清流

(著者)亜済公


 柿崎の海岸に座っていると、
「釣れますか?」
 と声がした。振り返ると、しわくちゃの顔をした老人が、こちらの様子をうかがっている。散歩にでも来たのだろうか。釣り場にやって来る人間なんて、今時そういるものではない。
「見ての通りです」
 答えつつ、竿をぐい、と引っ張った。海中から、ペンキ缶が顔を出す。僕は丁寧に針を外して、そいつを傍らへ放り投げた。同じ動作を、もう何遍も繰り返している。ペットボトル、空き缶、ボール、旅行鞄……雑多な品の数々が、山のように釣り上がるのだ。肝心なモノは、かかる気配すらないというのに。
「昔は、私も、よくここへ来たもんですわ」
 懐かしそうに、老人はいう。
「新潟で一番の釣り場だった。最近じゃ、どこへ行ったって魚なんかとれやしない。引っかかるのはゴミばっかりだ。あいつら、一体、どこへ行っちまったんでしょうなぁ」
「何でも、南極の近くでは、まだ少し上がるそうです」
 そりゃいいや、と老人は愉快そうに笑っていた。
「何百万とつぎ込んだ竿も、みんなゴミになっちまって。売ろうにも、買い手がいないんじゃしょうがない……どうです? 竿は釣れますか?」
 ええ、たまに。と答えると、彼はつまらなそうに、つばを吐いた。
「竿が海を汚すなんざ、あっちゃいけない話ですぜ」
 海はどんよりと曇っていた。ぷかぷかと、遠く、小さな野球ボールが、顔を出したり引っ込めたり、波間に揺れているのが分かる。空に立ちこめる灰色の雲には、黄色だとか、紫だとか、工場の排気が混じっていた。
 やがて、竿が再びしなった。引き上げると、人間の手によく似たものが、ひょいと海中から姿を現す。――やったか? 僕は僅かに期待し、すぐに落胆を味わった。それは、単なる、マネキンであった。
 中性的な顔立ちで、胸が少し膨らんでいる。四肢には、海藻が絡みつき、海中のどこかで別のゴミと繋がっているようだった。ある時点で、それはピクリとも動かなくなり、ぎりぎりと釣り針をいじめたあとに、とうとう海へと戻ってしまう。ひん曲がった針を取り替え、僕はまた、釣りを続けた。
「何を、狙っているんです? 大物が来ると良いですがねぇ」
「正直なところ、大して、期待はしていないんです」
 僕は、ふと思い出す。彼女のしなやかな肉体が、海へ落ちていく様子。それはどこか、人魚を連想させるのだった。
 水しぶきには、無数のプラスチック片が混じっている。油が浮いて、空気の抜けた浮き輪が漂い、全体に茶色がかった海面に……彼女は二度と、浮かばない。
 その自殺が、いかなる理由によるものなのか、今となっては分かるはずもないけれど。
「ただ、どうにも諦めきれないんですよ」
 老人は、そうでしょうなぁ、と頷きながら、「では」とどこへか去ってしまう。僕は一人残されて、釣り竿を握りしめていた。
 ――もしも、彼女の肉体を、釣り上げることが出来たなら。
 きっと僕は、それを家へと持ち帰るだろう。衣類は汚れているだろうから、僕のジャケットを貸してやるのだ。車の後部座席に横たえて、泳ぎ続けたその肉体を、たっぷり休ませる必要がある。帰り着いたら、風呂に入れよう。その間に、僕は来客用の上等な布団を、押し入れから引っ張り出しておかなくちゃ。夕食は、豚の生姜焼きで良いだろうか。彼女はそれが、好きだった。
 やがて、子供用の帽子がかかった。青い染みが出来ていて、ツンと妙な匂いがした。裏側に、マジックで名前が書かれている。放り投げると、綺麗な放物線を描きつつ、波間にぱしゃりと落ちていった。
 くるくると、何度か円を描いたあとに、帽子はゆっくり、沈んでいく。
 ――もしかすると。
 と、僕は思った。
 ――もしかすると、彼女は沈みたかったのかもしれないな。
 それは、ずっと以前の会話だった。
「海のずっと底の方には、綺麗な部分がまだ残っているんだって」
「綺麗な部分?」
「そ。工場の排水が、たどり着かないくらい、深い場所。水が昔みたいに澄んでいて、魚もいっぱい泳いでいる――ねぇ、見てみたいって、思わない?」
 その話が本当なのか、あるいは単なる与太話なのか、実際のところはどうでも良かった。彼女にとって大切なのは、その空想が、とても美しいものだということである。
 ――だとしたら。
 彼女を釣り上げようとするよりも、僕が沈んでいく方が、ずっと幸福なのではあるまいか?
 その考えは、僕を強く誘惑した。
 日はゆったりと傾いて、気がつけば水平線へと近づいている。
 僕は釣り竿を引っ張り上げて、ジャムの瓶を針から外した。
 それから、海へと近づいて――足を踏み出そうか迷ったあとに、「やめた、やめた」と、引き返す。僕の目には、海の底は見えなかった。ただ表面の、汚染された色彩が、目に入っただけであった。
 ――あの帽子は。
 ――あのマネキンは。
 その他無数のゴミたちは、海の奥底の清流へ、たどり着くことが出来るだろうか?
 遠く、ボウッと鐘が鳴る。工場が、排水を始める時間だった。ざぶざぶと、遙か向こうに新たな油の波が生まれて、こちらへゆっくり近づいてくる。
 僕は荷物を手早くまとめ、家へと向かって歩き出す。
 ツンと、風が臭っていた。

夜捕り

(著者)泳夏(えいか)

「先生、夜を捕まえに行きませんか。」
 突然、彼女はこんなことを言う。
「君ね、意味の解らないことを唐突に言うなと言っただろう。それから、状況をわかって言っているんだろうな。」 
 俺はいつもの様に無機質に心電図の数字を確認した。
 七十、六十、五十、四十―。
「先生、それってなんの数字なの?」
 また彼女はこんなことを言う。
「だからね、これは…、大事な目安で、頻回に確認しなければならない…俺の仕事で、つまり…所謂、なんだっけ。」
 俺としたことが、日頃の冷静さと決断力からは到底想像しえない歯切れの悪さだ。
「ふふ、いつもの先生じゃなくって面白い。このバタフライピーのお茶のおかげね。先生ってば、いつも真面目なんだもの。少しはお仕事のこと、忘れましょ。」
 彼女は微笑んだ口元を隠すようにカップを持ち上げた。それから、カップの中を覗いて、
「ほら見て、夜の信濃川。」
と呟いた。俺は自分の持っているカップの中身を確かめた。そこには確かに川が流れていて、高層マンションと夜の電車の灯りが反射した深くて重たい蒼色の流れがあった。
彼女がカップに息を吹きかけると、その深くて蒼い流れは白い湯気を放って、部屋中に立ち込めた。
「もうここ、飽きちゃった。変わらない白い天井。少ししか開かない不便な窓。重くて軽い、あって無いような扉。鳴りやまないアラーム。終わらない治療。もうここに未練はありません!」
 彼女がそう宣言すると、部屋中の湯気が真っ青になって、何も見えなくなった―。
 
 蒼い広葉樹に、蒼い草、ところどころに生息しているのは、蒼い彼岸花。
「ようこそ、蒼の島へ!」
「蒼の島?」
 どうにもついていけない事態なのに、俺はこの場所を知っている気がした。
「忘れちゃったの?ほら見て、服。」
 ふと見下ろすと、俺はいつもの白衣ではなかった。学生の頃、よく着ていたライブのTシャツに細身のダメージジーンズとお気に入りのスニーカーを履いていた。
「夜を捕まえるの。さあ、行きましょう。」
 彼女はそういうと、俺の手を強引に取って速足で進み始めた。坂を上ると、石の階段があって、彼女は一段一段、うんしょと上った。
「まるで神社の階段だな。」
体力に自信はあるものの、俺だってこんな傾斜のきつい階段、いつぶりだろう。
「着いたわ。ここ。確かここで見たの。」
上った先には、銅板が埋め込まれた石の門があった。
「高校?」
「そう、ここにはあったはずなの。熱血な先生がいてね。いっつも、『問題解決には生きる底力が必要だ!』なんて言っていたわ。」
ふっと笑った彼女の横を、ヒラヒラと何かが通った。蒼く光る四枚の羽根に、俺は見惚れて身動きが取れなくなった。チョウトンボだ。異変を感じた彼女が俺の目線を追う。
「あ、待って!待って、お願い!」
 立ち尽くす俺を置いて、彼女は駆けた。だが、もう遅かった。チョウトンボは空高く飛んで、姿を消した。
「綺麗だったね。」
「そう、あれが夜。皆ああやって元の姿になって、この島を自由に飛び交うの。綺麗よね。それなのに皆捨てたがる。私は捨てたくて捨てたんじゃないんだけど、先生はやっぱりお仕事の関係で仕方がなかったのかしら。」
 俺はようやく彼女が何を探しているのか分かり始めた。それは俺にはもう必要のないものだと思っていたが、こうしてここに彼女といるということは、きっと今の俺にはそれが必要なのだろう。
「俺も捨てたつもりはなかったかな。でも押し込めているうちに、消えてなくなった。つまり、捨てたのと何ら変わらないかもしれない。」
 彼女は少し黙ってから、
「もうすぐバスが来るわ。急いで下りましょう。」
と言って、また俺の手を引っ張った。

 バスを降りると彼女はずんずんと怪しげな茂みに入っていった。こんなところを一体誰が通るのだろう。砂利を踏み鳴らして進んだ先には、宝石のように輝く水面があった。
「虫谷の入り江。ここかもしれない。」
 その海水は、果てしなく長い時の中で、人々の悲しみも愛も吸い込んできたような色をしていた。俺はその美しさに屈して、観念した。
「どうしても今日じゃないとだめなのか。」
 俺は閉じ込めていた心の声を漏らした。
「先生、嬉しい。」
俺と彼女の瞳に朝日が差し込んで、キラキラと頬を伝った。
「ほら、捕まえた。」
蒼く輝くチョウトンボが彼女の指先にとまった。
「先生、ありがとう。私、頑張ったの。もうつらいのは卒業。また、ここに会いに来てね。」
 三十、二十、十―。
 俺は一人になった。チョウトンボが何匹も飛び交い、水面を一層輝かせた。それから激しい波が押し寄せて、俺の情けない嗚咽と涙を優しく包んだ。そして俺の震える掌に、一匹のチョウトンボがとまって羽を休めた。

「おかえり。俺の―。」

三〇グラムの便り

(著者)尾見苑子

 おはようございます。こんにちは。こんばんは。いつお読みになられるか分からないので、思いつく挨拶を並べてみました。
 ぴったりなものはありましたか。もしどれでもなかったらごめんなさい。
 さて、まず自己紹介からはじめましょう。わたしは早坂といいます。早坂まりこです。
 このままでは味気がないので、少し昔話をさせてください。
 わたしは内遊びが好きな子どもでした。たとえば読書、たとえば折り紙、たとえばお絵かき。ご存じのものはあるでしょうか。
 とくに、本を読むことが好きでした。まわりの皆が音読をする中、わたしだけは黙読ができたのです。頭の中で文字を追う。大人になるとできるのは当然のように思えますが、これとっても難しいことなんですよ。
 なんて、話が逸れてしまいました。お察しの通り、内遊びは好きでしたが、だからといって自分の世界に閉じこもるでもなく、非常におしゃべりな子どもだったのです。
 一人娘のわたしは、休みのたび両親によって連れ出されました。夏は潮風香る海、木々が鮮やかに揺れる山。冬は顔が映るほどぴかぴかに磨かれたスケートリンク。
 その中でも、特に思い出深いのは苗場のスキー場です。はじめて訪れたときのことは忘れられません。ホテルを出るなり真っ白な空間で視界が埋め尽くされ、目がおかしくなったのではないかと瞬きを繰り返しました。
 いつかの童話で、悪い魔女がお城に魔法をかけ、吹雪の中に閉じ込めてしまう話があったのですか、まさにそれです。恐々と吐き出した息までもが白く染まり、ゾッとしたことを覚えています。
 けれど、そんな不安は父の足の間で、数回斜面を滑るうちに絆されていきました。ガラスの靴ではありませんでしたが、無骨なシューズはあつらえたようにしっくりきました。
 母は麓で微笑み、そろそろ降りていくわたしを迎えてくれました。冷気で真っ赤な頬を手袋で挟まれると、あたたかいと思いました。
 そのときにわたしは、美しいものは、その美しさに比例して恐ろしいのだと知りました。
 真っ白な空間は、何ものにも替えがたく綺麗でした。だからこそ、わたしは最初に恐怖を感じたのです。
 そして、その場所を何より愛しく思うようにもなりました。
 すみません。少し文字が滲んでしまいましたね。久しぶりに二人を思い出したためです。

 本題に入りましょう。
 この手紙は、お願いなのです。祈りととらえてくださっても構いません。
 どうか、いまのわたしたちに、いえ、主語が大きいのはあまり良くありません。わたしに、あのスキー場を残してください。
 情けない話ですが、気がついたとき、もう取り返しはつきませんでした。
 技術の発展と引き換えに、冬の始まりは遅くなり、終わりは早まりました。一冬の雪量は減りましたが、一晩の雪量は増え、雪害と呼ばれる災害が年毎に増加していきました。
 そして、数年前に起きた積雪事故をきっかけに、それがなくても本来の機能を失っていましたが、ついに、わたしの大好きなスキー場は取り壊されてしまいました。
 残念で、かなしくて、つらくてなりません。
 そこでわたしはとある決意をしました。さきほど「技術の発展」と申しましたが、そのひとつがこれです。なんといえば言いのでしょう。タイムマシンといえば伝わりますか。
 わたしには子どもがおりませんので、財産のほとんどを使い、ようやく三〇グラム分の権利を購入することができました。
 手紙一通分です。場所も指定できるそうなので、いつか宿泊した、スキー場に面したあのホテルのフロントにいたしました。
 手紙を拾われたあなた。お客さんでしょうか、それともスタッフの方でしょうか。あの時のわたしと同じくらいの幼子かもしれませんね。
 白寿を迎えた私より、この手紙が少しでも胸に止まれば嬉しい限りです。

只見線

(著者)楽市びゅう

 東京が嫌になり宛てもなく列車の旅を続けていたある冬の話。

 その日私は夕刻の会津若松にいた。今日のうちに新潟県へ入りたい、さてどんな風に向かおうかと考えていた。
 駅にある路線図を見ると、新潟市内を目指す磐越西線と魚沼の辺りまで西進する只見線があることを知った。飛び込みで宿を探すことを考えると前者の方が妥当だろうかとも考えたが、それではつまらない。旅情に駆られ行動も大胆になっていた私は、この先訪れる機会が少なかろう方を選んだ。
 後になってその評判も聞いたが、只見線は車窓から見える雪景色が見事だった。東京では到底お目にかかれない、豪雪の中をガシガシ列車が進んで行く様子は爽快だった。
 やがて日は沈み、白銀は暗闇に消えた。黒と暗い白だけの風景、ゴーゴーという気動車の轟音と振動、それに只見線内にやたらと続く「会津◯◯駅」という駅名に私は次第にぼんやりし始め、気付けば深いまどろみに入っていた。

 どこをどう巡ったのかわからない。しかし、私は終電と思しき列車でさらに魚沼のさらに西、直江津に放り出された。
 携えた時刻表を辿れば一応辻褄は合うが、全く記憶がない。
 私は身震いしたが、頬を叩いて現実に戻った。とにかくこの直江津で今夜の宿を探さねば、真冬に知らぬ土地で野宿では身震いどころでは済まなくなる。
 しかし宿探しは案外にあっさりと解決した。駅前にビジネスホテルがあったのだ。期待を込めてエントランスを入る。
「本日、部屋に空きはありますか」
 フロントにいる男性に発した言葉に、自分で驚いた。寒さにやられたのか、声が枯れている。久しぶりに声を出したから気付かなかった。
「ええ、空いてございます。それにしてもこんな夜遅くに、大変だったでしょう」
 身を案じてくれる男性の言葉にほっとする。
「東京から来られたのですか。これは寒い中を、よくぞお越しいただきました」
 私が宿泊者名簿に記帳した住所を見て、男性が驚く。
「少し理由あって、列車の旅をしてましてね」
「お一人で旅とは、お若いですね」
 四〇くらいの男性から見れば、社会に出てまだ三年の私はやはり若いのだろうか。
「ごゆっくりなさってください」
 うやうやしい男性の接客に喜びながら、鍵を受け取ってエレベーターに入った。瞬間、私の眼前に映る鏡の中の自分の姿に叫んだ。
「ぎゃあっ」

 そこにはまるで冬空の雪を被ったように髪も髭も真っ白の、皺くちゃな老人の男性がいた。二重に驚いたことには、それは紛れもなく私であった。
 私は延々と続く只見線のまどろみの中で、幾年もの年月を過ごしてしまっていた。

 只見線は現在豪雨災害によって寸断されている。いつか復旧により繋がれば、私はあの時とは逆方向に乗車してみたいと思っている。それもまた冬がいい。きっと気動車にまどろんで、会津若松に到着する頃にはまた若返っているだろう。

カレン

(著者)圭琴子


 彼女は春の嵐の夜、山中の雑多な研究室内でひっそりとこの世に産まれ落ちた。
 はじめのひと息がほうっと平坦な胸を膨らませ、ゆっくりと大きな目がしばたたく。白いノースリーブワンピースを着た幼い彼女が身を起こすと、長い黒髪がシーツを滑ってしゃらりと音を立てた。
 傍らに立つ男性をぼんやり見上げ、彼女はまず初めての質問を口にする。
「あなたは……誰? あたしは……誰?」
「僕は、関戸慎司(せきどしんじ)。君は、カレン」
 関戸は、カレンが目覚めてすぐに、人間らしい好奇心を示したことに満足して笑顔を見せる。それにつられるようにして、カレンも桜色の頬に笑みを浮かべた。
「初めまして、カレン。喉は渇いてない? お腹は? 何でも僕に教えて」
「お水が飲みたい」
「ああ。これ、ミネラルウォーターだよ。冷えてる」
 隅の冷蔵庫から五百ミリのペットボトルを取り出し、カレンに手渡す。彼女は美味しそうに、三分の一ほどをひと息に飲み干した。
 関戸は、ナガオカ・テクノロジーユニバーシティの、機械創造工学課程・博士(はくし)課程を修了し、大学院で研究を続ける博士(はくし)だった。
 彼の研究は、限りなく人間に近いヒューマノイドの創造だ。その研究が実を結んだのが、カレンだった。
 カレンは、三歳程度の子ども特有の丸まっちい指を握り、瞼をこする。やがて仔猫のように、天を仰ぎ大口を開けて欠伸(あくび)をした。
「……カレン、眠い」
「ああ、そうか。毛布を持ってくるから、今日はもう眠りなさい」
「うん」
 再度、カレンは欠伸をした。目尻に生理的な涙が結晶する。そのひとつひとつを余さず観察して、関戸は興奮を抑えられなかった。
 『夜になる』『眠い』『欠伸が出る』『涙が滲む』
 人間がごく自然に行う営みだが、それをカレンも的確になぞっている。
 この研究は、成功だ。そう確信して、カレンにおやすみを言って寝かしつけたあと、関戸も仮眠室のベッドに入った。
 ――夢を見た。カレンが成長し、美しい娘になる夢を。それを夢だと自覚しながら、関戸は彼女に「綺麗だ」と賛辞を送るのだった。

 それから、二十年が経つ。二〇七二年においては、もはや人間に近いヒューマノイドは珍しくない。それは、関戸の研究成果によるところが大きかった。
 この世に三歳の身体で生を受けたカレンは、一年ごとに関戸が成長したボディを与え、今年二十三歳相当になる。彼はカレンのボディを、これ以上成長させないと決めていた。
「せっきー、ただいま!」
 今年四十九(しじゅうく)になる関戸をニックネームでそう呼ぶのは、もはやカレンだけだった。結婚もせずカレンのアップデートに人生を捧げ、年齢的にも、彼女は関戸の娘も同然だった。
「ただいま戻りました」
 あとから凜々しい青年が、続いて研究室に入ってくる。
「カレン、ジョージ、おかえり」
 青年は名をジョージといった。カレン同様、人間そのものだが、昨夜関戸が二十五歳相当のボディで誕生させたばかりのヒューマノイドだった。
「で、どうだった? 楽しかったか?」
 デスクに着いている関戸に飛び付かんばかりの勢いで、カレンは語る。
「うん、お山の公園に行ってきたの。お城が綺麗だったし、神社でお参りしてきたし、動物園でクジャクを見たわ! クジャクって、オスが求愛するときに飾り羽を開くのよね? 飼育員さんに必死にアピールしてるのが可愛くって、久しぶりに大笑いしちゃった」
「そうか。良かった」
「せっきーっていつもくたびれた格好してるけど、クジャクを見習った方が良いと思うわ。無精髭を剃るだけで、見違えると思うのに」
 カレンは饒舌(じょうぜつ)に、コロコロとよく笑う。
 親の心子知らずか、と関戸は小さく吐息した。
「見せる相手が居ないからな、良いんだよ。……で? ジョージはどうだった?」
「はい。楽しかったです。カレンに、関戸博士のことを、沢山教えて貰いました」
「どうもクシャミが出ると思ったら、カレンか」
 冗談めかしてぼやき、関戸はふたりに向き直って胸の前で指を組んだ。
「君たちには、新居を用意してある。そこで、今日からふたりで暮らして欲しい」
 年頃になったカレンにパートナーを与えるのが、ジョージを作った目的だった。いずれは赤ん坊も作り、ふたりに養育させる計画だ。
 ヒューマノイドが人口の半数まで増えた二〇七二年において、ヒューマノイドとの恋愛・結婚・疑似出産が可能かどうかの実験だった。

 だがその実験は、残念ながら失敗した。いや――広義で言えば、成功したのかもしれない。
 お山の公園――悠久山公園(ゆうきゅうざんこうえん)で、二千五百本ある満開の桜の下、ベンチに並んで座る老夫婦は、ほっくりと日向ぼっこを楽しんでいた。
「……なあ、お前。考え直してはくれないか?」
「いいえ、あなた。私も一緒に」
「そうか……」
「父さん、母さん、飲み物買ってきたよ」
 ふたりを「父」「母」と呼んだが、共白髪のふたりには似つかわしくない、二十代半ばの青年だった。
「ありがとう、ジョージ」
「ジョージ、カレンの考えは変わらない。教えてある手順で、私が死んだら、カレンも眠らせてやって欲しい」
「分かりました。安心してカレン。ちゃんと、関戸博士と一緒に天国に行けるようにしてあげる」
「ありがとう、ジョージ」
 カレンはもう一度繰り返して、しわ深い面(おもて)で破顔した。ヒューマノイドには宿らないはずの、魂(こころ)からの幸せを映した笑みだった。

タイムトラベル

(著者)竹之内まつ子


 バスから降りた停留所は八木前。少し先
に有名な八木ヶ鼻の勇姿がみえる。

 私たちは高校に入って初めての夏休みに
クラスのみんなでキャンプファイヤーをし
ようということになった。目的地は下田の
小学校が閉校した跡地、校舎を宿泊施設と
して利用できる山荘だ。
 
 東三条駅からバスに揺られること40分。
五十嵐川沿いをバスはくねくね曲がりなが
ら走っていく。1日に数本しかない路線バ
スには他の乗客の方も多く乗っていた。
 
 迷惑にならないように、小さな声で
おしゃべりをしたりしている子もいたけど、
私は話に入らず耳を傾けながら外の景色を
眺めていた。川沿いの道は山の緑も濃く
流れる川もゆるやかでほっとする風景だ。
 
バスから降りたら徒歩で山荘へと向かう。

「ねぇ」
と、長野さん。彼女はラジカセを持参して
いた。 
「一緒に歌おうよ!」
彼女はアニメ好きで、アニメの曲のカセット
テープをかけてくれた。私も含めてアニメ好
きの子たちが合唱を始める。
 しばらく雨の降らない砂利道はほこりっぽ
かった。歌声に負けんばかりにセミの鳴き声
も四方八方から降り注ぐ。

「暑いなぁ~まだ~」
暑さと疲れから誰かが言った。その脇を1台の
セダンが追い越していった。
「あ~松井先生、ずる~い」
それは担任の松井先生だ。

 1時間も経っただろうか、汗だくになってやっ
と山荘に着いた。それぞれの部屋に荷物を置い
て山荘の方が用意してくれた夕飯のカレーを頂
いたら、お楽しみのキャンプファイヤー。
 初めての体験。パチパチと木のはぜる音に炎
の明りがみんなの顔を照らしている。草むらで
鳴く虫たちの声。

「あ~いいね~」
民家もなく木々の切れ間からは
キラキラした星がよく見える。
いつの間にか、仲のいいグループに分かれて
山の夜を楽しんでいた。

あれから34年。私たちは60才になる。秋には
クラス会が決まっている。別々の道を歩んでき
て、また一緒にすごせる時間。

そう、私たちはあの夏の日に…一緒にすごした
夏の夜にタイムスリップするのだ。