フッと彷徨った街の向こうから

ベッカム隊長(著者)

 背筋を伸ばして優先シートに座った。
 鍼灸院からの帰り、小田急線はまだ午後3時を過ぎたあたりだから空いていた。
 高架になった車窓に広がる風景を見るともなしに観ていると眠くなって来た。
「・・・」
 そろそろまた長い地下へ入って行くんだな、そんなことを思いながら目を閉じた。
『代々木上原ァ~代々木上原ァ~・・・』
 なんだ下北沢を過ぎてしまったのか・・・。
 降りなくてもいいのに、なんとなくホームに出て、そのまま改札に向かった。
 Suicaをかざして高架下に出て、左に曲がり、幸福書房に入ってみた。
 店主の姿が見える。兄弟で経営しているのかよく似た二人がレジにいる。グルッと狭い店内を回って表の雑誌コーナーへ行き、何気なくぴあの最新号を手にした。
 その時、
「ぴあ・・・!?」
と思った。
 ぴあは休刊しているんじゃなかったっけ!?
 奧付けを見た。マジか・・・。
 1988年にオレはいる。
 そう言えば、幸福書房が閉店した、というトピックス記事をwebニュースでつい最近読んで、感慨に耽ったことが蘇って来た。
 ぼくは高架の下を潜って、反対側に行き、三菱銀行の前を丸正方面にまっすぐ歩いた。東京三菱UFJではなかった。丸正の入り口周辺には所狭しと商品が並べられている。懐かしい光景だ。そうして小径に入って、かつて住んでいたアパートの方に行く。築40年の佇まい。ちゃんと建っていることにうれしくなる。入り口の扉を開けてすぐの階段を上がり、左から2番目の部屋の前に立った。中に人の気配がする。
「燐ちゃん」
とぼくはあたり前のように呼び掛けた。
 鍵が外れる音がすると扉がそっと開いて、そこから女の子が顔を出した。
「買ってきたよ」
 ぼくは笑顔で、部屋に入った。
 テレクラで知り合った女性だった。
 昨日、新潟からやって来たのだ。
 ここでしばらく一緒に暮らすことになったのだ。そうして3ヶ月、ぼくと燐子は四畳半の部屋で一緒に生活した。
「必ず戻って来るから」
 ぼくは、上野駅まで彼女を送った。
 地下の新幹線のホームに立ち、ドアが閉まる前に手を握った冷たさが、すごく印象に残った。
 上野駅の地上に出て、何気なくそのまま上野東京ラインのホームに出た。
 上野東京ライン・・・!?スマホを取り出し、妻からのLineを確認する。
〝鍼、効いた!?〟とある。
 いつの間にか〝今〟の世界に戻っていた。
 宇都宮線に揺られながら、ぼんやりと暗い車窓を眺めていると遠い記憶がいくつか蘇えって来て、ぼくの気持ちがザワついた。
 彼女と上野で別れてから5年目くらいだった頃、ぼくはまた電話をかけ、今こんなことをやっているのだけど・・・というような話をして、エロビデオの出演交渉をしてみた。
いいよ、別に顔写ったってどうってことないよ・・・と言ってくれ、関山駅で待ち合わせることになった。
 燕温泉というところで夕刻から撮影した。鄙びた温泉宿でランデブーをする女性・・・。
 そんな設定で、いかがわしいことを繰り広げて行くのだ。なかなか堂に入った感じで撮影は進んだ。黄金の湯で寛ぐ燐子。その向こうに見える惣滝。その勢いに唆されるように、滝への道を浴衣姿で向かう燐子。滝壺に入って行くと、そこにとんだ男が現れて・・・。
 とんだ男をぼくが演じた。作品はヒットしてビデオもかなり売り上げた。
 あれから30年余りが過ぎた。
・・・・・・
 ぼくは今、旧街道歩きに凝っていて、北国街道を北に向かって、その日は新井宿に到着した。
 関山を通過するあたりから、燐子のことが脳裏に甦っていた。
 アドレス帳はずっと同じのを持ち歩いている。なんとなくダイヤルしてみた。
「あのう、燐子ちゃん!?」
「ハイ・・・」
 声が不審そうに響いた。ぼくは名乗り、いきさつを話した。電話はガチャリと切られてしまった。すぐリダイヤルしてみた。
「お客様がおかけになった電話番号は、現在使われておりません・・・」
という無機質な声が流れてきた。
 してはいけないひとり遊びをしてしまったような気がして、滅入った。
 翌日、高田まで歩き、かつて彼女が勤めていたという大和デパートの跡地を見上げながらベンチに座って、もう一度かけてみた。
 コール音が響いた。
「!」
 気が付くと、惣滝の滝壺に浮かんで激しくぼくに手を振っている燐子の眩しい笑顔がレンズの中で弾けていた。彼女と一緒にこの街で暮らしていけたら!?・・・ここからまた人生をリプレイするように生き直してみたら・・・!?そんなことを真剣に考えながら必死にカメラを廻したしたかつてのビデオ撮影のことを思い浮かべていた。
 コール音が途切れた。
「お客様がおかけになった電話番号は・・・」
 もうどこにも誰にも繋がらなくなってしまっているのだな・・・。
 かつての気まぐれで出鱈目な日々も、あの夕立のような瞬間も、もうシャボン玉みたいに消えてしまっているのだな・・・。
 ぼくはベンチに佇んだまま、ぼんやりと風に吹かれていた。適当な番号を押してみたら、コール音が響き出した。
「もしもし!?」
「!」
 燐子であるわけでもないのに、
「燐子!?」
と訊ねていた。
 すると、
「久しぶり!」
 まさか・・・。
 屈託のない笑いがぼくの耳元に響いた。
 溢れる思いが身体の底から込み上げて来た。
「ねぇ、聴こえてる??あたしあれからねぇ」
 ぼくはその声に耳をすました。

イエスタディをあなたに

ほんまけいこ(著者)

「お母さん、驚いたわ!お母さんが歌を歌うなんて・・・しかもなんと!ビートルズ!」
「ばぁば!すっごくじょうじゅだった!」
娘の悌子と孫の礼の言葉に松枝はほほを赤く染めた。
 10月半ばを過ぎた秋晴れの日曜日。今日は二日に渡る中央公民館の文化祭の最終日。洋楽サークルに所属していた松枝は、140席もあるホールで初めて独唱を披露したのだ。
「お父さんがね・・・歌ってくれって」「え!?」
悌子の笑顔が固まった。それもそのはず。松枝の夫で悌子の父である信義は三か月前に肝臓がんでこの世を去っていた。
「お父さん、歌あまり好きでなかったよね・・・特に洋楽は」
「そうね、私もそう思ってたけど本当は好きだったのかも・・・」

 結婚したてのある日、松枝は居間の掃除をしていた。棚の上のラジカセからはビートルズのイエスタディが流れ、松枝は曲に合わせて一緒に歌っていた。すると、突然音がぷっつり途絶えた。驚いて振り向くと引き抜いた電気コードを手にして立っている夫信義がいた。
「あ、おかえりなさい・・・」
「おかえりなさいじゃない、ビートルズだかビールスだか知らんが、こんな歌聞いているから俺がかえって来たのも分からないんだ」
 当時は洋楽ブーム。松枝は高校時代、合唱部に所属していて、ビートルズのイエスタディは松枝のお気に入りの歌だった。
 唖然としている松枝にプイっと背中を向けて信義は居間から出て行った。
 その日以来松枝は洋楽を聞くことも歌うこともやめてしまった。そして長い年月が過ぎた。子供が生まれ、笑ったり、喧嘩したり。それなりに充実した人生だった。
 そして子供が巣立ち、定年を迎える頃信義が病魔に襲われた。一度は回復したものの数年後に再発し、長くつらい闘病生活が始まった。
 県立がんセンターに何度目かの入院をしたある日、病室でぼんやり窓の外を眺めていると松枝は背中に信義の視線を感じた。
「お前は俺には過ぎた女房だった・・・」
「なんですか、唐突に。TVドラマのセリフのようなこと言って」
内心どきっとした松枝だったが、軽く受け流した。
「俺はいつも心配だった。お前が幸せなのかどうか。お前ならもっと立派な男と結婚できたはずだ・・・」
松枝はことばに詰まったが笑顔を作って明るい口調で切り替えした。
「あら、ありがとうございます」
しばらく沈黙が続いた。
「おれはお前に悪いことをしたと思っている・・・」「何を・・・」
「俺はお前から音楽を取り上げた」
松枝ははっとした。電気コードを手にして立っていた信義の姿がよみがえった。
「あの時の自分の気持ちはよく分からない・・・何であんなことをしたのか・・・」
「もういいですよ、やめてください。たかが歌ですよ。とっくに忘れていました」
「あの頃の俺は、いつも不安に苛まれていた。お前は利発でだれにでも好かれるのに、俺は風采のあがらない平凡な男だ。お前はそのうち俺に愛想を尽かすのではないか・・・お前の歌声は俺の中の劣等感を掻き立てた。」
「もう辞めてくださいな。とっくに忘れてました」
「『イエスタディ』俺でも知っている。いい曲だ。お前の歌声は天使のようだった」
松枝の心の中は信義への愛しさでいっぱいになっていた。
「ずっと・・・ずっと・・・後悔していた。おまえから歌をうばったことを。」
松枝は信義の骨の浮き出た手を優しく握り、二人は暫く見つめ合った。
「イエスタディ・・・歌ってくれるか」
三十五年間歌っていない歌だった。だが、若い頃歌いこみ、脳の奥深くに刻み込まれた歌は忘れられてはいなかった。松枝は囁くように歌い始めた。信義は微笑みながら目を閉じた。

「さあ、今日はおばあちゃんのおごりだよ!礼ちゃん、何でも好きなもの食べていいよ!」「やったー!」
人は忘れない限り心の中で生き続ける。昨日を思い返すのも悪くない。イエスタディを歌う時、喜びや悲しみ、色んな思いの向こうに信義と歩んだ私のささやかな人生がいつでも思い出されるのだ。

コーヒードリーム

ほんまけいこ(著者)

 ガラスの窓に激しく雨が打ちつけて、うす暗い店内には芳しい香りが漂っている。ブルーマウンテンの香りが近づき、感じのいい微笑を浮かべてウエイトレスがヘレンドのコーヒーカップ「ウイーンの春」を目の前に置いていった。
 いつからあるのか分からないほど昔からある古町のレトロな喫茶店。薄暗い店内、私の他は2組のカップルとにぎやかな奥様グループがボックス席に座っていて、品のいい年輩の紳士がカウンター席で新聞を読んでいる。
 カウンターの向こうには数えきれないほど多くのカップが並んでいる。寡黙なマスターはもはや年齢を超越した存在で、今も昔も静かにカウンターを挟んだ別世界にいる。
今でも彼はブラジルが好きなのだろうか?そう、彼はブラジルがベースのブレンド。私はたいていはキリマンジャロ。懐が暖かい時だけブルーマウンテン。あの頃は学生だからお金がなくてブルマンなんてめったに飲めなかった。この店でブルマンを頼むとこの小花模様の器で出てくる。
バイトのお給料が出たときだけ注文したんだっけ。精一杯の贅沢だった。
『ブルマンは貴族の香り。ブラジルは労働者の香り。君は月に一回だけセレブになるんだよね。』
『なに、それ。すごい偏見じゃない』
『月一セレブもいいね、ってこと』
雨足が激しくなった。窓の外に行き交う人が溶けていくみたい。それと同時に苦い思い出がよみがえってくる。
『後悔しないなんて言えるわけないだろ』君は私を見ないでそう言った。見たことないくらい悲しい顔をしていた。一体何で別れちゃったんだろう。卒業して彼は新潟市内の企業に就職、私は地元長岡の製菓会社の工場勤務、会う機会が減り、すれ違いが多くなった。お互い疑心暗鬼になっちゃって。二人とも疲れてしまった。
 あれから5年も経った。実は2回ほど恋もした。私のコーヒーのこだわりを笑う人もいたし、全く興味のない人もいた。でも香りやら味やらをなんだかんだと君みたいに笑って話せる人はいなかった。
『月一セレブの君と万年労働者のぼく』君はそう言って笑ったね。何がおかしいのかわからなけいど私も笑った。
 何で今頃手紙を出したんだろう。携帯電話の番号もメアドも変わってたんだから手紙出すよりなかった。訪ねていく勇気はなかった。彼が今でもあのアパートにいるかどうか半信半疑だったのに。手紙は戻ってこなかった。
「私のこと覚えていたら、10月8日2時に『ウイーンの春』に来てください。」
ばかだよね。何でいまさら。でも、なんて書けばいいか分からなかった。多分彼には彼女がいるだろう。まさかとは思うけど結婚しているかもしれない。いいんだ。ただ、ここでもう一度彼とコーヒーを飲みたかっただけ。休日に呼び出すなんて、予定あるに決まってるじゃん。彼女とデートの約束があるかもしれないし。来れないなら来れないでいいんだ。自分への言い訳。それでも来てくれるなら・・・時計はもうすぐ2時。私ってほんとばか。来るはずないじゃない。それでも心のどこかで激しく期待してる。その反面、来たらどうしようとも思っている。曇りガラスの向こうはまるで私の心を映し出しているみたいに激しい雨が降っている。天気も最悪。
 2時。胸の鼓動が激しく打っている。外の景色から目を離し私は目を瞑った。ブルーマウンテンの香りが鼻から体中に広がっていく。今、雨の中早足で駆けてくるあなたの姿を思い描いている。ドアがギーと開く音がする。まさかね。ブルマンの香りに全身を委ねる。
足音が聞こえる。その足音は私の前で止まる。そっと目を開けると照れたような笑顔を浮かべた君がいる。とまどうほど大人びて見える。視線がテーブルの上の私のカップに移動する。
 やっぱブルマン?君の口がそうつぶやくのが聞こえた。

会えますチケット

(著者)せとやまゆう

 夕方の長岡駅。レストランフロアから、いい香りが漂ってくる。和食、洋食、中華・・・。何でも揃っている。改札の前では、たくさんの人が行き交う。若いカップルは、立ち止まったまま見つめ合っている。なかなか、つないだ手を離せない。そこへ、タキシード姿の男が声をかけた。
「どうぞ、これをお使いください」
「何ですか?それは」
「特別なチケット、二人分です。枕元に置いて寝れば、夢の中で会えますよ」
「でも、高いのでしょう?」
「いいえ、無料で差しあげます。その代わり、感想を聞かせてください。明日も、ここに来ますから」

 タキシード男はチケットを渡すと、足早に消えていった。その夜、二人はそれを使ってみた。すると、本当に夢の中で会えるのだった。しかし、会話することもなく、同じ空間に存在しているだけだった。

 次の日、若い男は言った。
「夢で会えたけど、全く楽しくなかったです。話すことさえ、できなかった」
「それなら、このチケットはいかがでしょう。夢の中でも、思い通りに行動できますよ。ただし、これは有料となりますが・・・」

地球になじんだ頃

(著者)せとやまゆう

 今日は子どもの誕生日。今は夕食の時間。食卓にはのっぺ、しょうゆおこわ、番屋汁、バースデーケーキが並んでいる。子どもはプレゼントのおもちゃを持って、はしゃいでいる。それを見ながら、夫婦は微笑みを浮かべた。家族で過ごす、幸せなひととき。
 
 しょうゆおこわを口に運んだ時だった。急に、父親は思い出した。スパイとして、地球に送り込まれていたことを・・・。慌てて食事を切り上げ、自分の部屋にこもった。その直後、故郷の惑星から連絡がきた。《地球の情報をよこせ》と言っている。そんなことをしたら、地球は侵略されてしまうだろう。大切な妻と子どもを守りたい。惑星からの催促は続いている。何か言わなければ・・・。
「うわー、殺される。助けてくれー!」
 苦しまぎれに、父親は言った。

 その後も、惑星からはスパイが送り込まれたが、みんな連絡が途絶えてしまう。地球は物騒なところだという噂が広まり、侵略計画は中止された。

 スパイには催眠がかけられていた。地球になじんだ頃、任務を思い出すように・・・。しかし、任務を遂行する者は一人もいなかった。

二年後に気づく

(著者)せとやまゆう

 急に、男は気づいた。その女のことが好きだと・・・。まるで魔法にかかったかのような、不思議な感覚。彼女とは、会えなくなって二年たつ。以前勤めていた、会社の同僚だった。たまたま、同じタイミングで転職。それぞれ、違う町に移住し、再出発した。別に、仲が良かったわけではない。言葉を交わすことはあまりなかったし、連絡先も知らなかった。しかし、男にとっては気になる存在。まず、気持ちの良いあいさつをする人だった。そして、どんなに仕事が忙しくても、笑顔を絶やさない姿。とても輝いて見えた。

 それにしても、なぜ今なのだろう。離れたからこそ、気づく恋心。それなら、会えなくなってすぐのタイミングでも、いいはずだが・・・。これまで、新しい環境に慣れるのに精一杯だったのかもしれない。あるいは、二年という時間のなかで、脳が彼女のイメージを美化し続けていたのかもしれない。まあ、一時的なものだろう。そう思って、男はあまり気にしなかった。

 しかし、気持ちが消えることはなかった。一週間たっても、一ヵ月たっても、三ヵ月たっても・・・。むしろ、気持ちは高まるばかり。連絡先を知らないから、連絡をとることができない。住んでいる町の名は聞いていたが、土地勘がない。そもそも、探して訪ねて行ったところで、迷惑がられるだけだろう。どうすることもできない。彼女とつながる手段が、一つもないのだ。
「俺のことなんて、どうせ覚えていないだろうな。興味なさそうだったし」
 恋人がいて、楽しく過ごしていることだろう。
「俺も彼女つくるか。まず、好きな人を見つけないと・・・」
 
 ちょうど、その頃。その女が乗った電車が、越後湯沢駅に到着した。?き酒マシーンの前には、今日もたくさんの人が集まっている。

流れのままに在った日々

(著者)レバンタール

 その人が新潟と聞いてまず思い浮かべるのは、「長岡まつり大花火大会」でもなければ「マリンピア日本海」でもなく、方々を畑に囲まれた一軒の家だ。その人は、その家の正確な住所もアクセス方法も知らない。身を委ね、運ばれて、長く短い期間をそこで過ごしたことがある。身を委ね、運ばれて?一体どんな体験だ、と思う人も多いだろう。しかしざっくばらんにいうとその表現が正しく、当の本人は何が起きているかわからないまま、夢の中にいたような日々の記憶なのだ。

 その人はその年、東日本大震災を福島の仕事場で迎えた。新卒入社2年目で、ようやく仕事場の環境に身体も心も慣れた頃だった。まさかそのまま、職場とも自宅ともお別れになるとは想像もし得ないうちに、翌日職場の上司の的確な判断と指示のもと、相乗りして避難をした。トランクルームに荷物のように座るのは、あれが最初で最後になるだろう。グループ会社のある新潟で、普段住まいしていない持ち家を提供してくれた人がいて、希望者はそちらで仮住まいさせてもらえることになった。19歳から60代までの15人ほどでの突然のシェアハウス生活。

 その人は、ただ、そこに居た。地域の人が野菜やお米、お下がりで良かったらと衣類も提供してくれた。恰幅の良い同僚のおじさんがそこから選んだのは、たぶん中学生サイズのトレーナーで、ピタッとさせて着こなしていた。その人は心の中でクスクスと笑えていた。お料理上手な同僚の奥さんが、その人の自炊ではお目にかかれない、バランスのとれた食事を毎食作ってくれ、お腹一杯食べた。白米があまりに美味しかったので、魚沼産のコシヒカリだったのかもしれない。胃がギュウギュウになった後は、2部屋分に敷き詰められた布団の一つで眠った。時に大勢でいることのストレスを感じ、時に大勢でいることの楽しさを知りながら、生かされていた日々だった。

 あれほどまでに、何をせずとも与えてもらえるのはまるで赤ん坊のようで、だからその人は、あの時、生まれ変わったのかもしれないと今になって思う。そして、どんどん歳を重ね出来ることが増えるうち、自分で生きているつもりになっているけれど、口にするもの手にするもの、全て誰かや何かを介して届けられている。与えられ、生かされていることには変わりないのだ、とも気づくのだった。

 そして驚くことに、その人があの生活中に1番嬉しかった差し入れは、何度思い返しても「化粧水」だった。こういう物も欲しいかなと思って、と持参してくれた女性に、抱きつきたいほど心が動いた。衣食住、生きるための必需品が満たされると、それ以外が欲しくなっていった。プライベートな空間、美容品、自由に出歩けること。こうした欲求をもてることは、土台に安心して生きられる環境があってこそ。そして、欲求がありそれを満たそうとすることが人間を人間らしくしているのかもしれないと、その人は思った。その人の欲求が、その人の人間性を創っている、と。

 突然のシェアハウス生活を終えて後、その人は北海道のグループ会社へ出向となり、そのままその地で生活している。出向先には、3月11日生まれの同僚がいて、仕事を教わるうちに仲良くなった。彼女は毎年その日を迎えると、その人を気遣ってくれた。心中は複雑だっただろう。大きな悲しみを背負ったその日は、彼女や誰かにとっては喜びの日でもあるのだった。

 その人は毎年彼女に、心を込めて「おめでとう」を伝えている。

朧灯(おぼろび)の幻影

(著者)石原おこ

 部活を終えて家に帰る道すがら、神社の石灯籠に灯りがともっているのに気がついた。
西の空がだいぶ暗くなっていた時間で、「灯籠に灯りがともるなんてことあったっけ?」とふと考えてみた。
「何かやってんのかな?夏祭りの時期でもないし…」
自転車を置き鳥居をくぐり、小さな拝殿の中をのぞいて見たけれども、建物の中は暗く、何も見えなかった。
 昔はこのあたりのほとんどが田んぼで、民家と呼べるところは少なかった。この土地の守り神として古くからこの神社があり、申しわけ程度の遊具、ところどころ錆びの浮いたブランコと小さなシーソーが置かれてある。
 いつの間にか住宅が立ち並び、田んぼの数は減ってしまった。それでも田植えの時期になると、どこからともなくカエルの鳴き声が聞こえてくる。今もところどころでカエルが鳴いていた。

 幼い頃、祖母に手を引かれてこの神社に遊びに来ていた。家から一番近く、公園と呼ぶには随分と規模の小さなものだったが、よくブランコやシーソーに乗って遊んでいた。
僕が遊具に夢中になっているとき、祖母は拝殿に向かって手を合わせていたのを覚えている。そして祖母は決まって、拝殿の横にある大きな石碑にも手を合わせていた。
 そんな祖母との記憶を思い出しながらふと石碑に目を向けると、石碑を見上げる人影が目についた。はじめは幽霊か何かと思ってびっくりしたけれども、相手も僕の姿を見つけると、
「こんばんは」
と、はっきりとした口調であいさつした。
「あ、こんばんは。」
年齢は僕と同じくらいか、それともちょっと年上か。細身の体をした二十歳前後と思われる男性だった。
「この辺の子?」
「あ、はい。そこの先の、角のところの…」
「中学生?」
「いえ、高校生です」
そんな会話を交わしていたけれども、表情は夕暮れの陰になってよくわからない。男性はまた石碑に目をやると、
「これはなんの石碑?」
と指さして僕に尋ねた。
あたりが暗くなっていたので、石碑に刻まれた文字を読み取ることはできなかった。
そう言えば昔、祖母から、戦争で亡くなった方々を祀る慰霊碑だと聞いたことがある。
「このあたりに住んでいた人で、戦争に行って死んじゃった人の慰霊碑だって聞いたことがあります。」
そう答えたけれども、男性の耳に届いているのか。石碑を見上げたままじっと立ちすくんでいた。
「戦争か」
男性がそう呟くと、
「このあたりは無事だったのか?」
と聞いてきた。
 僕の方を振り向いた瞬間、灯籠の灯りにともされて男性の顔がぼんやり見えた。少し悲しそうな表情をしたその顔を見たとき、なぜか祖母も同じような表情を浮かべていたことを思い出した。
「このあたりのことはよく知らないですけど、長岡で空襲があったことは学校で習いました。」
「長岡で…」
 大学生なのだろう。戦争のことについて研究している大学生が、調査のためにいろいろ歩いてこの石碑にたどり着いたのかもしれない。でもようやく石碑にたどり着いたとしても、あたりがこんなに暗くては、石碑に何が刻まれているのか読み取ることもできない。

 長岡の空襲については小学生の頃、地元の歴史を学ぶ授業で知った。
 昭和二十年の八月一日、B29戦闘機が長岡市の上空から焼夷弾を投下。多くの犠牲者が出て、長岡の街のほとんどを焼き尽くしてしまったという。

「この村は、大丈夫だったのか?」
『村』と言う言い方にちょっとしたひっかかりを覚えたけれども、よそから来た人にとってみればこのあたりの風景は『町』とは言い難い。
「長岡に向かう飛行機が、飛んで行ったみたいですけどね」
そんな話も、九十歳になる近所のばあちゃんから聞いたことがある。
「この村に、私の妻が住んでいるんだ」
???『妻がいる』と言うことは、ひょっとしたら大学生じゃないのかもしれない。妻がこのあたりに住んでいると言うことは、別居状態か?単身赴任中で有給休暇を使って会いにきたとか?
「早く会いに行ったほうがいいんじゃないですか?もう日も暮れましたし」
僕がそう言うと、男はまた少し悲しそうな表情を浮かべて、
「うん、会いたいよ」
とつぶやいた。

 それからしばらく沈黙の時間が続いた。見上げていた石碑ももう暗闇の中に溶け込んでしまっている。住宅街に灯る街灯のあかりに虫たちが集まってきていて、心なしか、灯籠の灯りも小さくなっているようだった。
 僕が家へ帰ろうと、自転車の置いてある場所へ足を向けたとき、
「子供が生まれるんだ」
と、さっきよりも明るい口調で男性はそう言ってきた。僕は振り返って、
「そうなんですね、おめでとうございます。男の子ですか?女の子ですか?」
と質問した。この質問の答えを最後に、僕はもう家に帰ろうと決めていた。
「わからない。でも女の子だといいな。名前はもう決めているんだ」
なるほど、出産のために奥さんは里帰りをしているのか。それとも、出産の準備で病院にいるのかもしれない。その奥さんに会いに来たのだけども、なかなか会えないでいる。奥さんに会えないでいる時間、例えば、安産祈願でこの神社に来たとか。
「幸子って名前にしたんだ。幸せになってほしいから」
男性は『幸子』という名前をかみしめるように口にした。
『幸子』という名前を聞いたとき『今どきの名前じゃないな』と言うのが素直な感想だった。でもそれを口にするのは失礼だ。
「いい名前ですね。幸子ちゃん」
そう声をかけたとき、男の姿が霞んでいるように見えた。灯籠のあかりも乏しく、街灯の灯りもおぼつかない。なぜか、男性の姿が消えていってしまうような、そんな錯覚を覚えた。
「いい名前だろう。田嶋幸子。幸子には何にもおびえることのない、静かで穏やかな暮らしをさせたいもんだよ」
『タジマサチコ』その名前を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。と同時に、この男性の浮かべた悲しそうな表情と、幼い頃、石碑に向かって祖母が浮かべていた表情とが重なり合った。
「田嶋幸子って、オレのばあちゃん……」

 石灯籠の灯りは消えていた。男性ももうそこにはいなかった。
 カエルの鳴き声がよりいっそう大きくなったように感じた。

トルコ村奇譚

(著者)石原おこ

 僕は浜辺に打ち上げられていた。
 いや、他になんて表現したらいいのだろう?
 砂浜に寝転がっていた。目を開いてみたら浜辺にいた。
 確かに、気がついたら浜辺に大の字になって横たわっていたのだが、この体の疲れ、節々の痛みは単純に浜辺で寝そべっていたわけではなく、日本海の荒波にもまれて、ようやく浜にたどり着いたような感じがする。そんなけだるさが全身に残っていた。
 まどろみの中、記憶をたどってみる。
 そして、このけだるさの原因は何だろうかと思いを巡らせてみる。
 ふと頭に浮かんだのは、彫りの深い顔の、蒼い髪を風に揺らしている女性の姿。そして、片言の日本語。
「コノムラヲタスケテ」
 この言葉が、頭の片隅にこびりついていた。
「この村を助けて」
 僕は勇者にでもなって、ドラゴンとでも戦っていたのだろうか?体の痛みを思えば、あながちそれも嘘ではないような気がする。

 鯨波海岸まで車を走らせてきた。でも決して海水浴が目的ではない。
水着も持っていないし、今は海水浴を楽しむような時期でもない。ましてや僕は泳げない。そう言えばこの時期はクロダイがよく釣れると、愛好家の友人が言っていた。でも残念ながら、僕には釣りをたしなむような趣味はない。となると、ただただこの渚からの景色を眺めるために僕はやって来たのだろうか?
 もう一度、頭の中にあの言葉がこだまする。
「コノムラヲタスケテ」
 そうなんだ、僕はきっと、この『ムラ』を救うためにこの地に降り立ったのだ。

 イスラム教の礼拝所、モスクを思わせるような円形のドームを見上げていた。ドームの四辺に立っている円柱は潮風にさらされて錆つき、すでに廃墟を思わせるようなたたずまいだった。
「ソータ!こっちよ!」
アラナイがそう叫んだ。
振り向くと、視界の先には何本もの円柱が立っていた。柱の先端はクルクルとパーマをまいたような彫刻が施してあり、ギリシャの神殿に立つ円柱のようにも見える。何本も並ぶ柱の一つ、その陰にアラナイの姿があった。
「アラナイ!」
僕は叫びながら走り出す。
 アラナイは琥珀色をした長いスカートをはいていて、頭にはトルコ石をあしらったティアラのような髪飾りを載せていた。その姿はアニメのアラジンに出てくるヒロイン、ジャスミンの姿を思わせた。
「ソータ、この村を守って。もう敵がそこまで来ているの。ムスタファを助けなきゃ。」
柱の陰でアラナイがそう告げる。アラナイも走ってここまでやって来たのか、息が上がっていた。
「ムスタファはどこに?」
「円形劇場よ!トロイの木馬に潜んでいた敵が出てきて、今一人で戦っている。」
「一人で!なんて無謀な!」
僕は円形劇場の方へと向かった。後ろからアラナイもついてくる。
遠くから怒号が響いている。そしてその声は徐々に大きくなっていった。

 円形劇場にたどり着くと、すぐにムスタファの姿が目に飛び込んできた。観覧席のその先、舞台の上でムスタファは十人近くの敵と対峙している。
ムスタファもすぐに僕の姿を見つけたようで、
「ソータ!」
と低い声を響かせた。応戦しなければとムスタファのいる舞台へと向かったが、すぐに三、四人の敵に囲まれてしまった。
残念なことに、僕はこれといった武器を手にしていなかった。相手の剣を振りかざすその隙に、みぞおちのあたりにこぶしを入れるのが精いっぱいだったが、それでも運よくクリーンヒットし、敵の何人かは腹を抑えながらその場にうずくまった。
 丸腰のまま何人かの敵を蹴散らしながらムスタファの方へと駆け寄っていくと、ムスタファは腕や足に刀傷を負っていて、すでに立っていることもままならないような状態だった。それでも僕が近づくとホッとしたのか、白い歯を見せて笑ってみせた。
「ソータ、すまない。この村はまもなく滅びる。」
「ムスタファ将軍、何を弱気なこと言っているんです。あなたが支えてきた村じゃないですか!」
「ソータ。それでも時の流れには逆らえない。私はこの村で、多くの人が笑い、楽しみ、そして若い男女が結ばれ、皆がそれを祝う、そんな理想を描いていたのだ。ソータと…この村の姫であるアラナイの二人の結婚も…」
「結婚…」
そう呟きながら、ふと後ろを向くと、僕の後をつけてきたアラナイが頬を染めている。
 その瞬間、敵の剣の一振りが僕の背中を走った。しかし、刃先がほんの少し触れただけで、深手と言えるような傷でもなさそうだった。
 僕はムスタファの手にしていた剣を奪い、ふり返って敵と向き合った。
「アラナイ!ムスタファを連れて海へ!海へ逃げるんだ!」
応戦する僕の後ろを懸命についてきたアラナイは、僕の顔を見上げ一つうなずくと、ムスタファの手を取り、舞台の袖の方へと駆けていった。
 僕は手にしたムスタファの剣で中段の構えをとり、左のわき腹にぐっと力を込めた。そして力強く叫んだ。
「この柏崎トルコ村は、僕が守る!」

 オレンジ色の夕日の光が目を刺した。
ゆっくりと起き上がり、服に着いた砂を叩き落とす。とにかく、駐車場まで行くことが最優先だと思った。でもどこに車を停めたのかもよく覚えていなかった。
「僕は、トルコ村を守ったのだろうか?」
夢を見ていたのだと思う。だけど、体の節々に感じる痛みは、一連の出来事を現実のもののように感じさせる。
砂浜の砂に足を取られながらなんとか歩みを進めていくと、砂にまぎれてキラリと光る何かを見つけた。
近づいてみると、パチンコ玉くらいの大きさのトルコ石だった。
 いや、本物のトルコ石かどうかはよくわからない。でも、淡い水色の小さな丸い石は、アラナイ姫が頭につけていたもののように思えた。

思い出せない名前、別れを告げたあの橋で。

(著者)ramune

 生きていれば癖が付く。
 例えば、朝食にトーストが無いと嫌とか、嘘を吐く時目を逸らしてしまうとか。
 きっと人間、皆癖が付いている。
 それは日本人に留まらず、世界中の人間に共通する事。
 それと同じように、俺は今日もあの橋へ向かう。

「新潟県」

 そう言われて思い付くのはやっぱり「米」。
 その他はたぶん、ほとんどの人が思いつかないと思う。
 知ってる人なら「神社や寺の数が日本一」とか言うだろうか。
 でも、俺は「新潟県」と言われて一番に思い浮かぶのは「万代橋」だ。

 俺がまだ高校生で、輝く青春を走っていた頃。
 どれだけ仲の良い友達や、可愛い彼女が居ても、俺が一緒に帰るのは幼馴染のあいつだった。
 幼稚園から小学校、中学校とずっと一緒に居た幼馴染のあいつ。
 高校は、あいつの方が頭は良かったから別々になったけど毎日二人で帰っていた。
 俺はあいつと高校が別になった事をあまり気にしていない。
 なんせ俺はあいつが嫌いだ。
 だから今でも名前を思い出せずに、俺は幼馴染を「あいつ」と呼ぶ。
 学校帰り、夏なんかよく百円くらいの棒アイスを食べながらダラダラと歩いていたもんだ。
 同じではない学校の、全く知らない教師の愚痴や「授業分かんねーよな」とか言う、
 誰もができるくだらない話。
 その頃はその瞬間が一番楽しかった。

 俺達はその頃まで一回も喧嘩をした事が無かった。
 まず喧嘩のやり方とかいうのが分からなかった。
 俺達は、将来を約束していた。

『必ず新潟に残って、二人でここの魅力を世界に広める』