私の値段

(著者)桜川天青


 「私のこと、いくらで買ってくれるの?」
 新潟駅前の裏通り、待ち合わせた彼女は開口一番に言った。酒場から漏れる照明にその姿が浮かび上がる。肩甲骨ほどまである黒く長い髪に、血が通っているとは思えないほど白い肌、風が吹いたら飛んで行ってしまいそうな華奢な体。今にもこの夜に溶けてしまいそうなほど、物憂げで儚い。その割に、ハイブランドのショルダーバッグを肩に下げている。「マッチングアプリ」という名の体のいい出会い系アプリで友達作りのために遊び半分でつながり、とりあえず会ってみようと軽い気持ちだったが、想定外の事態が起こっていることは明白だ。
 「まず、ご飯食べに行こう」
 事態を今一つ飲み込めないまま、空いていそうなイタリアンレストランに誘う。明るい照明の下、改めて見るとあどけない顔をしている。20歳と聞いていたが、お世辞にもそうは見えない。
 「もしかして、学生?」
 「ううん、学校には行ってない」
 彼女はメニューも見ず、虚ろな目をテーブルに落としている。
 「ねえ、何食べる?」
 メニューを差し出すと、彼女は「これ」とぶっきらぼうにペスカトーレの写真に人差し指を置き、面倒くさそうな表情をぶら下げてトイレへと立った。その拍子に、スカートがひらりと膝の上ほどまでまくれる。ちらりと、青いシミのような何かが見えた。敢えてそのことに触れる勇気もなく、戻ってきた彼女と共に供された料理を黙々と口に運ぶ。食事中も彼女の表情はほとんど変わらず、美味しいのか不安になってくる。それでも彼女はしっかりと全て平らげた。ごちそうさまの一言も言わず、お会計している横でぴったりと付いている彼女の無礼さを咎めるでもなく、彼女が行こうとする方向とは逆方面に「散歩しよう」と半ば強引に連れていく。
 「今はどこで働いてるの?」
 「無職」
 「そっか、じゃあ趣味はある?」
 「ない」
 「うーん、なら、好きな歌手は?」
 「いない」
 何を聞いても単語で返す彼女との会話を無理やりつなげようと、手当たり次第に質問してみる。自分でも彼女とこの後どうしたいのかわからないまま、車通りの少なくなった夜の大通りをまだ見ぬ目的地を探して歩く。
 「じゃあ、家は?」
 「ない」
 「……やっぱりね」
 虚を突かれた彼女が、一瞬びくっとさせて足を止める。
 「なに、弱みでも握ったつもり?」
 こちらを窺う彼女は、無表情を装いつつも眼光が少し鋭い。会ってから初めて、人間らしさを表に出した。
 「そんなつもりはないよ」
 「じゃあ、何だって言うの?」
 「なんだろうな。強いて言うなら、君ってすごく頑張って生きてるんだなって。自分を隠して、殺して、我慢して」
 「知ったような口利かないで!」
 金切り声が萬代橋の往来に響く。咄嗟のことに若干うろたえつつも、目に涙を湛えた彼女に対峙する。
 「そりゃ何も知らないよ。でも、イヤでも分かっちゃうことがあるんだよ。……俺は、あなたを買うつもりはない。お金が欲しいなら、少しならあげる。それでいい?」
 その言葉に彼女は目を丸くし、口をぽかんと開けて呆気にとられた。我に返ると、彼女は微笑んで橋の欄干に腕を置いた。
 「お兄さんが初めてだよ、買わないって言った人。男の人はみんな私のことを道具として見てるものだと思ってた。私ね、明日で18歳なんだ。お兄さんと出会ったのはきっと、そんな私への誕生日プレゼントだね」
 彼女はそう言って、こちらを見て笑顔のまま堰を切ったように泣き始めた。
 「何が誕生日プレゼントだよ、年齢詐称なんかするなよな」
 妙な照れくささを感じて視線を外し、港の方を向いた。信濃川の水面に、まん丸の月がゆらゆらと揺れている。

 ホテル代と連絡先を握らせて帰したあの夜から3年が経った。彼女は翌日「泊まるお金がないから泊めて」と言ってうちに大きなキャリーバッグと一緒にやって来て、それ以来うちに住み着いた。最初は不慣れだった家事も、今ではすっかり板についた。相変わらず顔は幼いままだが、体のあざはすっかり消えた。
そんなある日の週末、彼女が海岸沿いの水族館へ行きたいと言い出した。もう何十回も訪れた場所に目新しさなど微塵もないが、それでもその時間が尊い。デート終わりに海岸へ出ると、丁度よく綺麗な夕暮れ空が広がる。見慣れた景色に感動する彼女に、あの日の彼女を重ね合わせてみる。
 「なあ、俺たちが出会った日のこと、覚えてる?」
 「当たり前でしょ?」
「あの時、俺は君のことを買わないって言ったけど、気が変わった。俺は君を買う、分割払いで、俺か君のどっちかが死ぬまで」
差し出した指輪のダイヤモンドが赤く照らされる。
 「やっぱり私のこと、道具として見てたの?」
彼女の顔がくしゃくしゃになって、笑っているのか泣いているのかわからない。
 「言葉の綾ってものでしょ」
そうだね、と言って差し出された左手の薬指に、そっとリングを通す。

弥彦山

(著者)烏目浩輔


 あのとき俺が山道に歩を進めていると、母はのんびりとした口調で言った。
「真梨(まり)さんは本当の娘みたいにかわいいわ。愛梨(あいり)ちゃんはあんたが子供だった頃よりかわいい」
 真梨は俺の妻であり、愛梨は五歳になる娘だ。

 標高六百三十四メートルの弥彦山(やひこやま)。俺がその山に登ったのはあのときが二度目だった。はじめて登ったのはそのずっと前で、俺は確か小学二年生になったばかりだった。子供の頃の記憶は色褪せて曖昧になっているものも多いが、母とそこに訪れたことだけは不思議と鮮明に覚えている。
 当時の俺はとにかく身体が弱かった。発熱するのは日常茶飯事で、なにより基礎体力がなかった。五分も歩けば膝が震えだし、立っていられなくなるのだ。原因を見つけるために病院で精密検査も受けたが、最終的にくだされた診断は原因不明の疲労だった。
 原因が見つからずじまいでも、薬はやたらとたくさん処方された。俺はそれをわりと真面目に飲み続けたが、弱々しい身体はいっこうに好転しなかった。そんなときに母が突然言いだしたのだった。
「弥彦山に登ってみようか」
 それから三日後の日曜日、母は本当に俺を連れて弥彦山に登った。
 弥彦山は比較的手軽に登れる山であるものの、当時の俺はそんな山ですら登るのが困難だった。だから、母は俺を背負って山に登った。
 俺の家庭は母子家庭で父親がいなかった。母はよく父親の役目も担っていたが、子供を背負っての登山は相当きつかったはずだ。
 弥彦山には山頂付近まで通されたロープウェイがあった。それを利用すればいいものの、母は徒歩での登山を選択した。弥彦山の麓にある弥彦神社から出発する表参道コース。通常は九十分ほどで山頂に到着するのだが、俺を背負った母は二時間半近くかかった。季節は確か秋だったが、母の背中は汗だくになっていた。
 母がそこまでして弥彦山に登ったのは神頼みするためだった。弥彦山山頂にある弥彦神社奥宮は、新潟県最大のパワースポットとして有名だ。その場所で俺の身体のことを願うために弥彦山に登った。
 山頂から望む青い日本海と、広大な越後平野はまさに絶景だった。母はさっそく俺を連れて弥彦神社奥宮に参拝した。腰を九十度に曲げて熱心に祈っていたのを覚えている。それから行きと同じくらいの時間をかけて弥彦山をおりた。
 神社参拝後しばらくして不思議なことが起こりはじめた。俺の身体がぐんぐん頑丈になっていったのだ。めったに発熱しなくなり、誰よりも元気に外で遊び、スポーツならなんでも好きになった。高校ではラグビー部に入り、一年生からレギュラーを務めた。

 母が俺を背負って弥彦山に登ってから約二十年が経ったあのとき、今度は俺が母を背負って同じコースで弥彦山に登ったのだ。少し前を歩く俺の妻と幼い娘に目をやって、母はのんびりとした口調で言った。
「真梨さんは本当の娘みたいにかわいいわ。愛梨ちゃんはあんたが子供だった頃よりかわいい」

 母のすい臓癌が見つかったのはその一ヶ月ほど前だった。医師の話によると末期であるため手術をしても無駄だという。それを聞いた俺はショックを受けながらも、なにかできることはないかと模索した。ふと思い至ったのが弥彦山の山頂にあるあの神社だった。
 弥彦神社奥宮に参拝すれば、俺の弱かった身体を治してくれたように、母の病気もよくなるのではないか。俺はその一心で母を連れて弥彦山を登ったのだ。ようやく母がかつてロープウェイを利用しなかったわけを理解した。自分の足で登らなければ神頼みの効果が薄れるような気がした。
 母は病気のせいでずいぶん細くなっていた。しかし、大人ひとりを背負っての登山はなかなかの重労働だ。山頂に着くまで二時間近くを費やした。
 俺が弥彦神社奥宮で母のことを祈っていると、妻と娘も隣にやってきて腰を九十度に曲げた。
「おばあちゃんが元気になりますように」
 娘の呟く声がぶつぶつと聞こえてきた。
 きっと母は元気になる。神社で参拝したあとはそんないい予感ばかりがしていた。ところが、母はそれから三ヶ月ほどしてこの世を去った。娘のようにかわいい俺の妻と、俺よりかわいい孫にみとられて。新潟県一と称される弥彦神社のパワーでも、末期癌には太刀打ちできなかったらしい。

 あのときから数十年も経った今になって思うと、母は自分の死期を悟っていたのかもしれない。末期癌の告知はしていなかったのだが、亡くなる少し前にこんなことを言っていた。
「またおやひこさんに参拝できてよかったわ」
 弥彦神社は地元では、おやひこさん、と呼ばれて親しまれている。
「あんたたちのことをちゃんとお願いしといたからね」
 母は詳しく語らなかったが、あんたたちというのは、おそらく俺の家族のことだ。俺と妻と娘の三人。母はあのとき参拝した弥彦神社奥宮で、俺たち三人の幸福を祈ってくれたに違いない。
 そのおかげかもしれない。母が死んだときはまだ幼かった娘が、もうすぐ結婚して家を出ていく。娘がいなくなるのは寂しくもあるが、親としては子供の成長ほど嬉しいものはない。こんな幸福なときが訪れたのは、きっと母が弥彦神社で祈ってくれたからだろう。

君に贈る、はじめてのプロポーズ

(著者)乃木 京介


「将来、結婚しようね」

 幼稚園児の頃、脈絡もなく君は僕にそう言った。
 特別、珍しい言葉なんかじゃない。どこで覚えたのかもわからない言葉を使ってみたくなる年頃である。

 だが、君は歳を重ねても変わらず僕にその言葉を告げた。決して、なりふり構わず毎日告げてくるわけではない。一年に一度だけ、まるで誕生日やクリスマスメッセージかのように言うのだ。

 それを告白と捉えるべきか、僕も考えるようになった。もし、君が毎年勇気を出して告白をしているのに、僕はそれを無視してしまっているのなら非情にあたる。とは言え、君は幼稚園児の頃からその言葉を口にしていた。二人だけがわかる、ちょっとした合言葉のような冗談だったら……?

 そう解釈して、僕は一度も返事をすることはなかった。

?

 お互い高校生になって、君は新潟県の学校へ進学した。どうやら目指している夢があるらしい。一方の僕は地元の私立高校に進学し、特に名前のない物語を歩んでいた。それでも、新しい友人がそれなりにできて、毎日部活に明け暮れて、人並みの青春は送っていたと思う。

 ある日、君から久しぶりにメッセージが届いた。『勉強の息抜きに遊ぼうよ』と誘われ、映画を観に行くことになった。半年ぶりに会った君はずいぶん大人びて見えた。冗談めいて「彼氏できてないのかよ」と僕が言うと、「そっちこそ彼女いないんでしょ」と笑みを返してくれた。

 映画は、余命一年の病に侵された女性が、残された恋人のことを思い何も言わず別れを告げるというシリアスなプロローグから始まった。だが、恋人の男性はなかなか承諾しない。その度に女性は、思ってもいないことを口にして嫌われようとする。

 きっと病なんてなければ、二人には結婚していた未来が待っていたはずだった。そんな幸せの形が崩れていくさまは、見ている僕の心も深く抉っていった。

 最終的には折れた女性が真実を打ち明け、恋人の男性は優しくそれを受け止めた。二人は残された時間を一生に感じるような時間にしようと約束し、エンドロールが流れた。

「この映画で良かったのか?」

 フードコートでご飯を食べながら僕が問うと、正面に座っていた君が首を傾げた。

「好きじゃなかった?」

「勉強の息抜きに見るなら、もっと明るい系のほうが良かったんじゃないかなって」

 君は幾ばくか考えたあと、真剣な眼差しで呟いた。

「もし、私が余命一年だったらどうする?」

「悲しいよ。幼稚園の頃から知ってる仲だし」

「そっか、嬉しいな。──将来、結婚しようね」

 君が頬を桜色に染めながら、恥ずかしそうに顔を寄せて囁く。そうか、映画はこれを言いたかったための伏線だったのか、と僕は感心した。ここまで歳を重ねたら言い辛くもなる台詞を、君は律儀に今年も告げたわけだ。

「ああ、考えておくよ」

 なんとなく僕は、はじめてそう返した。
 そんな君からの〝プロポーズ〟を聞けたのはこの年が最後だった。

?

 目を閉じているあいだに、群青から夕焼けに染まった空をカラスが鳴きながら飛んでいた。景色の移り変わりはまるで、僕と君の空白を描写しているかのようだった。

「なあ、今年もどこかで言ってくれたのか……?」

 最後にあの言葉を聞いたあの日から、君は何も言わず音信不通になって三年が経った。すぐに君の身に何かあったのか疑った。君があの映画を選んだ理由はもしかして──。

 しかし僕は、君のことをあまりにも知らなかった。好きな食べ物から始まり、趣味、誕生日、友人関係、新潟県の学校に入って目指していた夢の内容さえ。

 思い返せば、いつも君が僕のことについて訊ねてくるのを、ただ答えるだけだった。どうして僕は、君のことを知ろうとしなかったのだろう?

 ずっと前から僕は君のことが好きだった。たぶん、幼稚園児の時に初めて君が言ってくれたあの日から。それでも君がそこに何の意味も込めていなかったら? そんな夢を醒したくなかったというのは、僕の弱さから生まれる言い訳だろう。

 冗談でもいいから、またあの言葉を聞かせてくれよ──。

「そろそろ答えは見つかった?」

 それは雨上がりの空に虹を架けたような、綺麗な音色だった。

「久しぶり、だね」

 振り返った僕の眼に映る君は、少しだけ不安そうに笑った。面影の残る眼差しが僕の記憶を優しく撫でる。

「どうしてここが……?」

「私はあなたのことなら何でも知ってるんだよ。全部、あなたが教えてくれたから」

「僕は君のことを何も……」

「今からでも遅くないよ?」

 思いは形のある言葉にしなければ伝わらない。今日という日さえ明日また来るとは限らないこの世界で、君のようにたった一年に一度だとしても、僕の心を掴んだ魔法の言葉のように。

「将来、結婚しよう」

 僕のプロポーズに、君の時間が少しだけ止まった。

 もし受け入れてくれたら、これから僕は君のことをたくさん知るだろう。まずは君が高校生の時から住み始めた新潟県の街案内を受けることからかな──。

「うーん、どうしようかなあ」

 わざとらしく呟いた君の目から、一粒の透明な雫が頬を伝った。

ひとり旅

(著者)烏目浩輔


 僕は最後の旅行の地として新潟を選んだ。同行者のいない二泊三日の旅だった。
 観光タクシーを予約したのは旅行二日目の午前九時。時間ちょうどに黒光りするタクシーがホテルの前までやってきた。僕はそのタクシーに乗りこみながら、運転手と簡単な挨拶を交わした。
 タクシーが動きだしてまもなくだった。
「ひとり旅は気ままでよろしいですね」
 運転手が雑談の流れでそう口にした。決して気ままな旅ではないのだが、詳しい事情を話す必要はないだろう。僕は後部座席で適当に応じる。
「まあ、そうですね」
 運転手は僕より三十歳ほど年上とおぼしき男性で、見た目どおりだとすれば六十がらみと思われる。どこか人懐っこい印象があり、髪のおおよそが白くなっている。
「新潟ははじめてですか?」
 運転手の質問に僕は頷く。
「今まで新潟にくる機会がなかったので」
「そうですか。では、気合を入れないといけませんね。新潟を好きになってもらえるよう、しっかりご案内させていただきますよ」
 最初に案内されたのは弥彦公園(やひここうえん)だった。タクシーを予約したさいに、いってみたい名所をいくつか伝えた。約四万坪の広さを誇る弥彦公園もそのひとつだ。色とりどりのもみじが萌えあがり、敷地内のあちこちに鮮烈な光景をなしていた。
 次にタクシーは弥彦公園からほど近い千眼堂吊橋(せんがんどうつりばし)に向かった。国上山(くがみやま)中腹の谷に架かる赤い吊り橋だ。長さは百二十四メートル、高さは三十五メートル。吊り橋のわりには揺れが少なく、ここでももみじが鮮やかだった。
 昼を過ぎて腹がそろそろ減ってきた頃、運転手は古びた蕎麦屋を紹介してくれた。地元の人間しか知らないというこじんまりとした店だ。
「ひとりで食べるのもなんですし、運転手さんも一緒にどうですか?」
 運転手は僕の誘いを快諾して、天ざる蕎麦がおすすめだと教えてくれた。
 彼の気さくな性格のおかげで、僕たちはすっかり打ち解けていた。天ざる蕎麦をすすりながらの楽しい会話は途切れない。そういえば、こんなに誰かと話をするのは久しぶりだ。あんなことがあってから、僕はほとんど会話をしていない。
 昼食後は福島潟(ふくしまがた)に案内された。福島潟は約七十九万坪の湖沼で、野鳥や植物の宝庫といえた。秋といういい季節だけあって、遊歩道にたくさんの人が見て取れる。
 僕はここでも運転手を誘った。
「せっかくですし、一緒に散策しませんか?」
 だだっ広いところをひとりで歩くのは寂しいものだ。同行者がいてくれたほうがいい。
 遊歩道を進みつつ、運転手がふと言った。
「実は私、明日から無職です」
 三十年近く勤めて明日で定年を迎えるのだという。
「新潟で運転手を続けることができて幸いでした。本当にいいところですからね」
 そう口にする運転手の顔はどこか満足げだった。
「運転手さんはやっぱり新潟が地元なんですか?」
 僕は当然そうだろうと思って尋ねた。だが、運転手の首は意外にも横に振られた。
「いえ、地元は九州です。新潟で運転手をしようと思ったのは妻の影響です。ずっと前に亡くなった妻が、なぜか新潟が好きでしてね……」
 聞けば、奥さんが亡くなったのは三十年以上も前とのことだ。不慮の交通事故による死だった。その奥さんの写真を胸ポケットに忍ばせて、今まであちこちにタクシーを走らせてきたという。
「そうすればあいつが好きだった新潟を、もっと見せてやれるような気がしましてね。ようするに自己満足で運転手を続けてきたわけです」
 僕は偶然の一致に驚きつつも、苦笑いする運転手に尋ねてみた。
「奥さんが亡くなったときは、やっぱりお辛かったでしょうね……」
「ええ、辛かったですね。生きる意味を見失って自殺を考えたこともありました。でも、永遠に続く悲しみなんてないものです。今は気楽にひとりで楽しくやらせてもらってます。たぶん妻もそれを喜んでいるじゃないでしょうか。私がいつまでも落ち込んでいると、妻だって安心して成仏できませんよ」
 僕は運転手の言葉を頭の中で繰り返した。
 永遠に続く悲しみはない。
 僕の妻が死んだのは半年前だった。幼なじみで子供の頃からずっとそばにいた妻が、交通事故によって突然いなくなってしまった。僕は途方に暮れて、深い絶望に襲われた。
 生前の妻はなぜか新潟に興味を持っており、いつか旅行にいってみたいとよく口にしていた。だから、僕は最後の旅行の地として新潟を選んだ。あの世にいる妻に土産話を持っていくために。
 この旅行を終えて妻のいない家に帰れば、僕は妻のあとを追って死ぬつもりだった。
 しかし――。
「永遠に続く悲しみはない……」
 僕が口の中だけで呟くと、運転手がこちらを見た。
「なにかおっしゃいました?」
 僕は「いいえ」と答える。
 妻のあとを追っても、妻は決して喜ばない。むしろ悲しむはずだ。わかりきったことだというのに、僕は今の今まですっかり忘れていた。
 目の前に福島潟の雄大な景色がある。この絶景はどんどん移り変わっていき、四季折々の表情をみせるに違いない。きっと同じように人の心も移り変わっていく。
 永遠に続く悲しみはない。
 運転手の言葉を信じてみてもいい気がした。

私はコメ子

(著者)如月芳美


私の恋は花が咲く頃に始まった。
同じ株の隣にぶら下がっているコメ太郎に一目惚れしたの。
私たちが恋に落ちるのに時間はかからなかったの、だって隣にいるんだもの。
「ずっと、ご飯になっても一緒だよ」
「一緒にお寿司屋さんに選ばれる米になりたいわ」
私たちは毎日愛を語り合ったの。
でも二粒は籾(もみ)になった時、離れ離れになってしまった。

私は米袋の中で泣き暮らしたわ。来る日も来る日もコメ太郎を想って。
時は無常に過ぎてゆき、私は精米される日が来たの。
もうきっと会っても私だとは判らなくなる。
彼の事はきっぱり忘れて、新しい米生を歩まなくてはならないわ。

精米されて一皮むけた私は、文字通り大人のコメになったの。
もう過去は振り返らない。前だけを見て進むわ。

私は念願叶ってお寿司屋さんに運び込まれたの。
コメ太郎、私、お寿司屋さんに来たのよ。
あなたの分も立派なシャリになって、魚沼産コシヒカリの実力を見せるわ。

私はたっぷりのお水で炊かれて、ツヤツヤのモチモチのふっくらした、それはそれは美しいご飯に炊いて貰ったの。
「さ、仕上げだぜ。特製の寿司酢をまぶしてやるからな」
職人さんの声が弾んでる。
何かしら、この香り。初めてなのに懐かしさを感じるわ。
寿司酢に抱かれた私はハッとしたの。誰かの声が聞こえる。
「コメ子、コメ子、僕だよ、コメ太郎だよ」
「えっ! コメ太郎? どこ、どこなの?」
「ここだよ、今、君を抱きしめているよ、わかるかい?」
「判らないわ、でもあなたを全身で感じるの」
「僕は酢になったんだよ、コメ子、これからはずっと一緒さ」

私たちは一緒に職人さんに握って貰ったわ。
こんなところで会えるなんて。
「約束したじゃないか。ご飯になっても一緒だよって」
「そうね。食べられるときも一緒ね」
傍でガリが仄かに頬をピンクに染めながら私たちの会話を聞いているわ。
「俺この二人の上に乗っかるのイヤだよ~、とろけそうだよ~」
って言いながら、中トロは大トロになっちゃったの。
「ご馳走さま」

深い雪

(著者)圭琴子


 同棲している彼女の実家が新潟県だったため、婚約の許しを得に、清一郎(せいいちろう)と啓子(けいこ)は早春の小千谷(おぢや)駅に降り立った。
 東京からは、長岡まで新幹線、そこからはJR上越線で、約二時間半の旅だった。
 清一郎は勝手なイメージで、新潟は四月でも雪深いと思っていたが、意外にも一般道には雪は残っていなかった。
「雪が降ると、除雪車が出るからね。積もったり溶けたりを繰り返すの」
 啓子の実家は一人娘の独立を機に、一軒家から一LDKのマンションに住み替えていたため、前乗りしたついでにちょっと贅沢して歴史ある旅館に宿を取っていた。
 女性というのは、何でこんなに風呂が好きなのだろうか。宿に到着して早々にひとり温泉に向かった啓子を見送って、清一郎は手持ち無沙汰に、中庭の日本庭園など眺めて過ごす。
「あ」
 雪が、チラつき始めた。埼玉県出身の清一郎には、物珍しい光景だった。こんなにじっくり、雪を眺めたことなんてない。
 よく雪が降る様を『しんしんと』と表現するが、言い得て妙だと思ったりする。雑音のない澄んだ空気の中を降る雪は、確かにしんしんと、音にならない音を立てて降り積もってゆくのだった。
 やがて風呂から啓子が上がってきて、夕食をふたりで摂る。日本海の身の締まった刺身の舟盛りが、驚くほど美味しかった。
 だが夕食を終えると、啓子はまた温泉に行ってしまった。「元を取る」のだと言って。風呂に元も何もないと思うのだが、と清一郎は呆れ半分で、自分は部屋に備え付けのシャワーで手早く入浴を済ませた。
 浴衣に着替え濡れた髪をバスタオルで拭いながら、半開きになったカーテンの隙間から中庭を覗く。雪は、横殴りの吹雪になっていた。
「……ん?」
 近眼の清一郎は、雪景色に目を凝らす。白い浴衣が保護色になっていたが、長い黒髪が確かに濡れ縁を移動していた。中庭に面した部屋をひとつひとつ、うかがっているようだ。
 雪に慣れない清一郎は、女性が凍死してしまうのではと危惧して、濡れ縁に続く扉を開けて声をかける。
「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
 振り返った彼女は、ハッとするほど美しかった。会釈して、清一郎の方に来る。間近で見ると、肌が透き通るように白い、何処か儚げな女性だった。
「すみません。中庭に出たら、自分の部屋が分からなくなってしまいました。少しだけ、暖まらせて貰えませんか」
 啓子は、あと一時間は帰ってこないだろう。清一郎は本当に女性が心配で、快く部屋に迎え入れた。
「どちらから、いらしたんですか」
 彼は女性の居心地が悪くならないよう、世間話でお茶を濁す。
「市内なんですけど……幼馴染みと、再会しに」
「へえ~。差し支えなかったら、男性か女性か、教えて貰えます?」
「男性です」
「おっ! 素敵ですね。もしかして、その男性のこと、お好きなんですか?」
 女性は、恥ずかしそうに長いまつ毛を伏せる。
「ええ。私は好きですけど、相手はどうだか分かりません」
「ロマンチックですね。恋が実ることを、祈っています」
 控えめに、女性も尋ねてくる。
「あなたは、どちらから?」
「東京です。彼女の実家が小千谷なので、婚約の報告をしにきました」
「新潟は……初めてですか?」
「はい。雪国って、凄いですね。昼間は全く雪がなかったのに、今は吹雪いてる」
「ええ……。私はずっと小千谷だから、このくらいの雪が、ちょうど良いんですけど」
 言うと、スッと女性は立ち上がった。
「ありがとうございました。婚約者の方が戻ってらしたら誤解されるので、もう失礼しますね。……お幸せに」
 女性が濡れ縁の扉を開けると、外は一変して、土砂降りの雨になっていた。濡れ縁に出て――女性はさらに、裸足のまま地面におりる。雨に濡れてしまうというのに。
「あ、あの」
 思わず清一郎が声をかけると、彼女はこちらに向き直った。頬に、涙が流れていた。いや、それは零れる先から結晶し、氷になってキラキラと灯りを反射する。
「私は、深雪(みゆき)。深い雪と書いて、深雪。あなたは、覚えていないのね。さようなら、清一郎……」
 瞬間、脳裏に走馬灯のように、景色がフラッシュバックした。
 まだ小学校に上がる前の冬休み、清一郎はおぼろげに、両親と新潟にきたことを思い出す。二泊三日の間、ずっと同じ年頃の女の子と雪遊びをしていたことも。
 かまくらの中で隠れてキスをし、お嫁さんになってねと約束をする。
 その子が確か、深雪といった。
「深雪……待って、深雪!」
 部屋を飛び出し、涙雨(なみだあめ)で溶けていく彼女を、無我夢中で捕まえようとする。だがあっという間に身体が崩れて、深雪は何も残さず溶けてしまった。
 
 次の日、あれだけ降った雪が嘘のように、また路面は乾いて晴れていた。
 タクシーに乗って啓子の実家に向かいながら、清一郎はぽつりと呟く。
「雪女」
「え?」
「雪女って、信じるか?」
 啓子は当たり前のように答える。
「うん。小さい頃から、聞かされて育ったわ。小千谷は、雪女伝説発祥(はっしょう)の地と言われているの」
「そうだったのか……」
 深雪は、消えてしまった。例え妖怪だったとしても、一途に自分を想ってくれた女性がここ小千谷に居たことを、生涯忘れずにいようと思う清一郎なのだった。

ニイガタで受けた依頼

(著者)圭琴子


 この辺りが、ツバメ温泉だな。
 俺は注意深く、宿屋と土産物屋が数件並ぶ、こぢんまりとした商店街を抜けていく。腰に吊ったロングソードがどう慎重に歩いても金属音を立てるから、不意打ちに備えて耳を澄ました。
 普段は温泉街として、地元のお年寄りや観光客で賑わう街道だったが、今はひとっこひとり歩いていない。
 コボルトが出たと、噂が立ったからだった。コボルトは、犬の頭とひとの身体を持つモンスターで、戦闘力はそう高くないがイタズラ好きの一面があり、一般人には脅威となる存在だ。
 昨夜、路銀を稼ぎながら旅を続ける俺がミョウコウ市の酒場に入ると、ツバメ温泉から逃げてきた商店主たちに、あっという間に囲まれた。
 ニイガタは風光明媚(ふうこうめいび)な土地柄で、モンスターが出ることは滅多にないから冒険者も立ち寄らず、困り果てていたらしい。お陰で俺は、コボルト討伐(とうばつ)にしては随分と多い額の打診をされて、意気揚々と登山道を登るのだった。
 温泉街から徒歩十五分、標高一一五〇メートルにある源泉かけ流しの野天風呂『カワラの湯』で、コボルトが目撃されたらしい。
 遠くに脱衣所の建物が見えてきて、俺はロングソードに右手を添えた。
「バウワウ」
「バウ! キャンキャインヒン」
 ん? コボルト語? 
 乳白色ににごった広い岩風呂に、二匹のコボルトが浸かっている。――いや、二匹? 一匹は犬頭だったが、もうひとりはブロンドだった。仲良く並んで湯に入り、世間話よろしくコボルト語で和やかにお喋りを楽しんでいる。
 俺は緊張感からガックリと解放されて、警戒を解いてカワラの湯に近付いていった。
 まず、耳の良いコボルトが顔を上げる。続いて、整った顔立ちの少女と目が合った。
 ……え? 少女? 待って待って待って、耳が長い、エルフ? エルフの美少女?
 俺は興奮して――いやいや待て、それじゃ俺が変態みたいじゃないか。ごほん。混乱。そう! 混乱して、思わず声を張り上げた。
「おい、何やってんだ! コボルトは、人間に襲いかかることだってあるんだぞ!」
 エルフは白い湯の中から、細い片手を上げて振る。
「大丈夫じゃ! 彼女、女の子だから!」
 そういう問題じゃねぇだろ、とは思ったが、彼女がふいに立ち上がって脱衣所に向かったので、俺は絶句してしまった。肝心なところは長いブロンドに隠れて見えなかったが、エルフ特有の手足の長いスマートな肢体は、俺の鼻の血流を良くするのに十分だった。
 いかん。初対面で鼻に詰め物をした状態とか、さすがに第一印象が悪過ぎる。
 そう思いとどまって、俺は鉄の意思の力で鼻血を止め、赤く染まったハンカチを急いでしまった。コボルト語は分からないから、ハッハッと舌を出して温泉に浸かるコボルトと何となく目が合って、間抜けな時間が過ぎる。
 三分ほどあって、脱衣所の扉が開いた。鮮やかな黄緑に染め上げられた革鎧(かわよろい)を着た、小柄なエルフだった。
「待たせたな。ワシは、ルーヴィンショウじゃ。ルーヴと呼んでくれ」
「ああ。俺はドルフ。コボルトの討伐を依頼されてきたんだが……エルフがこんなとこで、何やってるんだ?」
 ルーヴはふふんと得意げに含み笑い、ピンと人差し指を立てた。
「人間界には、『オンセン』という至高の趣味があると聞いてな! 手始めに、森の近くから攻めているのじゃ」
 そう言えば、ミョウコウコウゲンの森には、ハイエルフが住んでるって伝説があったっけ。三年ほど前にもニイガタに来たことがある俺は、幾らか風の噂を知っていた。
 長命で美しいが保守的な森の妖精エルフは、人間界に興味を示すもの好きがほとんど居ないため、ニホン中を旅する俺も数えるほどしか見たことがなかった。
 湿ったブロンドの両側から、エルフの特徴である先の尖った長い耳が覗いている。
「彼女を討ちに来たのか? 彼女は、傷を癒やしにオンセンに浸かっているだけじゃ。危険はない」
「でも……」
「でもはない。人間は争い過ぎじゃ。無害な彼女を討つというなら、ワシが相手になるぞ」
 エルフが精霊魔法を使うというのは、有名な話だった。ロングソード一本の俺では、分が悪い。
「分かった。ただ、温泉に来るのをやめて、森に戻って欲しいんだ。俺がやらなくても、また別の奴が来る」
 ルーヴは、コボルト語で何往復か会話をした。
「ドルフ、薬は持っているか? 切り傷を治すために、ここに来ているそうじゃ」
 それからルーヴに通訳して貰いながら、コボルトの足の傷に薬草をすり込み、包帯を巻いて手当てした。コボルトは感謝するように何度も振り返り、森の奥へと帰っていった。
「一件落着じゃの。ドルフ。せっかくだから、お前もオンセンと洒落込んでみてはどうじゃ? 気持ちがよいぞ」
 そんな顛末で、俺はカワラの湯に浸かっていた。シュワシュワと泡立つ白いにごり湯が、確かにひどく心地いい。両手で湯をすくって豪快に顔を洗い目を開けると、ルーヴの笑顔が間近にあった。
「ルーヴ!? 何やってんの!?」
「ん? ここは、『コンヨク』だと書いてあったぞ。男女が一緒に入っていいという意味じゃろう?」
「ま、間違ってはいないけど!」
「何じゃ、ドルフ、色気を出しておるのか? お前のような洟垂れ小僧(はなたれこぞう)が、五百年は早いわ!」
 ルーヴが高らかに笑う。
 それから俺は、何の因果かルーヴの温泉ハントに付き合わされ、混浴の度に鼻血をこらえる羽目になるのだった。

(著者)トシツグ


沖合を見やれば、今日は波が穏やかで。
あぁ、どうやら雲も浮かんでいない。
何とも、良い日和になりそうだ。
舟を出すなら、こんな日がいい。

魚籠(びく)と箱眼鏡、それに、銛(もり)。舟に乗せられるものには限りがある。
まぁ、舟、と言ってもただの盥(たらい)に相違ない。
もとは洗濯桶だとか、聞いたことがある。
そんな突拍子もない発想さえ、趣深さを感じる。
私は出来が悪かったから、何度も海に転げ落ちたものだ。
今は、もうそんなことないけれど。
「今日も、頑張ろうな」
杉の木の手触りを確かめて、舟に乗り込み、櫂(かい)で岸を押す。
ぐらりと足場が揺れ、身体が浮くのを感じながら。
水面の浮き沈みを読み、ゆっくりと漕ぎ出した。

朝凪の静けさが、私は好きだ。
先ほどまで賑やかだった潮騒も、風と共に鳴りを潜めている。
水天一碧。海と空とが溶けて混じって、一片の曇りもない。
見渡す限り、透き通るような碧(あお)。
何度でも、何度でも。
この景色を焼きつけたくなるのだ。
境目が柔らかく浮き上がって、白波が立ち始める。
擽るように風も動きを取り戻す。
さぁ、舵を取りやすいうちに、漁場に向かうとしよう。

岩にぶつかって白く爆ぜる波。
その合間にちらちらと魚の鱗が光った。
小木の一帯は岩礁と小さな入り江が多い。
小回りの利く盥舟でなければ、きっと思うようには動けない。
細かい波間に箱眼鏡を覗かせれば、眼前に広がる、光の帯の数々。
風も、波の声も耳に届く。それなのに、私は海の中にいるようだ。
今日も、綺麗だ。
ずっと眺めていられる。そう思う。

岩場に張り付いているのは鮑か。
ケイカギを伸ばし、殻に引っ掛ける。
手首をくくと返し、より深くに潜らせる。
こうすれば少しばかり楽に、獲れるものだ。
タモに潜らせ、引き上げれば、少々小ぶりではあるものの、立派な出で立ちだ。
良い値で売れておくれな。
魚籠に放り入れると、次の獲物を探す。
これの繰り返しだ。

磯ねぎ漁、見(み)衝(つ)き漁。こういった生業の人も、随分少なくなった。
それも、良いのだと私は思う。
移ろいゆく時代の中で、私が選んだ生き方。
選んだ者にしか分からないことも、見えないことも、ある。
それがどんな生き方だとしても。
それはきっと、当たり前なことで。
でも、特別なものだ。
海から出るときに私は毎日のように思う。
漁をし、たまに人を乗せ、この盥舟で過ごす時間。
そこで見せつけられる、美しい世界の、小さな片鱗。
この先、何年だって、私はこのためだけに生きることができる。

夕刻に、また来るよ。
漁火の用意でもして、見衝きをしよう。
私の一日は、こんな感じだ。

はじめの第一歩

(著者)烏目浩輔


 自宅のPCでダラダラとネットサーフィンの最中、僕はたまたまそれを見つけて視線を止めた。モニターに映しだされた文字をぶつぶつと読みあげる。
「にいがたショートストーリープロジェクト……」
 
 僕は数年前からのらりくらりと小説を書いているのだが、その趣味が高じていくつかの作品が書籍化されたこともある。素人の作品を世に送りだしてくれた出版社には足を向けて眠れない。ただ、最近はなんとなく書く気になれず、これといった物語を書いていない。どういうわけだかやる気が目覚めてくれないのだ。
 一応はなにか書いてみようかと考えてPCの前に座ったりもする。しかし、結局はネットの海をぼんやりと漂うだけになる。
 そんなときに僕は見つけたのだった。『にいがたショートストーリープロジェクト』なるものを。
 
 あなたの綴る短編小説、掌編小説を広く募集します。条件は一つ。作品に新潟のエッセンスを加えること。舞台が新潟。新潟出身の主人公。新潟の名物や名産を盛り込むなど、ちょっとでいいので新潟のエッセンスを入れてください。

 公式サイトをのぞいてみるとそう明記してあった。新潟を題材にした二千文字前後の短編小説を募集しているらしい。
 僕は生まれも育ちも関西で新潟のことはよく知らない。正直言ってあまり興味もない。だから小説を書くつもりがなかったし、ネットで調べたのはただの暇つぶしだった。新潟にはなにがあるのか、新潟はどんなところなのか。
 すると、予想外で驚いた。見たこともないような絶景が検索結果にあがってきたのだ。
 湖沼の周辺に新潟の原風景が広がる福島潟(ふくしまがた)。雲海が山の稜線から滝のように流れ落ちる枝折峠(しおりとうげ)の滝雲(たきぐも)。田園の水鏡に無数の星が映りこむ星峠(ほしとうげ)の棚田。
 PCのモニターに見とれていると、背後で感心するような声が聞こえた。
「へえ……綺麗……」
 振り返ると妻がいた。妻もモニターに映る新潟の絶景に見とれていたらしい。
「それ、日本やんな? どこなん?」
「新潟」
「新潟って米だけとちゃうんや。そんな綺麗なところがあるんやね」
 僕は「そうみたいやな」と頷いた。それから「意外やわ」とつけ足した。
「いつか新潟にいってみたいね」
「そやな。コロナが落ち着いたら旅行にいってもいいかもな」
 妻がどこかにいったあとも、僕は新潟の絶景を見つめていた。それから『にいがたショートストーリープロジェクト』の公式サイトをもう一度開いた。
 新潟にいったことのない関西出身の僕が、新潟を題材にした小説なんて書けるだろうか。そんな迷いを抱きながらも、なにか書いてみたいと思いはじめた。
 新潟のエッセンスさえ含まれていれば、ジャンルは特に問わないらしい。現代、時代、恋愛、推理、サスペンス、SF、童話――さて、どんな物語が書けるだろうか。
 しかし、不思議なものだ。まったくやる気が出なかったというのに、急に書きたいという衝動がふつふつと湧いてきた。おもしろいものが書けるかは別の話として、書くという行動に意欲がこもりはじめた。
 ともあれ、だいたいの物事がこんな感じかもしれない。ちょっとしたきっかけで急に前に進みはじめる。そういうことが往々にしてあるはずだ。
 たとえばPCで新潟について調べてみる。小さな一歩を踏みだすことで、先になにかが見えたりする。そして、新たな可能性が広がる。
 はじめの第一歩は小さくても、とにかく踏みだしてみるべきだ。踏みだしさえすれば、なにかが変わるかもしれない。
 いや、そんなことよりも――。
 PCのモニターを睨(ね)めつけながら、僕は腕を組んで小さく唸った。
「んー……」
 やる気はおかげさまで充分に出てきた。だが、物語のアイデアはそう簡単には出てこなかった。

カレン

(著者)圭琴子


 彼女は春の嵐の夜、山中の雑多な研究室内でひっそりとこの世に産まれ落ちた。
 はじめのひと息がほうっと平坦な胸を膨らませ、ゆっくりと大きな目がしばたたく。白いノースリーブワンピースを着た幼い彼女が身を起こすと、長い黒髪がシーツを滑ってしゃらりと音を立てた。
 傍らに立つ男性をぼんやり見上げ、彼女はまず初めての質問を口にする。
「あなたは……誰? あたしは……誰?」
「僕は、関戸慎司(せきどしんじ)。君は、カレン」
 関戸は、カレンが目覚めてすぐに、人間らしい好奇心を示したことに満足して笑顔を見せる。それにつられるようにして、カレンも桜色の頬に笑みを浮かべた。
「初めまして、カレン。喉は渇いてない? お腹は? 何でも僕に教えて」
「お水が飲みたい」
「ああ。これ、ミネラルウォーターだよ。冷えてる」
 隅の冷蔵庫から五百ミリのペットボトルを取り出し、カレンに手渡す。彼女は美味しそうに、三分の一ほどをひと息に飲み干した。
 関戸は、ナガオカ・テクノロジーユニバーシティの、機械創造工学課程・博士(はくし)課程を修了し、大学院で研究を続ける博士(はくし)だった。
 彼の研究は、限りなく人間に近いヒューマノイドの創造だ。その研究が実を結んだのが、カレンだった。
 カレンは、三歳程度の子ども特有の丸まっちい指を握り、瞼をこする。やがて仔猫のように、天を仰ぎ大口を開けて欠伸(あくび)をした。
「……カレン、眠い」
「ああ、そうか。毛布を持ってくるから、今日はもう眠りなさい」
「うん」
 再度、カレンは欠伸をした。目尻に生理的な涙が結晶する。そのひとつひとつを余さず観察して、関戸は興奮を抑えられなかった。
 『夜になる』『眠い』『欠伸が出る』『涙が滲む』
 人間がごく自然に行う営みだが、それをカレンも的確になぞっている。
 この研究は、成功だ。そう確信して、カレンにおやすみを言って寝かしつけたあと、関戸も仮眠室のベッドに入った。
 ――夢を見た。カレンが成長し、美しい娘になる夢を。それを夢だと自覚しながら、関戸は彼女に「綺麗だ」と賛辞を送るのだった。

 それから、二十年が経つ。二〇七二年においては、もはや人間に近いヒューマノイドは珍しくない。それは、関戸の研究成果によるところが大きかった。
 この世に三歳の身体で生を受けたカレンは、一年ごとに関戸が成長したボディを与え、今年二十三歳相当になる。彼はカレンのボディを、これ以上成長させないと決めていた。
「せっきー、ただいま!」
 今年四十九(しじゅうく)になる関戸をニックネームでそう呼ぶのは、もはやカレンだけだった。結婚もせずカレンのアップデートに人生を捧げ、年齢的にも、彼女は関戸の娘も同然だった。
「ただいま戻りました」
 あとから凜々しい青年が、続いて研究室に入ってくる。
「カレン、ジョージ、おかえり」
 青年は名をジョージといった。カレン同様、人間そのものだが、昨夜関戸が二十五歳相当のボディで誕生させたばかりのヒューマノイドだった。
「で、どうだった? 楽しかったか?」
 デスクに着いている関戸に飛び付かんばかりの勢いで、カレンは語る。
「うん、お山の公園に行ってきたの。お城が綺麗だったし、神社でお参りしてきたし、動物園でクジャクを見たわ! クジャクって、オスが求愛するときに飾り羽を開くのよね? 飼育員さんに必死にアピールしてるのが可愛くって、久しぶりに大笑いしちゃった」
「そうか。良かった」
「せっきーっていつもくたびれた格好してるけど、クジャクを見習った方が良いと思うわ。無精髭を剃るだけで、見違えると思うのに」
 カレンは饒舌(じょうぜつ)に、コロコロとよく笑う。
 親の心子知らずか、と関戸は小さく吐息した。
「見せる相手が居ないからな、良いんだよ。……で? ジョージはどうだった?」
「はい。楽しかったです。カレンに、関戸博士のことを、沢山教えて貰いました」
「どうもクシャミが出ると思ったら、カレンか」
 冗談めかしてぼやき、関戸はふたりに向き直って胸の前で指を組んだ。
「君たちには、新居を用意してある。そこで、今日からふたりで暮らして欲しい」
 年頃になったカレンにパートナーを与えるのが、ジョージを作った目的だった。いずれは赤ん坊も作り、ふたりに養育させる計画だ。
 ヒューマノイドが人口の半数まで増えた二〇七二年において、ヒューマノイドとの恋愛・結婚・疑似出産が可能かどうかの実験だった。

 だがその実験は、残念ながら失敗した。いや――広義で言えば、成功したのかもしれない。
 お山の公園――悠久山公園(ゆうきゅうざんこうえん)で、二千五百本ある満開の桜の下、ベンチに並んで座る老夫婦は、ほっくりと日向ぼっこを楽しんでいた。
「……なあ、お前。考え直してはくれないか?」
「いいえ、あなた。私も一緒に」
「そうか……」
「父さん、母さん、飲み物買ってきたよ」
 ふたりを「父」「母」と呼んだが、共白髪のふたりには似つかわしくない、二十代半ばの青年だった。
「ありがとう、ジョージ」
「ジョージ、カレンの考えは変わらない。教えてある手順で、私が死んだら、カレンも眠らせてやって欲しい」
「分かりました。安心してカレン。ちゃんと、関戸博士と一緒に天国に行けるようにしてあげる」
「ありがとう、ジョージ」
 カレンはもう一度繰り返して、しわ深い面(おもて)で破顔した。ヒューマノイドには宿らないはずの、魂(こころ)からの幸せを映した笑みだった。