空に落ちる人魚

(著者)コバルトブルー

 島に向かうフェリーは、果物の薄皮を剝くように海面を滑らかに裂いていく。
 夏休みに入りたての七月下旬。中学三年生にとっては貴重な二日間を、生徒会行事という名目で小旅行に捧げていいことになった。
 船内で、みんなとはしゃぐ大地がこっそりスマホを出すのを見ると、つい最近友達に言われたことを思い出す。
『ヒロちゃんって覚えてる?あの子、大地と付き合ったらしいよ』

 五月。新潟県北部にあるうちの中学校で、他校の生徒との交流学習が行われた。
 相手側は同じ郡に属する村の中学校だが、日本海に浮かぶ、県全体でみたら粟粒のように小さい島にあり、全校生徒は二十人に満たない。
 三年生は男女二人だけで、そのうちの一人がヒロちゃんだった。
「好きなことは海水浴です」
 人懐っこい笑みでそう自己紹介したのを覚えている。
 三日間の滞在ですっかりクラスに馴染んだ彼らは、こっそりスマホでクラスメートの何人かと連絡先を交換しており、交流学習後もやり取りを続けているらしかった。
 
 二か月後、今度はこちらから島を訪れることになった。
 島の中学では学校行事だった交流学習も、少子高齢化の村とはいえ、各学年二クラスあるうちの中学ではそうはいかない。
 なので生徒会書記局の数名と先生二人で行くことになっていた。
 夏休みを利用して行われる島での交流学習の内容は観光やレジャーで、「楽しみにしていたのに何が悲しくてデート気分の同級生を見なきゃいけないんだろう」と思っていたが、意外にもヒロちゃんは大地に近づかなかった。
 それどころかサイクリングの時も乗馬をする時も、ずっと私のそばにいてあれこれ話しかけてくれた。
「遠距離の彼氏がいるのに行かないの?」と聞こうとも思ったが、別に何でもいいか、と私は気にせずにいた。

 夕方、海岸でバーベキューが行われた。
 海を見ながら食事をしていると、隣に座るヒロちゃんが「空に落ちたいな」と呟いた。
「ヒロさんそれよく言いますよね」「どういう意味ですか」と近くに座っていた二年生達が口々に聞いたが、彼女はえへへと笑うだけだった。
 私が「なんか分かるかも」というと、ヒロちゃんは「ほんと?」と目を輝かせた。
「私、空を飛びたいって思う時あるの。うちは山に囲まれた田舎で、どこに行くのも時間かかるから、行きたい場所に真っ直ぐ飛んで行きたいって思う」
 的外れかもしれない。そう思った時、「それな!」と嬉しそうな声が飛んできた。
「私もね、空に落ちて空を泳いで行きたいなって思うの。地上って邪魔なものが多すぎるから」
 泳ぐのが好きと言っていた彼女らしい答えに心が緩む。するとつい本音が漏れた。
「…後は、一人になりたいって意味もあるかな」
「一人?」とヒロちゃんが首をかしげる。二年生達は私の話に興味がないのか、おかわりに行った。
「私スマホ持ってなくてさ」
 ちらりと、離れた席で盛り上がるうちの中学のメンバー達を見る。
「うちのクラス、スマホ持ってる子多くてみんなSNSでやり取りするんだよね。そうするとさ、やっぱどうしても微妙な距離ができちゃって」
 別にハブられてるわけじゃない。ただ、親しいと思ってた人間関係に、さらにもう一段親密度の高い世界があったのだと気づいた時、急に人との間に薄い膜が張った。
 教室の中に沢山の管が張り巡らされていて、いろんな話が飛び交っているはずなのに、私はそのどれも得ることが出来ない。どの管にも繋がれていないから。
「みんなでいるのに孤独だって思うと、いっそ広い場所で一人になりたくなる。それなら孤独じゃなくて自由だと思えるから」
 同じ学校に通う私がどうしても入れない輪に、他校の子が入ることが出来ているのも正直羨ましかった。
「ここに来るのも、ヒロちゃんと連絡取り合ってる子が、来たほうが良かったんだろうなって思ってた」
 私でごめん。と言うと、ヒロちゃんは首を振った。
「そんなことないよ。私は翠ちゃんに来てもらえて嬉しい」
 理解してくれた人も初めてだし。と言う声は、さざ波のようだった。

 翌日は昼から海水浴だった。
 
 ヒロちゃんの泳ぎはやっぱり上手かった。黒いラッシュガードにつるりと光が滑り、糸が布を縫うように海を泳ぐ姿は、一瞬海の動物かと思う程だった。
 ただその様子は、体にまとわりつく何かを波で拭っているようにも見えた。

 休憩時間。私とヒロちゃんは砂浜の後ろで芝生を背に座った。
 海の奥に見える本土はギザギザの山が連なり、まるで地平線のすぐ上で空が破られたようだった。
 男子達が休憩せずに波打ち際で騒いでいる。大地はやはりリーダー気質なのか、ここでもみんなの中心だ。
 その様子を眺めていたヒロちゃんが、譫言のように呟いた。
「私ね、大地くんに写真送っちゃったの、下着の」
「え?」と思わず声を上げた。慌てて近くに人がいないことを確認する。
「私、大地くんと付き合ってて。初めてで嬉しかったの。最初は顔写真とかだったんだけど、だんだんそういうのも要求されるようになって」
 大地のはしゃぐ声が聞こえてきて、反射的に鳥肌が立つ。
「あの子も大地くんの彼女だってね」
 そういってヒロちゃんが指したのは、うちのメンバーの女子。
 知らない。だってそれは管を通して伝わる情報のはずだから。
「問い詰めたら、誰にも言わないでね。俺は写真持ってるんだよ?って言われて」
 ぎゅっと膝を抱えて小さくなった姿を見て、彼女を覆っていたのは後悔だったのだと気づく。
「大地くんのスマホにある写真、消せないかな」
 こんなこと誰にも言えなくて。と力無く零れたその言葉は、私の中の乾いてしまった部分に染み込む。
 張り巡らされたどの管も通らず目の前で落とされたそれを、砂浜で蒸発してしまわないうちに私は受け取った。

 休憩の後、私は隙を見て大地のスマホを鞄から抜き取り、海に水没させた。

***

 バレるかもしれない。
 スマホが発見されて騒ぎになる様子を、二人で遠巻きに見ながら思った。
 そもそもスマホは校則違反だろ。と叱る先生の声が聞こえる。
 「ちゃんと壊れたみたいだね」
その言葉の僅かな安心感に縋ろうとした時、一人の生徒が恐る恐るといった感じに手を挙げたのが見えた。何を言っているのかは聞こえないが、次の瞬間みんなが一斉にこちらを向いた。
 心臓が跳ねる。
 やばい。と掠れた声が漏れた時、後ろでヒロちゃんがそっと私の手を握った。
「天地がひっくり返って、みんな空に落ちて溺れればいいのに」
 炭酸のペットボトルを開けたみたいに、一瞬、軽く頭に血が上った。実行犯は私なんだ。そう思い、つい言ってしまった。
「ヒロちゃんは泳げるけど、私はみんなと溺れちゃう」
 翠ちゃんは私が助けるよ。と、凛とした声が聞こえた。 
「悪用されるかもしれなかった写真は翠ちゃんが消してくれた。でもされた事の証拠はある。だから事実は消えない。私が隠さなければ」
 先生達がこっちに来る。
 「やれって言われたって言ってね」
 そっと微笑んで言うと、握っていた手を離した。
 その瞬間、ヒロちゃんはシーグラスのような青空に飛び込んだのだと思った。

 天地を、ひっくり返すために。