カレン

(著者)圭琴子


 彼女は春の嵐の夜、山中の雑多な研究室内でひっそりとこの世に産まれ落ちた。
 はじめのひと息がほうっと平坦な胸を膨らませ、ゆっくりと大きな目がしばたたく。白いノースリーブワンピースを着た幼い彼女が身を起こすと、長い黒髪がシーツを滑ってしゃらりと音を立てた。
 傍らに立つ男性をぼんやり見上げ、彼女はまず初めての質問を口にする。
「あなたは……誰? あたしは……誰?」
「僕は、関戸慎司(せきどしんじ)。君は、カレン」
 関戸は、カレンが目覚めてすぐに、人間らしい好奇心を示したことに満足して笑顔を見せる。それにつられるようにして、カレンも桜色の頬に笑みを浮かべた。
「初めまして、カレン。喉は渇いてない? お腹は? 何でも僕に教えて」
「お水が飲みたい」
「ああ。これ、ミネラルウォーターだよ。冷えてる」
 隅の冷蔵庫から五百ミリのペットボトルを取り出し、カレンに手渡す。彼女は美味しそうに、三分の一ほどをひと息に飲み干した。
 関戸は、ナガオカ・テクノロジーユニバーシティの、機械創造工学課程・博士(はくし)課程を修了し、大学院で研究を続ける博士(はくし)だった。
 彼の研究は、限りなく人間に近いヒューマノイドの創造だ。その研究が実を結んだのが、カレンだった。
 カレンは、三歳程度の子ども特有の丸まっちい指を握り、瞼をこする。やがて仔猫のように、天を仰ぎ大口を開けて欠伸(あくび)をした。
「……カレン、眠い」
「ああ、そうか。毛布を持ってくるから、今日はもう眠りなさい」
「うん」
 再度、カレンは欠伸をした。目尻に生理的な涙が結晶する。そのひとつひとつを余さず観察して、関戸は興奮を抑えられなかった。
 『夜になる』『眠い』『欠伸が出る』『涙が滲む』
 人間がごく自然に行う営みだが、それをカレンも的確になぞっている。
 この研究は、成功だ。そう確信して、カレンにおやすみを言って寝かしつけたあと、関戸も仮眠室のベッドに入った。
 ――夢を見た。カレンが成長し、美しい娘になる夢を。それを夢だと自覚しながら、関戸は彼女に「綺麗だ」と賛辞を送るのだった。

 それから、二十年が経つ。二〇七二年においては、もはや人間に近いヒューマノイドは珍しくない。それは、関戸の研究成果によるところが大きかった。
 この世に三歳の身体で生を受けたカレンは、一年ごとに関戸が成長したボディを与え、今年二十三歳相当になる。彼はカレンのボディを、これ以上成長させないと決めていた。
「せっきー、ただいま!」
 今年四十九(しじゅうく)になる関戸をニックネームでそう呼ぶのは、もはやカレンだけだった。結婚もせずカレンのアップデートに人生を捧げ、年齢的にも、彼女は関戸の娘も同然だった。
「ただいま戻りました」
 あとから凜々しい青年が、続いて研究室に入ってくる。
「カレン、ジョージ、おかえり」
 青年は名をジョージといった。カレン同様、人間そのものだが、昨夜関戸が二十五歳相当のボディで誕生させたばかりのヒューマノイドだった。
「で、どうだった? 楽しかったか?」
 デスクに着いている関戸に飛び付かんばかりの勢いで、カレンは語る。
「うん、お山の公園に行ってきたの。お城が綺麗だったし、神社でお参りしてきたし、動物園でクジャクを見たわ! クジャクって、オスが求愛するときに飾り羽を開くのよね? 飼育員さんに必死にアピールしてるのが可愛くって、久しぶりに大笑いしちゃった」
「そうか。良かった」
「せっきーっていつもくたびれた格好してるけど、クジャクを見習った方が良いと思うわ。無精髭を剃るだけで、見違えると思うのに」
 カレンは饒舌(じょうぜつ)に、コロコロとよく笑う。
 親の心子知らずか、と関戸は小さく吐息した。
「見せる相手が居ないからな、良いんだよ。……で? ジョージはどうだった?」
「はい。楽しかったです。カレンに、関戸博士のことを、沢山教えて貰いました」
「どうもクシャミが出ると思ったら、カレンか」
 冗談めかしてぼやき、関戸はふたりに向き直って胸の前で指を組んだ。
「君たちには、新居を用意してある。そこで、今日からふたりで暮らして欲しい」
 年頃になったカレンにパートナーを与えるのが、ジョージを作った目的だった。いずれは赤ん坊も作り、ふたりに養育させる計画だ。
 ヒューマノイドが人口の半数まで増えた二〇七二年において、ヒューマノイドとの恋愛・結婚・疑似出産が可能かどうかの実験だった。

 だがその実験は、残念ながら失敗した。いや――広義で言えば、成功したのかもしれない。
 お山の公園――悠久山公園(ゆうきゅうざんこうえん)で、二千五百本ある満開の桜の下、ベンチに並んで座る老夫婦は、ほっくりと日向ぼっこを楽しんでいた。
「……なあ、お前。考え直してはくれないか?」
「いいえ、あなた。私も一緒に」
「そうか……」
「父さん、母さん、飲み物買ってきたよ」
 ふたりを「父」「母」と呼んだが、共白髪のふたりには似つかわしくない、二十代半ばの青年だった。
「ありがとう、ジョージ」
「ジョージ、カレンの考えは変わらない。教えてある手順で、私が死んだら、カレンも眠らせてやって欲しい」
「分かりました。安心してカレン。ちゃんと、関戸博士と一緒に天国に行けるようにしてあげる」
「ありがとう、ジョージ」
 カレンはもう一度繰り返して、しわ深い面(おもて)で破顔した。ヒューマノイドには宿らないはずの、魂(こころ)からの幸せを映した笑みだった。