深い雪

(著者)圭琴子


 同棲している彼女の実家が新潟県だったため、婚約の許しを得に、清一郎(せいいちろう)と啓子(けいこ)は早春の小千谷(おぢや)駅に降り立った。
 東京からは、長岡まで新幹線、そこからはJR上越線で、約二時間半の旅だった。
 清一郎は勝手なイメージで、新潟は四月でも雪深いと思っていたが、意外にも一般道には雪は残っていなかった。
「雪が降ると、除雪車が出るからね。積もったり溶けたりを繰り返すの」
 啓子の実家は一人娘の独立を機に、一軒家から一LDKのマンションに住み替えていたため、前乗りしたついでにちょっと贅沢して歴史ある旅館に宿を取っていた。
 女性というのは、何でこんなに風呂が好きなのだろうか。宿に到着して早々にひとり温泉に向かった啓子を見送って、清一郎は手持ち無沙汰に、中庭の日本庭園など眺めて過ごす。
「あ」
 雪が、チラつき始めた。埼玉県出身の清一郎には、物珍しい光景だった。こんなにじっくり、雪を眺めたことなんてない。
 よく雪が降る様を『しんしんと』と表現するが、言い得て妙だと思ったりする。雑音のない澄んだ空気の中を降る雪は、確かにしんしんと、音にならない音を立てて降り積もってゆくのだった。
 やがて風呂から啓子が上がってきて、夕食をふたりで摂る。日本海の身の締まった刺身の舟盛りが、驚くほど美味しかった。
 だが夕食を終えると、啓子はまた温泉に行ってしまった。「元を取る」のだと言って。風呂に元も何もないと思うのだが、と清一郎は呆れ半分で、自分は部屋に備え付けのシャワーで手早く入浴を済ませた。
 浴衣に着替え濡れた髪をバスタオルで拭いながら、半開きになったカーテンの隙間から中庭を覗く。雪は、横殴りの吹雪になっていた。
「……ん?」
 近眼の清一郎は、雪景色に目を凝らす。白い浴衣が保護色になっていたが、長い黒髪が確かに濡れ縁を移動していた。中庭に面した部屋をひとつひとつ、うかがっているようだ。
 雪に慣れない清一郎は、女性が凍死してしまうのではと危惧して、濡れ縁に続く扉を開けて声をかける。
「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
 振り返った彼女は、ハッとするほど美しかった。会釈して、清一郎の方に来る。間近で見ると、肌が透き通るように白い、何処か儚げな女性だった。
「すみません。中庭に出たら、自分の部屋が分からなくなってしまいました。少しだけ、暖まらせて貰えませんか」
 啓子は、あと一時間は帰ってこないだろう。清一郎は本当に女性が心配で、快く部屋に迎え入れた。
「どちらから、いらしたんですか」
 彼は女性の居心地が悪くならないよう、世間話でお茶を濁す。
「市内なんですけど……幼馴染みと、再会しに」
「へえ~。差し支えなかったら、男性か女性か、教えて貰えます?」
「男性です」
「おっ! 素敵ですね。もしかして、その男性のこと、お好きなんですか?」
 女性は、恥ずかしそうに長いまつ毛を伏せる。
「ええ。私は好きですけど、相手はどうだか分かりません」
「ロマンチックですね。恋が実ることを、祈っています」
 控えめに、女性も尋ねてくる。
「あなたは、どちらから?」
「東京です。彼女の実家が小千谷なので、婚約の報告をしにきました」
「新潟は……初めてですか?」
「はい。雪国って、凄いですね。昼間は全く雪がなかったのに、今は吹雪いてる」
「ええ……。私はずっと小千谷だから、このくらいの雪が、ちょうど良いんですけど」
 言うと、スッと女性は立ち上がった。
「ありがとうございました。婚約者の方が戻ってらしたら誤解されるので、もう失礼しますね。……お幸せに」
 女性が濡れ縁の扉を開けると、外は一変して、土砂降りの雨になっていた。濡れ縁に出て――女性はさらに、裸足のまま地面におりる。雨に濡れてしまうというのに。
「あ、あの」
 思わず清一郎が声をかけると、彼女はこちらに向き直った。頬に、涙が流れていた。いや、それは零れる先から結晶し、氷になってキラキラと灯りを反射する。
「私は、深雪(みゆき)。深い雪と書いて、深雪。あなたは、覚えていないのね。さようなら、清一郎……」
 瞬間、脳裏に走馬灯のように、景色がフラッシュバックした。
 まだ小学校に上がる前の冬休み、清一郎はおぼろげに、両親と新潟にきたことを思い出す。二泊三日の間、ずっと同じ年頃の女の子と雪遊びをしていたことも。
 かまくらの中で隠れてキスをし、お嫁さんになってねと約束をする。
 その子が確か、深雪といった。
「深雪……待って、深雪!」
 部屋を飛び出し、涙雨(なみだあめ)で溶けていく彼女を、無我夢中で捕まえようとする。だがあっという間に身体が崩れて、深雪は何も残さず溶けてしまった。
 
 次の日、あれだけ降った雪が嘘のように、また路面は乾いて晴れていた。
 タクシーに乗って啓子の実家に向かいながら、清一郎はぽつりと呟く。
「雪女」
「え?」
「雪女って、信じるか?」
 啓子は当たり前のように答える。
「うん。小さい頃から、聞かされて育ったわ。小千谷は、雪女伝説発祥(はっしょう)の地と言われているの」
「そうだったのか……」
 深雪は、消えてしまった。例え妖怪だったとしても、一途に自分を想ってくれた女性がここ小千谷に居たことを、生涯忘れずにいようと思う清一郎なのだった。

沁みる夕日

(著者)石原おこ


『もうムリ。別れましょう』
と彼女からメッセージが送られてきて、自分でも「まぁそうかなぁ…」と思うところもあったけど、実際『別れましょう』という文字を見たときには、なんだかやるせない気持ちになった。

新潟の大学で出会って、つき合い始めて、僕が先に社会人になって、
「そろそろつき合い始めて4年が経つね」
と言っていたのが2か月前。そう言った時、彼女の表情もどこか浮かないところがあったような気もするし、その時会ってからの2か月も、時々メッセージのやり取りをするぐらいで、実際に会ったり、電話でしゃべったりすることもなかった。
仕事が忙しいというのも理由だし、お互いの生活している環境が違ってきたことも、すれ違いの原因になっていたと思う。
「結婚しよう!」
とでも言えばよかったのか?
でもまだ、なんとなくそんなタイミングじゃないし、結婚なんてイメージわかないし。お互いにスケジュールを合わせてデートするというのも、億劫になっていた。

だからと言って彼女のことが嫌いになったわけではない。
4年間、彼女と過ごした時間は楽しかったし幸せだった。
一緒に酒を飲みに行ったり、旅行に出かけたり、デートの時間が楽しみで、仕事を早く切り上げて駅へ急いだこともあった。
「一緒に花火が見たい!」
彼女がそう言うものだから、長岡の花火大会にも出かけた。
熱風と人いきれ。次々に夜空に開く大輪の花。爆音と煙のにおい。浴衣姿の彼女。
ここ最近、彼女との思い出なんか思い出すこともなかったのに、『別れましょう』の言葉で、急にあの頃の日々が浮かんでくる。

『メッセージだけで関係が終わるってのは切ないよ。一度、会って話さない?』
そう返事を返した。
もう関係を修復することは難しいのかもしれないけれども、別れるのであっても、ちゃんと会って“けじめ”をつけたい。
もちろん、別れたくないという気持ちがある。顔を見れば思い直してくれるかもしれないという期待もある。
「別れましょう」
「はい。そうしましょう」
なんて、返事ができるほど、物わかりのいい僕じゃない。
未練がましいのもわかっているけれども、最後に一度、会って話をしたい。
『わかった』
彼女は短い返事を返してきた。

待ち合わせの場所は、百貨店の中にある喫茶室だった。
土曜日の夕方。これまでだったら『一緒にご飯でも食べながら軽く一杯でも』となるそんな時間帯。
メッセージのやり取りからも、一緒にご飯を食べるという雰囲気でもなかった。
コーヒー一杯の時間が、僕たちに残された最後の時間だった。

僕が先に喫茶室に入っていた。約束の時間の20分も前に来てしまった。
彼女が姿を現すまでの時間、何を言おうか、どう言おうか、いろいろ考えていたけれども、結局言いたいことはまとまらず、タイムオーバーとなってしまった。

向かいの席に座った彼女は髪の毛をバッサリ切っていた。肩まであった髪の毛はショートカットになっていて、色も少し茶色に染まっていた。着ていた白いワンピースも、これまで会っていた時には着てきたことのなかったものだった。
「雰囲気変わったね」
「うん」
「最初入ってきたとき、誰だか分からなかったよ」
重苦しい空気が漂う。「こんなにも会話って弾まなかったっけ?」と思うくらい、僕と彼女との間には深く大きな溝があるような感じだった。
「あなたと付き合っている間にいろいろあって……このあいだ会ってからもいろいろあって、それで、私新潟を離れることにしたの」
深い沈黙が続いたあと、彼女がぽつりとつぶやくようにそう言った。
???いろいろあって?何があったの?新潟を離れる?どこへ行くの?ほかの男といっしょに行くの?どういうこと?
頭の中には彼女に言いたいこと、聞きたいことが浮かんでくるけれども、それらの言葉がミキサーのなかでごちゃごちゃにかき回されて、なんだかドロッとした得体のしれないものになるだけで、結局口をついて出たのは、
「あ、そうなんだ」
のひと言だった。
「もう一度考え直してくれないか?」なんて言えなかったし、
「元気でやれよ」なんて捨てゼリフも出てこなかった。

「ああ、なんだかな…フラれるのはやっぱりキツイな…」
車のシートに体を沈めて、ため息をついた。
心にぽっかり穴が開いてしまって、今になって『好きだ』という気持ちがわいてくる。一緒にいたときの笑顔が思い出されたり、他愛もない会話の内容、花火大会の日、彼女が着ていた浴衣にアサガオが描かれていたことなんかも思い出した。
「ビールでも買って帰るか」
そう言って僕は車を動かした。

海沿いの道を走ることにした。このまままっすぐ帰っても、きっとみじめな気分になっているばかりだろうし、車を運転することで少し気がまぎれるかもしれない。
松林を抜けたところで、海が開けた。
ちょうど太陽の沈む時間だった。
日本海に沈む夕日は赤く眩しい。頭上のサンバイザーを倒しても、光が目に飛び込んでくる。
「なんだか、夕日が痛い」
日本海に沈む夕日を見ると、きっと今日のことを思い出すのだろう。
そう思うと、ぽっかり空いた心の穴に、夕日の光が沁みて痛かった。

彼女の才能

(著者)如月芳美


 海に沈む夕日なんて一体何年ぶりだろう。ここに住んでいたころは太陽が海に沈むのが当たり前で、それ以外のところに沈むなんて考えたこともなったのに。
 東京に出てからは見るものすべてが新鮮で、太陽がビルとビルの谷間に吸い込まれて行ってもまったく気づかなかった。
「見晴らしいいね」
「まだまだ。これからアレに乗るんだよ」
 彼女は生まれも育ちも横浜市。夕日が海に沈むなんてことを知らない人種だ。
 だけどまだ日没までは時間がある。明るいうちに広い平野と海を見せたかった。
「山に登ってまだ登るの?」
「弥彦に来たらパノラマタワーまで攻めなきゃね」
 弥彦山の頂上には回転式の展望台がある。グルグル回りながら昇って行くので日本海も新潟平野も佐渡島も全部独り占めだ。
 小さい頃はよく父に連れられて弥彦に登った。登山というよりハイキングという感じ。山頂で十分絶景が楽しめたから、わざわざパノラマタワーに乗るなんて発想がなかった。
 でも今日は別だ。
 何がなんでもパノラマタワーには乗らなきゃならない。本日のメインディッシュなんだから。
 のんびり屋の俺と行動派の彼女。でこぼこコンビだけど、その関係が心地いい。
 今日は初めて俺が彼女を連れ回してる。俺の地元ってことで少し気が大きくなってるかもしれない。故郷をいろいろ自慢したいんだ。
 展望席が動き始めるや否や、彼女は「おお~」と声を上げた。時間が時間だけに、俺たちの他には老夫婦が一組いるだけ。
「新潟平野広いねー!」
「うん」
「ねえねえ、海岸が見える」
「獅子ヶ鼻の辺りかな。ライオンの鼻先みたいな岩があるんだ」
「あれ! 海の向こうにもなんかある」
「佐渡だよ」
「海岸線がずーっとあっちの端からこっちの端まで見えるよ」
 はしゃいでいる彼女が可愛い。こういうストレートなところが好きなんだ。
 心の中でニヤニヤしていたら、彼女が急に「ねえ」とこっちを向いた。
「なんで急にここに来ようと思ったの?」
 おっと、いきなりそっち行っちゃう? もうちょっと景色を楽しんでからにしようかと思ったんだけど、まあいいか。人生にハプニングはつきものだ。
「あのさー。うちの親父がさ、若い頃に新潟市に住んでてさ」
「うん」
「万代シティつっても知らないよね、まあ、新潟の駅前なんだけどさ。昔そこにレインボータワーっていう、これと同じような回転式の展望台があったんだよね。そこは駅前だから、新潟市内が一望できたんだけどさ」
 彼女が「?」って顔してる。まあ、焦らないでよ。話はこれからだ。
「母さんと付き合ってる頃に一緒に乗ったんだって」
「あたしたちみたいだね」
 今それの真似してるからなんだけどね。
 さっきの老夫婦がニコニコしてこっち見てる。あの人達には俺の考えなんかお見通しなんだろうな。そう思うとちょっと恥ずかしいな。
 でも、その為にここまで来たんだ、ここで躊躇するわけにはいかない。
「そんでさ、天辺に来た時に親父が母さんにプロポーズしたんだって」
「えー! いいな、そういうの素敵」
「だろ? そう言うと思った。だからさ、俺も」
 彼女の肩越しに、老夫婦が拳を握って小さく振ってる。
 見ず知らずの老夫婦の応援を目の端に捉えながら、俺はポケットから小箱を出した。予想外に早く話振られちゃったから、まだ天辺に到着してない。ま、それもいいか。
「えっと、うち、農家だけど、結婚してくれますか?」
 俺の唐突なプロポーズに驚いたのか、それともプロポーズの文句に驚いたのか、農家に驚いたのか、とにかく彼女はポカンとしたまま固まってしまった。
 それもそうだよな、もうちょっとロマンチックなプロポーズの文句ってもんがある。せっかくシチュエーションにこだわったのに、片手落ちだったかもしれない。むしろこれ両手落ちだよな。
 と思ったのも束の間、彼女がスパーンと打ち返してきた。
「農家?」
「え、あ、うん、農家。しかも本家の長男」
 これ、最悪なヤツかもしれない。でも言っておかないと詐欺だしな。
 老夫婦がアタマ抱えてる。そりゃアタマも抱えるよな。
「いいね!」
 え、いいの?
「あたし、農家の嫁になる! 体力だけは自信あるの。あとね、なぜかお年寄りにすっごく可愛がられる才能もある!」
「は? え? ええっ?」
 なんだそれ。
 笑っちゃうじゃん。
 反則だよ。ますます好きになっちゃうじゃん。

 降りるとき、例の老夫婦に「お幸せにね」って言われちゃったよ。
 なんて返事したらいいかわかんなくてモゴモゴしてたら、彼女が「はい、ありがとうございます! この人が幸せにしてくれます!」って元気よく返事してて。本当にお年寄りに可愛がられる才能あるわって思った。
 日本海に沈む夕日を見せたら、早速実家に連れてっちゃおう。
 ……ちょっと気が早いか?

プロポーズ

(著者)海人


「永遠の愛なんて、ないんだよ。きっと」

 夏の日。君は僕に背を向けたまま、そう言った。後ろ髪が潮風に揺れる。穏やかな波の音と海鳥の鳴き声だけが鼓膜に届く。
 二十数年間生きてきた中で初めて、拙いながらもプロポーズをした時の、君の返事。
それは僕にとっては得体の知れない、捉えどころのないものだった。

 君はそれきり何も言葉にしない。このまま振り返ってもらえないような気さえした。
 ただ、水平線に夕陽が沈んでいくのを静かに見つめている。一世一代のプロポーズよりも、毎日繰り返される黄昏の方が心地よいものなのだろうか。
 
 愛してる。誰しも簡単に口にできる言葉。
 いざ、その愛とやらを真剣に考えてみればみるほど、なんて途方もない存在を語ろうとしていたのか、愕然とする。
「ねえ。何か言ったら?」
 さっと振り返り、膨れた顔が言う。僕はどこまで本気なのか、さっぱり分からなかった。
「君こそ、何か言ったらどうなんだ」
 至極真っ当なことを言っているのは僕の方なのだと、その時ばかりは確信した。

 思えば最初の出会いも、あの時と同じ、海を一望できる無人駅だった。
 青海川と名乗るその駅に、僕は居眠りしたまま運ばれていた。スマートフォンの時刻表から次の電車が到着する時間を教えられ、ため息をつく。眠っている時間よりも長い時間、電車を待つのかと空に問いかけてみる。その幼い中身にまた、どうしようもなくため息が出た。すると、向かいのプラットホームから同じようなため息が聞こえる。線路を挟んで目が合う。それが初めて見た君の姿だった。

 君と話していると、時間の感覚さえ狂ってしまう。あっという間に電車が来てしまい、また離れ離れになりそうになる僕らを繋げてくれたのは、今なお著しい成長を遂げる文明の利器だった。
 メールの文章だけで、僕たちは一日百通近くもやり取りをした。そんなに話すことがあったのかと問われれば、恐らくあったのだろう。海まで写真を撮りに来たものの、乗車予定だった電車を逃した君と、暇を持て余していた僕。種類は違えど、互いに誰かを欲していた。無限に思える時間の波に何もかも押しやられてしまわぬように。

「今の若者は愛の告白もメールなんだよ。そんな人間に愛は語れないよ」
「君だって今の若者だろ」とツッコミを入れつつ、その瞬間から君への告白はあの無人駅でしようと決めていた。

 病室の窓から見えるのは、やはり海だった。

「いつか言っていただろう。愛は永遠じゃないって」
 あの夏の日から何十回同じ季節が巡ったのか。少なくとも五十回は堅いなと思えば、咳が出る。大した稼ぎもないのに、君は長年一緒にいてくれた。「何か言いました?」と言いながら、ポケットナイフを器用に駆使し林檎をむく君は、とぼけた顔をこちらに向けている。
 
 最近知った、ある事実がある。君は若い時から耳が悪かった。
 この先そんなに長くないと医者に宣告されてから、そう言われた。僕にすれば二重に告白されたようなものだったが、君の中では僕がこうなるまで言うつもりはなかったのかもしれない。生活に支障をきたすほどではないが、少し大きめの声でないと聞こえないそうだ。

 あの時の、僕のプロポーズの言葉は、君の耳に届いていなかった。
 今さらながら、そんなことに気がついた。今では大した意味さえ持たない気もする。

 当時、あのプロポーズですっかり自信を喪失したのか、実をいうと君に振られたのだとさえ思っていた。
 でも、僕たちの関係は続いていった。それに、大学で哲学を専攻していた君の話は飽きなかった。現実ばかり見て嫌気が差すたび、僕は君の話す言葉を思い出していた。
「世の中を変えたいわけじゃないの。普段の生活、世界の情勢、人々が何に喜んで何に苦しんでいるのか。どんなに経済的に豊かになっても、心に貧しさだけは抱えたくないから」

 ここから見える水平線は変わることなく、僕たちに寄り添っている。
 僕は君に与えられてばかりだった。だから、せめて君に想いを伝えたかったけど、結局その言葉さえ、波の狭間に消えていった。
 
「もし生まれ変わっても、君はきっと、あの駅で電車を逃すよ」
 頭を過るのは、あの景色だった。五十年も経っているのに、君の内面は何一つ老いていない。そんな気さえした。
「あなたも、また寝過ごしてあの駅に運ばれてくるの。必ず」
「必ず、ときたか」
 それきり声を出すことができない。耳が聞こえづらい君のために大きな声で話そうとすればするほど、喉に力が入らない。

「少し横になったら」優しく君は毛布を掛けてくれる。
 ゆっくり目を瞑る。僕たちは若い頃のように手を繋ぎ温かさを感じ合う。

「好きよ」
「おいおい。先を越さないでおくれ。僕にプロポーズさせてくれよ」
 耳元で聞こえる声に心の声が応える。あの日と同じ波の音と海鳥の鳴き声は、確かに僕の鼓膜を揺らしている。