半分の胡瓜

(著者)薮坂


──夏だ。それはもう、真っ盛りの夏。

 気が遠くなるような気温の中、私はあてもなく散歩をしていた。ここ新潟は、私の住む街と違って田舎だ。それもドがつくほどの田舎。
 祖父母の家がなければきっと来ない。それが私にとっての新潟。

 中学生ともなれば日常が忙しくなる。授業に部活に友達付き合い。だから本当は来たくなかったけど、祖父母は私と弟に会えるのを楽しみにしている。だから無視できない。
 親と帰省したはいいけど、やることがない。六歳離れた弟は、おじいちゃんと笹舟遊びに夢中だ。今日も川へと行っているから、私は一人で散歩するしかない。

 照りつける太陽がヤバい。午後二時から散歩なんてするもんじゃない。
 日差しから逃げるよう木陰に避難して、額の汗を拭う。ふうと一息ついたところで、幹の後ろに何かが蹲っているのを見つけた。

 ぱっと見、私と同い年くらいの男の子。行き倒れ? ぎょっとした私に、彼は息も絶え絶えに言う。

「……みず。みず、」

 熱中症? 持っていた水筒を慌てて渡す。おばあちゃんに持たされたものがこんな形で役に立つなんて。
 彼は水筒を受け取ると、いきなり頭から被った。いやなんで頭から? 当然、麦茶まみれになる彼。
 
「あぁ、生き返った。死ぬところだった」
「ええと、」
「ありがとう、本当に助かった。この恩は絶対に忘れない。今はこんなのしかないけど、いつかきっと恩を返すから」

 彼はそう言うと、どこから取り出したのか一本のそれを差し出した。
 ……いやいや。なぜにきゅうり?

「もしかして、胡瓜嫌いだった?」
「いや、好きだけど……」
「なら良かった。美味しいよ」

 ぱきりと半分に割って、片方を私に差し出す。ニカリと笑いながら、彼はもう片方を齧る。夏に映えるその笑顔。まるで胡瓜のCMみたい。
 その笑顔に促されて、私もおずおずと胡瓜を齧る。その胡瓜は、不思議と夏の味がした。

 彼は自分を「河太郎」と名乗った。私も「夏乃」と名乗り返す。
 どうやら彼も帰省中らしく、今は祖父母の家で過ごしているという。聞けば私と同い年。ここから遠く離れた街に住んでいるらしいけど、詳しいことはわからない。

「カノはいつまで新潟にいるの?」
「来週までかな。部活とか忙しいし」
「ならそれまで一緒に遊ぼうよ」
「いいけど何して遊ぶの? こんな田舎で」
「川遊びして、そのあと胡瓜食べるんだよ」

 また彼はニカリと笑った。不思議とその笑顔に惹かれて、私と河太郎は翌日から一緒に川遊びをするようになった。
 一応これでも年頃の女の子なので、水着を晒すのは少し気が引ける。でも河太郎は水着の私を見ても特別な反応を示さない。ちょっとムカつく。もっと有り難がれってものだ。

 次の日は弟のナツキを連れて行った。引っ込み思案のナツキとすぐに打ち解けた河太郎は、河原で相撲を取り始めた。きっと精神年齢が同じに違いない。
 あぁ、男ってほんとバカ。でも楽しそうに笑う二人を見て、少しだけ羨ましくもなった。
 河太郎と私、そして弟のナツキ。三人で過ごす夏は存外、悪くない。

 この夏がしばらく続けばいいのに。
 でも時間は止まらない。まして夏は、待ってくれない季節だ。

 地元へ帰る前日。天気予報が大きく外れて、ゲリラ的な豪雨となったその午前中のこと。

 ……ナツキがどこにもいない。靴もない。
 私は思い出した。昨日の夜、ナツキが嬉しそうに言っていた言葉。

「明日、河太郎兄ちゃんと笹舟で遊ぶんだ」

 私は雨の中、三人で遊んだ川へ走った。全身ずぶ濡れの全力疾走。
 濁流に姿を変えつつある川の中州で、横たわるナツキをついに見つけた。

「ナツキ! 何してんのバカ!」

 どうどうと流れる水に、成す術がない。誰かを呼ぼうにもナツキから目が離せない。どうしよう、と思った瞬間。後ろから私を呼ぶ声が聞こえた。河太郎だ。

「カノ、ナツキは僕が助ける。心配しないで、泳ぎは得意だから」
「正気? あんたまで流されるよ!」

 待って、という前に河太郎が濁流に飛び込む。橋の上からの大ジャンプ。一度大きく沈んだ河太郎は、ナツキがいる中州に勢いよく上がってくる。

 その姿はまるで。まるでというか、あれは。
 どこからどう見ても、緑色の河童だ。

「え……?」
「カノ、いつか言ったよね。必ず恩を返すって」
「河太郎……?」
「ナツキは無事だよ。心配しなくていい」
「待って!」
「短い間だったけど、楽しかった。ありがとう」
「河太郎!」

 それが、河太郎を見た最後になった。

 次の夏も、その次の夏も。私は新潟に帰省して、河太郎を探した。人にも聞いたけど「河太郎」なんて男の子はどこにもいなかった。まるで夏の幻だ。

 私はあの橋の上で、手にした胡瓜を半分に割る。その片方を川に投げ入れる。

 ぷかぷかと流れていく半分の胡瓜。
 それがいつか、河太郎に届くといい。
 
 もう半分を自分の口へと運んで、齧る。
 やっぱりそれは、どこまでも夏の味がした。

雲が出る前に

(著者)如月芳美


 彼女からLINEが来た。
『民踊サークルに入ったよ。歌う方じゃないよ、踊る方』
 思いがけないところに入ったな。まあ、今に始まったことじゃないけど。
『何か踊れる?』
 うーん、子供の頃に地元で踊った三階節くらいしか覚えてないな。柏崎甚句は難しすぎて覚えてないしな。
 前出てチョン、下がってチョン、前出てチョン、だったかな?
 歌はかなり印象的だったんだ。だからはっきり覚えてる。
 まるで本歌と返歌みたいに、一人が歌うと大勢が返すような歌い方をするんだ。しかも一人が歌ってる時は太鼓の縁を叩いてて、大勢が返す時にドンって太鼓の皮を叩く。だから「返事」って感じに聞こえる。
 子供ながらにこの会話しているような歌い方が妙に好きだったんだ。

 明けたよ夜が明けた 寺の
 鐘打つ坊主や お前のおかげで 夜が明けた
 
 柏崎から椎谷まで 間(あい)に
 荒浜 荒砂 悪田の渡しが 無きゃよかろ

 米山さんから雲が出た 今に
 夕立が来るやら ピッカラ シャッカラ ドガラリンと 音がする

 あれ? 柏崎から椎谷まで『会いに』? これってもしかして彼女んとこ行く歌?
 寺の坊主が鐘を打つ音で目が覚めた彼氏が、彼女のところに会いに行く。
 そう、彼氏はきっと椎谷の人なんだ。柏崎の彼女に会いに行くに違いない。その為に前の晩から準備して、夜明けと同時に家を出るんだ。
 柏崎から椎谷までの間に荒浜を通る。荒浜はずっと砂浜で風が吹くと砂が目に入るし、砂地を歩くのはきっと大変だ。

 待てよ? 荒浜と悪田は地名なのになんで荒砂が間に入る?
 これは砂が飛ばないように、風に「荒らすな」って念じてるのかもしれない。そもそも荒浜は風が荒れる浜からその名がついたって聞いたことがある。ほんとかどうか知らんけど。
 そういう事なら「荒浜荒らすな、悪田の渡しが無きゃよかろ」で意味が通じる。

 彼氏が椎谷を出発して、ひたすら海岸歩いて、荒浜辺りで風が吹いてくる。目の中に入った砂を取りながら「荒らすなよ~」って文句を言う。
 やっと荒浜過ぎたと思ったら、そこにデーンと鯖石川だ。悪田の渡しがある。
 そりゃー確かに「無きゃよかろ」だ。
 それでもなんとか悪田の渡しで鯖石川を渡るんだ、彼女に会うためなら俺はどんな道だって進んで行くぜ! いや、俺じゃなくてこの歌詞の男だけどな。

 ところがここでとどめだ。
 米山さんから雲が出た。――これから雨が降るって事だ。しかも「夕立が来るやらピッカラシャッカラドガラリンと音がする」ってもう雷鳴ってるじゃん!
 ということは彼が目指すのはまだ先だ。鯖石川渡ってすぐじゃない。柏崎の西寄りの方だ。鯨波の方か? もっと先か?

 あああああ! あるじゃないか、その名も『恋人岬』!
 あんなところに彼女が住んでるわけないんだから、きっと彼女を迎えに行って恋人岬でデートの予定だったんだ。うわー、6時間コースじゃん。
 なのに彼氏は椎谷からはるばるやって来て、目には砂が入るし、鯖石川は渡らなきゃならんし、嵐には見舞われるし、散々なんだ。
 そこまでして会いたい彼女なんだろうな。何それ熱愛じゃん。いいな。

 と、その時スマホが着信音を響かせた。LINEしてるのすっかり忘れてた。
『ちょっとー、スルーしないでよー』
「ごめん、明日会える?」
『え? なに急に。どうしたの?』
「どうしても会いたくなった」

 米山さんから雲が出る前にね。

彼女の才能

(著者)如月芳美


 海に沈む夕日なんて一体何年ぶりだろう。ここに住んでいたころは太陽が海に沈むのが当たり前で、それ以外のところに沈むなんて考えたこともなったのに。
 東京に出てからは見るものすべてが新鮮で、太陽がビルとビルの谷間に吸い込まれて行ってもまったく気づかなかった。
「見晴らしいいね」
「まだまだ。これからアレに乗るんだよ」
 彼女は生まれも育ちも横浜市。夕日が海に沈むなんてことを知らない人種だ。
 だけどまだ日没までは時間がある。明るいうちに広い平野と海を見せたかった。
「山に登ってまだ登るの?」
「弥彦に来たらパノラマタワーまで攻めなきゃね」
 弥彦山の頂上には回転式の展望台がある。グルグル回りながら昇って行くので日本海も新潟平野も佐渡島も全部独り占めだ。
 小さい頃はよく父に連れられて弥彦に登った。登山というよりハイキングという感じ。山頂で十分絶景が楽しめたから、わざわざパノラマタワーに乗るなんて発想がなかった。
 でも今日は別だ。
 何がなんでもパノラマタワーには乗らなきゃならない。本日のメインディッシュなんだから。
 のんびり屋の俺と行動派の彼女。でこぼこコンビだけど、その関係が心地いい。
 今日は初めて俺が彼女を連れ回してる。俺の地元ってことで少し気が大きくなってるかもしれない。故郷をいろいろ自慢したいんだ。
 展望席が動き始めるや否や、彼女は「おお~」と声を上げた。時間が時間だけに、俺たちの他には老夫婦が一組いるだけ。
「新潟平野広いねー!」
「うん」
「ねえねえ、海岸が見える」
「獅子ヶ鼻の辺りかな。ライオンの鼻先みたいな岩があるんだ」
「あれ! 海の向こうにもなんかある」
「佐渡だよ」
「海岸線がずーっとあっちの端からこっちの端まで見えるよ」
 はしゃいでいる彼女が可愛い。こういうストレートなところが好きなんだ。
 心の中でニヤニヤしていたら、彼女が急に「ねえ」とこっちを向いた。
「なんで急にここに来ようと思ったの?」
 おっと、いきなりそっち行っちゃう? もうちょっと景色を楽しんでからにしようかと思ったんだけど、まあいいか。人生にハプニングはつきものだ。
「あのさー。うちの親父がさ、若い頃に新潟市に住んでてさ」
「うん」
「万代シティつっても知らないよね、まあ、新潟の駅前なんだけどさ。昔そこにレインボータワーっていう、これと同じような回転式の展望台があったんだよね。そこは駅前だから、新潟市内が一望できたんだけどさ」
 彼女が「?」って顔してる。まあ、焦らないでよ。話はこれからだ。
「母さんと付き合ってる頃に一緒に乗ったんだって」
「あたしたちみたいだね」
 今それの真似してるからなんだけどね。
 さっきの老夫婦がニコニコしてこっち見てる。あの人達には俺の考えなんかお見通しなんだろうな。そう思うとちょっと恥ずかしいな。
 でも、その為にここまで来たんだ、ここで躊躇するわけにはいかない。
「そんでさ、天辺に来た時に親父が母さんにプロポーズしたんだって」
「えー! いいな、そういうの素敵」
「だろ? そう言うと思った。だからさ、俺も」
 彼女の肩越しに、老夫婦が拳を握って小さく振ってる。
 見ず知らずの老夫婦の応援を目の端に捉えながら、俺はポケットから小箱を出した。予想外に早く話振られちゃったから、まだ天辺に到着してない。ま、それもいいか。
「えっと、うち、農家だけど、結婚してくれますか?」
 俺の唐突なプロポーズに驚いたのか、それともプロポーズの文句に驚いたのか、農家に驚いたのか、とにかく彼女はポカンとしたまま固まってしまった。
 それもそうだよな、もうちょっとロマンチックなプロポーズの文句ってもんがある。せっかくシチュエーションにこだわったのに、片手落ちだったかもしれない。むしろこれ両手落ちだよな。
 と思ったのも束の間、彼女がスパーンと打ち返してきた。
「農家?」
「え、あ、うん、農家。しかも本家の長男」
 これ、最悪なヤツかもしれない。でも言っておかないと詐欺だしな。
 老夫婦がアタマ抱えてる。そりゃアタマも抱えるよな。
「いいね!」
 え、いいの?
「あたし、農家の嫁になる! 体力だけは自信あるの。あとね、なぜかお年寄りにすっごく可愛がられる才能もある!」
「は? え? ええっ?」
 なんだそれ。
 笑っちゃうじゃん。
 反則だよ。ますます好きになっちゃうじゃん。

 降りるとき、例の老夫婦に「お幸せにね」って言われちゃったよ。
 なんて返事したらいいかわかんなくてモゴモゴしてたら、彼女が「はい、ありがとうございます! この人が幸せにしてくれます!」って元気よく返事してて。本当にお年寄りに可愛がられる才能あるわって思った。
 日本海に沈む夕日を見せたら、早速実家に連れてっちゃおう。
 ……ちょっと気が早いか?

ふるさと候補

(著者)水菜月


「もう帰ろう」
 唐突にそう思ったが、考えてみたら帰る場所なんてなかった。
 生まれてからずっと同じところに住んでいる。ただ空を見上げたらそんな気になっただけだ。

 地方から東京に出てきた友人を思い浮かべてみた。
 佐々木は福岡出身で、頑なに博多弁を使い続けている。暑苦しい程に地元への愛が強い。九州男児が皆あいつみたいではないだろうが、強烈な個性となっている。

 東京都民であるというだけで「お前はいいな」と言われる。
 東京といっても色々あるんだ。僕の住んでいるところは東京とは名ばかりで、都会でもなく、かといって田舎でもない、何の特徴もない中途半端な場所だ。
 遊びに来た友人は言う。「うん。何の変哲もないというか、時を止めてるというか、案外そんなもんなんだな」と。反論する余地はない。まるで僕のことを言われているかのようだ。

 人は自分にないものにあこがれる。僕には帰るべき故郷《こきょう》がない。だから何かあったら戻れる場所がある人がうらやましくなる。

 僕に「ふるさと」はない。でも本籍地みたいに自由に選べるなら、もし誰もが勝手に故郷を決めることができるなら、僕はどうするだろう。
 たとえば、記憶の中になつかしいものがあることを郷愁と呼ぶように、或いはあの時代が僕にとってそうであったなら。

 子どもの頃、毎朝犬の散歩に公園に行くと、細長い麦わら帽子を被って体操をしているおじさんがいた。ラジカセから小さく音を鳴らして一心不乱に動く姿を見て、変わった大人だなと思っていた。

 そのおじさんは夏になると、朝だけじゃなく夜に見かけるようになった。近所の夏祭りの練習で、踊りを教える人になったからだ。
 僕はその時はじめておじさんの声を聴いた。深くて落ち着いたいい声だった。と言っても武士のように言葉少ない説明だったが。
「まあ、見よう見まねで踊ってくれたらいいんです」

 それが、僕がはじめて出会った盆踊り「佐渡おけさ」だった。僕の中にずっと刷り込まれているもの。
「坊主、筋がいいぞ。いい足さばきだ」
 朝、隣で真似をしてみたら、おじさんがほめてくれた。一緒になって黙々と行ったり来たりを繰り返す。
 ちょっとした修行気分で、踊ることが楽しくなった。夏が来るのが待ち遠しかった。

 だが、おじさんはいつの日か見かけなくなってしまい、田舎に帰ったという噂だった。おじさんがいなくなってからも、夏祭りはなんとか続いていた。

 祭りで踊られる曲は、時代に合わせて少しずつ代わっていく。でもなぜだか「佐渡おけさ」は必ずかかる。
 おじさんがいなくなっても、誰も佐渡に縁もゆかりもなくても、ここではそれがスタンダードになっていた。

 2020年。家から出るだけで危険な時代が来るなんて誰が想像しただろう。
 もちろん夏祭りなんて不要不急のものは真っ先に中止だ。
 会社に行くのも、息をすることも、何もかも嫌になってどこかに逃げ出したくなったが、それすらままならない。此処ではない何処かをひたすら求めた。

 そんな時、偶然ある動画を見た。
 聞き覚えのある音色だった。強烈になつかしいその音を聴いて画面を見たら、一人のおじいさんが踊っていた。

「佐渡おけさ」のおじさんだ! 
 今なら知っている。つぶれた麦わら帽子は「おけさ笠」という。
 あの頃も笠を被っていて顔なんてよく覚えてないけど、でも踊り方があのおじさんだった。独特な足の運びと優雅な腕づかい。忘れはしない。
 年をとっておじさんよりおじいさん寄りになってたけど、変わらずに闊達《かったつ》で武術のような踊りだった。故郷に帰ってからも、やっぱりずっと踊っていたんだ。 

 まるで波だった。身体から繰り出すうねりがザブンと音を立てる。
 その海は、自分と繋がっている気がした。いつか行ってみたい、いや、帰ってみたいと思える場所。僕の中でいつしか波打っていたものがそこにあった。

 夏が来る。また盆がやって来る。どこからかふと線香の匂いが漂ってくる。
 だが、しばらくは夏祭りどころではないかもしれない。

 でも。
 ねえ、おじさん。僕たちはまだあの曲を踊っています。いつかまた行き来できる日がきたら一緒に踊りましょう。あなたの存在が僕のふるさとみたいなものだから。

 おじさんと練習した公園には、夏でも日影を作ってくれる大きな木がある。そこから今年はじめての蝉の声がした。あの日と変わらない、元気な鳴き声だ。

カフェテリア林檎

(著者)つちだなごみ


五泉駅前にある「カフェテリア林檎」には、艶っぽいママがいる。
妖艶なマダムといった感じだ。

「林檎セットの卵サンドと」
「ん……」
「ピラフとカツカレーのセットでお願いします」
「ん……」

ママの鼻から抜けるような「ん……」という声が悩ましく色っぽい。
その人は年を重ねるたび美しくなっている気がする。

「セットのドリンクは?」
「二つともコーヒーで」
「ホットでいいのね」
「はい」

銀婚式のお祝いを頂いたので「二人で食事に行こう」という話になった。
「どこ食べに行こっか」と、ウキウキしながら夫に聞いた。
肉食系の夫なので、焼き肉とかステーキとかのリクエストを想像していたけれど、即答で「林檎がいい」と言った。

「カフェテリア林檎」は、私たちの1ページ目だった
初めてそのカフェテリアに入ったのは、私たちが高校三年生の時だった。
土曜日の授業が終わり、Wデートと称してランチに行ったのが林檎だった。
男子は塚本君と土田君、女子はアヤちゃんと私。
四人はクラスメイトだったけれども、塚本君と土田君が悪友だというだけで、他の関係性はクラスメイト以外の何者でもなかった。

アヤちゃんと私はサンドイッチをシェアした。
あざと可愛く小食をアピールするわけではなく、緊張して食べられる気がまるでしなかった。
サンドイッチだったら大口開けなくてもすむし。
ドキドキして食べたので味はよく分からなかった。

食事が済んで「これから何処へ行こうか」と塚本君。
「海がいい」と土田君。
塚本君が「姉ちゃんから借りたんだ」と、白いTODAYを出してくれた。
車には初心者マークが付いていない。
同じ高校三年生だったけれど、塚本君は年が一歳上というのをその時初めて知った。
土田君はすでに知っている風だった。

小さな軽自動車に、制服姿の四人が乗り込む。
アヤちゃんと私は後部座席に座った。
阿賀野川の土手道を、海を目指してぐんぐん走る。
アスファルトの凸凹で、満員のTODAYが跳ねるたびにみんなで笑った。

塚本君はハンドルを握りながら後部座席を振り返り、話を盛り上げようとする。
そのたびに土田君が「前、前!」と塚本君をたしなめる。
土田君は後部座席の私たちと目をあまり合わせない。
タイプの違う悪友の二人だけど、いつも学校でツルんでいた。

松林を抜けると太夫浜の海が広がっていた。
十月の日本海は、もう寒そうに荒波が立っている。
波打ち際に走り出した途端、土田君がはしゃぎ出し足元の悪いテトラポッドに上った。
案の定、砕けた波から逃げられずに水を浴びた。
「土田、お前バカだなあ!」と、塚本君がお腹を抱えて笑った。
「風邪ひくよ」と、私はハンカチを渡した。

週末明けの放課後、土田君が生徒玄関で待っていた。

「一緒に帰ろう」
「うん」

約束もしていないのに、当たり前のように一緒に帰った。
幼い二人の交際のスタートは、とてもたやすいものだった。

・・・・・・・・・・

「俺らのこと『たまに来る客』って覚えてくれてるのかな」
「パパのことは覚えてると思うよ。今までお客さんで男の人ほとんどいなかったし」

そう言って、二人で様々な年代の女子会のテーブルを見渡した。

「お水のおかわりいかが?」
「あ、お願いします」

あたふたとママにコップを渡す夫が、かわいい坊やに見えた。

お会計の時にママの顔をじっと見た。
やはり綺麗な人だ。
ちょっと不自然に、ママをしばらく見つめてしまった。
ママは「ありがとうございました。気を付けてね」と笑顔で送り出してくれた。

外は小雨が降っている。
駅の駐車場に停めた車まで二人で走った。
カフェテリア林檎を後にして思う。
32年間変わらず、私の一番そばで髪を撫でてくれるこの人を大切にしたいと。

たまにはけえってこいさ

(著者)如月芳美

「たまには帰(けえ)って来いさ」
 ゴールデンウィークや夏休みが近づくと、必ず言われる。
 うん、わかってる。
 ただ、なんとなくめんどくさい。
 帰ってもすること無いし、暇だし、この無駄な時間を友達と過ごしていた方が楽しいし。
 何をしに帰るのかわかんないんだよね。
 お盆はさ、まだわかるよ。お墓参りしてご先祖様を迎えてさ。でもそれ終わったら何もすること無いじゃん? ほんと暇なんだよ。
 爺ちゃん婆ちゃんはやたらと「これも食え、あれも食え」ってかき餅とか笹団子とか勧めてくるけどさ、そんなに食えないし。食うこと以外に何もないから仕方ないんだけど。
 暇だから散歩しようにも田んぼしかない。ヘビとタヌキに遭遇するくらい。それ以前に夜はカエルがうるさくて眠れない。
 冬なんか雪が降るし、メチャクチャ寒いし。帰るのに靴を選ばないといけない。
 だけど「正月ぐれぇみんなで過ごそうてぇ。親戚みんな集まってってがんね、お前(めえ)だけ来ねすけ俺(おら)恥ずかしい(しょーしい)てぇ」って言われてしぶしぶ帰る。
 でも、こたつから一歩も出ないでみかん食ってるだけ。まあ、若いし力だけは有り余ってるから、朝一の雪かきくらいはするけどさ。

 あの頃はそんな風に思ってたんだ。あの頃はね。

 それから何年も過ぎて、結婚して、子供ができた。子供もあっという間に大きくなって、俺も頭に白いものが増えた。気づいた時には、息子も大学生になっていた。
「ねえ、父さん。僕一人暮らししてみたいんだよね。一人で生活するスキルを身につけたいんだ」
 寝耳に水というか青天の霹靂というか。コイツがそんなことを言うなんてまったく考えたこともなかった。
「ああ、そうだね。でも大学は家から通えるから、今は金を貯めた方がいいんじゃないかな」
 尤もらしい理屈をつけた。でも本音は違った。
 息子はずっと計画を立てていろいろ考えてきたんだろうが、こっちは心の準備も何もない。こないだまで小学生だったじゃないか。
 そこでやっと考えた。
 息子が一人暮らしを始めたら、いつものように他愛のない話をすることはもう無くなるんだろう。「最近どうだ」「うん、まあそこそこ」みたいな害のない話しかできない。当然だ、普段一緒にいないんだから話すことなんか何もない。
 帰省の度にわざわざ話題を準備しても、会社の話なんか畑違いの親に通じるわけがないし、友人の話なんかもっと通じない。だから話題を探すのも疲れる。
 必死に話題を探して、貴重な休みを帰省の準備に費やして、大荷物と土産を抱えて長距離を移動して、実家に帰っても話題も無く、することも無く、暇疲れして。
 息子もたまに帰省してきても、昔の俺のように「時間の無駄」と思ってしまうのかもしれない。
 そうなった時、俺はコイツをどうやってもてなすのか。やっぱり自分の親がそうだったように笹団子を蒸して「食え」って言うに違いない。

 あと何回、コイツと他愛のない会話ができるんだろう?
 あと何日、コイツと一緒にいられるんだろう?

 あの時の父もこんな気持ちで言ったんだろうか。

 漠然とそんなことを考えていると、息子がさらに付け加えた。
「僕が就職してしばらくしたら、父さん定年になるでしょ? そうしたらお婆ちゃんのところに戻るんだよね?」
「ああ、そうだな。ここにいる意味ないからな」
「じゃあ僕は新潟に帰省することになるんだね」
 墓があるからな、とはさすがに言いにくい。若い子に言ってもなぁ、俺だって墓守とかめんどくさいんだ。
「あんまり行けなかったけど、お婆ちゃんちのお米って凄い美味しいよね。どうなってんだろうね、あれ。ユウガオの味噌汁とか、こっちじゃ食べられないものがいっぱいあってさ」
 そうか。俺にとって珍しくもなんともないものが、コイツにはグルメだったんだ。ユウガオなんかあっち行けばゴロゴロあるのに。
「あとなんだっけ、イタリアンだっけ? あれって何がどうイタリアンなんだかさっぱりわかんないけど無駄に美味しいよね」
「そんなもんいつ食ったかな?」
「福浦八景だっけ? ナントカ流れだっけ? なんか海行った帰り。佐渡が見えたとこ」
 ああ、笹川流れか。
「海、綺麗だよね。星もいっぱい見えるし」
 そういえばそうだよな。なんのかんの言って、いいとこだったよな。
 海も、空も、山も、全てが広大だった。
「まだまだ先だけど、長い休みの度に帰って来いよ。ユウガオの育て方、婆ちゃんから聞いとくから」
「そんな明日にでも定年になるみたいな事言わないでよ、まだあと三年も大学費用かかるんだからさ」
 スマホ片手に自室に戻って行く後姿を眺めながら、俺は一人呟いた。
「今年は帰るかな……婆ちゃんの笹団子食いに」

プロポーズ

(著者)海人


「永遠の愛なんて、ないんだよ。きっと」

 夏の日。君は僕に背を向けたまま、そう言った。後ろ髪が潮風に揺れる。穏やかな波の音と海鳥の鳴き声だけが鼓膜に届く。
 二十数年間生きてきた中で初めて、拙いながらもプロポーズをした時の、君の返事。
それは僕にとっては得体の知れない、捉えどころのないものだった。

 君はそれきり何も言葉にしない。このまま振り返ってもらえないような気さえした。
 ただ、水平線に夕陽が沈んでいくのを静かに見つめている。一世一代のプロポーズよりも、毎日繰り返される黄昏の方が心地よいものなのだろうか。
 
 愛してる。誰しも簡単に口にできる言葉。
 いざ、その愛とやらを真剣に考えてみればみるほど、なんて途方もない存在を語ろうとしていたのか、愕然とする。
「ねえ。何か言ったら?」
 さっと振り返り、膨れた顔が言う。僕はどこまで本気なのか、さっぱり分からなかった。
「君こそ、何か言ったらどうなんだ」
 至極真っ当なことを言っているのは僕の方なのだと、その時ばかりは確信した。

 思えば最初の出会いも、あの時と同じ、海を一望できる無人駅だった。
 青海川と名乗るその駅に、僕は居眠りしたまま運ばれていた。スマートフォンの時刻表から次の電車が到着する時間を教えられ、ため息をつく。眠っている時間よりも長い時間、電車を待つのかと空に問いかけてみる。その幼い中身にまた、どうしようもなくため息が出た。すると、向かいのプラットホームから同じようなため息が聞こえる。線路を挟んで目が合う。それが初めて見た君の姿だった。

 君と話していると、時間の感覚さえ狂ってしまう。あっという間に電車が来てしまい、また離れ離れになりそうになる僕らを繋げてくれたのは、今なお著しい成長を遂げる文明の利器だった。
 メールの文章だけで、僕たちは一日百通近くもやり取りをした。そんなに話すことがあったのかと問われれば、恐らくあったのだろう。海まで写真を撮りに来たものの、乗車予定だった電車を逃した君と、暇を持て余していた僕。種類は違えど、互いに誰かを欲していた。無限に思える時間の波に何もかも押しやられてしまわぬように。

「今の若者は愛の告白もメールなんだよ。そんな人間に愛は語れないよ」
「君だって今の若者だろ」とツッコミを入れつつ、その瞬間から君への告白はあの無人駅でしようと決めていた。

 病室の窓から見えるのは、やはり海だった。

「いつか言っていただろう。愛は永遠じゃないって」
 あの夏の日から何十回同じ季節が巡ったのか。少なくとも五十回は堅いなと思えば、咳が出る。大した稼ぎもないのに、君は長年一緒にいてくれた。「何か言いました?」と言いながら、ポケットナイフを器用に駆使し林檎をむく君は、とぼけた顔をこちらに向けている。
 
 最近知った、ある事実がある。君は若い時から耳が悪かった。
 この先そんなに長くないと医者に宣告されてから、そう言われた。僕にすれば二重に告白されたようなものだったが、君の中では僕がこうなるまで言うつもりはなかったのかもしれない。生活に支障をきたすほどではないが、少し大きめの声でないと聞こえないそうだ。

 あの時の、僕のプロポーズの言葉は、君の耳に届いていなかった。
 今さらながら、そんなことに気がついた。今では大した意味さえ持たない気もする。

 当時、あのプロポーズですっかり自信を喪失したのか、実をいうと君に振られたのだとさえ思っていた。
 でも、僕たちの関係は続いていった。それに、大学で哲学を専攻していた君の話は飽きなかった。現実ばかり見て嫌気が差すたび、僕は君の話す言葉を思い出していた。
「世の中を変えたいわけじゃないの。普段の生活、世界の情勢、人々が何に喜んで何に苦しんでいるのか。どんなに経済的に豊かになっても、心に貧しさだけは抱えたくないから」

 ここから見える水平線は変わることなく、僕たちに寄り添っている。
 僕は君に与えられてばかりだった。だから、せめて君に想いを伝えたかったけど、結局その言葉さえ、波の狭間に消えていった。
 
「もし生まれ変わっても、君はきっと、あの駅で電車を逃すよ」
 頭を過るのは、あの景色だった。五十年も経っているのに、君の内面は何一つ老いていない。そんな気さえした。
「あなたも、また寝過ごしてあの駅に運ばれてくるの。必ず」
「必ず、ときたか」
 それきり声を出すことができない。耳が聞こえづらい君のために大きな声で話そうとすればするほど、喉に力が入らない。

「少し横になったら」優しく君は毛布を掛けてくれる。
 ゆっくり目を瞑る。僕たちは若い頃のように手を繋ぎ温かさを感じ合う。

「好きよ」
「おいおい。先を越さないでおくれ。僕にプロポーズさせてくれよ」
 耳元で聞こえる声に心の声が応える。あの日と同じ波の音と海鳥の鳴き声は、確かに僕の鼓膜を揺らしている。

タイムトラベル

(著者)竹之内まつ子


 バスから降りた停留所は八木前。少し先
に有名な八木ヶ鼻の勇姿がみえる。

 私たちは高校に入って初めての夏休みに
クラスのみんなでキャンプファイヤーをし
ようということになった。目的地は下田の
小学校が閉校した跡地、校舎を宿泊施設と
して利用できる山荘だ。
 
 東三条駅からバスに揺られること40分。
五十嵐川沿いをバスはくねくね曲がりなが
ら走っていく。1日に数本しかない路線バ
スには他の乗客の方も多く乗っていた。
 
 迷惑にならないように、小さな声で
おしゃべりをしたりしている子もいたけど、
私は話に入らず耳を傾けながら外の景色を
眺めていた。川沿いの道は山の緑も濃く
流れる川もゆるやかでほっとする風景だ。
 
バスから降りたら徒歩で山荘へと向かう。

「ねぇ」
と、長野さん。彼女はラジカセを持参して
いた。 
「一緒に歌おうよ!」
彼女はアニメ好きで、アニメの曲のカセット
テープをかけてくれた。私も含めてアニメ好
きの子たちが合唱を始める。
 しばらく雨の降らない砂利道はほこりっぽ
かった。歌声に負けんばかりにセミの鳴き声
も四方八方から降り注ぐ。

「暑いなぁ~まだ~」
暑さと疲れから誰かが言った。その脇を1台の
セダンが追い越していった。
「あ~松井先生、ずる~い」
それは担任の松井先生だ。

 1時間も経っただろうか、汗だくになってやっ
と山荘に着いた。それぞれの部屋に荷物を置い
て山荘の方が用意してくれた夕飯のカレーを頂
いたら、お楽しみのキャンプファイヤー。
 初めての体験。パチパチと木のはぜる音に炎
の明りがみんなの顔を照らしている。草むらで
鳴く虫たちの声。

「あ~いいね~」
民家もなく木々の切れ間からは
キラキラした星がよく見える。
いつの間にか、仲のいいグループに分かれて
山の夜を楽しんでいた。

あれから34年。私たちは60才になる。秋には
クラス会が決まっている。別々の道を歩んでき
て、また一緒にすごせる時間。

そう、私たちはあの夏の日に…一緒にすごした
夏の夜にタイムスリップするのだ。

美味しい珈琲は美味しい

(著者)モグ


「内野君」
 息をのんだ。微かに震えるその声が、紛れもなく穂村の声だったから。
「なんでこんな所にいるんだよ」
 振り返り、沈黙の後にそう言う。
「明日出発なの」
 やすらぎ堤アートフェスタのすぐ後、穂村の東京行きが決まった。写真コンテスト部門最優秀賞に選ばれた穂村には沢山の声がかかり、東京や神奈川での個展が瞬く間に決まっていったらしい。その頃から俺達はろくに会話をしていなかったものだから、そんな話は全て共通の友人から聞いた。
「そっか。頑張ってこいよ」
「…うん」
 穂村は黙ってしまった。何か言おうとし、しかし言葉にはならず困っている。なんとなくあの日の穂村の姿を思い出す。レンタカーで弥彦山スカイラインを走る車内、真新しいカメラを抱え「早く撮りたいな」「撮影会楽しみだね」と何度も何度も口にしていたが、いざ山頂公園に着き撮影が始まるとカメラの扱いが全くわかっておらず、そう今のような顔になっていたな。それで堪らず「まずは撮り方をイチから教えるな」と言ったんだよ。
「時間あるなら少しウチに寄っていけよ」
「いいの?」
 穂村が笑顔になる。
「あぁ。珈琲くらいは出してやるからよ。」
 知っているか穂村、俺はカメラと同じように拘っているものがもう1つある。それが珈琲だ。

「へぇ…こんな家に住んでるんだ。なんか意外」
「どういう意味だよ?」
「怒った?ごめん。でも、そんなダサいスウェットとサンダル、それに寝癖のままでコンビニ行ける人の家がこんなオシャレだなんて、そりゃ意外に思うよ」
 いきなりの言葉に驚き、俺は両手で頭を抑える。
「寝癖、ちゃんと直したはずなのに…」
「そこ?完全にスウェットのダサさの方がヒドいよ?」
 そんなわけがないだろう、洗面所へ駆け込んで寝癖を治す。後頭部か、盲点だった。

 部屋に戻り、何事も無かったかのように湯を沸かす。
「豆を挽くところからやるの?」
「あぁ」
 珈琲豆を20g量りハンドミルに入れ、ゆっくりと挽く。
「すごい。挽いてるだけでもうこんなにいい香り」
 そうなんだよ、めちゃくちゃ良い香りなんだよ。
「だろ?エチオピアのブクな。」
「ブク?」
「まぁわからなくていいんだよ。とりあえずブクという俺が好きな豆を使って珈琲を淹れるから、穂村はただ飲んでくれりゃいい」
 わからなくていいけどさ、わかってくれてもいいんだ。まぁ教える必要もないけども。
「なんかいいね」
「お、やっぱりブクがどんな豆なのか語ってやろうか?」
「んー、めんどくさそうだし遠慮しておくね」
 人の話を面倒臭そうと避ける、そういうところが穂村にはある。あまり良くないと俺は思う。

「どうぞ」
 小さなテーブルの上、置きっぱなしのカメラを隅に寄せ、穂村の前に珈琲を差し出す。
「ありがとう。いただきます」
穂村はコルクのコースターからカップを手に取り、少し畏まって口に運ぶ。
「なにこれ…」
「なっ」
 言いたい事はわかる。そうだよな、そうなんだよな。
「今まで飲んだ事の無い味。これが珈琲なんだ。美味しい、すごく美味しい。こんなに美味しい珈琲初めて飲んだ。なんか上手く言えないけれど一口飲んだだけで…あぁ幸せ、って感じた」
 幸せと口にする穂村の声に、ずっと俺の中にあった嫉妬心、無駄な強がりが消えてゆく気がした。
「…ブクってさ、穂村の写真に似てるんだよ」
「何それ」
「みんなが知ってる珈琲じゃないけどさ、一度出会ってしまった者は皆、心奪われる。口にした瞬間、幸せを感じさせてくれる。穂村は人の笑顔を写すのが上手いからな。それも風景やシチュエーションが生み出す笑顔、その時その場所が感情を動かして生んだ笑顔を写すのが。だから撮られた方も幸せを感じる、写真を見た人も幸せな気持ちになる」
「褒めすぎだよ」
「でも幸せを感じた時、ダサい話だけどさ、同時に俺は自分の小ささも感じさせられてしまうんだよ。苦しくなるんだよ」
 穂村は真っ直ぐに俺を見ている。
「アートフェスタの時だって苦しくなった。もっと言うなら初めてカメラ教えた時に撮ったやつだって俺は苦しくなった」
 穂村が何か言おうとしたが俺は続ける。
「だけどさ。美味しい珈琲は美味しい」
「え?」
「どんなに醜く、妬み、拗ねて逃げたって、結局辿り着くんだよ。美味しい珈琲は美味しいんだってところに」
「はぁ…」
 戸惑う穂村に構わず俺はまだ続ける。
「美味しい珈琲は美味しいし、素晴らしい写真は素晴らしいし、素晴らしい写真を撮れるヤツは素晴らしいんだよ。穂村の写真はすごいんだよ。大丈夫、やれる。東京でもやっていける。俺はお前の写真が好きだ」
 今度は間をとる事もなく穂村が言う。
「私も内野君の写真が好き。内野君の写真が私の世界を広げてくれたの」
「俺もまだまだ成長して胸を張れる写真家になるから」
 自分の言葉に俺は何度も小さく頷き「そうなるから」と胸の中で繰り返した。

 静かな時間が続く。お互い思いついたまま話し、深く考えもせず返事をする。そしてまた沈黙の繰り返し。東京のどこへ住む事にした?千駄木ってとこ。自炊できるのか?目玉焼きは得意だよ。話題なんてもう何でも良かったんだ。

「なんだか今日は初めての撮影会の日の事ばかり思い出すの」
「実は俺も」
「あの時撮影会に誘ってもらえなかったら今の私はないんだよね」
 あのな穂村、あの時誘ったのはデートだ。話が妙な感じになり穂村が撮影会と言い始め、結局本当にただの撮影会になってしまったのだけど。

「『美味しい珈琲は美味しい』あたりから、すごく馬鹿っぽかったよね」
 思い出して穂村が吹き出すように言う。
「それは…珈琲がこうして目の前にあるからさ…仕方ないだろ」
「照れてる」
「違うって」
 柄でもなくアツく言ってしまった自覚があり、恥ずかしさが込み上げる。
「顔、赤くなってるよ」
「うるせえな。なってねえから。…赤くない顔は赤くない」
「日本語おかしいよ」
「おかしくない日本語はおかしくない」
「日本語が。」
 目を細めつつ怪訝な顔を作るも口元はニヤけたまま穂村が俺の顔を覗き込む。俺は顔を逸らし更に続ける。
「あれ…なんか…腹痛が痛い」
「バカですね」
「バカにされても負けない。不屈の精神。腹痛だけに」
「バカです」
 逸らした顔を穂村へと戻し、今度は俺が覗き込みながら言う。
「でもよ、少しは労ってくれよ。昨日酒呑みすぎて頭痛も痛いんだから」
「バーカ」
 そしてまた珈琲を口にした。やっぱり美味しい。きっと多分、そうだよな、今日のこの珈琲が今までで1番美味しい。カップの中で揺れる珈琲を眺めながらそんなふうに思った。
「内野君」
 その声で穂村へ目をやるとシャッター音。手には俺のカメラが握られている。少し驚いたがすぐに、自分が笑顔になっていたのだと気付く。
「美味しい珈琲を一緒に飲めて嬉しかったからね、この瞬間を残したかったの。現像したら送ってね」
 カップ片手に笑う俺。きっと良い表情で写っているんだろうなと想像したら、消えたはずの嫉妬心がまた顔を出した。胸が苦しくなって俺は小さく苦笑いをした。

小千谷縮

(著者)トシツグ


 カタン、キィ。シュ、コトン。
 カタン、キィ。シュ、コトン。

 ゆらゆらと揺れる蝋燭の頼りない灯(ともしび)の傍らで、夜は一層、鳴りを潜めた。
 私が動かなければ、きっと耳が痛くなる程、静かな夜。
 飴色のいざり機(ばた)。踏み込みの動きに合わせ、苧麻(ちょま)の糸が心地良い音を縫い続ける。
 切れぬように解(ほつ)れぬように。
 繰(く)る繰(く)ると絡まる糸を止め、はみ出た箇所を整える。
 目に、じんと熱が籠もる。
 やれ、一息、吐くか。
 縁側には、母さんが煙管と熱燗を用意してくれていた。
 気付くのが遅くて、随分ぬるくなってしまっているけれど。
 湿りを帯びた夜気に顔を上げると、
 雲の縁を白銀に照らして、月が見下ろしていた。
 何とも、贅沢な眺めだ。
 おまけに草木も眠る時刻ともなれば、邪魔する音も無いもので。
 良い夜だ、と猪口をつまむ。
 注いだ液体は淡く、月の色を映したようだ。
 口の中にとろりと流れ込むと、甘味がふわりと香った。じわり、身体が熱くなる。
 土地で採れた米の、土地の酒。
 あぁ、やはり身体に合ったものは良い。
 種火がぼうと仄かに光る。重い空気に、ほんのり口が暖かい。こんな時間が私は好きだ。
 霞む紫煙の漂う先を目で追いかける。
 どこまでも伸びていく雲の出来損ないみたいなそれは、障子のあたりで溶けていった。
 その奥にある、いざり機。
 昨年旅立った祖母の姿が今も、そこに在るように思える。
「おまんもこの音好きかえ?」
 まだ幼かった私は、祖母といざり機の奏でる音が好きだった。
「婆ちゃんの母さんも、そのまた母さんも、こうやって反物織ってきたんよ。おまんもじきに母さんに教えてもらいな」
 灰吹(はいふき)に、火種を落とし立ち上がる。
 もう少し、やろう。

 改めて向き合うと、やはり、美しい。
 この子は良い反物になる。いや、する。
 したいのだ、私が。
 渡された束は柔らかく、しなやかだった。
 けれども、いつだって渡すのは、細かい傷で覆われた、硬く優しい手。
 たわやかに育った二番芽を青苧(あおそ)にするまで。
 苧績(おう)み、絣(かすり)くびり、染めに、ほどき。
 どれほど手間をかけたことだろう。
 私なんかが、無駄にできよう筈がない。
 だってこんなに糸(いと)愛(お)しい。
 この子を着る誰かがそれを知ることはないかもしれない。けれど。
 優しい人から大切な人へ。
「おめでとう」とか、
「ありがとう」とか、
「愛しているよ」とか、
 そういう気持ちと一緒に、この子が渡される。
 考えるだけで、満たされてしまうよ。
 急(せ)くわけではないけれど、どうにも、抑えようがない。
 その時のために、精一杯の美しさを、この子に持たせてあげたいんだ。

 ピンと張られた経糸(たていと)に緯糸(よこいと)を渡す。

 カタン、キィ。シュ、コトン。
 カタン、キィ。シュ、コトン。

 きっとこの子もあと少しすれば冷たい雪の上に広がって、この土地の冬を彩る。
 細かいシボを刻みながら、雪のように肌に馴染む、
 それはそれは、見事な縮(ちぢみ)になる。

 待ち遠しくて、また、杼(ひ)を滑らせる。


(著者)トシツグ