空に落ちる人魚

(著者)コバルトブルー

 島に向かうフェリーは、果物の薄皮を剝くように海面を滑らかに裂いていく。
 夏休みに入りたての七月下旬。中学三年生にとっては貴重な二日間を、生徒会行事という名目で小旅行に捧げていいことになった。
 船内で、みんなとはしゃぐ大地がこっそりスマホを出すのを見ると、つい最近友達に言われたことを思い出す。
『ヒロちゃんって覚えてる?あの子、大地と付き合ったらしいよ』

 五月。新潟県北部にあるうちの中学校で、他校の生徒との交流学習が行われた。
 相手側は同じ郡に属する村の中学校だが、日本海に浮かぶ、県全体でみたら粟粒のように小さい島にあり、全校生徒は二十人に満たない。
 三年生は男女二人だけで、そのうちの一人がヒロちゃんだった。
「好きなことは海水浴です」
 人懐っこい笑みでそう自己紹介したのを覚えている。
 三日間の滞在ですっかりクラスに馴染んだ彼らは、こっそりスマホでクラスメートの何人かと連絡先を交換しており、交流学習後もやり取りを続けているらしかった。
 
 二か月後、今度はこちらから島を訪れることになった。
 島の中学では学校行事だった交流学習も、少子高齢化の村とはいえ、各学年二クラスあるうちの中学ではそうはいかない。
 なので生徒会書記局の数名と先生二人で行くことになっていた。
 夏休みを利用して行われる島での交流学習の内容は観光やレジャーで、「楽しみにしていたのに何が悲しくてデート気分の同級生を見なきゃいけないんだろう」と思っていたが、意外にもヒロちゃんは大地に近づかなかった。
 それどころかサイクリングの時も乗馬をする時も、ずっと私のそばにいてあれこれ話しかけてくれた。
「遠距離の彼氏がいるのに行かないの?」と聞こうとも思ったが、別に何でもいいか、と私は気にせずにいた。

 夕方、海岸でバーベキューが行われた。
 海を見ながら食事をしていると、隣に座るヒロちゃんが「空に落ちたいな」と呟いた。
「ヒロさんそれよく言いますよね」「どういう意味ですか」と近くに座っていた二年生達が口々に聞いたが、彼女はえへへと笑うだけだった。
 私が「なんか分かるかも」というと、ヒロちゃんは「ほんと?」と目を輝かせた。
「私、空を飛びたいって思う時あるの。うちは山に囲まれた田舎で、どこに行くのも時間かかるから、行きたい場所に真っ直ぐ飛んで行きたいって思う」
 的外れかもしれない。そう思った時、「それな!」と嬉しそうな声が飛んできた。
「私もね、空に落ちて空を泳いで行きたいなって思うの。地上って邪魔なものが多すぎるから」
 泳ぐのが好きと言っていた彼女らしい答えに心が緩む。するとつい本音が漏れた。
「…後は、一人になりたいって意味もあるかな」
「一人?」とヒロちゃんが首をかしげる。二年生達は私の話に興味がないのか、おかわりに行った。
「私スマホ持ってなくてさ」
 ちらりと、離れた席で盛り上がるうちの中学のメンバー達を見る。
「うちのクラス、スマホ持ってる子多くてみんなSNSでやり取りするんだよね。そうするとさ、やっぱどうしても微妙な距離ができちゃって」
 別にハブられてるわけじゃない。ただ、親しいと思ってた人間関係に、さらにもう一段親密度の高い世界があったのだと気づいた時、急に人との間に薄い膜が張った。
 教室の中に沢山の管が張り巡らされていて、いろんな話が飛び交っているはずなのに、私はそのどれも得ることが出来ない。どの管にも繋がれていないから。
「みんなでいるのに孤独だって思うと、いっそ広い場所で一人になりたくなる。それなら孤独じゃなくて自由だと思えるから」
 同じ学校に通う私がどうしても入れない輪に、他校の子が入ることが出来ているのも正直羨ましかった。
「ここに来るのも、ヒロちゃんと連絡取り合ってる子が、来たほうが良かったんだろうなって思ってた」
 私でごめん。と言うと、ヒロちゃんは首を振った。
「そんなことないよ。私は翠ちゃんに来てもらえて嬉しい」
 理解してくれた人も初めてだし。と言う声は、さざ波のようだった。

 翌日は昼から海水浴だった。
 
 ヒロちゃんの泳ぎはやっぱり上手かった。黒いラッシュガードにつるりと光が滑り、糸が布を縫うように海を泳ぐ姿は、一瞬海の動物かと思う程だった。
 ただその様子は、体にまとわりつく何かを波で拭っているようにも見えた。

 休憩時間。私とヒロちゃんは砂浜の後ろで芝生を背に座った。
 海の奥に見える本土はギザギザの山が連なり、まるで地平線のすぐ上で空が破られたようだった。
 男子達が休憩せずに波打ち際で騒いでいる。大地はやはりリーダー気質なのか、ここでもみんなの中心だ。
 その様子を眺めていたヒロちゃんが、譫言のように呟いた。
「私ね、大地くんに写真送っちゃったの、下着の」
「え?」と思わず声を上げた。慌てて近くに人がいないことを確認する。
「私、大地くんと付き合ってて。初めてで嬉しかったの。最初は顔写真とかだったんだけど、だんだんそういうのも要求されるようになって」
 大地のはしゃぐ声が聞こえてきて、反射的に鳥肌が立つ。
「あの子も大地くんの彼女だってね」
 そういってヒロちゃんが指したのは、うちのメンバーの女子。
 知らない。だってそれは管を通して伝わる情報のはずだから。
「問い詰めたら、誰にも言わないでね。俺は写真持ってるんだよ?って言われて」
 ぎゅっと膝を抱えて小さくなった姿を見て、彼女を覆っていたのは後悔だったのだと気づく。
「大地くんのスマホにある写真、消せないかな」
 こんなこと誰にも言えなくて。と力無く零れたその言葉は、私の中の乾いてしまった部分に染み込む。
 張り巡らされたどの管も通らず目の前で落とされたそれを、砂浜で蒸発してしまわないうちに私は受け取った。

 休憩の後、私は隙を見て大地のスマホを鞄から抜き取り、海に水没させた。

***

 バレるかもしれない。
 スマホが発見されて騒ぎになる様子を、二人で遠巻きに見ながら思った。
 そもそもスマホは校則違反だろ。と叱る先生の声が聞こえる。
 「ちゃんと壊れたみたいだね」
その言葉の僅かな安心感に縋ろうとした時、一人の生徒が恐る恐るといった感じに手を挙げたのが見えた。何を言っているのかは聞こえないが、次の瞬間みんなが一斉にこちらを向いた。
 心臓が跳ねる。
 やばい。と掠れた声が漏れた時、後ろでヒロちゃんがそっと私の手を握った。
「天地がひっくり返って、みんな空に落ちて溺れればいいのに」
 炭酸のペットボトルを開けたみたいに、一瞬、軽く頭に血が上った。実行犯は私なんだ。そう思い、つい言ってしまった。
「ヒロちゃんは泳げるけど、私はみんなと溺れちゃう」
 翠ちゃんは私が助けるよ。と、凛とした声が聞こえた。 
「悪用されるかもしれなかった写真は翠ちゃんが消してくれた。でもされた事の証拠はある。だから事実は消えない。私が隠さなければ」
 先生達がこっちに来る。
 「やれって言われたって言ってね」
 そっと微笑んで言うと、握っていた手を離した。
 その瞬間、ヒロちゃんはシーグラスのような青空に飛び込んだのだと思った。

 天地を、ひっくり返すために。

冬の冒険

(著者)渡辺ヒラオ

 三郎は冒険好きである。好奇心は強く何でもやって見なければ気がすまない中学2年生だ。それはある冬の日のことだった。3学期の始業式も終わって寄り道をした同級生のKと自宅の火鉢で餅を焼いていた。テレビでは昼のニュースで南極観測船「ふじ」が越冬隊を乗せて南極へ向けて出港する様子を伝えていた。餅を頬張りながら三郎はKに「よし、たかぶへ行こう」と不意に言った。たかぶとは家から3キロほど離れた溜池で、春から夏そして秋にかけて友人らと魚釣りやボート遊びを楽しむ場所であった。なぜたかぶへ行こうと言ったのか。三郎は薄氷が張っているだろうその池を南氷洋に見立て、そこを氷を打ち砕きながら進む観測船よろしくそれを真似てみたくなったのである。
 二人は自転車に乗り20分ほど走ると、舗装された県道から雪の残った田んぼ道に入り池に着いた。池には予想通り薄氷が張っていた。雪は止んでいたが朝は冷えていたから湖面は凍ったのだろう。空は晴れている。池の岸に放置してあるボートのそばには薄い氷を通して水草が日を浴びながらゆらゆらと揺れている。ボートは右側のヘリ板が朽ちて剥がれていたが、二人が乗るには大丈夫だろうと思った。左側に体を寄せて重心を少し移動すれば支障が無く進めると思ったのである。オール替わりの竹竿で水を掻きながら観測船に乗った気分で漕ぎ出した。空は晴れているが風は冷たい。2時間ほど池の中をぐるぐる回った。池の周囲は1キロ余りだが所々入江のように食い込んだ場所があり、そこを港に見立てると「ただいま〇〇港を出港でありまーす」などと言いながら悦に浸っていた。
 突然予期せぬことが起こった。朽ちたヘリ板を超え水が入って来るではないか。慌てた二人は重心を取り戻そう反対側に身を寄せたが、かえって一気に水が入ってきてボートの中は水で一杯になった。Kが「わーっ、沈む!」と叫んだ。次の瞬間気づくと二人とも必死に犬かきをしている、。泳ぎは得意ではなかったが冬の厚着のためクロールなんかとてもできたところではない。長靴も邪魔になったから足を振って脱ぎ捨てた。三郎は15メートル位離れた岸までなんとか辿り着くことができた。後ろを振り返るとKはまだ10メートル位の所で必死に喘いでいる。三郎はKに向かって「がんばられよ、おまえは陸上部じゃないか」と叫んだ。泳ぎと陸上部とはまったく関係のないことだが、とにかくグランドで汗を流したK
の姿を見ていたので三郎は必死に叫んだのである。Kがなんとか岸に辿り着くと震えた声で互いの健闘を讃えあった。水温は零度近いはずで普通なら心臓麻痺を起こしても不思議ではなかったが、寒風の中3時間ほどいたせいで身体が慣れていたのかも知れない。
 自転車を引きずりながら裸足で夕暮れの田んぼ道をトボトボと歩く。顔は泳いだ時薄氷で少し切ったから余計に寒風が染みてきた。300メートルほど離れた県道沿いの駄菓子屋まで辿り着くと、事の次第を告げストーブに当たらせてもらった。初老の夫婦で店は営んでいたが店主の夫が近くの農協に電話をかけて、二人とも家まで送ってもらった。家に帰り三郎の母と姉がこの顛末を聞くと随分と呆れた様子だったが、それでも風呂を沸かしてくれた。凍え切った三郎の体はぬるま湯から入ると、水温が上がるにつれようやく生きた心地を取り戻したのである。
 三郎は翌日父と一緒に駄菓子屋まで自転車を取りに行った。父は「もうあんな危ないことはするな。でも二人とも助かってよかった、いい経験をしたな」と言った。三郎は生まれ付体は弱く体を鍛えようと、小学生の時海軍上がりの父から海で特訓を受けたことがある。その時海水をいっぱい飲んで肺炎になりかけたが、掛かりつけの医者から「なんでこんなになるまでさせたんだ」とこっぴどく怒られる父の姿を覚えているから、いい経験をしたなと言われた時なんだか褒められたような気がした。三郎は高校ではサッカー部に入り持久力が付いて、マラソン大会で前年優勝した先輩を練習のロードレースで抜いたほどであった。
 高校を出ると三郎はコックになったが、持ち前の好奇心が付いてまわり以後半世紀近く芸人と料理人の二足の草鞋を履くことになる。妻とは共に晩婚だったがすぐに二人の息子を授かった。長男はこの春結婚して家庭を持った。もう人生の第3ピリオドに入っても彼は相変わらずパッとしないが、好奇心だけは失うことなく極めて楽観主義で未来を明るくしているのだろう。若い頃東京で役者を目指して頑張った時期もあったが、三郎にとって故郷新潟はやはり人生のついのステージでなのである。遠い日の想い出を振り返る時、豊かな四季の移ろいを肌いっぱいに感じながら、この地に生まれて本当によかったと思っている。年を重ねるたびにその思いは強くなるばかりである。ここ10年ほどの彼のモットーは「今日という日は残りの人生の最初の一日である」。年は取っても今日という日を新鮮な気持ちで迎えることのできる、ふるさとバンザイ新潟バンザイと心の中で呟きながら。

きょうりきょり

(著者)コバルトブルー

 まるで、みたらし団子のタレの中に、沈んでいるようだ。
 実家という場所に漂う空気は、あの砂糖醤油の葛餡そのものだ。甘くてしょっぱくて、全体的になんか茶色くて、ねっとりと絡みつく。
 みんなそれを振り切れる距離まで行き、人生を続けているのに、俺はまだ実家で、餡にまみれて浅い呼吸で生きている。

 元同級生達のSNSを飛び回って、プロフィールページの『地元の地名→現在の生活拠点』の表記を見るのが最近の癖。その二つの地名が離れていればいる程、心臓を下から棒で突き上げられたような、不快感が胸に広がる。

 ガラッと店の引き戸が開く音がして、慌ててスマホをレジの下に隠した。「いらっしゃいませ」と言おうとしたが、客の顔を見て言葉に詰まる。涼だ。
「えっ、純。お前継いだの?」
 最悪。同級生だった奴が来るかもしれないって思ったから、やりたくなかったのに。
「別に継いでない。婆ちゃんが足捻挫して、しばらく安静にしなきゃ行けないから、代わりに店番してるだけ」
 何買いに来たの。と聞くと、ちょっと寄ってみたくて。と言いながら店の棚を物色しだした。祖母がやってるだけの小さな商店に、成人男性が欲しいものなどあるのか。ぼんやり眺めていると、不意に涼が言った。
「俺いま、仕事で上越に住んでるんだよね。つってもかなり端っこなんだけど」
 言われた地名は新潟県上越の最西端の市。胸にあの不快感が広がる。
 もう話したくない。

 地元を、いつか出ると思っていた。明確に行きたい場所があったわけじゃない。強いて言えば東京だったけど、それに『東京だから』以外の理由はなかった。きっとそのうち、目的が出来て地元を離れると思ってた。それまでは、と思いながらとりあえず地元の高校に行った。大学もとりあえず実家から通えるところに進学した。
「わざわざとおげとこ行がねでも、ここで暮らすのが一番だからの」
 進路で迷った時、祖母はいつもそう言った。その度、甘く滑らかなみたらし団子の餡が、脳の大事な決断を下す部分にしみ込んで、「まあとりあえずいいか」と思わせた。
 けれど四年経っても、地元を出る必要のある『目的』なんて出来なかった。就職で地元を離れようと考えたが、20年間徐々に餡に絡められてきた自分のメンタルは、県境を越えるということを億劫に感じるようになった。
(とりあえず地元で就職して、そして…)
そして、どうなるんだろう。多分、どうにもならない。それに気づいた瞬間、俺は果てしなく濃い餡の中にどぷんっと落ちた。
 それからずっとそのままだ。

 涼はレジにスナック菓子を置きながら、「純は今どうしてんの?」と聞いてきた。
 プツンっと何かが切れた。
「卒業して就職しないでバイトしてたけど、最近辞めたから実家暮らしのニート。特にやりたいこともなし。やる気なし。地元出たこともなし」
 だからもう聞いてくんな。そういってレジを乱暴に打った。
 途端に鼻の奥が痺れた。やってしまった。地元を離れて自立してる涼に嫉妬して、思わず八つ当たりしてしまった自分が、あまりに情けなくて泣きそうだった。
 涼は驚いたのか少し黙ったが、変わらない調子で会話を続けてきた。
 「地元、出たいの?」
 「出たいけど、東京とか県外は無理。県境越えんの怠い」
 「じゃあ、新発田市とか新潟市とか?」
 「その辺は別に遠くないし。ふらっと帰れない距離じゃないと、地元出たって思えないし思ってもらえない」
 もう本音が駄々洩れだった。今すぐ帰ってほしい。じゃなきゃ俺が飛び出すか。
 「地元は出たいけど、県境を越えるのは面倒だから県外は無理。でもみんなが見たら、一目で遠いって分かる場所に行きたいってことか」
 相変わらずだね、お前。
 涼の言葉が心臓を抓った。

 何の取柄もないのに、プライドは高かった。そういう子供だった。だから、「いつか地元を出る」なんて周りに言いながら、結局一度も実家を出なかったことを、同級生達に知られたくなかった。逆に同級生達の現在地を知ると、窒息しそうなほどの劣等感に襲われた。早く自分も遠くに行きたい。みたらしの餡が剥がれ落ちる距離まで。でも、自分からは行動を起こせないくらい怠惰で、肝心なところで臆病だ。
 脳天から、どろりとした感触に包まれる。俺は何度劣等感に苛まれても、どうせ『これ』にまみれて生きていくんだろう。

 俺はダサいと思われているに違いない。
 涼が口を開く。きっと、馬鹿にされる。
「じゃあ、俺と住む?」
 どぷん。耳のすぐそばで、空気が混ぜっ返された音がした。

「ここ、下越の中でも一番北の市でしょ。俺がいま住んでる街と同じ県って考えるの、もう無理があるレベルじゃん。誰が見ても遠いところに行きたいけど、県外は無理っていう純の条件にピッタリじゃない?」
 日本で5番目に大きい県に住んでて良かったね。と涼は笑う。
「ちょっと待って。話ついていけないんだけど」
 軽くパニックになりながら言うと、涼は会計が済んだお菓子を開けながら言った。
「あっちで働くことになった時、付き合ってた彼女と同棲始めたんだけど、最近別れて出てっちゃったんだよね。でも部屋は気に入ってるし、一人だとつまんないし、代わりの家賃折半人探そうと思って」
 ルームメイトって言えよ。というと、涼は開けたお菓子の袋をこちらに向けた。中のスナックにしぶしぶ手を伸ばしながら、「なんで俺なの」と聞く。
「純、SNSによく写真上げてたのに、家の中とか住んでる場所とかの情報は、全然ないじゃん。だからまだ地元にいて、きっとそれがコンプレックスなんだろうなって。それにさ、アカウントのプロフィール欄のとこ、『新潟→』のあと空白にしてそのままじゃん。そこ埋めたいのかなって思ったし。だったら、こっちで一緒に住んでくれるかなって思ってさ」
 図星過ぎて、ムカつく気持ちすら湧かなかった。
「県民ならここの市の名前と、あっちの市の名前だけで、遠いってわかるっしょ。純にも遠いふるさとができるよ」
「てか、涼は俺と住んでいいわけ」
そう聞くと、涼はニヤッとして言った。
「俺ら性格的にも、結構合うと思うんだよね。お前のそのプライドさえなかったら、俺は全然いいし」
 うっざ。と言いながら、ふと思う。涼は俺のしょうもないプライドを、崩してくれていたのかもしれない。それも、砂の城を撫でるみたいに、優しくぽろぽろと。
 涼と住めば、無理矢理見栄を張る必要もない。
 「新しい場所に住んで、コンプレックスも落ち着いたら、やりたいことも見つかるんじゃない?」
 その一言ですべてのプレゼンを終えたのか、涼は静かになった。その顔を見ると、さっきまで明るい声で喋ってたとは思えないくらい、真剣な目をしていた。
 その視線に、体を覆っていたねっとりとした空気が裂かれ、顔の皮膚の上をずるずると落ちていくのを感じた。呼吸のしやすくなった鼻で、深く息を吸う。
「行く。と思う」
涼の体が少し緩んだ。
「てか、とりあえず内見したい」
「じゃあ乗せて帰るよ」
 涼の言葉を聞きながら、スマホで二つの地名を打ち込む。すると、地図に青い線で記されたルートが現れた。
 それは新潟県の背骨のようだった。

希望のヒニチ

(著者)マシュマロウ

 私は、不登校だ。五年生になり、新しい環境に不安になって学校を休み始めた。そんなある日、長岡の悠久山公園に行った。相変わらず、仲良くしてくれる親友と、その親友のお母さんが、誘ってくれた。「遠いとこだから、知り合いがいなくていいんじゃない?」って。私は、車酔いが激しいから、やっとの思いで、ここ、悠久山公園に来た。
でも…!車から体を出したとたん、めまいがした。でも、外へ出た。自分に、負けたくないから。みんなに追いつきたいから!近くのコンビニで、棒つきアイスを買ってきてもらうと、気分がおちついてきた。今は…夏だったんだ。もう、逃げない。力を振り絞って最初の一歩を踏み出した。悠久山公園…広い広場の真ん中で、ココまで来たことに、自信が持てた。
「夢じゃないんだ。」
おもわず、呟いた。親友たちは、笑顔で見守ってくれている。それを見て、私自身も安心した。私はただ、黙って動物園の方へ向かった。最近は動物を見る時間がなかったから。その中でも、うさぎに圧倒された。
「か~わ~いぃ~」
その様子を見て、ほっとした親友がいた。
うさぎを見続けて一時間、頭をおさえてうずくまる自分。水分をとらなかったからだ。自分で歩いて車へ向かう。車の中で水を少しずつ飲みながら家に帰った。親は心配していた。だけど私は、「最悪だ。」とは思わなかった。むしろ思えなかった。だって、
「自分を見つけられた、最高の日だから…」
それからというと、自分に立ち向かう姿を見た親は、前は悲しげだった親の姿も、前を向いている姿勢になった。世間を知りたくなくて、閉ざしたテレビにも、目を通すようになった。
それから、大人になって…。孤独と感じる人の助けになれる、カウンセラーの仕事についた。私はアノとき、親友に助けられた。でも今は、そんな、親友みたいな人になりたいと思っている。毎週、悠久山公園に行っている。希望が見えるから。だから、その日を、「希望のヒニチ」とよんでいる。あの日のことは、今でも忘れない。

陽の花に溺れる

(著者)ramune

 四月の中旬頃、桜は散り始め、太陽がたくさん顔を出す時期。

 雲一つ無い快晴の日、菜の花を見に行った。
 『福島潟』という場所は、一面に菜の花が咲き誇っていた。
 一つ一つが「私を見て」と主張するように上を見上げている。
 疲れ切って根本から折れている花に、私はそっと手を伸ばす。
 近くに居た警備員らしき人に「この花、持っていっても良いですか」と話し掛ける。
 許可を得てから、私は幼い赤子を抱えるように、その花を両手で抱えた。
 その人は、最後まで不思議そうな顔をしていた。
 周りから見たら変なのかもしれない。
 でも、私は他人の目を気にせずに、菜の花畑の真ん中へと走った。

 本当ならば立ち入り禁止。
 警備員の止める声も聞かず、私は真ん中へ走る。
 でも決して、菜の花は折らないよう。

 陽葵、と大好きな親友の名をそっと呟くように呼んだ。

 茶髪の、雰囲気の落ち着いている陽葵は私を見ると微笑んだ。
 やっぱりあの時と変わってない。

「来てくれたんだね、ありがとう」

 何だかこちらまで眠くなってきそうな声に、少し目眩がした。
 無言で陽葵に折れた菜の花を差し出す。
 驚いたように目を見開いた陽葵は、その後すぐに笑って受け取ってくれた。
 追い掛けてきた警備員は立ち止まっていた。
 みんな、みんな私達を見ている。
 まるで二人の空間にだけ、見えない仕切りがあるみたいだ。
 折れてボロボロになった陽の花を大事そうに抱えた陽葵は、ゆっくり私に背を向けた。

 どこ行くの、と不安になって呼び掛ける。

「どこ行くと思う?」

 いたずらっ子のような笑みを浮かべて、あの時と変わらない姿で言った。
 陽葵はしゃがんだ。
 私からはもう見えなくなってしまう。

 陽葵?、ともう一度呼び掛ける。
 それでも返事は返ってこなくて、涼しい風が吹いていった。
 その風が花を揺らした。
 その花が心を揺らした。

「昔、君とここで遊んだ」

 しゃがんでしまった陽葵は、私には見えない。
 けれど、姿だけがそこにあるように言葉だけが聞こえる。

「みんなに話し掛けても、誰も返事なんてしてくれなかった」

 …どういう事、何を言ってるの、言葉は出ずに頭の中を暴れ回る。

「でも君は、君だけは私に話し掛けてくれた」

 しゃんっ

 鈴みたいな音がして、背中に温もりを感じる。
 陽葵が居る、振り向かなくても分かる事だった。

「振り返らないでね、絶対に」

 しゃん しゃん しゃん

「………陽葵、」

 声が震えた。
 怖くなんかない、陽葵は私の友達だ。

「ありがとう、あの時声を掛けてくれて」

 そっと、私の頬に陽葵の手が触れる。
 腕に折れた菜の花が当たってくすぐったい。

「…ねぇ、変な事聞いても良いかな?」

 嫌だ、聞くのが怖い。
 耳を塞いでここから逃げたい、助けて、助けて……

 陽葵……。

「君の名前、何て言うんだっけ?」

『ねぇ、ねぇってば!』

 ハッとした。
 目の前には心配そうな表情をしている陽葵が立っている。

「っ、」

 さっきの出来事を思い出して、思わず後退りする。

「…大丈夫?」

「…………ぁ」

 まともな言葉なんて、私は考えている余裕すら無かった。
 周りを見渡せば、警備員や他の人はその場から居なくなっていた。
 そして、やっと気付いてしまった。

「ここ…どこ?」

 絞り出した一言は、目覚めた途端知らない場所に居た人が発するものだった。
 陽葵は、目をぱちぱちと何回か瞬きした後、乾いた笑い声を響かせた。

「何言ってるの、ここは…」

 一面には、折れた菜の花が咲き誇っていた。
 何が何だか分からない、今の陽葵は誰なのかも、

 私は誰なのかも、ここがどこなのかも、全部、全部____。

「陽の花の花言葉は、快活、明るさ」

 その花が折れている、どういう意味なのか分かった。
 そして、全部理解した。
 今の陽葵は本物だ、さっきの陽葵は私の想っている陽葵だ。
 明るい陽葵は、知らない。
 そうだ、ずっと友達だと、親友だと思っていた陽葵は裏の君だった。

 じゃあきっと、ここの私も陽葵の想っている私だ。

 ここは現実、さっきまで居た所は私の脳内の中の平和なはずの世界だった。
 ぐにゃりと視界が歪んでいく。
 …ああ、きっと私もこの花達の仲間入りだ。
 最期に、私の前に現れたのは、

 折れ曲がった陽の花を持って微笑んでいる、大好きなはずの陽葵だった。

各駅停車

(著者) 中丸 美り

 西へ向かう列車は海沿いに出た。日本海を眺める。水面はどこまでも美しく、わずかな風に水の粒を煌めかせている。日本海というと寂しさの代名詞のように言われることが多いが、この季節の日本海は穏やかで、どこまでも凪いでいて景子は好きだった。
 しかし、今眺める日本海は、景子にとってどこか遠い異国の海のようにそっけなかった。
 景子は、自分がそのような境遇に身を置くことになろうとは、かけらも思ったことがなかった。小さいころから優等生で曲がったことがきらい、といえば聞こえがいいが、実のところ周りの目が気になるただの平凡な人間だった。
 ところが、妻子のある人を好きになってしまった。そして、妊娠。分かったのは一週間前だった。
「三か月です。おめでとうございます」
 産婦人科の医師の言葉を、景子は、どこか遠いところから全く知らない人に起こった出来事のように聞いていた。
 日常から逃げ出した。会社には、たまっている休暇を消化すると言って休みをとった。小さな命が、景子の一存でどうにでもなるという、責任の重さを受け入れることは、今の景子には難しいことだった。
 そして、景子はどこへ行くともなく電車に乗った。各駅停車の電車だ。景子の心の波を鎮め、そして、決断するためには時間が必要だった。
 長岡駅から電車に乗った。しばらく内陸部を走る電車は、柏崎から海沿いに出た。
 青海川駅から親子連れが乗ってきた。通路をはさんだ反対側のボックス席に座った。小さな男の子と母親だ。男の子は三歳ぐらいだろうか。母親は、景子より幾分年上だと思われた。
 母親は、飾り立ててはいないが薄化粧をしていて、子育てに忙しい中でも、自分を大切にしていることがわかった。息子に注ぐ視線が優しい。
 景子は、自分でも気づかぬうちに男の子をじっと見ていた。それに気づいたのか、男の子が、景子に向かって笑顔を作ってみせた。自分以外の人間を無条件に信頼している透き通ったまなざし。もし、自分の中の小さな命が、みなに祝福されて生まれてくるとしたら、小さな男の子に笑みを返せたことだろう。だが、どうしてもできなかった。母親は、景子のことをただの子ども嫌いの女だと思ったのだろうか。息子にお利口にするように言っている。
 男の子は、窓の外を見ては、母親に何か言っている。景子は、その後も無意識のうちに、ちらちらと何度も親子に目をやっていた。
 しばらくすると、男の子が景子のところにみかんを持ってきた。小さな手に小さなみかんが乗っている。冷凍みかんだろうか。顔を上げると、母親が
「よかったらどうぞ」
 と声をかけてきた。景子は
「ありがとうございます」
 と返事をしつつ、男の子を見た。すると、男の子は、景子に向かって、思いがけないことを口にした。
「お姉ちゃんもおなかに赤ちゃんいるの?ぼくのお母さんね、こんど赤ちゃん生むんだよ。ぼくの妹だよ」
 男の子の瞳に戸惑う景子の顔が映っている。何も言葉を返せないでいると、母親があわてて謝った。
「すいません。若い女の人を見ると、みんなおなかに赤ちゃんがいると思ってるんです。まあくん、ごめんなさいは?」
 まあくんと呼ばれた男の子は、何がいけなかったのかわからないという顔をしている。
 次の瞬間、景子は自分でも思ってみなかったことを口にしていた。
「そうだよ。お姉ちゃんもおなかに赤ちゃんいるんだ。まあくんの妹さんと同じだね」
「うん、おんなじだね」
 男の子は嬉しそうに座席にもどった。母親は半信半疑の表情だ。本当にこの女性が妊娠しているのか、息子をがっかりさせないように話を合わせてくれているのか。
「私も来年、母親になります。初めての子どもです」
 今度は、はっきりとした意志を持って景子は母親に言った。
「まあ、同じですね」
 母親がほっとしたように笑顔になった。
「はい」
 景子もぎこちない笑顔を返した。
 もらったみかんの皮をむく。季節外れのみかんは思った以上に甘く、冷たく、景子の口の中で溶けていった。
 何駅か過ぎ、犀潟駅で親子連れは席を立った。
「おねえちゃん、ばいばい」
 男の子が手をふった。母親もわずかに頭を下げた。親子は、ほんのり甘いみかんの香りとともに電車を降りていった。

 あれから三十年の月日が流れた。景子は、あの時と同じ各駅停車の電車に乗っている。景子は一人で息子を育て上げた。あの日、景子の人生の傍らを通り過ぎて行った親子を思い出す。景子にほんの少しの勇気と幸せをくれた。
 息子は、今年人生の伴侶を見つけ、我が家を巣立っていった。何年振りかで一人暮らしになった景子は、気づいたら、あの時の電車に乗っていた。
 自分の人生は、各駅停車だと景子は思う。少し走って、少し止まって、景色を眺めて、また走り出して……。これからもゆっくりと生きていこう。景子は窓の外の海を眺めた。
 あの日、景子から顔をそむけていた海は、今日は優しいまなざしで景子を包み込んでいる。どこまでも穏やかな海は水面に無数の光のリボンを躍らせている。

親友

(著者)如月芳美


 初めてアイツの病室を訪問した。
 日増しに暴力的になって来る日光が、薄手のカーテン越しに遠慮なく差し込んでいる。
 その窓際のベッドにアイツはいた。

「よぉ、武田」

 俺が声をかけると、アイツはゆっくりこちらへ首を回して白い歯を見せた。

「お前練習サボってこんなとこ来てていいの?」
「サボって来るわけねーだろ、今日は休み。それより体調どうよ?」
「ぼちぼち」

 ぼちぼちなんて言葉を使うヤツじゃなかった。いつだって絶好調だった。
 思えば数か月前に体重が落ちて来た時に初めて「ぼちぼち」って言った気がする。あの時もっとしつこく病院行けって言っときゃよかった。
 まぁ治らない病気じゃないし、時間はかかるけど辛抱強く治療するより仕方ない。

「早くお前と走り回りたいよ」
「俺が退院する頃には俺ら引退だろ」
「引退した後でもいいじゃん」
「それもそっか」

 喘息持ちの俺は昔から何かあればすぐに病院へ行っていた。持病がある方がなんだかんだで病院へ行く。だから何かあってもすぐに見つかる。
 武田みたいにまるっきり健康優良児だと、そもそも病院に縁がない。縁がないからちょっとやそっとじゃ行きたがらない。点滴や採血に慣れてる俺と違って、やたらと注射針を怖がったりする。
 案外病気持ちの方がメンテナンスに気を使うから大事に至らないのだ。

「もう夏になんのなー」
「早よ退院しろや」
「ここの夏は病院の方が快適だよ」

 そう言えば去年の夏、コイツは熱中症になったんだっけ。甲府から引っ越してきたばかりの武田は上越の夏を知らなかった。確かに甲府も暑い、だが日本海に面しているここは湿度で殴って来る。それで一発KOだ。

「なあ、覚えてる? 俺が去年熱中症でぶっ倒れた時さ、みんなが水飲ませろって騒いでさ。そんでお前だけが『血中塩分濃度が下がると危険だから、塩分も摂らせろ』って言ったのな。俺、朦朧としながらそれ聞いてて、コイツ冷静だわーって思ってたんだわ」
「そんなこと言ったっけ?」
「言った言った。んでさ、誰か塩タブ持ってねーかって聞いて回って、結局なくてさ。奇跡的にポケットに一粒残ってた塩タブ俺の口にねじ込んで、お前スポドリ買いにコンビニまで走ってくれたじゃん」

 そう言えばそんなこともあったな。

「あとで聞いたんだけどさ、今川のやつ、塩飴持ってたんだわ。だけど俺がぶっ倒れたの見て、自分も熱中症になったらやべえって思ったらしくてその場で食ったんだと」
「信じらんねーアイツ。自分のなんか後で買えよ」
「でもああいうヤツが出世するんだって北条が言ってて笑ったわ」

 それ、万年補欠のお前が言うなって案件だぞ北条。

「それ聞いて体育祭で今川と北条ボッコボコにしてやったの、気づいてた?」
「何それ知らん。いつよ」
「騎馬戦に決まってんじゃん」

 あー。そう言えば武田の騎馬隊は最強だって今川がぼやいてたな。

「江戸の敵を長崎で討ったんかい」
「それな。だけどあいつら弱くて話になんねえ。お前との一騎打ちが一番楽しかったよ」
「俺も俺も! 夏は無理でも体育祭までには退院できるんだろ? また一騎打ちやろうぜ」
「おう」

 そこまで来て武田は少し考えて「だからさ」と言葉を継いだ。

「だから、お前には言っとかなきゃと思ってさ」
「ん? なに?」
「俺、病院嫌いでドックもマトモに受けなかったじゃん?」
「だからこうなったんだろ。反省しろ」
「うん。誰でもやるべき時にやらなきゃならないことがある、それを俺はサボった」

 何を言い出すんだ?

「今やるべきこと。俺は治療。今川は勉強。北条は彼女との仲直り。そんでお前はな――」

 ?

「上杉、検診だ」

卒業証書

著者) 如月芳美


 我が家は毎年夏休みになると、新潟のお婆ちゃんちに遊びに行く。新潟には大きくて広い海がある。
 もちろんここにだって海はあるし、日本海よりは太平洋の方が大きいことは知ってる。だけど遠浅でお魚やカニがいっぱいいる方がずっと楽しい。私の住んでいるところの海は埋め立て地で、港とかもあって、泳げるところなんか全然無い。
 だから私はいつもとても楽しみにしていた。

 三年生になった年の夏休みはちょっと事情が違った。到着するなりママは「去年も来たから大丈夫だよね?」と何度も念を押した。いったい何が「大丈夫だよね?」なのかよくわからなかったけど、「もう三年生だよ?」って胸を反らした。
 ちょうどその時、お婆ちゃんちのお隣のヒロちゃんが縁側から顔を出した。
「あっ、ナミちゃん今年も来たんだ!」
 ヒロちゃんとは去年たくさん遊んだから覚えててくれたんだ。嬉しくて「ヒロちゃんと遊んで来る!」と家を飛び出した。

 いっぱい遊んで帰って来たら、ママもパパもいなかった。お婆ちゃんに聞いたら東京に戻ったと言った。
 びっくりした。私を置いて行ったんだ。
 夏休みが終わるころに迎えに来るから心配しなくていいとお婆ちゃんは言ったけど、それなら私は夏休み中ずっとここにいるんだろうか。
 あの「大丈夫だよね」ってそういう意味だったんだ。
 私は両親に裏切られたような気持になって、それからずっと隠れて泣いていた。泣きながらいっぱい考えて、なんとなくわかった。両親は二人とも働いているから、夏休み中ずっと家に私がいると仕事ができないんだ。だからお婆ちゃんちに置いて行ったんだ。最初からそのつもりで。
 夕食にはお婆ちゃんが甘い卵焼きを作ってくれたけど、気持ちは晴れなかった。

 翌日はさっさと朝ご飯を食べて、すぐにヒロちゃんのところに行った。
 昨日の悲しい出来事をヒロちゃんに話したら、毎日一緒に遊ぼうって約束してくれた。

「ゆびきりげんまん、嘘ついたらハリセンボン飲ーます!」

 ヒロちゃんは毎日遊んでくれた。ほんとに毎日。
 裏山を探検しようと言っては虫取り網と野球帽、海へ行こうと言ってはバケツと麦わら帽子を私の分も持って来る。
 そして一歩を踏み出すのをためらう私の前に、いつも右手を差し出してくれるんだ。
 ランニングに短パン、ちょっと穴の開いた麦わら帽子、膝小僧の絆創膏がトレードマークの彼は、ヤンチャだけど紳士だった。
 近道と言いながら遠回りして変なところを通ったりするのはいつものことで、よその家の庭を通る時に縁側で囲碁をしているお爺ちゃんから桃をもらったりするのも楽しかった。そこのお婆ちゃんはよく「休んでいぎなせえ」と言っては麦茶を出してくれた。今でもその家の名前は知らないけど。
 その家を抜けて裏山を登ると線路がある。それが信越線だと気づいたのはずいぶん後だけど、そのときは電車が通るたびにずっと二人で手を振っていた。それが貨物列車であっても。
 汗だくで戻って来ると、お婆ちゃんがスイカを切ってくれた。
 私たちは仲良く縁側に並んで座り、足をブラブラさせながら入道雲に向かってスイカの種飛ばしをした。ヒロちゃんはとても遠くまで種を飛ばせた。
 お婆ちゃんちには古いリヤカーがあって、交代でそれに乗ってタクシーごっこをした。ヒロちゃんのお兄ちゃんが私たちを乗せて引いてくれたこともある。
 夜はヒロちゃんの家族とみんなで花火をして遊んだ。落ちてくる落下傘を二人で競い合うように追いかけた。
 魚釣りも、木登りも、貝釣りも、ザリガニ獲りも、カブトムシやセミを捕まえるのも、裏山の攻め方も、笹船の作り方も、草笛の吹き方も、スイカの種の飛ばし方も、ぜんぶぜんぶヒロちゃんに教えて貰った。学校では教えてくれないことばかりだった。

 楽しい毎日が過ぎて夏休みが終わりに近づいた。両親が明日迎えに来るって電話をかけてきた。
 ヒロちゃんにそれを言うと、「海行こうぜ」と私の手を取った。
「一つ教えてないことがあったのを思い出したんだ」
 そう言って彼は平べったい石を選んで海面ギリギリに投げた。石は波の上を跳ねるように渡って行った。
「水切りっていうんだ」
 それから夢中になって石を投げて、やっと水切りをマスターしたころにヒロちゃんが言った。
「これでオレが教えられることは全部教えた。ナミは卒業な!」
 知らぬ間に『ナミちゃん』が『ナミ』になっていた。
 この時私は、初めて新潟の夕日は海に沈むことを知った。

 翌日、両親が迎えに来て私は帰ることになった。車に乗り込んだところでヒロちゃんが現れた。私はあわてて窓を開けた。
「ナミ、絶対来年も来いよ」
「うん。約束」
 ゆびきりげんまんの後、ヒロちゃんは私の手に綺麗な貝がらを乗せてくれた。
「これ今年の夏の卒業証書。来年は別のことを教えるからな」
「じゃ、毎年集めるよ。卒業証書」
 私は小さくなっていくヒロちゃんに、いつまでも車の窓から手を振った。

 小学校三年生。あれが私の初恋……だと思う。

美味しい珈琲は美味しい

(著者) モグ


「内野君」
 多分、声の震えは隠しきれなかったと思う。
「なんでこんな所にいるんだよ」
振り向いた彼は少し黙ってからそう言った。
「明日出発なの」
 やすらぎ堤アートフェスタのすぐ後、東京行きが決まった。写真コンテスト部門最優秀賞に選ばれてからは、物凄い早さで変わっていく生活に必死にしがみつく毎日、その頃から内野君と話す機会を失っていたままだった。
「そっか。頑張ってこいよ」
「…うん」
 話したいことは沢山あって、伝えなきゃいけないことだって沢山あって、だけど言葉にはならなくて。
「時間あるなら少しウチに寄っていけよ」
 いつもそう、手を差し伸べるかのように声をかけてくれるの。内野君の優しさに私はあの日の事を思い出す。
 内野君が誘ってくれた撮影会、真新しいカメラの使い方がわからず困る私に「まずは撮り方をイチから教えるな」とフォローしてくれたよね。今でも笑えてくるよ、だって私あの時、デートに誘われたと勘違いして浮かれちゃったんだもの。結局は撮影会で、恥ずかしいから勘違いは絶対バレないようにしたけれど、それでもあの日が私の写真の始まりだったの。
「いいの?」
あの日の思い出が鮮明に脳裏へ浮かび、変に笑いながらの返事になってしまった。
「あぁ。珈琲くらいは出してやるからよ」
笑い返してくれたように見え、嬉しくてまた少し変に笑ってしまった。

「へぇ…こんな家に住んでるんだ。なんか意外」
「どういう意味だよ?」
「怒った?ごめん。でも、そんなダサいスウェットとサンダル、それに寝癖のままでコンビニ行ける人の家がこんなオシャレだなんて、そりゃ意外に思うよ」
 驚いた顔で髪を抑え、私を見てる。
「寝癖、ちゃんと直したはずなのに…」
「そこ?完全にスウェットのダサさの方がヒドいよ?」
 両手で髪を抑えたまま部屋を出ていくと、すぐに水の音がした。私は、それよりスウェットが、と心の中で呟いた。

 何事も無かったかのよう戻ってきた内野君はお湯を沸かし始めた。寝癖が直された後頭部は随分と濡れていた。
「豆を挽くところからやるの?」
「あぁ」
 豆を挽く顔が真剣でドキッとした。
「すごい。挽いてるだけでもうこんなにいい香り」
 内野君の口元がニヤリとする。
「だろ?エチオピアのブクな 」
「ブク?」
「まぁわからなくていいんだよ。とりあえずブクという俺が好きな豆を使って珈琲を淹れるから、穂村はただ飲んでくれりゃいい。」
よくわからないけれど、コーヒーもカメラのように拘ってるんだろうなと伝わってきた。
「なんかいいね」
「お、やっぱりブクがどんな豆なのか語ってやろうか?」
「んー、めんどくさそうだし遠慮しておくね」
 内野君の好きな事を語るとちょっと面倒臭い感じになるというとこ、実は正直嫌いじゃないけども、でもその感じになったところを拒否するとわかりやすくいじけちゃうところが可愛くて好き、だからとにかくここは遠慮しておくの。

「どうぞ」
 テーブルの上にあったカメラを隅に寄せ、コースターを敷き、コーヒーを置いてくれた。
「ありがとう。いただきます」
 どこかのお店みたいで素敵なコーヒーに私は少し畏まり、カップをゆっくり口に運ぶ。
「なにこれ…」
「なっ」
 驚く私に内野君は満面の笑顔。
「今まで飲んだ事の無い味。これが珈琲なんだ。美味しい、すごく美味しい。こんなに美味しい珈琲初めて飲んだ。なんか上手く言えないけれど一口飲んだだけで…あぁ幸せ、って感じた」
 笑顔で私の感想を聞いた内野君は急に真面目な顔。
「…ブクってさ、穂村の写真に似てるんだよ」
「何それ」
「みんなが知ってる珈琲じゃないけどさ、一度出会ってしまった者は皆、心奪われる。口にした瞬間、幸せを感じさせてくれる。穂村は人の笑顔を写すのが上手いからな。それも風景やシチュエーションが生み出す笑顔、その時その場所が感情を動かして生んだ笑顔を写すのが。だから撮られた方も幸せを感じる、写真を見た人も幸せな気持ちになる」
「褒めすぎだよ」
「でも幸せを感じた時、ダサい話だけどさ、同時に俺は自分の小ささも感じさせられてしまうんだよ。苦しくなるんだよ」
 息を呑む。内野君の次の言葉を待つ。不安が押し寄せる。
「アートフェスタの時だって苦しくなった。もっと言うなら初めてカメラ教えた時に撮ったやつだって俺は苦しくなった」
 違うよ私は内野君にーーー声にはならず、内野君は続ける。
「だけどさ。美味しい珈琲は美味しい」
「え?」
「どんなに醜く、妬み、拗ねて逃げたって、結局辿り着くんだよ。美味しい珈琲は美味しいんだってところに」
「はぁ…」
 戸惑う私に構わず、内野君はまだ続ける。
「美味しい珈琲は美味しいし、素晴らしい写真は素晴らしいし、素晴らしい写真を撮れるヤツは素晴らしいんだよ。穂村の写真はすごいんだよ。大丈夫、やれる。東京でもやっていける。俺はお前の写真が好きだ」
 今度は間をとる事もなく私が言う。
「私も内野君の写真が好き。内野君の写真が私の世界を広げてくれたの」
「俺もまだまだ成長して胸を張れる写真家になるから」
 内野君の言葉に「私もそうなるから」と胸の中で答えた。

 静かな時間が続く。お互い思いついたまま話し、深く考えもせず返事をする。そしてまた沈黙の繰り返し。東京のどこへ住む事にした?千駄木ってとこ。自炊できるのか?目玉焼きは得意だよ。あ、「料理もダメそうだ」と思っている顔だ。料理も、ってなんなの。もう。

「なんだか今日は初めての撮影会の日の事ばかり思い出すの」
「実は俺も」
「あの時撮影会に誘ってもらえなかったら今の私はないんだよね」
 でもね本当は今でもね、あの時デートだったら良かったのにと思ったままの私もいるよ。

「『美味しい珈琲は美味しい』あたりから、すごく馬鹿っぽかったよね」
 我慢はしてたけど、耐えきれず言いながら笑いが込み上げてきた。
「それは…珈琲がこうして目の前にあるからさ…仕方ないだろ」
「照れてる」
「違うって」
 予想外に動揺してる姿が可愛い。
「顔、赤くなってるよ」
「うるせえな。なってねえから。…赤くない顔は赤くない」
「日本語おかしいよ」
「おかしくない日本語はおかしくない」
「日本語が」
 全力で怪訝な顔、変な人を見る目で内野君の顔を覗きこんだ。内野君は顔を逸らし更に続ける。
「あれ…なんか…腹痛が痛い」
「バカですね」
「バカにされても負けない。不屈の精神。腹痛だけに」
「バカです」
 こちらへ顔を戻し、今度は私の顔を覗き込みながら言う。
「でもよ、少しは労ってくれよ。昨日酒呑みすぎて頭痛も痛いんだから」
「バーカ」
 そしてまた珈琲を口にした。きっとこれまでの人生で飲んだ珈琲で一番美味しい。好きな人が淹れてくれた一番美味しい珈琲を好きな人と一緒に飲んで、自然に笑顔になっている。こういうのを幸せっていうんだろうな。この瞬間を写真に残したいな。咄嗟にテーブルに置かれていたカメラを手に取る。
「内野君」
 振り向いた瞬間、シャッターを押す。撮れた、と確信した。内野君は笑顔から少し驚いた顔になっていく。鳩が豆鉄砲ってこういう事をいうのかな。
「美味しい珈琲を一緒に飲めて嬉しかったからね、この瞬間を残したかったの。現像したら送ってね」
 私の大好きな内野君の表情が撮れてる。絶対送ってもらうんだ。東京での新しい生活の御守りにしよう。

沁みる夕日

(著者)石原おこ


『もうムリ。別れましょう』
と彼女からメッセージが送られてきて、自分でも「まぁそうかなぁ…」と思うところもあったけど、実際『別れましょう』という文字を見たときには、なんだかやるせない気持ちになった。

新潟の大学で出会って、つき合い始めて、僕が先に社会人になって、
「そろそろつき合い始めて4年が経つね」
と言っていたのが2か月前。そう言った時、彼女の表情もどこか浮かないところがあったような気もするし、その時会ってからの2か月も、時々メッセージのやり取りをするぐらいで、実際に会ったり、電話でしゃべったりすることもなかった。
仕事が忙しいというのも理由だし、お互いの生活している環境が違ってきたことも、すれ違いの原因になっていたと思う。
「結婚しよう!」
とでも言えばよかったのか?
でもまだ、なんとなくそんなタイミングじゃないし、結婚なんてイメージわかないし。お互いにスケジュールを合わせてデートするというのも、億劫になっていた。

だからと言って彼女のことが嫌いになったわけではない。
4年間、彼女と過ごした時間は楽しかったし幸せだった。
一緒に酒を飲みに行ったり、旅行に出かけたり、デートの時間が楽しみで、仕事を早く切り上げて駅へ急いだこともあった。
「一緒に花火が見たい!」
彼女がそう言うものだから、長岡の花火大会にも出かけた。
熱風と人いきれ。次々に夜空に開く大輪の花。爆音と煙のにおい。浴衣姿の彼女。
ここ最近、彼女との思い出なんか思い出すこともなかったのに、『別れましょう』の言葉で、急にあの頃の日々が浮かんでくる。

『メッセージだけで関係が終わるってのは切ないよ。一度、会って話さない?』
そう返事を返した。
もう関係を修復することは難しいのかもしれないけれども、別れるのであっても、ちゃんと会って“けじめ”をつけたい。
もちろん、別れたくないという気持ちがある。顔を見れば思い直してくれるかもしれないという期待もある。
「別れましょう」
「はい。そうしましょう」
なんて、返事ができるほど、物わかりのいい僕じゃない。
未練がましいのもわかっているけれども、最後に一度、会って話をしたい。
『わかった』
彼女は短い返事を返してきた。

待ち合わせの場所は、百貨店の中にある喫茶室だった。
土曜日の夕方。これまでだったら『一緒にご飯でも食べながら軽く一杯でも』となるそんな時間帯。
メッセージのやり取りからも、一緒にご飯を食べるという雰囲気でもなかった。
コーヒー一杯の時間が、僕たちに残された最後の時間だった。

僕が先に喫茶室に入っていた。約束の時間の20分も前に来てしまった。
彼女が姿を現すまでの時間、何を言おうか、どう言おうか、いろいろ考えていたけれども、結局言いたいことはまとまらず、タイムオーバーとなってしまった。

向かいの席に座った彼女は髪の毛をバッサリ切っていた。肩まであった髪の毛はショートカットになっていて、色も少し茶色に染まっていた。着ていた白いワンピースも、これまで会っていた時には着てきたことのなかったものだった。
「雰囲気変わったね」
「うん」
「最初入ってきたとき、誰だか分からなかったよ」
重苦しい空気が漂う。「こんなにも会話って弾まなかったっけ?」と思うくらい、僕と彼女との間には深く大きな溝があるような感じだった。
「あなたと付き合っている間にいろいろあって……このあいだ会ってからもいろいろあって、それで、私新潟を離れることにしたの」
深い沈黙が続いたあと、彼女がぽつりとつぶやくようにそう言った。
———いろいろあって?何があったの?新潟を離れる?どこへ行くの?ほかの男といっしょに行くの?どういうこと?
頭の中には彼女に言いたいこと、聞きたいことが浮かんでくるけれども、それらの言葉がミキサーのなかでごちゃごちゃにかき回されて、なんだかドロッとした得体のしれないものになるだけで、結局口をついて出たのは、
「あ、そうなんだ」
のひと言だった。
「もう一度考え直してくれないか?」なんて言えなかったし、
「元気でやれよ」なんて捨てゼリフも出てこなかった。

「ああ、なんだかな…フラれるのはやっぱりキツイな…」
車のシートに体を沈めて、ため息をついた。
心にぽっかり穴が開いてしまって、今になって『好きだ』という気持ちがわいてくる。一緒にいたときの笑顔が思い出されたり、他愛もない会話の内容、花火大会の日、彼女が着ていた浴衣にアサガオが描かれていたことなんかも思い出した。
「ビールでも買って帰るか」
そう言って僕は車を動かした。

海沿いの道を走ることにした。このまままっすぐ帰っても、きっとみじめな気分になっているばかりだろうし、車を運転することで少し気がまぎれるかもしれない。
松林を抜けたところで、海が開けた。
ちょうど太陽の沈む時間だった。
日本海に沈む夕日は赤く眩しい。頭上のサンバイザーを倒しても、光が目に飛び込んでくる。
「なんだか、夕日が痛い」
日本海に沈む夕日を見ると、きっと今日のことを思い出すのだろう。
そう思うと、ぽっかり空いた心の穴に、夕日の光が沁みて痛かった。