君に贈る、はじめてのプロポーズ

(著者)乃木 京介


「将来、結婚しようね」

 幼稚園児の頃、脈絡もなく君は僕にそう言った。
 特別、珍しい言葉なんかじゃない。どこで覚えたのかもわからない言葉を使ってみたくなる年頃である。

 だが、君は歳を重ねても変わらず僕にその言葉を告げた。決して、なりふり構わず毎日告げてくるわけではない。一年に一度だけ、まるで誕生日やクリスマスメッセージかのように言うのだ。

 それを告白と捉えるべきか、僕も考えるようになった。もし、君が毎年勇気を出して告白をしているのに、僕はそれを無視してしまっているのなら非情にあたる。とは言え、君は幼稚園児の頃からその言葉を口にしていた。二人だけがわかる、ちょっとした合言葉のような冗談だったら……?

 そう解釈して、僕は一度も返事をすることはなかった。

 お互い高校生になって、君は新潟県の学校へ進学した。どうやら目指している夢があるらしい。一方の僕は地元の私立高校に進学し、特に名前のない物語を歩んでいた。それでも、新しい友人がそれなりにできて、毎日部活に明け暮れて、人並みの青春は送っていたと思う。

 ある日、君から久しぶりにメッセージが届いた。『勉強の息抜きに遊ぼうよ』と誘われ、映画を観に行くことになった。半年ぶりに会った君はずいぶん大人びて見えた。冗談めいて「彼氏できてないのかよ」と僕が言うと、「そっちこそ彼女いないんでしょ」と笑みを返してくれた。

 映画は、余命一年の病に侵された女性が、残された恋人のことを思い何も言わず別れを告げるというシリアスなプロローグから始まった。だが、恋人の男性はなかなか承諾しない。その度に女性は、思ってもいないことを口にして嫌われようとする。

 きっと病なんてなければ、二人には結婚していた未来が待っていたはずだった。そんな幸せの形が崩れていくさまは、見ている僕の心も深く抉っていった。

 最終的には折れた女性が真実を打ち明け、恋人の男性は優しくそれを受け止めた。二人は残された時間を一生に感じるような時間にしようと約束し、エンドロールが流れた。

「この映画で良かったのか?」

 フードコートでご飯を食べながら僕が問うと、正面に座っていた君が首を傾げた。

「好きじゃなかった?」

「勉強の息抜きに見るなら、もっと明るい系のほうが良かったんじゃないかなって」

 君は幾ばくか考えたあと、真剣な眼差しで呟いた。

「もし、私が余命一年だったらどうする?」

「悲しいよ。幼稚園の頃から知ってる仲だし」

「そっか、嬉しいな。──将来、結婚しようね」

 君が頬を桜色に染めながら、恥ずかしそうに顔を寄せて囁く。そうか、映画はこれを言いたかったための伏線だったのか、と僕は感心した。ここまで歳を重ねたら言い辛くもなる台詞を、君は律儀に今年も告げたわけだ。

「ああ、考えておくよ」

 なんとなく僕は、はじめてそう返した。
 そんな君からの〝プロポーズ〟を聞けたのはこの年が最後だった。

 目を閉じているあいだに、群青から夕焼けに染まった空をカラスが鳴きながら飛んでいた。景色の移り変わりはまるで、僕と君の空白を描写しているかのようだった。

「なあ、今年もどこかで言ってくれたのか……?」

 最後にあの言葉を聞いたあの日から、君は何も言わず音信不通になって三年が経った。すぐに君の身に何かあったのか疑った。君があの映画を選んだ理由はもしかして──。

 しかし僕は、君のことをあまりにも知らなかった。好きな食べ物から始まり、趣味、誕生日、友人関係、新潟県の学校に入って目指していた夢の内容さえ。

 思い返せば、いつも君が僕のことについて訊ねてくるのを、ただ答えるだけだった。どうして僕は、君のことを知ろうとしなかったのだろう?

 ずっと前から僕は君のことが好きだった。たぶん、幼稚園児の時に初めて君が言ってくれたあの日から。それでも君がそこに何の意味も込めていなかったら? そんな夢を醒したくなかったというのは、僕の弱さから生まれる言い訳だろう。

 冗談でもいいから、またあの言葉を聞かせてくれよ──。

「そろそろ答えは見つかった?」

 それは雨上がりの空に虹を架けたような、綺麗な音色だった。

「久しぶり、だね」

 振り返った僕の眼に映る君は、少しだけ不安そうに笑った。面影の残る眼差しが僕の記憶を優しく撫でる。

「どうしてここが……?」

「私はあなたのことなら何でも知ってるんだよ。全部、あなたが教えてくれたから」

「僕は君のことを何も……」

「今からでも遅くないよ?」

 思いは形のある言葉にしなければ伝わらない。今日という日さえ明日また来るとは限らないこの世界で、君のようにたった一年に一度だとしても、僕の心を掴んだ魔法の言葉のように。

「将来、結婚しよう」

 僕のプロポーズに、君の時間が少しだけ止まった。

 もし受け入れてくれたら、これから僕は君のことをたくさん知るだろう。まずは君が高校生の時から住み始めた新潟県の街案内を受けることからかな──。

「うーん、どうしようかなあ」

 わざとらしく呟いた君の目から、一粒の透明な雫が頬を伝った。