ヒカリのどうぶつ

(著者)モグ


これはね、僕がキキと出会って一緒に暮らして、そしてサヨナラをしたお話。
キキと出会ったのは、ママと一緒に歩いていたお買い物からの帰り道だったね。交差点を曲がった瞬間、キキったら急に現れるんだからビックリしちゃったよ。
「やぁ!」
「うわぁ、犬!?」
僕よりも小さくて、なんだか毛みたいに全身がモジャモジャしていて真っ黒で。すごいんだよ、黒いモジャモジャで口も鼻もよくわからいないんだ。わかるのは黄色く光る目だけ。
「どうしてこんなところにワンちゃんがいるのかしら」
ママは不思議そうに言うとキキは怒った。
「犬じゃないよ!僕はヒカリのどうぶつだよ!」
「犬が喋った!」
驚く僕にキキは、犬じゃないんだとすごく怒ったね。
「僕はキキ、ヒカリの国からやってきた。僕のお父さんはヒカリの国の王様なんだ。ヒカってみんなを照らして幸せにできる、お父さんみたいな立派なヒカリのどうぶつになるために僕はここへ修行にきたんだ」
「君はヒカリのどうぶつなの?」
「だから、そうだって言っているじゃないか」
「でも君は身体中が真っ黒でヒカっていないよね」
そう言ったらキキは悲しそうな顔をした。
「僕だってヒカるよ、でも僕は今、お腹が空いて何もできないんだ」
今にも泣き出しそうなキキにママは質問。
「キキのいた国は遠いの?」
「うん、遠いよ。お父さんの魔法でここに来たから、お迎えがくるまで帰れないんだ」
 そしてうつむいてしまったキキ。でもそんなキキの頭を撫でてママは言ったよ。
「ねぇキキ。今夜のご飯はカレーなの。たっぷり用意するから、キキがもし良いのなら、一緒に食べましょう」
うん、とキキがうなずいて、僕は嬉しくてジャンプ。
「やったぁ!」

「美味しい!こんな美味しいもの初めて!」
そう言っておかわりをするキキにママは嬉しそう。僕も負けずにお替り。
カレーを食べながらと僕とママはヒカリの国の話をいっぱい聞いたよ。ヒカリの馬車にヒカリの船、ヒカリのお城の話を聞いて僕もヒカリの国に行きたくなっちゃった。キキにはお家のすぐそばの小さな公園の話、ちょっと遠いけれど大きな加茂山公園の話、それから大好きなヨットが沢山並ぶこの街のヨットハーバーの話をした。連れていってとキキは目を輝かせた。行きたいところはこれから少しずつ、全部一緒にいこうと僕は言った。そして僕はママに聞いた。
「ねぇママ、キキの修行の間、キキがここにいてもいい?」
ママは笑顔で言ったよ。
「素敵ね。私も嬉しいわ。でもパパに聞いてみてからね。」
お腹いっぱいになってソファでキキと休んでいる玄関からただいまというパパの声。僕とママが大きな声でおかえりを言うと、キキはドキドキした顔で小さくおかえりと呟いた。

「あれれ、どうしたんだい、この黒い犬は?」
リビングの扉を開けたパパがビックリしながら言うとキキはやっぱり怒った。
「犬じゃないよ!僕はヒカリのどうぶつ、キキだよ」
「すごい!犬が喋った!」
「だから!僕は犬じゃないよ!」
キキは怒っているのにパパは楽しそうだった。
「ねぇパパ、キキと一緒に暮らしてもいい?」
「そりゃすごい。素敵じゃないか。よろしく、キキ」
それを聞いて僕とキキはジャンプ。
「やったぁ!」

それからはね、いつもキキと一緒にいたよ。早起きのキキはママのお手伝い。だんだん上手に綺麗な目玉焼きが作れるようになった。僕が幼稚園から帰ると真っ先に「おかえり」と言ってくれる。それからお家の近くの公園で一緒に遊んだ。「もう帰るよ」と言うママに僕とキキは「まだ帰りたくない」とわがままを言って、2人して怒られたね。
夜には美味しいご飯をたっぷり食べて。パパと一緒に入るお風呂が大好きだったキキはご飯の後、玄関でパパの帰りを待っていた。だからいつもパパが最初に聞く「おかえり」はキキの声だったね。
それからお風呂に入ってパパにを洗ってもらって、お風呂上がりのキキは歯磨きのあと、パパに抱っこされてお布団へ。キキが眠る布団に入るとね、すっごく温かくて僕もポカポカ気持ちよく眠れたんだ。

ある日、万代橋を渡ってキキと僕は河川敷のベンチに座り、信濃川に浮かぶヨットを眺めながらお話をした。楽しくて沢山お話してたのに、キキは段々喋らなくなって「どうしたの?」って聞いた。そうしたらキキは泣きながら言ったね。
「はじめて会った時のこと覚えている?僕はあの時ウソをついたんだ。本当はヒカるけれど今はお腹が空いているからヒカらないって嘘をついたんだ。本当は僕、ヒカることができないんだ。ヒカリのどうぶつなのに僕はお父さんみたいにヒカれないんだ。ウソをついてごめんなさい」
キキは声を出して泣いた。僕は泣いているキキをずっとぎゅって抱きしめた。キキはそのまま泣き疲れ眠って、そんなキキと僕をパパは両手で抱き抱えてお家まで帰った。

キキが泣いた日から一週間が経った夜のこと。もう暗いはずのお外から、リビングにヒカリがさした。ママがビックリして少しカーテンを開けると部屋の中はヒカリに包まれた。それはとても温かいヒカリだったことを覚えているよ。
パパが黙って窓を開けると、それは小さな太陽みたいな、眩しいヒカリが入ってきた。僕もパパもママも、そのヒカリがなんなのかわかった。キキは驚いて黙ってしまっていたけれど、ぼくたちにはすぐにわかったんだよ、キキのパパが来たことを。だって、あんなに明るく、温かいヒカリに包まれたのは初めてだったんだもの。あぁこれがヒカリの国の王様なんだって思ったんだ。

「皆さん、私はキキの父です。キキの迎えに来ました。これまでキキのことをありがとうございました。お礼とともに、キキがここで暮らし始めた時、本来なら私からも挨拶をするべきところ、失礼をおかけしたこと、お詫び申し上げます。」
そんなヒカリの王様の言葉に、僕のママは
「とんでもない。キキが来てくれて私は嬉しかったんです。」
ママの言葉にヒカリの王様は微笑み、キキに話しかけた。
「よくがんばったねキキ、さぁヒカリの国に帰ろう。」
だけどキキは僕にくっついたまま動かない。
「お父さん、ごめんなさい。僕はまだヒカれないんだ。」
キキの目には涙が溢れてきた。でも僕のパパはヒカリの王様に言った。
「ヒカリの王様。キキはヒカることができています。まだカラダはヒカってないけれど、それでも私たちは毎日ここでキキのヒカリに照らされていました。」
ヒカリの王様は微笑みながらなんども頷いてパパとママと僕をゆっくりと見た。それからキキを抱きしめて、キキにそっと話しかけたんだ。
「キキはここでみんなと暮らしてどうだった?」
「ボクはね、すごく幸せだったよ」
「その幸せな暮らしの中にヒカリはあったかな?」
「…うん。でもそれはボクのヒカリじゃなくて、みんなから照らしてもらったヒカリだったんだ。ボクはまだヒカることができていなんだ」
「キキ、君がここでの暮らしの中で感じたそのヒカリは、ヒカリのどうぶつにとって1番大切なことなんだ。いいかい、そのことをこれからもずっと忘れてはいけないよ」
「うん、ボクはずっと忘れない」
「そして、これも大切なこと。キキはここでの暮らしの中でヒカっていた。ちゃんとヒカっていたからお父さんは迎えにきたんだよ。」
「本当に?」
「あぁ本当さ。キキはちゃんと素敵にヒカっていた。」
ヒカリの王様の言葉に、キキの涙が嬉しい気持ちの涙に変わった。パパもママも僕も嬉しい気持ちの涙が溢れた。

それからボクたちはサヨナラをした。サヨナラはやっぱり、悲しい気持ちの涙が止まらなかった。みんなで沢山泣いて、「ありがとう」と「サヨナラ」と「またね」を何度も何度も言葉にしあって、そしてキキはヒカリの国へ帰って行ったんだ。

これで、僕がキキと出会って一緒に暮らして、そしてサヨナラをしたお話は終わり。キキのことを思い出す時にはいつだって、胸の中にね、とても明るく温かいヒカリが溢れてくるよ。それは僕だけじゃなく僕のパパだってママだってそうなんだ。
ねぇキキ、また会えるかな。また会いたいね。また会えるその日まで、僕もキキみたいにヒカれるように頑張っていくよ。

沁みる夕日

(著者)石原おこ


『もうムリ。別れましょう』
と彼女からメッセージが送られてきて、自分でも「まぁそうかなぁ…」と思うところもあったけど、実際『別れましょう』という文字を見たときには、なんだかやるせない気持ちになった。

新潟の大学で出会って、つき合い始めて、僕が先に社会人になって、
「そろそろつき合い始めて4年が経つね」
と言っていたのが2か月前。そう言った時、彼女の表情もどこか浮かないところがあったような気もするし、その時会ってからの2か月も、時々メッセージのやり取りをするぐらいで、実際に会ったり、電話でしゃべったりすることもなかった。
仕事が忙しいというのも理由だし、お互いの生活している環境が違ってきたことも、すれ違いの原因になっていたと思う。
「結婚しよう!」
とでも言えばよかったのか?
でもまだ、なんとなくそんなタイミングじゃないし、結婚なんてイメージわかないし。お互いにスケジュールを合わせてデートするというのも、億劫になっていた。

だからと言って彼女のことが嫌いになったわけではない。
4年間、彼女と過ごした時間は楽しかったし幸せだった。
一緒に酒を飲みに行ったり、旅行に出かけたり、デートの時間が楽しみで、仕事を早く切り上げて駅へ急いだこともあった。
「一緒に花火が見たい!」
彼女がそう言うものだから、長岡の花火大会にも出かけた。
熱風と人いきれ。次々に夜空に開く大輪の花。爆音と煙のにおい。浴衣姿の彼女。
ここ最近、彼女との思い出なんか思い出すこともなかったのに、『別れましょう』の言葉で、急にあの頃の日々が浮かんでくる。

『メッセージだけで関係が終わるってのは切ないよ。一度、会って話さない?』
そう返事を返した。
もう関係を修復することは難しいのかもしれないけれども、別れるのであっても、ちゃんと会って“けじめ”をつけたい。
もちろん、別れたくないという気持ちがある。顔を見れば思い直してくれるかもしれないという期待もある。
「別れましょう」
「はい。そうしましょう」
なんて、返事ができるほど、物わかりのいい僕じゃない。
未練がましいのもわかっているけれども、最後に一度、会って話をしたい。
『わかった』
彼女は短い返事を返してきた。

待ち合わせの場所は、百貨店の中にある喫茶室だった。
土曜日の夕方。これまでだったら『一緒にご飯でも食べながら軽く一杯でも』となるそんな時間帯。
メッセージのやり取りからも、一緒にご飯を食べるという雰囲気でもなかった。
コーヒー一杯の時間が、僕たちに残された最後の時間だった。

僕が先に喫茶室に入っていた。約束の時間の20分も前に来てしまった。
彼女が姿を現すまでの時間、何を言おうか、どう言おうか、いろいろ考えていたけれども、結局言いたいことはまとまらず、タイムオーバーとなってしまった。

向かいの席に座った彼女は髪の毛をバッサリ切っていた。肩まであった髪の毛はショートカットになっていて、色も少し茶色に染まっていた。着ていた白いワンピースも、これまで会っていた時には着てきたことのなかったものだった。
「雰囲気変わったね」
「うん」
「最初入ってきたとき、誰だか分からなかったよ」
重苦しい空気が漂う。「こんなにも会話って弾まなかったっけ?」と思うくらい、僕と彼女との間には深く大きな溝があるような感じだった。
「あなたと付き合っている間にいろいろあって……このあいだ会ってからもいろいろあって、それで、私新潟を離れることにしたの」
深い沈黙が続いたあと、彼女がぽつりとつぶやくようにそう言った。
???いろいろあって?何があったの?新潟を離れる?どこへ行くの?ほかの男といっしょに行くの?どういうこと?
頭の中には彼女に言いたいこと、聞きたいことが浮かんでくるけれども、それらの言葉がミキサーのなかでごちゃごちゃにかき回されて、なんだかドロッとした得体のしれないものになるだけで、結局口をついて出たのは、
「あ、そうなんだ」
のひと言だった。
「もう一度考え直してくれないか?」なんて言えなかったし、
「元気でやれよ」なんて捨てゼリフも出てこなかった。

「ああ、なんだかな…フラれるのはやっぱりキツイな…」
車のシートに体を沈めて、ため息をついた。
心にぽっかり穴が開いてしまって、今になって『好きだ』という気持ちがわいてくる。一緒にいたときの笑顔が思い出されたり、他愛もない会話の内容、花火大会の日、彼女が着ていた浴衣にアサガオが描かれていたことなんかも思い出した。
「ビールでも買って帰るか」
そう言って僕は車を動かした。

海沿いの道を走ることにした。このまままっすぐ帰っても、きっとみじめな気分になっているばかりだろうし、車を運転することで少し気がまぎれるかもしれない。
松林を抜けたところで、海が開けた。
ちょうど太陽の沈む時間だった。
日本海に沈む夕日は赤く眩しい。頭上のサンバイザーを倒しても、光が目に飛び込んでくる。
「なんだか、夕日が痛い」
日本海に沈む夕日を見ると、きっと今日のことを思い出すのだろう。
そう思うと、ぽっかり空いた心の穴に、夕日の光が沁みて痛かった。

半分の胡瓜

(著者)薮坂


──夏だ。それはもう、真っ盛りの夏。

 気が遠くなるような気温の中、私はあてもなく散歩をしていた。ここ新潟は、私の住む街と違って田舎だ。それもドがつくほどの田舎。
 祖父母の家がなければきっと来ない。それが私にとっての新潟。

 中学生ともなれば日常が忙しくなる。授業に部活に友達付き合い。だから本当は来たくなかったけど、祖父母は私と弟に会えるのを楽しみにしている。だから無視できない。
 親と帰省したはいいけど、やることがない。六歳離れた弟は、おじいちゃんと笹舟遊びに夢中だ。今日も川へと行っているから、私は一人で散歩するしかない。

 照りつける太陽がヤバい。午後二時から散歩なんてするもんじゃない。
 日差しから逃げるよう木陰に避難して、額の汗を拭う。ふうと一息ついたところで、幹の後ろに何かが蹲っているのを見つけた。

 ぱっと見、私と同い年くらいの男の子。行き倒れ? ぎょっとした私に、彼は息も絶え絶えに言う。

「……みず。みず、」

 熱中症? 持っていた水筒を慌てて渡す。おばあちゃんに持たされたものがこんな形で役に立つなんて。
 彼は水筒を受け取ると、いきなり頭から被った。いやなんで頭から? 当然、麦茶まみれになる彼。
 
「あぁ、生き返った。死ぬところだった」
「ええと、」
「ありがとう、本当に助かった。この恩は絶対に忘れない。今はこんなのしかないけど、いつかきっと恩を返すから」

 彼はそう言うと、どこから取り出したのか一本のそれを差し出した。
 ……いやいや。なぜにきゅうり?

「もしかして、胡瓜嫌いだった?」
「いや、好きだけど……」
「なら良かった。美味しいよ」

 ぱきりと半分に割って、片方を私に差し出す。ニカリと笑いながら、彼はもう片方を齧る。夏に映えるその笑顔。まるで胡瓜のCMみたい。
 その笑顔に促されて、私もおずおずと胡瓜を齧る。その胡瓜は、不思議と夏の味がした。

 彼は自分を「河太郎」と名乗った。私も「夏乃」と名乗り返す。
 どうやら彼も帰省中らしく、今は祖父母の家で過ごしているという。聞けば私と同い年。ここから遠く離れた街に住んでいるらしいけど、詳しいことはわからない。

「カノはいつまで新潟にいるの?」
「来週までかな。部活とか忙しいし」
「ならそれまで一緒に遊ぼうよ」
「いいけど何して遊ぶの? こんな田舎で」
「川遊びして、そのあと胡瓜食べるんだよ」

 また彼はニカリと笑った。不思議とその笑顔に惹かれて、私と河太郎は翌日から一緒に川遊びをするようになった。
 一応これでも年頃の女の子なので、水着を晒すのは少し気が引ける。でも河太郎は水着の私を見ても特別な反応を示さない。ちょっとムカつく。もっと有り難がれってものだ。

 次の日は弟のナツキを連れて行った。引っ込み思案のナツキとすぐに打ち解けた河太郎は、河原で相撲を取り始めた。きっと精神年齢が同じに違いない。
 あぁ、男ってほんとバカ。でも楽しそうに笑う二人を見て、少しだけ羨ましくもなった。
 河太郎と私、そして弟のナツキ。三人で過ごす夏は存外、悪くない。

 この夏がしばらく続けばいいのに。
 でも時間は止まらない。まして夏は、待ってくれない季節だ。

 地元へ帰る前日。天気予報が大きく外れて、ゲリラ的な豪雨となったその午前中のこと。

 ……ナツキがどこにもいない。靴もない。
 私は思い出した。昨日の夜、ナツキが嬉しそうに言っていた言葉。

「明日、河太郎兄ちゃんと笹舟で遊ぶんだ」

 私は雨の中、三人で遊んだ川へ走った。全身ずぶ濡れの全力疾走。
 濁流に姿を変えつつある川の中州で、横たわるナツキをついに見つけた。

「ナツキ! 何してんのバカ!」

 どうどうと流れる水に、成す術がない。誰かを呼ぼうにもナツキから目が離せない。どうしよう、と思った瞬間。後ろから私を呼ぶ声が聞こえた。河太郎だ。

「カノ、ナツキは僕が助ける。心配しないで、泳ぎは得意だから」
「正気? あんたまで流されるよ!」

 待って、という前に河太郎が濁流に飛び込む。橋の上からの大ジャンプ。一度大きく沈んだ河太郎は、ナツキがいる中州に勢いよく上がってくる。

 その姿はまるで。まるでというか、あれは。
 どこからどう見ても、緑色の河童だ。

「え……?」
「カノ、いつか言ったよね。必ず恩を返すって」
「河太郎……?」
「ナツキは無事だよ。心配しなくていい」
「待って!」
「短い間だったけど、楽しかった。ありがとう」
「河太郎!」

 それが、河太郎を見た最後になった。

 次の夏も、その次の夏も。私は新潟に帰省して、河太郎を探した。人にも聞いたけど「河太郎」なんて男の子はどこにもいなかった。まるで夏の幻だ。

 私はあの橋の上で、手にした胡瓜を半分に割る。その片方を川に投げ入れる。

 ぷかぷかと流れていく半分の胡瓜。
 それがいつか、河太郎に届くといい。
 
 もう半分を自分の口へと運んで、齧る。
 やっぱりそれは、どこまでも夏の味がした。

雲が出る前に

(著者)如月芳美


 彼女からLINEが来た。
『民踊サークルに入ったよ。歌う方じゃないよ、踊る方』
 思いがけないところに入ったな。まあ、今に始まったことじゃないけど。
『何か踊れる?』
 うーん、子供の頃に地元で踊った三階節くらいしか覚えてないな。柏崎甚句は難しすぎて覚えてないしな。
 前出てチョン、下がってチョン、前出てチョン、だったかな?
 歌はかなり印象的だったんだ。だからはっきり覚えてる。
 まるで本歌と返歌みたいに、一人が歌うと大勢が返すような歌い方をするんだ。しかも一人が歌ってる時は太鼓の縁を叩いてて、大勢が返す時にドンって太鼓の皮を叩く。だから「返事」って感じに聞こえる。
 子供ながらにこの会話しているような歌い方が妙に好きだったんだ。

 明けたよ夜が明けた 寺の
 鐘打つ坊主や お前のおかげで 夜が明けた
 
 柏崎から椎谷まで 間(あい)に
 荒浜 荒砂 悪田の渡しが 無きゃよかろ

 米山さんから雲が出た 今に
 夕立が来るやら ピッカラ シャッカラ ドガラリンと 音がする

 あれ? 柏崎から椎谷まで『会いに』? これってもしかして彼女んとこ行く歌?
 寺の坊主が鐘を打つ音で目が覚めた彼氏が、彼女のところに会いに行く。
 そう、彼氏はきっと椎谷の人なんだ。柏崎の彼女に会いに行くに違いない。その為に前の晩から準備して、夜明けと同時に家を出るんだ。
 柏崎から椎谷までの間に荒浜を通る。荒浜はずっと砂浜で風が吹くと砂が目に入るし、砂地を歩くのはきっと大変だ。

 待てよ? 荒浜と悪田は地名なのになんで荒砂が間に入る?
 これは砂が飛ばないように、風に「荒らすな」って念じてるのかもしれない。そもそも荒浜は風が荒れる浜からその名がついたって聞いたことがある。ほんとかどうか知らんけど。
 そういう事なら「荒浜荒らすな、悪田の渡しが無きゃよかろ」で意味が通じる。

 彼氏が椎谷を出発して、ひたすら海岸歩いて、荒浜辺りで風が吹いてくる。目の中に入った砂を取りながら「荒らすなよ~」って文句を言う。
 やっと荒浜過ぎたと思ったら、そこにデーンと鯖石川だ。悪田の渡しがある。
 そりゃー確かに「無きゃよかろ」だ。
 それでもなんとか悪田の渡しで鯖石川を渡るんだ、彼女に会うためなら俺はどんな道だって進んで行くぜ! いや、俺じゃなくてこの歌詞の男だけどな。

 ところがここでとどめだ。
 米山さんから雲が出た。――これから雨が降るって事だ。しかも「夕立が来るやらピッカラシャッカラドガラリンと音がする」ってもう雷鳴ってるじゃん!
 ということは彼が目指すのはまだ先だ。鯖石川渡ってすぐじゃない。柏崎の西寄りの方だ。鯨波の方か? もっと先か?

 あああああ! あるじゃないか、その名も『恋人岬』!
 あんなところに彼女が住んでるわけないんだから、きっと彼女を迎えに行って恋人岬でデートの予定だったんだ。うわー、6時間コースじゃん。
 なのに彼氏は椎谷からはるばるやって来て、目には砂が入るし、鯖石川は渡らなきゃならんし、嵐には見舞われるし、散々なんだ。
 そこまでして会いたい彼女なんだろうな。何それ熱愛じゃん。いいな。

 と、その時スマホが着信音を響かせた。LINEしてるのすっかり忘れてた。
『ちょっとー、スルーしないでよー』
「ごめん、明日会える?」
『え? なに急に。どうしたの?』
「どうしても会いたくなった」

 米山さんから雲が出る前にね。

みどりのいし

(著者)如月芳美


「ここは式を展開すれば一発でしょ?」
「どうやって展開するのかわかんない」
「まずはカッコを外す」
「うん、外す」
「あーあーあー、そのまま外してどうすんの。カッコの外にあるヤツをカッコの中に全部かけるの」
「えーと……こう?」
「違う、マイナスついてるでしょ」
「それ先に言ってよ」
「当たり前でしょ」
 その『当たり前』がわかんないから聞いてんのに。お母さんの説明は『わかる子』用なんだ。これで進学塾の講師やってるんだから、よくクビにならないよなって思う。まあ、あたしができの悪い生徒なだけなんだけど。
 お母さんは「数をこなしてないからよ」って軽く言う。友達に言っても「たくさん過去問解いてれば、パターンがわかって来るよ」って言ってたから、やっぱりあたしの勉強時間が絶対的に少ないんだろうとは思う。
 でも高校へ行くメリットがいまいちピンと来ないから、勉強にも熱が入らない。
 その点、お父さんはおおらか。
「別に高校なんて絶対行かなきゃならないものでもないよ。ただ、行っておくといろいろ楽しい」
 お父さんがそう言うと本当になんだか楽しそうに感じるから、行こうかなって思っちゃう。
 だけど高校へ行くためには受験勉強というものが必須なわけで。
「翠(みどり)、またボーッとしてたでしょ。あんた机に向かってる時間は長いのに、ちゃんと勉強してる時間が半分もないじゃない」
「あーもうお母さんうるさい」
「あんたが教えてって言ったんじゃないの」
 しかもいちいちド正論だからマジムカつく。
「お母さん出勤時間だから、あとよろしくね」
 バタバタと出て行くのを視界の端で見送る。一体何をよろしく頼まれたのかわからない。
 土曜日のお母さんはいつもこうやって朝からせわしなく職場へ向かう。つまりそれは土曜日でも朝から塾で勉強してる子たちがいるってこと。そんな連中と勝負するんだもんな。いや、絶対志望校は違うはずだから勝負しないか。
「あーあ、あたしお母さんの子なのに、なんでこんなに頭悪いんだろう」
「そりゃ半分お父さんの血が入ってるからだろ」
 自称犯人ののんびりした声が横から割り込んでくるけど、あたしに言わせれば大学で先生やってるお父さんだってお母さんと同類だ。むしろ上位互換。
「土曜日まで朝から勉強なんて、人間として間違ってる。翠、ちょっとお父さんに付き合わないか?」

 自転車を漕ぐこと二十分。海岸に来たということは、すなわち「ヒスイ拾い」をするということだ。
 お父さんはその道のスペシャリストだから、見ればそれが本物のヒスイかどうかすぐにわかる。鑑定士と一緒にヒスイ拾いをするようなものだ。
「白っぽくて角ばってるやつを探すんだよ」
「わかった」
 受験生と大学の先生がこんなところで石拾い。変なの。
「ヒスイって造山帯でしか産出されないんだよ。プレート同士がぎゅうぎゅう押し合って、岩が圧力に負けて変成しちゃうんだ。その中にできる。糸魚川はフォッサマグナの西縁にあるからね」
「なんかそんな事言ってるとほんとに先生みたい」
「ほんとに先生なんだけど」
 お父さんはお母さんと違って先生っぽくない。大学の先生ってみんなこんな感じなのかな。それともお父さんだけなのかな。
「ヒスイは高貴な石でね、中国では玉(ぎょく)と呼ばれて、王の象徴だったんだ」
 お父さんの講義が始まった。だけど勉強っぽくないから聞いてて楽しい。
「仁・義・礼・智・信の五つの徳を備えた特別な石と言われていてね、知恵や人徳を与えてくれると信じられてきたんだよ」
「あ、これヒスイ?」
 白っぽくて緑っぽい石を渡すと、お日様にかざしたり目を細めて見たりしていたお父さんが「残念でした」と笑った。うーん、なかなか難しい。
「翠が生まれたとき、お母さん喜んでねぇ。五月生まれだから五月の誕生石にちなんだ名前にしようって。『エメラルド?』って聞いたら『ヒスイはどう?』って」
「でも翠じゃん」
「ヒスイって漢字で書いた時のスイの部分が翠っていう字だからね」
 知らなかった。
「五つの徳がこの子に備わるようにってね」
 ここまで言って、お父さんがあたしをまっすぐ見た。
「本当はお母さんだって翠の前では『先生』より『お母さん』でいたいんだよ」
 でも。
 でもじゃないか。あたしがお母さんを先生として使ってただけか。
「あ、これヒスイじゃない?」
「どれ?」
 お父さんの掌に乗せると「あー、重いね」と口角を上げた。
 さっきより緑が濃い。アイスが溶けちゃったクリームソーダみたいな色。美味しそう。
 しばらくこねくり回して見ていたお父さんが、「ビンゴ」と声を上げた。
「よし、獲物も見つけたし、お昼になる前に帰ろう」
「クリームソーダ飲みたい」
「いいねぇ、お母さんには内緒だよ」

 夜ベッドにひっくり返って、拾ったヒスイを眺めながらお父さんの言葉を思い出した。
「翠がどんな道に進んでも、お父さんとお母さんは翠の意思を尊重するよ」
 みどりのいし。
 座布団三枚あげれば良かった。

彼女の才能

(著者)如月芳美


 海に沈む夕日なんて一体何年ぶりだろう。ここに住んでいたころは太陽が海に沈むのが当たり前で、それ以外のところに沈むなんて考えたこともなったのに。
 東京に出てからは見るものすべてが新鮮で、太陽がビルとビルの谷間に吸い込まれて行ってもまったく気づかなかった。
「見晴らしいいね」
「まだまだ。これからアレに乗るんだよ」
 彼女は生まれも育ちも横浜市。夕日が海に沈むなんてことを知らない人種だ。
 だけどまだ日没までは時間がある。明るいうちに広い平野と海を見せたかった。
「山に登ってまだ登るの?」
「弥彦に来たらパノラマタワーまで攻めなきゃね」
 弥彦山の頂上には回転式の展望台がある。グルグル回りながら昇って行くので日本海も新潟平野も佐渡島も全部独り占めだ。
 小さい頃はよく父に連れられて弥彦に登った。登山というよりハイキングという感じ。山頂で十分絶景が楽しめたから、わざわざパノラマタワーに乗るなんて発想がなかった。
 でも今日は別だ。
 何がなんでもパノラマタワーには乗らなきゃならない。本日のメインディッシュなんだから。
 のんびり屋の俺と行動派の彼女。でこぼこコンビだけど、その関係が心地いい。
 今日は初めて俺が彼女を連れ回してる。俺の地元ってことで少し気が大きくなってるかもしれない。故郷をいろいろ自慢したいんだ。
 展望席が動き始めるや否や、彼女は「おお~」と声を上げた。時間が時間だけに、俺たちの他には老夫婦が一組いるだけ。
「新潟平野広いねー!」
「うん」
「ねえねえ、海岸が見える」
「獅子ヶ鼻の辺りかな。ライオンの鼻先みたいな岩があるんだ」
「あれ! 海の向こうにもなんかある」
「佐渡だよ」
「海岸線がずーっとあっちの端からこっちの端まで見えるよ」
 はしゃいでいる彼女が可愛い。こういうストレートなところが好きなんだ。
 心の中でニヤニヤしていたら、彼女が急に「ねえ」とこっちを向いた。
「なんで急にここに来ようと思ったの?」
 おっと、いきなりそっち行っちゃう? もうちょっと景色を楽しんでからにしようかと思ったんだけど、まあいいか。人生にハプニングはつきものだ。
「あのさー。うちの親父がさ、若い頃に新潟市に住んでてさ」
「うん」
「万代シティつっても知らないよね、まあ、新潟の駅前なんだけどさ。昔そこにレインボータワーっていう、これと同じような回転式の展望台があったんだよね。そこは駅前だから、新潟市内が一望できたんだけどさ」
 彼女が「?」って顔してる。まあ、焦らないでよ。話はこれからだ。
「母さんと付き合ってる頃に一緒に乗ったんだって」
「あたしたちみたいだね」
 今それの真似してるからなんだけどね。
 さっきの老夫婦がニコニコしてこっち見てる。あの人達には俺の考えなんかお見通しなんだろうな。そう思うとちょっと恥ずかしいな。
 でも、その為にここまで来たんだ、ここで躊躇するわけにはいかない。
「そんでさ、天辺に来た時に親父が母さんにプロポーズしたんだって」
「えー! いいな、そういうの素敵」
「だろ? そう言うと思った。だからさ、俺も」
 彼女の肩越しに、老夫婦が拳を握って小さく振ってる。
 見ず知らずの老夫婦の応援を目の端に捉えながら、俺はポケットから小箱を出した。予想外に早く話振られちゃったから、まだ天辺に到着してない。ま、それもいいか。
「えっと、うち、農家だけど、結婚してくれますか?」
 俺の唐突なプロポーズに驚いたのか、それともプロポーズの文句に驚いたのか、農家に驚いたのか、とにかく彼女はポカンとしたまま固まってしまった。
 それもそうだよな、もうちょっとロマンチックなプロポーズの文句ってもんがある。せっかくシチュエーションにこだわったのに、片手落ちだったかもしれない。むしろこれ両手落ちだよな。
 と思ったのも束の間、彼女がスパーンと打ち返してきた。
「農家?」
「え、あ、うん、農家。しかも本家の長男」
 これ、最悪なヤツかもしれない。でも言っておかないと詐欺だしな。
 老夫婦がアタマ抱えてる。そりゃアタマも抱えるよな。
「いいね!」
 え、いいの?
「あたし、農家の嫁になる! 体力だけは自信あるの。あとね、なぜかお年寄りにすっごく可愛がられる才能もある!」
「は? え? ええっ?」
 なんだそれ。
 笑っちゃうじゃん。
 反則だよ。ますます好きになっちゃうじゃん。

 降りるとき、例の老夫婦に「お幸せにね」って言われちゃったよ。
 なんて返事したらいいかわかんなくてモゴモゴしてたら、彼女が「はい、ありがとうございます! この人が幸せにしてくれます!」って元気よく返事してて。本当にお年寄りに可愛がられる才能あるわって思った。
 日本海に沈む夕日を見せたら、早速実家に連れてっちゃおう。
 ……ちょっと気が早いか?

ふるさと候補

(著者)水菜月


「もう帰ろう」
 唐突にそう思ったが、考えてみたら帰る場所なんてなかった。
 生まれてからずっと同じところに住んでいる。ただ空を見上げたらそんな気になっただけだ。

 地方から東京に出てきた友人を思い浮かべてみた。
 佐々木は福岡出身で、頑なに博多弁を使い続けている。暑苦しい程に地元への愛が強い。九州男児が皆あいつみたいではないだろうが、強烈な個性となっている。

 東京都民であるというだけで「お前はいいな」と言われる。
 東京といっても色々あるんだ。僕の住んでいるところは東京とは名ばかりで、都会でもなく、かといって田舎でもない、何の特徴もない中途半端な場所だ。
 遊びに来た友人は言う。「うん。何の変哲もないというか、時を止めてるというか、案外そんなもんなんだな」と。反論する余地はない。まるで僕のことを言われているかのようだ。

 人は自分にないものにあこがれる。僕には帰るべき故郷《こきょう》がない。だから何かあったら戻れる場所がある人がうらやましくなる。

 僕に「ふるさと」はない。でも本籍地みたいに自由に選べるなら、もし誰もが勝手に故郷を決めることができるなら、僕はどうするだろう。
 たとえば、記憶の中になつかしいものがあることを郷愁と呼ぶように、或いはあの時代が僕にとってそうであったなら。

 子どもの頃、毎朝犬の散歩に公園に行くと、細長い麦わら帽子を被って体操をしているおじさんがいた。ラジカセから小さく音を鳴らして一心不乱に動く姿を見て、変わった大人だなと思っていた。

 そのおじさんは夏になると、朝だけじゃなく夜に見かけるようになった。近所の夏祭りの練習で、踊りを教える人になったからだ。
 僕はその時はじめておじさんの声を聴いた。深くて落ち着いたいい声だった。と言っても武士のように言葉少ない説明だったが。
「まあ、見よう見まねで踊ってくれたらいいんです」

 それが、僕がはじめて出会った盆踊り「佐渡おけさ」だった。僕の中にずっと刷り込まれているもの。
「坊主、筋がいいぞ。いい足さばきだ」
 朝、隣で真似をしてみたら、おじさんがほめてくれた。一緒になって黙々と行ったり来たりを繰り返す。
 ちょっとした修行気分で、踊ることが楽しくなった。夏が来るのが待ち遠しかった。

 だが、おじさんはいつの日か見かけなくなってしまい、田舎に帰ったという噂だった。おじさんがいなくなってからも、夏祭りはなんとか続いていた。

 祭りで踊られる曲は、時代に合わせて少しずつ代わっていく。でもなぜだか「佐渡おけさ」は必ずかかる。
 おじさんがいなくなっても、誰も佐渡に縁もゆかりもなくても、ここではそれがスタンダードになっていた。

 2020年。家から出るだけで危険な時代が来るなんて誰が想像しただろう。
 もちろん夏祭りなんて不要不急のものは真っ先に中止だ。
 会社に行くのも、息をすることも、何もかも嫌になってどこかに逃げ出したくなったが、それすらままならない。此処ではない何処かをひたすら求めた。

 そんな時、偶然ある動画を見た。
 聞き覚えのある音色だった。強烈になつかしいその音を聴いて画面を見たら、一人のおじいさんが踊っていた。

「佐渡おけさ」のおじさんだ! 
 今なら知っている。つぶれた麦わら帽子は「おけさ笠」という。
 あの頃も笠を被っていて顔なんてよく覚えてないけど、でも踊り方があのおじさんだった。独特な足の運びと優雅な腕づかい。忘れはしない。
 年をとっておじさんよりおじいさん寄りになってたけど、変わらずに闊達《かったつ》で武術のような踊りだった。故郷に帰ってからも、やっぱりずっと踊っていたんだ。 

 まるで波だった。身体から繰り出すうねりがザブンと音を立てる。
 その海は、自分と繋がっている気がした。いつか行ってみたい、いや、帰ってみたいと思える場所。僕の中でいつしか波打っていたものがそこにあった。

 夏が来る。また盆がやって来る。どこからかふと線香の匂いが漂ってくる。
 だが、しばらくは夏祭りどころではないかもしれない。

 でも。
 ねえ、おじさん。僕たちはまだあの曲を踊っています。いつかまた行き来できる日がきたら一緒に踊りましょう。あなたの存在が僕のふるさとみたいなものだから。

 おじさんと練習した公園には、夏でも日影を作ってくれる大きな木がある。そこから今年はじめての蝉の声がした。あの日と変わらない、元気な鳴き声だ。

カフェテリア林檎

(著者)つちだなごみ


五泉駅前にある「カフェテリア林檎」には、艶っぽいママがいる。
妖艶なマダムといった感じだ。

「林檎セットの卵サンドと」
「ん……」
「ピラフとカツカレーのセットでお願いします」
「ん……」

ママの鼻から抜けるような「ん……」という声が悩ましく色っぽい。
その人は年を重ねるたび美しくなっている気がする。

「セットのドリンクは?」
「二つともコーヒーで」
「ホットでいいのね」
「はい」

銀婚式のお祝いを頂いたので「二人で食事に行こう」という話になった。
「どこ食べに行こっか」と、ウキウキしながら夫に聞いた。
肉食系の夫なので、焼き肉とかステーキとかのリクエストを想像していたけれど、即答で「林檎がいい」と言った。

「カフェテリア林檎」は、私たちの1ページ目だった
初めてそのカフェテリアに入ったのは、私たちが高校三年生の時だった。
土曜日の授業が終わり、Wデートと称してランチに行ったのが林檎だった。
男子は塚本君と土田君、女子はアヤちゃんと私。
四人はクラスメイトだったけれども、塚本君と土田君が悪友だというだけで、他の関係性はクラスメイト以外の何者でもなかった。

アヤちゃんと私はサンドイッチをシェアした。
あざと可愛く小食をアピールするわけではなく、緊張して食べられる気がまるでしなかった。
サンドイッチだったら大口開けなくてもすむし。
ドキドキして食べたので味はよく分からなかった。

食事が済んで「これから何処へ行こうか」と塚本君。
「海がいい」と土田君。
塚本君が「姉ちゃんから借りたんだ」と、白いTODAYを出してくれた。
車には初心者マークが付いていない。
同じ高校三年生だったけれど、塚本君は年が一歳上というのをその時初めて知った。
土田君はすでに知っている風だった。

小さな軽自動車に、制服姿の四人が乗り込む。
アヤちゃんと私は後部座席に座った。
阿賀野川の土手道を、海を目指してぐんぐん走る。
アスファルトの凸凹で、満員のTODAYが跳ねるたびにみんなで笑った。

塚本君はハンドルを握りながら後部座席を振り返り、話を盛り上げようとする。
そのたびに土田君が「前、前!」と塚本君をたしなめる。
土田君は後部座席の私たちと目をあまり合わせない。
タイプの違う悪友の二人だけど、いつも学校でツルんでいた。

松林を抜けると太夫浜の海が広がっていた。
十月の日本海は、もう寒そうに荒波が立っている。
波打ち際に走り出した途端、土田君がはしゃぎ出し足元の悪いテトラポッドに上った。
案の定、砕けた波から逃げられずに水を浴びた。
「土田、お前バカだなあ!」と、塚本君がお腹を抱えて笑った。
「風邪ひくよ」と、私はハンカチを渡した。

週末明けの放課後、土田君が生徒玄関で待っていた。

「一緒に帰ろう」
「うん」

約束もしていないのに、当たり前のように一緒に帰った。
幼い二人の交際のスタートは、とてもたやすいものだった。

・・・・・・・・・・

「俺らのこと『たまに来る客』って覚えてくれてるのかな」
「パパのことは覚えてると思うよ。今までお客さんで男の人ほとんどいなかったし」

そう言って、二人で様々な年代の女子会のテーブルを見渡した。

「お水のおかわりいかが?」
「あ、お願いします」

あたふたとママにコップを渡す夫が、かわいい坊やに見えた。

お会計の時にママの顔をじっと見た。
やはり綺麗な人だ。
ちょっと不自然に、ママをしばらく見つめてしまった。
ママは「ありがとうございました。気を付けてね」と笑顔で送り出してくれた。

外は小雨が降っている。
駅の駐車場に停めた車まで二人で走った。
カフェテリア林檎を後にして思う。
32年間変わらず、私の一番そばで髪を撫でてくれるこの人を大切にしたいと。

たまにはけえってこいさ

(著者)如月芳美

「たまには帰(けえ)って来いさ」
 ゴールデンウィークや夏休みが近づくと、必ず言われる。
 うん、わかってる。
 ただ、なんとなくめんどくさい。
 帰ってもすること無いし、暇だし、この無駄な時間を友達と過ごしていた方が楽しいし。
 何をしに帰るのかわかんないんだよね。
 お盆はさ、まだわかるよ。お墓参りしてご先祖様を迎えてさ。でもそれ終わったら何もすること無いじゃん? ほんと暇なんだよ。
 爺ちゃん婆ちゃんはやたらと「これも食え、あれも食え」ってかき餅とか笹団子とか勧めてくるけどさ、そんなに食えないし。食うこと以外に何もないから仕方ないんだけど。
 暇だから散歩しようにも田んぼしかない。ヘビとタヌキに遭遇するくらい。それ以前に夜はカエルがうるさくて眠れない。
 冬なんか雪が降るし、メチャクチャ寒いし。帰るのに靴を選ばないといけない。
 だけど「正月ぐれぇみんなで過ごそうてぇ。親戚みんな集まってってがんね、お前(めえ)だけ来ねすけ俺(おら)恥ずかしい(しょーしい)てぇ」って言われてしぶしぶ帰る。
 でも、こたつから一歩も出ないでみかん食ってるだけ。まあ、若いし力だけは有り余ってるから、朝一の雪かきくらいはするけどさ。

 あの頃はそんな風に思ってたんだ。あの頃はね。

 それから何年も過ぎて、結婚して、子供ができた。子供もあっという間に大きくなって、俺も頭に白いものが増えた。気づいた時には、息子も大学生になっていた。
「ねえ、父さん。僕一人暮らししてみたいんだよね。一人で生活するスキルを身につけたいんだ」
 寝耳に水というか青天の霹靂というか。コイツがそんなことを言うなんてまったく考えたこともなかった。
「ああ、そうだね。でも大学は家から通えるから、今は金を貯めた方がいいんじゃないかな」
 尤もらしい理屈をつけた。でも本音は違った。
 息子はずっと計画を立てていろいろ考えてきたんだろうが、こっちは心の準備も何もない。こないだまで小学生だったじゃないか。
 そこでやっと考えた。
 息子が一人暮らしを始めたら、いつものように他愛のない話をすることはもう無くなるんだろう。「最近どうだ」「うん、まあそこそこ」みたいな害のない話しかできない。当然だ、普段一緒にいないんだから話すことなんか何もない。
 帰省の度にわざわざ話題を準備しても、会社の話なんか畑違いの親に通じるわけがないし、友人の話なんかもっと通じない。だから話題を探すのも疲れる。
 必死に話題を探して、貴重な休みを帰省の準備に費やして、大荷物と土産を抱えて長距離を移動して、実家に帰っても話題も無く、することも無く、暇疲れして。
 息子もたまに帰省してきても、昔の俺のように「時間の無駄」と思ってしまうのかもしれない。
 そうなった時、俺はコイツをどうやってもてなすのか。やっぱり自分の親がそうだったように笹団子を蒸して「食え」って言うに違いない。

 あと何回、コイツと他愛のない会話ができるんだろう?
 あと何日、コイツと一緒にいられるんだろう?

 あの時の父もこんな気持ちで言ったんだろうか。

 漠然とそんなことを考えていると、息子がさらに付け加えた。
「僕が就職してしばらくしたら、父さん定年になるでしょ? そうしたらお婆ちゃんのところに戻るんだよね?」
「ああ、そうだな。ここにいる意味ないからな」
「じゃあ僕は新潟に帰省することになるんだね」
 墓があるからな、とはさすがに言いにくい。若い子に言ってもなぁ、俺だって墓守とかめんどくさいんだ。
「あんまり行けなかったけど、お婆ちゃんちのお米って凄い美味しいよね。どうなってんだろうね、あれ。ユウガオの味噌汁とか、こっちじゃ食べられないものがいっぱいあってさ」
 そうか。俺にとって珍しくもなんともないものが、コイツにはグルメだったんだ。ユウガオなんかあっち行けばゴロゴロあるのに。
「あとなんだっけ、イタリアンだっけ? あれって何がどうイタリアンなんだかさっぱりわかんないけど無駄に美味しいよね」
「そんなもんいつ食ったかな?」
「福浦八景だっけ? ナントカ流れだっけ? なんか海行った帰り。佐渡が見えたとこ」
 ああ、笹川流れか。
「海、綺麗だよね。星もいっぱい見えるし」
 そういえばそうだよな。なんのかんの言って、いいとこだったよな。
 海も、空も、山も、全てが広大だった。
「まだまだ先だけど、長い休みの度に帰って来いよ。ユウガオの育て方、婆ちゃんから聞いとくから」
「そんな明日にでも定年になるみたいな事言わないでよ、まだあと三年も大学費用かかるんだからさ」
 スマホ片手に自室に戻って行く後姿を眺めながら、俺は一人呟いた。
「今年は帰るかな……婆ちゃんの笹団子食いに」

プロポーズ

(著者)海人


「永遠の愛なんて、ないんだよ。きっと」

 夏の日。君は僕に背を向けたまま、そう言った。後ろ髪が潮風に揺れる。穏やかな波の音と海鳥の鳴き声だけが鼓膜に届く。
 二十数年間生きてきた中で初めて、拙いながらもプロポーズをした時の、君の返事。
それは僕にとっては得体の知れない、捉えどころのないものだった。

 君はそれきり何も言葉にしない。このまま振り返ってもらえないような気さえした。
 ただ、水平線に夕陽が沈んでいくのを静かに見つめている。一世一代のプロポーズよりも、毎日繰り返される黄昏の方が心地よいものなのだろうか。
 
 愛してる。誰しも簡単に口にできる言葉。
 いざ、その愛とやらを真剣に考えてみればみるほど、なんて途方もない存在を語ろうとしていたのか、愕然とする。
「ねえ。何か言ったら?」
 さっと振り返り、膨れた顔が言う。僕はどこまで本気なのか、さっぱり分からなかった。
「君こそ、何か言ったらどうなんだ」
 至極真っ当なことを言っているのは僕の方なのだと、その時ばかりは確信した。

 思えば最初の出会いも、あの時と同じ、海を一望できる無人駅だった。
 青海川と名乗るその駅に、僕は居眠りしたまま運ばれていた。スマートフォンの時刻表から次の電車が到着する時間を教えられ、ため息をつく。眠っている時間よりも長い時間、電車を待つのかと空に問いかけてみる。その幼い中身にまた、どうしようもなくため息が出た。すると、向かいのプラットホームから同じようなため息が聞こえる。線路を挟んで目が合う。それが初めて見た君の姿だった。

 君と話していると、時間の感覚さえ狂ってしまう。あっという間に電車が来てしまい、また離れ離れになりそうになる僕らを繋げてくれたのは、今なお著しい成長を遂げる文明の利器だった。
 メールの文章だけで、僕たちは一日百通近くもやり取りをした。そんなに話すことがあったのかと問われれば、恐らくあったのだろう。海まで写真を撮りに来たものの、乗車予定だった電車を逃した君と、暇を持て余していた僕。種類は違えど、互いに誰かを欲していた。無限に思える時間の波に何もかも押しやられてしまわぬように。

「今の若者は愛の告白もメールなんだよ。そんな人間に愛は語れないよ」
「君だって今の若者だろ」とツッコミを入れつつ、その瞬間から君への告白はあの無人駅でしようと決めていた。

 病室の窓から見えるのは、やはり海だった。

「いつか言っていただろう。愛は永遠じゃないって」
 あの夏の日から何十回同じ季節が巡ったのか。少なくとも五十回は堅いなと思えば、咳が出る。大した稼ぎもないのに、君は長年一緒にいてくれた。「何か言いました?」と言いながら、ポケットナイフを器用に駆使し林檎をむく君は、とぼけた顔をこちらに向けている。
 
 最近知った、ある事実がある。君は若い時から耳が悪かった。
 この先そんなに長くないと医者に宣告されてから、そう言われた。僕にすれば二重に告白されたようなものだったが、君の中では僕がこうなるまで言うつもりはなかったのかもしれない。生活に支障をきたすほどではないが、少し大きめの声でないと聞こえないそうだ。

 あの時の、僕のプロポーズの言葉は、君の耳に届いていなかった。
 今さらながら、そんなことに気がついた。今では大した意味さえ持たない気もする。

 当時、あのプロポーズですっかり自信を喪失したのか、実をいうと君に振られたのだとさえ思っていた。
 でも、僕たちの関係は続いていった。それに、大学で哲学を専攻していた君の話は飽きなかった。現実ばかり見て嫌気が差すたび、僕は君の話す言葉を思い出していた。
「世の中を変えたいわけじゃないの。普段の生活、世界の情勢、人々が何に喜んで何に苦しんでいるのか。どんなに経済的に豊かになっても、心に貧しさだけは抱えたくないから」

 ここから見える水平線は変わることなく、僕たちに寄り添っている。
 僕は君に与えられてばかりだった。だから、せめて君に想いを伝えたかったけど、結局その言葉さえ、波の狭間に消えていった。
 
「もし生まれ変わっても、君はきっと、あの駅で電車を逃すよ」
 頭を過るのは、あの景色だった。五十年も経っているのに、君の内面は何一つ老いていない。そんな気さえした。
「あなたも、また寝過ごしてあの駅に運ばれてくるの。必ず」
「必ず、ときたか」
 それきり声を出すことができない。耳が聞こえづらい君のために大きな声で話そうとすればするほど、喉に力が入らない。

「少し横になったら」優しく君は毛布を掛けてくれる。
 ゆっくり目を瞑る。僕たちは若い頃のように手を繋ぎ温かさを感じ合う。

「好きよ」
「おいおい。先を越さないでおくれ。僕にプロポーズさせてくれよ」
 耳元で聞こえる声に心の声が応える。あの日と同じ波の音と海鳥の鳴き声は、確かに僕の鼓膜を揺らしている。