美味しい珈琲は美味しい

(著者)モグ


「内野君」
 息をのんだ。微かに震えるその声が、紛れもなく穂村の声だったから。
「なんでこんな所にいるんだよ」
 振り返り、沈黙の後にそう言う。
「明日出発なの」
 やすらぎ堤アートフェスタのすぐ後、穂村の東京行きが決まった。写真コンテスト部門最優秀賞に選ばれた穂村には沢山の声がかかり、東京や神奈川での個展が瞬く間に決まっていったらしい。その頃から俺達はろくに会話をしていなかったものだから、そんな話は全て共通の友人から聞いた。
「そっか。頑張ってこいよ」
「…うん」
 穂村は黙ってしまった。何か言おうとし、しかし言葉にはならず困っている。なんとなくあの日の穂村の姿を思い出す。レンタカーで弥彦山スカイラインを走る車内、真新しいカメラを抱え「早く撮りたいな」「撮影会楽しみだね」と何度も何度も口にしていたが、いざ山頂公園に着き撮影が始まるとカメラの扱いが全くわかっておらず、そう今のような顔になっていたな。それで堪らず「まずは撮り方をイチから教えるな」と言ったんだよ。
「時間あるなら少しウチに寄っていけよ」
「いいの?」
 穂村が笑顔になる。
「あぁ。珈琲くらいは出してやるからよ。」
 知っているか穂村、俺はカメラと同じように拘っているものがもう1つある。それが珈琲だ。

「へぇ…こんな家に住んでるんだ。なんか意外」
「どういう意味だよ?」
「怒った?ごめん。でも、そんなダサいスウェットとサンダル、それに寝癖のままでコンビニ行ける人の家がこんなオシャレだなんて、そりゃ意外に思うよ」
 いきなりの言葉に驚き、俺は両手で頭を抑える。
「寝癖、ちゃんと直したはずなのに…」
「そこ?完全にスウェットのダサさの方がヒドいよ?」
 そんなわけがないだろう、洗面所へ駆け込んで寝癖を治す。後頭部か、盲点だった。

 部屋に戻り、何事も無かったかのように湯を沸かす。
「豆を挽くところからやるの?」
「あぁ」
 珈琲豆を20g量りハンドミルに入れ、ゆっくりと挽く。
「すごい。挽いてるだけでもうこんなにいい香り」
 そうなんだよ、めちゃくちゃ良い香りなんだよ。
「だろ?エチオピアのブクな。」
「ブク?」
「まぁわからなくていいんだよ。とりあえずブクという俺が好きな豆を使って珈琲を淹れるから、穂村はただ飲んでくれりゃいい」
 わからなくていいけどさ、わかってくれてもいいんだ。まぁ教える必要もないけども。
「なんかいいね」
「お、やっぱりブクがどんな豆なのか語ってやろうか?」
「んー、めんどくさそうだし遠慮しておくね」
 人の話を面倒臭そうと避ける、そういうところが穂村にはある。あまり良くないと俺は思う。

「どうぞ」
 小さなテーブルの上、置きっぱなしのカメラを隅に寄せ、穂村の前に珈琲を差し出す。
「ありがとう。いただきます」
穂村はコルクのコースターからカップを手に取り、少し畏まって口に運ぶ。
「なにこれ…」
「なっ」
 言いたい事はわかる。そうだよな、そうなんだよな。
「今まで飲んだ事の無い味。これが珈琲なんだ。美味しい、すごく美味しい。こんなに美味しい珈琲初めて飲んだ。なんか上手く言えないけれど一口飲んだだけで…あぁ幸せ、って感じた」
 幸せと口にする穂村の声に、ずっと俺の中にあった嫉妬心、無駄な強がりが消えてゆく気がした。
「…ブクってさ、穂村の写真に似てるんだよ」
「何それ」
「みんなが知ってる珈琲じゃないけどさ、一度出会ってしまった者は皆、心奪われる。口にした瞬間、幸せを感じさせてくれる。穂村は人の笑顔を写すのが上手いからな。それも風景やシチュエーションが生み出す笑顔、その時その場所が感情を動かして生んだ笑顔を写すのが。だから撮られた方も幸せを感じる、写真を見た人も幸せな気持ちになる」
「褒めすぎだよ」
「でも幸せを感じた時、ダサい話だけどさ、同時に俺は自分の小ささも感じさせられてしまうんだよ。苦しくなるんだよ」
 穂村は真っ直ぐに俺を見ている。
「アートフェスタの時だって苦しくなった。もっと言うなら初めてカメラ教えた時に撮ったやつだって俺は苦しくなった」
 穂村が何か言おうとしたが俺は続ける。
「だけどさ。美味しい珈琲は美味しい」
「え?」
「どんなに醜く、妬み、拗ねて逃げたって、結局辿り着くんだよ。美味しい珈琲は美味しいんだってところに」
「はぁ…」
 戸惑う穂村に構わず俺はまだ続ける。
「美味しい珈琲は美味しいし、素晴らしい写真は素晴らしいし、素晴らしい写真を撮れるヤツは素晴らしいんだよ。穂村の写真はすごいんだよ。大丈夫、やれる。東京でもやっていける。俺はお前の写真が好きだ」
 今度は間をとる事もなく穂村が言う。
「私も内野君の写真が好き。内野君の写真が私の世界を広げてくれたの」
「俺もまだまだ成長して胸を張れる写真家になるから」
 自分の言葉に俺は何度も小さく頷き「そうなるから」と胸の中で繰り返した。

 静かな時間が続く。お互い思いついたまま話し、深く考えもせず返事をする。そしてまた沈黙の繰り返し。東京のどこへ住む事にした?千駄木ってとこ。自炊できるのか?目玉焼きは得意だよ。話題なんてもう何でも良かったんだ。

「なんだか今日は初めての撮影会の日の事ばかり思い出すの」
「実は俺も」
「あの時撮影会に誘ってもらえなかったら今の私はないんだよね」
 あのな穂村、あの時誘ったのはデートだ。話が妙な感じになり穂村が撮影会と言い始め、結局本当にただの撮影会になってしまったのだけど。

「『美味しい珈琲は美味しい』あたりから、すごく馬鹿っぽかったよね」
 思い出して穂村が吹き出すように言う。
「それは…珈琲がこうして目の前にあるからさ…仕方ないだろ」
「照れてる」
「違うって」
 柄でもなくアツく言ってしまった自覚があり、恥ずかしさが込み上げる。
「顔、赤くなってるよ」
「うるせえな。なってねえから。…赤くない顔は赤くない」
「日本語おかしいよ」
「おかしくない日本語はおかしくない」
「日本語が。」
 目を細めつつ怪訝な顔を作るも口元はニヤけたまま穂村が俺の顔を覗き込む。俺は顔を逸らし更に続ける。
「あれ…なんか…腹痛が痛い」
「バカですね」
「バカにされても負けない。不屈の精神。腹痛だけに」
「バカです」
 逸らした顔を穂村へと戻し、今度は俺が覗き込みながら言う。
「でもよ、少しは労ってくれよ。昨日酒呑みすぎて頭痛も痛いんだから」
「バーカ」
 そしてまた珈琲を口にした。やっぱり美味しい。きっと多分、そうだよな、今日のこの珈琲が今までで1番美味しい。カップの中で揺れる珈琲を眺めながらそんなふうに思った。
「内野君」
 その声で穂村へ目をやるとシャッター音。手には俺のカメラが握られている。少し驚いたがすぐに、自分が笑顔になっていたのだと気付く。
「美味しい珈琲を一緒に飲めて嬉しかったからね、この瞬間を残したかったの。現像したら送ってね」
 カップ片手に笑う俺。きっと良い表情で写っているんだろうなと想像したら、消えたはずの嫉妬心がまた顔を出した。胸が苦しくなって俺は小さく苦笑いをした。