Bar どんづまり

(著者)月の砂漠

 古町通りから一本外れた路地裏のどん突きに、私のバーはある。
 店の名は「Bar どんづまり」
 私はこのバーのマスターだ。今宵も一時の酔いを求めて、様々な客が店の戸を叩く。
 ほら、今もまた、一人。

「いらっしゃいませ」
「まだ、やってますか?」
「ええ。気ままな店ですから」
 初めて見る客だった。わずかに気怠さを漂わせながら止まり木に座ったその女は、美しかった。
「何をお作りしましょう?」
「そうね。お任せするわ。私が欲しがっているものを、作ってみせて」
 女は、いたずらな笑顔でそう言った。
 試されている。私はそう思った。彼女は、私のバーのマスターとしてのセンスを見極めようとしている。あるいは、男としての。
「お見受けしたところ、一人で酒を飲むことに慣れていらっしゃるようですね」
「寂しい女と思われたかしら?」
「ありきたりのカクテルでは満足して頂けないのでしょうね」
「ええ、私、平凡は嫌いなの。お酒も、男も」
「今、お持ちしますよ。あなたにぴったりなものをね」
 経験豊富な私には、女が何を求めているのかすぐにわかった。この手の女が欲しているのは酒ではない。刺激だ。サプライズだ。私は渾身の一品を女に差し出した。
「お待たせしました。焼きうどんです」
「はぁ?」
「あなたにぴったりの、焼きうどんです」
「馬鹿じゃねぇの?」
 女は席を立ち、外に出て行った。違ったのか。焼きうどんではなかったのか。やれやれ、難しいな。女ってやつは。
 私が男女の仲という永遠の命題について懊悩していると、ドアベルがまた音を立てた。今宵は随分と繁盛しているようだ。
 入って来たのは、先程の美女に劣らない、これまた妖艶な女だった。
「まだ、開いてる?」
「あなたが開けろと言うのなら」
 女は、妖艶だがやや幼さも残していた。そのアンバランスが、かえって女の魅力を引き立てていた。
「何か食べるものある?」
「ええ、焼きうどんが」
「じゃあ、それを頂くわ」
 私は、女に焼きうどんを差し出した。無駄にならなくて良かったと胸をなでおろす。
「あなたダンディーね。私、タイプかも」
 女は私に微笑んだ。上目遣いの、かすかな媚びを含んだ視線。私のような大人はともかく、未熟な男なら動揺してしまうだろう。
「あ、あり、ありがががとうございます」
「あら、照れてる。かーわいー」
「お、おたわむれを」
「煙草吸う?」
「い、いただきます、熱っ!」
「驚いた。火の着いてる方を吸うのね」
 私はせわしなく煙草を吹かしながら、懸命に心を静めた。ふっ、いかんいかん、私としたことが。こんな小娘に翻弄されるとは。
「マスター、お名前は?」
「私は、マスター、ですよ」
「マスダさん?」
「マスダではなく、マスターです。いや、あの、本名はちゃんとあるんですが、みんな、私をマスターと呼ぶものですから」
「冗談よ。そんな必死になって説明しなくても平気よ。うふっ、かーわいー」
「ど、どうもありがとうございます」
「私のこと、おかしな女だと思ってる?」
「い、いえ。そんなことは」
「私、いくつに見える?」
「ええと、そうですね」
 その女は三十手前くらいに見えた。だから私はわざと、少し若い年を言った。女性を喜ばせるテクニックの初歩中の初歩だ。
「二十五歳くらいでしょうか?」
「あら、嬉しい。私、六十二歳よ」
「ええっ!?」
「楽しかったわ。また来るわね、マスター」
 焼きうどんを三口で食べ終え、還暦過ぎの女は颯爽と去って行った。

 古町通りから一本外れた路地裏のどん突きに、私のバーはある。
 店の名は「Bar どんづまり」
 私はこのバーのマスターだ。今宵も一時の酔いを求めて、様々な客が店の戸を叩く。
 ほら、今もまた、一人。
                 【了】

万歳。

(著者)圭琴子

 あたしは、駆け出しの歴女(れきじょ)だった。きっかけは、アプリゲームだ。ゲームの時代背景を調べている内に歴史のドラマチックさにのめり込み、休日には各地に遠征をするようになっていた。
 今日は、新潟県の春日山城跡。お目当ては、上杉謙信やその家臣の扮装をした、『上杉おもてなし武将隊』だった。
 刀を抜いての、イケてるオジさんたちの物語演舞は思った以上に完成度が高く、まるでミュージカルを観てるみたいだ。
 しかも写真撮影は、『実質無料』という概念ではなく本当に無料で、お話も出来て凄く楽しかった。
 ……あのひとが、直江兼続(なおえかねつぐ)だな。
 あたしは記念撮影とは別に、兜の前立て(まえだて)に『愛』の一文字が目立つ、彼ひとりをこっそりと撮影する。
 側室を持つことが当たり前だった時代に、正室のお船の方(おせんのかた)ひとりを愛し通した戦国の武将。その一途さが好きだった。
 普通は新潟と言えば上杉謙信だったけど、あたしはだんぜん、家臣の直江兼続派なのだった。
 そして余韻もそこそこに、駐車場に走ってマイカーに飛び乗る。上越市から小千谷市まで、二時間弱の長旅だ。
 次のお目当ては、木造愛染明王坐像(もくぞうあいぜんみょうおうざぞう)のある、妙高寺だった。御開帳(ごかいちょう)は十七時までだから、あたしは昼食も摂らずに出発する。
 どうしてもお腹が空いた時の為に、あらかじめコンビニでお握りを二個買ってあったけど、慣れない道だから運転に集中する。
 その甲斐あって、ギリギリ十六時四十五分に到着した。あたしは駐車場からまた走る。
 兼続が熱心に信仰して、その頭文字を前立てに選んだという、愛染明王が観たかった。
「綺麗……」
 観られたのは五分弱だったけど、あたしは何だか感動しちゃって、息を弾ませながら涙を拭う。
 三眼六臂(さんがんろっぴ)――眼が三つ、腕が六本の猛々しい姿と、背景に描かれた炎のコントラストが美しかった。
 扉が閉められてからは、境内で真っ赤に色づいた紅葉狩りをする。奥行きのある場所で、黄色のイチョウと赤いモミジが重なるポイントを見つけてスマホをかざしたら、不意に画面に『愛』の一文字が入り込んできた。
「あれ?」
 さっき観た、鎧に陣羽織姿の兼続が立っていた。妙高寺でも、パフォーマンスをしているのかな?
「おい。女」
「は、はい」
「春日山城に居たはずが、奇妙なことに妙高寺だ。間もなく戦(いくさ)が始まる。早馬を用意してはくれんか」
 ……ん~? あたしの頭の上には、クエスチョンマークがたくさん瞬く。
 よく見ると、さっきの兼続よりはずいぶん若く、背も低い。鎧はところどころが錆びていて、赤黒く変色していた。
 人間、信じられない出来事に遭遇すると、現実逃避するんだな。あたしは昔観た漫画やドラマを思い出して、こういう時どうしたらいいか、ぼんやりと考えていた。
「おい」
「あっ、ハイ。早馬はいないけど、鉄のかごなら」
「鉄? それでは、かごの者が難儀だろう」
 ああ。兼続はやっぱり、かごを運ぶような下々(しもじも)にまで、優しいんだ。あたしは何となく、嬉しくなった。
 駐車場まで案内して、マイカーに乗せる。軽自動車だったから、兜は脱いで貰った。
 彼はキョロキョロと、車の中と、凄いスピードで飛び去って行く外の景色を眺めていたけど、特に質問はしなかった。自分の無知を、恥じていたのかもしれない。
「……すまん、腹が減った。何か食すものはないか」
「あ、あります。お握り」
「握り飯か。馳走になる」
 そう言って、透明のビニールごと食べようとする彼を止めて、信号待ちの間に?がしてあげた。
「うむ。美味じゃな。はて、だがこの具は何じゃろう」
「ツナマヨです」
 あたしはコンビニのお握りは、ツナマヨしか食べないマヨラーだった。
「して、その『つなまよ』とやらは、どうやって作るのじゃ?」
「え~っと……」
 真のマヨラーのあたしは、マヨネーズを自作することもあったから、答えられた。
「ツナは、マグロです。マヨは、卵黄と油と塩と酢を混ぜて作ります」
「ほほう。今度、賄い方(まかないかた)に作らせてみよう」
 ペロリと二個のお握りを完食した兼続は、今度はカーオーディオに興味を持ったようだった。
「歌謡(かよう)は、誰が何処で歌っておるのじゃ?」
「ええと……歌ったものを記録して、その記録を流しています」
「この男は、先ほどからばんざいばんざいと叫んでおるが、『ばんざい』とは何じゃ?」
「愛するひとに出逢えた運命を、『万歳』という言葉で寿(ことほ)いでいるんです」
「なるほど。『はっぴー』とは?」
「とっても幸せって意味です」
「いい歌謡じゃな」
 それからしばらく、沈黙が続いた。兼続は、曲に聴き入っているらしい。
 そうしてふと隣を見たら、兼続は居なくなっていた。
 良かった。帰ったんだな。不思議と、そう確信出来た。
 後日、兼続の文献を読んでみたら、『綱真世(つなまよ)』お握りのレシピと、祝言で歌謡と舞を披露したエピソードが載っていた。
『万歳。そなたと出逢えて重畳(ちょうじょう)。これより生涯、没すまで、至上の幸福』
 そんなに気に入ったんだ。あたしはくすくすと笑って、本を閉じた。胸の辺りが、じんわりといつまでも暖かかった。

新潟にトキを見に行く

(著者)七寒六温

もし今 君が、幸せになりたいなーとか人生に悩んでるなーって思っているなら、いいことを教えてあげるよ。

大学時代に、一部界隈で噂されてた話で、言い出しっぺは誰なのかは知らないんだけど、

新潟でトキを見ると幸せになれるんだって……

何だその話、ホントかって疑ってかも知れない。まあ、こっちも疑われる覚悟で話してるんだけど、これがさ、かなり信憑性が、高いのよ。成功した事例も複数あるしね。

例えば、ナオキ。
ナオキってやつは、彼女が欲しい、欲しいってずっと言っていたんだけど、新潟に行って、トキを見た2ヶ月後に、めっちゃくちゃ美人の女子大生に告白され、付き合うことになった。彼女が欲しい欲しい行ってた人間が、女子大生の方から声を掛けられたんだぜ、すごいと思わない?

就活で悩んでいた松岡さんって可愛らしい顔した子がいたんだけど、その子は、トキを見た3ヶ月後、誰もが知っているような超有名企業の会長のご子息を道端で助け、就職先、決まってないんならうちくる? って声を掛けられ、スカウトのような形で就職先が決まったらしい。

トキを見てから2人とも、確実に運気上がってるよね? 望んでいたものが、向こうからやってきたんだからさ、すごいよね?
他にも、大きいものから小さいものまでたっくさんあるんだけど、全部挙げるとなると、きりが無いからさ、これくらいにしとくね。

え、そんな言うなら、お前は見に行ったのかって?

それね~僕は行ってないの。

えっ? なんで俺は見に行かないかって?
それは、俺は当時から悩み事なんてなかったし、ずっと、幸せもんだから……
自分の人生に満足しているから、トキを見に行く必要ないんだよね。それなら、俺よりも本当に必要としている人に見て欲しいじゃんっと思って。

まあ、全て信じなくてもいいけどさ、1つの噂話として頭の中に入れといてよ。
トキを見に行きたいって思った時は、俺に言ってよ。チケットは用意するし、さらに運気が上がるとされているアイテムも貸すからさ~。

まあ、考えといて。
いつでも話聞くからさ、お疲れ!

***

こう話していた友人Sは、2ヶ月後、詐欺罪で逮捕された。

とはいえ、彼の話はあながち間違っていないのかも知れない。だって、彼はトキを見に行かなかった。トキを見に行っていれば、彼にも幸せが訪れたかも知れないのに。

君がいる世界で、もう一度息をする

(著者)乃木 京介

 長い夢を見ていた。

 僕は何をするにしても、一人の少女と一緒に過ごしていた。正確には、二人だけの世界で。少女はたぶん、僕と同い年くらいの高校生。腰辺りまで伸ばした長い黒髪が特徴的で、いつもピンクのリボンを身に付けていた。

 学校は教師もクラスメイトもいなかった。だからいつも、少女と毎日勉強をした。放課後の街中は誰もいなかった。だからいつも、少女と手を繋いで道路のど真ん中を歩いて話した。

 休みの日はなぜか空を飛べた。どこまでも羽ばたける爽快感は現実世界の何ものにも代えられないと思った。だが、いつも僕が空を飛んでいる時だけ、少女は悲しい眼をしていた。少女には羽がなくて一人ぼっちが嫌だったのだろう。だから僕は、少女の元から離れることはなかった。

 こうして振り返ってみると可笑しいが、夢なんてそんなものだと思う。もっとも、いま僕の身に起きていることのほうが、よっぽど夢だと疑いたくなるが。

「今日はね、クラス替えがあったんだよ。私たち、また一緒になれたの!」

 僕に向かって嬉しそうに出来事を話す一人の女の子。こうして顔を合わせるのはもう一ヵ月にもなるので慣れてきたが、最初はとても驚いた。

「クラスのみんなも待ってるから、ゆっくり治してね」

 僕が無言で頷くと、君は満足そうに笑った。
 僕は君の名前を知らなかった。

 僕が夢から目を覚ました時、病院のベットの上にいた。
 どうやら僕は事故に遭い、長いあいだ眠っていたらしい。

 お医者さんによれば、記憶の大半を失っていてもおかしくない状態だったそうだが、僕の脳は冴えていた。事故の瞬間こそ忘れていたが、日常生活を送るうえで困るような欠如はなかった。

 ただひとつ、ほとんど毎日お見舞いに来てくれる君の名前だけは、どうしてもわからなかった。悪意なくそれを伝えた時、君はとても悲しそうな眼をした。それは夢の世界で僕が空を羽ばたいている時に、少女が向けていた眼差しとそっくりだった。

 それでも君は、翌日からたくさん話をしてくれた。

 僕と君の関係性は恋人であること。僕が君に二度断られたにも関わらず、三度目の告白をしてようやく受け入れられたこと。休みの日は柏崎の恋人岬や、糸魚川の親不知海水浴場などいろんな場所に二人で行ったこと。少し見返すのが恥ずかしいような、愛のあるメッセージのやり取りをしたこと。

 実際に写真や文字の記録を見せてもらうと、確かに僕は君のいる世界で生きていたことがわかった。そんな僕の人生の基盤となっている君の存在を、奇妙なことに何ひとつ憶えていなかったのだ。君と過ごした時間だけぽっかりと抜け落ちてしまったような、いや……最初から君という存在がなかったような──。

 もし、僕が君の立場だったら絶望してしまうだろう。
 だから、どうしても思い出したかった。

「ごめんな……」

 僕の呟きに、君は何も言わず窓から空を見つめた。
 埋められない空白が怖くて仕方なかった。

「毎日来てくれてありがとうねえ」

「いえ、家にいても落ち着きませんから」

 ある日、僕が眠るベットの近くで、母親と君が会話をしていた。そんな声で目が覚めた僕は、なんとなく寝たふりをしながら耳を傾けることにした。

 しばらくたわいもない会話をしていた二人だったが、不意に会話のトーンが変わる。

「最近の様子はどう?」

「頑張って思い出そうとしてくれてるみたいです」

「もう……戻らないのかもしれないのよ……?」

 母親の言葉は、決して君から希望を奪おうとしたわけではない。もし僕の記憶が戻らなかった時、君が深く傷付かないように、という優しさだろう。

「あんなに好きだって言ってくれてたのに、それは少し寂しいですね」

「家に帰ったら、いつもあなたのことを話していたわ。それなのにどうして──」

 心が破れてしまいそうだった。思い出せない焦り、自分への苛立ち、恐怖。
 このまま退院する時が来ても、君と過ごした記憶が戻らなかったら……?

「でも、大丈夫です」

 その時、君の力強い声が僕の鼓膜を揺らした。

「もし、私のことを思い出せなかったら、また知ってもらえばいいんです」

 君の息遣いが聞こえる。とても落ち着いているように感じた。

「そしてもう一度、好きになってもらえるように努力します。だけど今度は、私から告白するんです。こんなに大好きなあなたのことを、二度も振った私と付き合ってくださいって。断られても、三度目までは諦めません。きっとその時までには──」

 最後は一縷の望みを託すように、君は泣き笑いのような声で言葉を震わせた。
 もらい泣きしたのか涙ぐむ母親が席を外した隙に、僕は閉じていた瞼を開けると、君と目が合った。

「起きてたでしょ?」

 君には全てお見通しらしく、僕は誤魔化すことなく頷いた。

「まだ告白しないからね。私のことをちゃんと知ってもらってからにしなきゃ」

 そう言いながら、君は近くに置いていたスクールバックから何かを取り出し、頭に付けた。君の手が膝の上に落ちると、ピンクのリボンが視界に入る。

「今日はこれ持ってきたんだ。ずっと大事にしてるんだよ?」

 僕の視線に気付いたのか、いつものように話を始める君。
 その瞬間、記憶が渦巻くように甦り、一人の少女の存在を思い出す。

 僕が長い夢を見ていた時に、ずっと時を共にしていた少女。
 あの少女も、まったく同じリボンを付けていた。

 いや、違う。リボンだけではない。不透明な靄が晴れて少女の全体像が露わになる。あの少女こそが君で、君こそが少女ではないか? 一つ、またひとつと記憶の扉が開いていき、僕は全速力で走り抜けていく。

「そのリボン……僕がプレゼントしたものだよな……?」

 君の瞳に一縷の光明が差し込む。

 ピンクのリボン。あれは僕が君の誕生日の時にプレゼントしたものだ。髪飾りが大好きな君を思い選んだ。リボンに印字されているアルファベットは、君の名前の頭文字で運命的だと思った。受け取ってくれた君は、僕の期待どおりの反応をしてくれた。

『これって私の名前が──だから?』

 肝心な部分がぼやけて聴こえない。けれど、何度も何度も記憶の映像を再生させる。

 やがて最後の凍り付いた扉が、けたたましい音を立ててゆっくりと開いていく。
 ああ、そうだ。僕の大好きな君の名前は──。

 ようやく全てを思い出した僕は、君の名前をゆっくりと、だけど確かに呟いた。
 驚いた君が目を見開く。どうやら間違っていなかったようだ。

「ただいま」

安堵して笑う僕とは対照的に、

「おかえり」

と呟いた君は涙を浮かべて僕に抱きついた。

俺の弟

(著者)大野美波

 俺の弟はかわいい。生まれた時のことはよく覚えている。みんな弟につきっきりになり兄貴の俺は多いに妬いたもんだが、弟の正樹の最初に覚えた言葉が『にいに』だったから、俺はすごくすごく感動した。母ちゃんと父ちゃんは悔しがってたけど。
 正樹はスポーツ万能だ。その上成績優秀で何をやらしても器用にこなしたが、泳ぎだけはダメだった。プールの水を異常に怖がる。だから俺が小六、正樹が小二の夏に海に行くことになった。新潟だ。
 新潟に近づいていくと正樹の様子がおかしくなった。泣いているのだ。家族が心配してどうしたのか聞いても本人にもわからないらしく
「わからない。けど涙がとまらない」
 と目をこすった。宿について手分けして荷物を持ってはいると宿の女将さんが驚いた顔をした。
「ごめんなさい。あまりに息子の勇一とそっくりな坊ちゃんだったから」
 女将さんは笑ってかがみながら正樹に視線を合わせて
「いらっしゃい」
 と言った。
「みなさんよくいらっしゃいました。長旅で疲れたでしょう。古い民宿ですが料理は美味しいですよ。ゆっくりしていってください」
 部屋に入るとき正樹が小さな声で
「ただいま」
 と言ったのを俺は聞き逃さなかった。備え付けの温泉に入って夕食の時間になった。サザエにホタテにカニのお吸い物さまざまな海の幸が食卓に並ぶ。女将さんは最後の一品を運び終えると目を赤くして言った。
「正樹くんは見れば見るほど息子そっくりで。いや、お客さんにこんな話するのもどうかと思うのですが、勇一は正樹くんくらいの年齢のときに海で亡くなっているんですよ」
 黙って箸を動かしていた正樹が突然泣きだしたから誰もが驚いた。
「ぼくが死んだのはしょうがなかった。けど弟の茂まで巻き込んだ。茂はあんなに沖にいくのを嫌がってたのに」
 女将さんは感極まった感じて
「やっぱり、やっぱり勇一の生まれ変わりなのね」
 俺たち家族は呆然とするしかなかった。正樹の様子がおかしいと思っていたが、前世があるとは。
 「勇一、いや、正樹ちゃん。茂は生きてますよ」
 その時だった。後ろから旦那さんと高校生くらいの男の子が顔を出した。やっぱりと言う顔をしていた。
 「茂はサーファーに救助されて無事だったんですよ」
 正樹は泣いていた。女将さんもないていた。旦那さんも息子も泣いていた。そのくせ翌朝になったら正樹は泣いたことも忘れてけろりとしていた。
 そして海水浴にいくとじゃぼじゃぼと海に入りあんなに水を怖がっていたのが嘘のように上手に泳いだ。
 宿を出る日、女将さん一家は総出で送り出してくれた。
「また来ますよ」
 父ちゃんは言ったけど旦那さんは
「もう来ない方がいいでしょう」
と笑った。すると父ちゃんが
「いえ、また来ます。ここはとてもいい所ですから」
 潮の匂いを風が運んできていた。
 俺は思う。正樹は最初に覚えた言葉『にいに』は『新潟』のことだったんじゃないかって。当時の俺は妬いて正樹のことを全然相手にしてやらなかったのだ。それなのに最初の言葉が『にいに』だったのだ。きっとそうだ。
 俺の弟は今日もかわいい。

ベストフレンド

(著者)七寒六温

同じ大学に通っている友人に、
「今日の朝ごはん、何だった?」
と尋ねられたので、

「あ~ 今朝は、食パンとベーコンだけど」
と答えると、その同級生は、日本語を流暢に話すチンパンジーを見つけた時のような顔で驚く。

そ、そんなに驚かなくても。
いうても僕は、地方から上京してきた大学生なもんで、バイトをしておらず親の仕送りで生活している身なため、朝は今日みたいに安く、軽く、済ませるんですよ。安そうな朝飯……安朝飯(やすあさめし)で悪かったな。

そう、僕は安朝飯が原因で、同級生は驚いたのだろうと思ったのだか、違った。

「お前でも、パン食べるんだ~」
パン? 
友人は、僕がパンを食べたことに驚いたようだ。
えっ? でも、そんなに驚くことなのだろうか。別に普通の行動だが。

「何が? そんなおかしなことかな~?」

「いや~お前でもパン食べるんだな~って。米だけしか食べないと思ってた」

……確かに僕は、お米が美味しい新潟で、美味しいお米に囲まれて育ちましたよ。
ご飯派か、パン派かって聞かれたら、勿論ご飯派だけと、パンを食べないわけじゃない!

「食べるよ、食べる。俺のこと何だと思ってるの?」
「新潟生まれ新潟育ちの人間は、お米だけ食べているわけじゃないのよ。だってそうでしょう? その理論だと香川県出身の人はうどんだけを食べることになるでしょ?」

「そっか……」
「よかった~俺はさ、お前のこと大切な友だちだと思ってたからさ、ずっと友だちでいたいな~と思ってたんだよ」
「だけどさ、ウチ、実家パン屋でさ、そのことお前に話したら、嫌われたり、敵視されるんじゃないかと思って」
「実家のパン屋の話はおろか、パンの話も極力避けてきたんだよ」
「あ~ よかった~ 米だけ食ってるマンじゃなかったのか~」

「だ、大丈夫だよ、そんなことで君のことを敵だとは思わないし、嫌いにもならないよ」

「まじか、よかった~」

「でもね、お米食べてるマンの僕から、1つだけ言わせて……」
「米じゃなくてお米ね、もしくはご飯」

お米のことを、軽々しく米と言う行為。
……それだけはいくら友人でも許せない。

だって、お米は生まれたときから僕のそばにいてくれたベストフレンドだから。

只見線

(著者)楽市びゅう

 東京が嫌になり宛てもなく列車の旅を続けていたある冬の話。

 その日私は夕刻の会津若松にいた。今日のうちに新潟県へ入りたい、さてどんな風に向かおうかと考えていた。
 駅にある路線図を見ると、新潟市内を目指す磐越西線と魚沼の辺りまで西進する只見線があることを知った。飛び込みで宿を探すことを考えると前者の方が妥当だろうかとも考えたが、それではつまらない。旅情に駆られ行動も大胆になっていた私は、この先訪れる機会が少なかろう方を選んだ。
 後になってその評判も聞いたが、只見線は車窓から見える雪景色が見事だった。東京では到底お目にかかれない、豪雪の中をガシガシ列車が進んで行く様子は爽快だった。
 やがて日は沈み、白銀は暗闇に消えた。黒と暗い白だけの風景、ゴーゴーという気動車の轟音と振動、それに只見線内にやたらと続く「会津◯◯駅」という駅名に私は次第にぼんやりし始め、気付けば深いまどろみに入っていた。

 どこをどう巡ったのかわからない。しかし、私は終電と思しき列車でさらに魚沼のさらに西、直江津に放り出された。
 携えた時刻表を辿れば一応辻褄は合うが、全く記憶がない。
 私は身震いしたが、頬を叩いて現実に戻った。とにかくこの直江津で今夜の宿を探さねば、真冬に知らぬ土地で野宿では身震いどころでは済まなくなる。
 しかし宿探しは案外にあっさりと解決した。駅前にビジネスホテルがあったのだ。期待を込めてエントランスを入る。
「本日、部屋に空きはありますか」
 フロントにいる男性に発した言葉に、自分で驚いた。寒さにやられたのか、声が枯れている。久しぶりに声を出したから気付かなかった。
「ええ、空いてございます。それにしてもこんな夜遅くに、大変だったでしょう」
 身を案じてくれる男性の言葉にほっとする。
「東京から来られたのですか。これは寒い中を、よくぞお越しいただきました」
 私が宿泊者名簿に記帳した住所を見て、男性が驚く。
「少し理由あって、列車の旅をしてましてね」
「お一人で旅とは、お若いですね」
 四〇くらいの男性から見れば、社会に出てまだ三年の私はやはり若いのだろうか。
「ごゆっくりなさってください」
 うやうやしい男性の接客に喜びながら、鍵を受け取ってエレベーターに入った。瞬間、私の眼前に映る鏡の中の自分の姿に叫んだ。
「ぎゃあっ」

 そこにはまるで冬空の雪を被ったように髪も髭も真っ白の、皺くちゃな老人の男性がいた。二重に驚いたことには、それは紛れもなく私であった。
 私は延々と続く只見線のまどろみの中で、幾年もの年月を過ごしてしまっていた。

 只見線は現在豪雨災害によって寸断されている。いつか復旧により繋がれば、私はあの時とは逆方向に乗車してみたいと思っている。それもまた冬がいい。きっと気動車にまどろんで、会津若松に到着する頃にはまた若返っているだろう。

ひかりの悩み事

(著者)烏目浩輔

 住宅メーカーの営業職に就いて五年。二十代後半の藤谷ひかりはおおいに悩んでいた。
 その悩みは前々から身近にあるものだった。しかし、今までは現実逃避して目を背け、するっとスルーできたのである。ところが、ついにそうもいかなくなってしまった。いよいよあれが現実味を帯びて、直視すべき問題になったのである。
 考えても解決策にたどり着けないひかりは、十年来の親友である由美に相談してみた。しかし――。
「ひーちゃん、そんなこと気にしちゃダメだよ。気にしないのが一番」
 そう応じた由美の顔はニヤついていた。
「笑ってるし! 本気で悩んでるのにひどい!」
「わ、笑ってないって!」
 言いながら由美は笑いを堪えていた。こいつはダメだ。相談する相手を間違えた。二度と由美には相談しないと、ひかりは半ば拗ねながら決断した。
 ひかりを悩ましているのは彼氏の浩志(ひろし)だった。
 浩志と出会ったのは大学生のときだ。ある講義でたまたま席が隣同士になり、それがきっかけでよく話をするようになった。そして、いつしか親密な関係になった。
 ただ、席が隣同士になったのは、実は偶然ではなかったらしい。
「前からひかりのことが気になってたんだよ。めっちゃかわいいって。はっきり言えばひとめぼれだな。それで友達に協力してもらって、隣の席になるよう仕込んでもらった」
 あとになってから仕込まれていたと知った。しかし、浩志の話が本当であれば女冥利に尽きる。めっちゃかわいい。ひとめぼれ。そんなことを言われたらキュンである。人差し指と親指をクロスである。
 浩志は彼氏として申しぶんなかった。ほどよく優しいし、浮気はしないし、仕事に真面目だ。しかし、いつしかふたりはいいお年頃になり、とうとうプロボースされたのである。
「ひかり、結婚してほしい」
 結婚となるとあれが問題になる。あれをするっとスルーできなくなるのだ。
 浩志の両親は農業を家業にしている。浩志は大学を卒業してからその家業を手伝っており、いずれは広大な稲田を引き継ぐつもりでいるらしい。ひかりも浩志と結婚すれば、必然的に家業を手伝うことになる。
 農業は『キツい、汚い、危険』のまさに3Kである。だが、ひかりはそれをネックとは思っていない。むしろ、今現在就いている営業職よりも、どろんこになって働くほうが性に合っているような気がする。
 だから、農家への嫁入りは枷になっていない。問題は別にある。
「ひーちゃん、そんなこと気にしちゃダメだよ。気にしないのが一番」
 由美の言う通りだというのはひかりにだってわかっている。しかし、やはり気になる。浩志の名字が……。
 浩志の名字は越(こし)。もし、浩志と結婚すれば、ひかりのフルネームは『越ひかり』になる。しかも、ひかりは新潟生まれの新潟育ちだ。新潟産の越ひかりなのである。さらに、越家の稲田ではコシヒカリを育てている。
 未来のことは誰にもわからない。一寸先は闇とも言う。しかし、順調にいけばひかりはあと六十年くらい生きる。おそらくこの先六十年間、こう言っていじられ続けるだろう。
 新潟産の越ひかりが、コシヒカリを育てている。これはもう悪夢である。
 しかし、その悩みはあっさりと解決した。
 あるときひかりは浩志に気持ちを伝えた。名前が越ひかりになってしまう。ちょっとイヤ。というかだいぶイヤ。すると――。
「いやなら夫婦別姓にすれば?」
「え、いいの?」
「別にいいよ。今どき夫婦別姓なんて珍しくもないし」
 夫婦別姓という方法をすっかり失念していた。こうしてひかりの悩みはあっさり解決したのである。
 いざ解決してしまうと、なんだかバカらしくなった。どうしてこんなことで悩んでいたのだろうか。名前なんてどうでもいいし……。
 別に越ひかりでいいや、と夫婦別姓にする気も失せた。

 結婚式の披露宴のことである。ひかりは新婦の挨拶でこう言ってみせた。
「どうも。新潟産の越ひかりです」 
 生涯通してのお約束ネタが生まれた瞬間である。ちなみに、このとき一番笑ったのは親友の由美だった。しかし、しばらくして彼女は大泣きした。
 披露宴のフリータイム的な時間に、由美は新郎新婦の席までやってきた。そして、涙と鼻水を大量に撒き散らして、嬉しさを大爆発させたのだった。
「ひーちゃん、結婚おめでとう。すっごい綺麗、すっごい嬉しい。ひーちゃんがお米になっても、私たちはずっと友達だからね」
 嬉しく思ってくれるのはありがたい。だが、こいつはやはりダメだ。ひかりは決してお米になんてならないのだ。フルネームが越ひかりになっただけで、結婚しても種族は人間のままである。
「私はこれからも人間だから!」
 しかし、即座にそう抗議した声は、たぶん由美に届かなかった。大泣きする由美つられてひかりも大泣きしていたからだ。きっとちゃんと声になっていなかった。
 ひかりの名前はこの先ずっといじられ続けるのだろう。おそらく六十年以上。だが、いくらでもいじってくれたらいい。どんとこいだ。
 新潟産の越ひかりは、浩志とコシヒカリを作る。なんだったら、新潟で一番美味しいコシヒカリを作ってやる所存である。

私の値段

(著者)桜川天青


 「私のこと、いくらで買ってくれるの?」
 新潟駅前の裏通り、待ち合わせた彼女は開口一番に言った。酒場から漏れる照明にその姿が浮かび上がる。肩甲骨ほどまである黒く長い髪に、血が通っているとは思えないほど白い肌、風が吹いたら飛んで行ってしまいそうな華奢な体。今にもこの夜に溶けてしまいそうなほど、物憂げで儚い。その割に、ハイブランドのショルダーバッグを肩に下げている。「マッチングアプリ」という名の体のいい出会い系アプリで友達作りのために遊び半分でつながり、とりあえず会ってみようと軽い気持ちだったが、想定外の事態が起こっていることは明白だ。
 「まず、ご飯食べに行こう」
 事態を今一つ飲み込めないまま、空いていそうなイタリアンレストランに誘う。明るい照明の下、改めて見るとあどけない顔をしている。20歳と聞いていたが、お世辞にもそうは見えない。
 「もしかして、学生?」
 「ううん、学校には行ってない」
 彼女はメニューも見ず、虚ろな目をテーブルに落としている。
 「ねえ、何食べる?」
 メニューを差し出すと、彼女は「これ」とぶっきらぼうにペスカトーレの写真に人差し指を置き、面倒くさそうな表情をぶら下げてトイレへと立った。その拍子に、スカートがひらりと膝の上ほどまでまくれる。ちらりと、青いシミのような何かが見えた。敢えてそのことに触れる勇気もなく、戻ってきた彼女と共に供された料理を黙々と口に運ぶ。食事中も彼女の表情はほとんど変わらず、美味しいのか不安になってくる。それでも彼女はしっかりと全て平らげた。ごちそうさまの一言も言わず、お会計している横でぴったりと付いている彼女の無礼さを咎めるでもなく、彼女が行こうとする方向とは逆方面に「散歩しよう」と半ば強引に連れていく。
 「今はどこで働いてるの?」
 「無職」
 「そっか、じゃあ趣味はある?」
 「ない」
 「うーん、なら、好きな歌手は?」
 「いない」
 何を聞いても単語で返す彼女との会話を無理やりつなげようと、手当たり次第に質問してみる。自分でも彼女とこの後どうしたいのかわからないまま、車通りの少なくなった夜の大通りをまだ見ぬ目的地を探して歩く。
 「じゃあ、家は?」
 「ない」
 「……やっぱりね」
 虚を突かれた彼女が、一瞬びくっとさせて足を止める。
 「なに、弱みでも握ったつもり?」
 こちらを窺う彼女は、無表情を装いつつも眼光が少し鋭い。会ってから初めて、人間らしさを表に出した。
 「そんなつもりはないよ」
 「じゃあ、何だって言うの?」
 「なんだろうな。強いて言うなら、君ってすごく頑張って生きてるんだなって。自分を隠して、殺して、我慢して」
 「知ったような口利かないで!」
 金切り声が萬代橋の往来に響く。咄嗟のことに若干うろたえつつも、目に涙を湛えた彼女に対峙する。
 「そりゃ何も知らないよ。でも、イヤでも分かっちゃうことがあるんだよ。……俺は、あなたを買うつもりはない。お金が欲しいなら、少しならあげる。それでいい?」
 その言葉に彼女は目を丸くし、口をぽかんと開けて呆気にとられた。我に返ると、彼女は微笑んで橋の欄干に腕を置いた。
 「お兄さんが初めてだよ、買わないって言った人。男の人はみんな私のことを道具として見てるものだと思ってた。私ね、明日で18歳なんだ。お兄さんと出会ったのはきっと、そんな私への誕生日プレゼントだね」
 彼女はそう言って、こちらを見て笑顔のまま堰を切ったように泣き始めた。
 「何が誕生日プレゼントだよ、年齢詐称なんかするなよな」
 妙な照れくささを感じて視線を外し、港の方を向いた。信濃川の水面に、まん丸の月がゆらゆらと揺れている。

 ホテル代と連絡先を握らせて帰したあの夜から3年が経った。彼女は翌日「泊まるお金がないから泊めて」と言ってうちに大きなキャリーバッグと一緒にやって来て、それ以来うちに住み着いた。最初は不慣れだった家事も、今ではすっかり板についた。相変わらず顔は幼いままだが、体のあざはすっかり消えた。
そんなある日の週末、彼女が海岸沿いの水族館へ行きたいと言い出した。もう何十回も訪れた場所に目新しさなど微塵もないが、それでもその時間が尊い。デート終わりに海岸へ出ると、丁度よく綺麗な夕暮れ空が広がる。見慣れた景色に感動する彼女に、あの日の彼女を重ね合わせてみる。
 「なあ、俺たちが出会った日のこと、覚えてる?」
 「当たり前でしょ?」
「あの時、俺は君のことを買わないって言ったけど、気が変わった。俺は君を買う、分割払いで、俺か君のどっちかが死ぬまで」
差し出した指輪のダイヤモンドが赤く照らされる。
 「やっぱり私のこと、道具として見てたの?」
彼女の顔がくしゃくしゃになって、笑っているのか泣いているのかわからない。
 「言葉の綾ってものでしょ」
そうだね、と言って差し出された左手の薬指に、そっとリングを通す。

弥彦山

(著者)烏目浩輔


 あのとき俺が山道に歩を進めていると、母はのんびりとした口調で言った。
「真梨(まり)さんは本当の娘みたいにかわいいわ。愛梨(あいり)ちゃんはあんたが子供だった頃よりかわいい」
 真梨は俺の妻であり、愛梨は五歳になる娘だ。

 標高六百三十四メートルの弥彦山(やひこやま)。俺がその山に登ったのはあのときが二度目だった。はじめて登ったのはそのずっと前で、俺は確か小学二年生になったばかりだった。子供の頃の記憶は色褪せて曖昧になっているものも多いが、母とそこに訪れたことだけは不思議と鮮明に覚えている。
 当時の俺はとにかく身体が弱かった。発熱するのは日常茶飯事で、なにより基礎体力がなかった。五分も歩けば膝が震えだし、立っていられなくなるのだ。原因を見つけるために病院で精密検査も受けたが、最終的にくだされた診断は原因不明の疲労だった。
 原因が見つからずじまいでも、薬はやたらとたくさん処方された。俺はそれをわりと真面目に飲み続けたが、弱々しい身体はいっこうに好転しなかった。そんなときに母が突然言いだしたのだった。
「弥彦山に登ってみようか」
 それから三日後の日曜日、母は本当に俺を連れて弥彦山に登った。
 弥彦山は比較的手軽に登れる山であるものの、当時の俺はそんな山ですら登るのが困難だった。だから、母は俺を背負って山に登った。
 俺の家庭は母子家庭で父親がいなかった。母はよく父親の役目も担っていたが、子供を背負っての登山は相当きつかったはずだ。
 弥彦山には山頂付近まで通されたロープウェイがあった。それを利用すればいいものの、母は徒歩での登山を選択した。弥彦山の麓にある弥彦神社から出発する表参道コース。通常は九十分ほどで山頂に到着するのだが、俺を背負った母は二時間半近くかかった。季節は確か秋だったが、母の背中は汗だくになっていた。
 母がそこまでして弥彦山に登ったのは神頼みするためだった。弥彦山山頂にある弥彦神社奥宮は、新潟県最大のパワースポットとして有名だ。その場所で俺の身体のことを願うために弥彦山に登った。
 山頂から望む青い日本海と、広大な越後平野はまさに絶景だった。母はさっそく俺を連れて弥彦神社奥宮に参拝した。腰を九十度に曲げて熱心に祈っていたのを覚えている。それから行きと同じくらいの時間をかけて弥彦山をおりた。
 神社参拝後しばらくして不思議なことが起こりはじめた。俺の身体がぐんぐん頑丈になっていったのだ。めったに発熱しなくなり、誰よりも元気に外で遊び、スポーツならなんでも好きになった。高校ではラグビー部に入り、一年生からレギュラーを務めた。

 母が俺を背負って弥彦山に登ってから約二十年が経ったあのとき、今度は俺が母を背負って同じコースで弥彦山に登ったのだ。少し前を歩く俺の妻と幼い娘に目をやって、母はのんびりとした口調で言った。
「真梨さんは本当の娘みたいにかわいいわ。愛梨ちゃんはあんたが子供だった頃よりかわいい」

 母のすい臓癌が見つかったのはその一ヶ月ほど前だった。医師の話によると末期であるため手術をしても無駄だという。それを聞いた俺はショックを受けながらも、なにかできることはないかと模索した。ふと思い至ったのが弥彦山の山頂にあるあの神社だった。
 弥彦神社奥宮に参拝すれば、俺の弱かった身体を治してくれたように、母の病気もよくなるのではないか。俺はその一心で母を連れて弥彦山を登ったのだ。ようやく母がかつてロープウェイを利用しなかったわけを理解した。自分の足で登らなければ神頼みの効果が薄れるような気がした。
 母は病気のせいでずいぶん細くなっていた。しかし、大人ひとりを背負っての登山はなかなかの重労働だ。山頂に着くまで二時間近くを費やした。
 俺が弥彦神社奥宮で母のことを祈っていると、妻と娘も隣にやってきて腰を九十度に曲げた。
「おばあちゃんが元気になりますように」
 娘の呟く声がぶつぶつと聞こえてきた。
 きっと母は元気になる。神社で参拝したあとはそんないい予感ばかりがしていた。ところが、母はそれから三ヶ月ほどしてこの世を去った。娘のようにかわいい俺の妻と、俺よりかわいい孫にみとられて。新潟県一と称される弥彦神社のパワーでも、末期癌には太刀打ちできなかったらしい。

 あのときから数十年も経った今になって思うと、母は自分の死期を悟っていたのかもしれない。末期癌の告知はしていなかったのだが、亡くなる少し前にこんなことを言っていた。
「またおやひこさんに参拝できてよかったわ」
 弥彦神社は地元では、おやひこさん、と呼ばれて親しまれている。
「あんたたちのことをちゃんとお願いしといたからね」
 母は詳しく語らなかったが、あんたたちというのは、おそらく俺の家族のことだ。俺と妻と娘の三人。母はあのとき参拝した弥彦神社奥宮で、俺たち三人の幸福を祈ってくれたに違いない。
 そのおかげかもしれない。母が死んだときはまだ幼かった娘が、もうすぐ結婚して家を出ていく。娘がいなくなるのは寂しくもあるが、親としては子供の成長ほど嬉しいものはない。こんな幸福なときが訪れたのは、きっと母が弥彦神社で祈ってくれたからだろう。