇ。我が自慢の故郷ですよ」
 老人がにっこりと私に笑い掛けた。私は、なぜか、その笑顔をとても好ましく思った。
「私、実はこれからお見合いなんです」
 私は老人に言った。言ってから、自分に驚いた。どうしてこんなプライベートなことを初対面の老人に話す気になったのだろう。自分でもよくわからなかった。
「ほう。お見合いですか」
「でも……悩んでいるんです。悪いお話じゃないとわかっているんです。むしろ、とても良いお話だと。でも、このまま、受けてしまっていいものか、ためらいもあって……」
 結婚ということになれば、私は東京の独り暮らしのアパートを引き払い、正式に故郷へ戻ることになる。そして、故郷で静かに暮らしていくのだ。おそらく、一生。
 年を取って来た両親の顔。職場でひそかに恋をしていた先輩の顔。将来生まれるかも知れない赤ちゃんの顔。趣味仲間たちの酔っぱらってはしゃぐ顔。
 様々な顔たちが、私の頭の中で入れ替わり立ち替わり巡っていた。自分にとって、一番大切なものは何か。考えるたびに、出て来る答えは違っていた。
「なるほど。そうでしたか。あなたはこんなに色々と悩んでいたわけですか」
 老人は、難しい顔をしてしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「私に言えるのは一つだけです。きっと、これからあなたとお見合いをする相手の男性は、心の底からあなたを愛し、生涯をかけてあなたを守るはずです。それだけは必ずお約束します」
 老人は穏やかに言った。お約束します、という言い方が面白くて、私はちょっと吹き出した。それじゃあ、まるでこの老人が当事者みたいじゃないか。
 老人は優しく微笑んで、言葉を続けた。
「悩んで、悩み抜いて、私を選んでくれてありがとう。結婚してから六十年。ずっと一緒に居られて、私は毎日幸せだった。本当にありがとう、サオリ」
 突然、老人が私の名前をつぶやいた。
 えっ、どうして私の名前を知っているの?
 そう思った瞬間、老人の姿は消えていた。後には、淡い光がぼんやりと残っていた。
 私は不思議な思いに包まれた。今のは、白昼夢だったのだろうか?
 車内アナウンスが、目的地への到着を告げた。私は鞄を手に取り、立ち上がった。
どうしてだかはわからないけれど、私は、今回の見合い話を、受けようという気持ちになっていた。
【了】