親友

(著者)如月芳美


 初めてアイツの病室を訪問した。
 日増しに暴力的になって来る日光が、薄手のカーテン越しに遠慮なく差し込んでいる。
 その窓際のベッドにアイツはいた。

「よぉ、武田」

 俺が声をかけると、アイツはゆっくりこちらへ首を回して白い歯を見せた。

「お前練習サボってこんなとこ来てていいの?」
「サボって来るわけねーだろ、今日は休み。それより体調どうよ?」
「ぼちぼち」

 ぼちぼちなんて言葉を使うヤツじゃなかった。いつだって絶好調だった。
 思えば数か月前に体重が落ちて来た時に初めて「ぼちぼち」って言った気がする。あの時もっとしつこく病院行けって言っときゃよかった。
 まぁ治らない病気じゃないし、時間はかかるけど辛抱強く治療するより仕方ない。

「早くお前と走り回りたいよ」
「俺が退院する頃には俺ら引退だろ」
「引退した後でもいいじゃん」
「それもそっか」

 喘息持ちの俺は昔から何かあればすぐに病院へ行っていた。持病がある方がなんだかんだで病院へ行く。だから何かあってもすぐに見つかる。
 武田みたいにまるっきり健康優良児だと、そもそも病院に縁がない。縁がないからちょっとやそっとじゃ行きたがらない。点滴や採血に慣れてる俺と違って、やたらと注射針を怖がったりする。
 案外病気持ちの方がメンテナンスに気を使うから大事に至らないのだ。

「もう夏になんのなー」
「早よ退院しろや」
「ここの夏は病院の方が快適だよ」

 そう言えば去年の夏、コイツは熱中症になったんだっけ。甲府から引っ越してきたばかりの武田は上越の夏を知らなかった。確かに甲府も暑い、だが日本海に面しているここは湿度で殴って来る。それで一発KOだ。

「なあ、覚えてる? 俺が去年熱中症でぶっ倒れた時さ、みんなが水飲ませろって騒いでさ。そんでお前だけが『血中塩分濃度が下がると危険だから、塩分も摂らせろ』って言ったのな。俺、朦朧としながらそれ聞いてて、コイツ冷静だわーって思ってたんだわ」
「そんなこと言ったっけ?」
「言った言った。んでさ、誰か塩タブ持ってねーかって聞いて回って、結局なくてさ。奇跡的にポケットに一粒残ってた塩タブ俺の口にねじ込んで、お前スポドリ買いにコンビニまで走ってくれたじゃん」

 そう言えばそんなこともあったな。

「あとで聞いたんだけどさ、今川のやつ、塩飴持ってたんだわ。だけど俺がぶっ倒れたの見て、自分も熱中症になったらやべえって思ったらしくてその場で食ったんだと」
「信じらんねーアイツ。自分のなんか後で買えよ」
「でもああいうヤツが出世するんだって北条が言ってて笑ったわ」

 それ、万年補欠のお前が言うなって案件だぞ北条。

「それ聞いて体育祭で今川と北条ボッコボコにしてやったの、気づいてた?」
「何それ知らん。いつよ」
「騎馬戦に決まってんじゃん」

 あー。そう言えば武田の騎馬隊は最強だって今川がぼやいてたな。

「江戸の敵を長崎で討ったんかい」
「それな。だけどあいつら弱くて話になんねえ。お前との一騎打ちが一番楽しかったよ」
「俺も俺も! 夏は無理でも体育祭までには退院できるんだろ? また一騎打ちやろうぜ」
「おう」

 そこまで来て武田は少し考えて「だからさ」と言葉を継いだ。

「だから、お前には言っとかなきゃと思ってさ」
「ん? なに?」
「俺、病院嫌いでドックもマトモに受けなかったじゃん?」
「だからこうなったんだろ。反省しろ」
「うん。誰でもやるべき時にやらなきゃならないことがある、それを俺はサボった」

 何を言い出すんだ?

「今やるべきこと。俺は治療。今川は勉強。北条は彼女との仲直り。そんでお前はな――」

 ?

「上杉、検診だ」

卒業証書

著者) 如月芳美


 我が家は毎年夏休みになると、新潟のお婆ちゃんちに遊びに行く。新潟には大きくて広い海がある。
 もちろんここにだって海はあるし、日本海よりは太平洋の方が大きいことは知ってる。だけど遠浅でお魚やカニがいっぱいいる方がずっと楽しい。私の住んでいるところの海は埋め立て地で、港とかもあって、泳げるところなんか全然無い。
 だから私はいつもとても楽しみにしていた。

 三年生になった年の夏休みはちょっと事情が違った。到着するなりママは「去年も来たから大丈夫だよね?」と何度も念を押した。いったい何が「大丈夫だよね?」なのかよくわからなかったけど、「もう三年生だよ?」って胸を反らした。
 ちょうどその時、お婆ちゃんちのお隣のヒロちゃんが縁側から顔を出した。
「あっ、ナミちゃん今年も来たんだ!」
 ヒロちゃんとは去年たくさん遊んだから覚えててくれたんだ。嬉しくて「ヒロちゃんと遊んで来る!」と家を飛び出した。

 いっぱい遊んで帰って来たら、ママもパパもいなかった。お婆ちゃんに聞いたら東京に戻ったと言った。
 びっくりした。私を置いて行ったんだ。
 夏休みが終わるころに迎えに来るから心配しなくていいとお婆ちゃんは言ったけど、それなら私は夏休み中ずっとここにいるんだろうか。
 あの「大丈夫だよね」ってそういう意味だったんだ。
 私は両親に裏切られたような気持になって、それからずっと隠れて泣いていた。泣きながらいっぱい考えて、なんとなくわかった。両親は二人とも働いているから、夏休み中ずっと家に私がいると仕事ができないんだ。だからお婆ちゃんちに置いて行ったんだ。最初からそのつもりで。
 夕食にはお婆ちゃんが甘い卵焼きを作ってくれたけど、気持ちは晴れなかった。

 翌日はさっさと朝ご飯を食べて、すぐにヒロちゃんのところに行った。
 昨日の悲しい出来事をヒロちゃんに話したら、毎日一緒に遊ぼうって約束してくれた。

「ゆびきりげんまん、嘘ついたらハリセンボン飲ーます!」

 ヒロちゃんは毎日遊んでくれた。ほんとに毎日。
 裏山を探検しようと言っては虫取り網と野球帽、海へ行こうと言ってはバケツと麦わら帽子を私の分も持って来る。
 そして一歩を踏み出すのをためらう私の前に、いつも右手を差し出してくれるんだ。
 ランニングに短パン、ちょっと穴の開いた麦わら帽子、膝小僧の絆創膏がトレードマークの彼は、ヤンチャだけど紳士だった。
 近道と言いながら遠回りして変なところを通ったりするのはいつものことで、よその家の庭を通る時に縁側で囲碁をしているお爺ちゃんから桃をもらったりするのも楽しかった。そこのお婆ちゃんはよく「休んでいぎなせえ」と言っては麦茶を出してくれた。今でもその家の名前は知らないけど。
 その家を抜けて裏山を登ると線路がある。それが信越線だと気づいたのはずいぶん後だけど、そのときは電車が通るたびにずっと二人で手を振っていた。それが貨物列車であっても。
 汗だくで戻って来ると、お婆ちゃんがスイカを切ってくれた。
 私たちは仲良く縁側に並んで座り、足をブラブラさせながら入道雲に向かってスイカの種飛ばしをした。ヒロちゃんはとても遠くまで種を飛ばせた。
 お婆ちゃんちには古いリヤカーがあって、交代でそれに乗ってタクシーごっこをした。ヒロちゃんのお兄ちゃんが私たちを乗せて引いてくれたこともある。
 夜はヒロちゃんの家族とみんなで花火をして遊んだ。落ちてくる落下傘を二人で競い合うように追いかけた。
 魚釣りも、木登りも、貝釣りも、ザリガニ獲りも、カブトムシやセミを捕まえるのも、裏山の攻め方も、笹船の作り方も、草笛の吹き方も、スイカの種の飛ばし方も、ぜんぶぜんぶヒロちゃんに教えて貰った。学校では教えてくれないことばかりだった。

 楽しい毎日が過ぎて夏休みが終わりに近づいた。両親が明日迎えに来るって電話をかけてきた。
 ヒロちゃんにそれを言うと、「海行こうぜ」と私の手を取った。
「一つ教えてないことがあったのを思い出したんだ」
 そう言って彼は平べったい石を選んで海面ギリギリに投げた。石は波の上を跳ねるように渡って行った。
「水切りっていうんだ」
 それから夢中になって石を投げて、やっと水切りをマスターしたころにヒロちゃんが言った。
「これでオレが教えられることは全部教えた。ナミは卒業な!」
 知らぬ間に『ナミちゃん』が『ナミ』になっていた。
 この時私は、初めて新潟の夕日は海に沈むことを知った。

 翌日、両親が迎えに来て私は帰ることになった。車に乗り込んだところでヒロちゃんが現れた。私はあわてて窓を開けた。
「ナミ、絶対来年も来いよ」
「うん。約束」
 ゆびきりげんまんの後、ヒロちゃんは私の手に綺麗な貝がらを乗せてくれた。
「これ今年の夏の卒業証書。来年は別のことを教えるからな」
「じゃ、毎年集めるよ。卒業証書」
 私は小さくなっていくヒロちゃんに、いつまでも車の窓から手を振った。

 小学校三年生。あれが私の初恋……だと思う。

美味しい珈琲は美味しい

(著者) モグ


「内野君」
 多分、声の震えは隠しきれなかったと思う。
「なんでこんな所にいるんだよ」
振り向いた彼は少し黙ってからそう言った。
「明日出発なの」
 やすらぎ堤アートフェスタのすぐ後、東京行きが決まった。写真コンテスト部門最優秀賞に選ばれてからは、物凄い早さで変わっていく生活に必死にしがみつく毎日、その頃から内野君と話す機会を失っていたままだった。
「そっか。頑張ってこいよ」
「…うん」
 話したいことは沢山あって、伝えなきゃいけないことだって沢山あって、だけど言葉にはならなくて。
「時間あるなら少しウチに寄っていけよ」
 いつもそう、手を差し伸べるかのように声をかけてくれるの。内野君の優しさに私はあの日の事を思い出す。
 内野君が誘ってくれた撮影会、真新しいカメラの使い方がわからず困る私に「まずは撮り方をイチから教えるな」とフォローしてくれたよね。今でも笑えてくるよ、だって私あの時、デートに誘われたと勘違いして浮かれちゃったんだもの。結局は撮影会で、恥ずかしいから勘違いは絶対バレないようにしたけれど、それでもあの日が私の写真の始まりだったの。
「いいの?」
あの日の思い出が鮮明に脳裏へ浮かび、変に笑いながらの返事になってしまった。
「あぁ。珈琲くらいは出してやるからよ」
笑い返してくれたように見え、嬉しくてまた少し変に笑ってしまった。

「へぇ…こんな家に住んでるんだ。なんか意外」
「どういう意味だよ?」
「怒った?ごめん。でも、そんなダサいスウェットとサンダル、それに寝癖のままでコンビニ行ける人の家がこんなオシャレだなんて、そりゃ意外に思うよ」
 驚いた顔で髪を抑え、私を見てる。
「寝癖、ちゃんと直したはずなのに…」
「そこ?完全にスウェットのダサさの方がヒドいよ?」
 両手で髪を抑えたまま部屋を出ていくと、すぐに水の音がした。私は、それよりスウェットが、と心の中で呟いた。

 何事も無かったかのよう戻ってきた内野君はお湯を沸かし始めた。寝癖が直された後頭部は随分と濡れていた。
「豆を挽くところからやるの?」
「あぁ」
 豆を挽く顔が真剣でドキッとした。
「すごい。挽いてるだけでもうこんなにいい香り」
 内野君の口元がニヤリとする。
「だろ?エチオピアのブクな 」
「ブク?」
「まぁわからなくていいんだよ。とりあえずブクという俺が好きな豆を使って珈琲を淹れるから、穂村はただ飲んでくれりゃいい。」
よくわからないけれど、コーヒーもカメラのように拘ってるんだろうなと伝わってきた。
「なんかいいね」
「お、やっぱりブクがどんな豆なのか語ってやろうか?」
「んー、めんどくさそうだし遠慮しておくね」
 内野君の好きな事を語るとちょっと面倒臭い感じになるというとこ、実は正直嫌いじゃないけども、でもその感じになったところを拒否するとわかりやすくいじけちゃうところが可愛くて好き、だからとにかくここは遠慮しておくの。

「どうぞ」
 テーブルの上にあったカメラを隅に寄せ、コースターを敷き、コーヒーを置いてくれた。
「ありがとう。いただきます」
 どこかのお店みたいで素敵なコーヒーに私は少し畏まり、カップをゆっくり口に運ぶ。
「なにこれ…」
「なっ」
 驚く私に内野君は満面の笑顔。
「今まで飲んだ事の無い味。これが珈琲なんだ。美味しい、すごく美味しい。こんなに美味しい珈琲初めて飲んだ。なんか上手く言えないけれど一口飲んだだけで…あぁ幸せ、って感じた」
 笑顔で私の感想を聞いた内野君は急に真面目な顔。
「…ブクってさ、穂村の写真に似てるんだよ」
「何それ」
「みんなが知ってる珈琲じゃないけどさ、一度出会ってしまった者は皆、心奪われる。口にした瞬間、幸せを感じさせてくれる。穂村は人の笑顔を写すのが上手いからな。それも風景やシチュエーションが生み出す笑顔、その時その場所が感情を動かして生んだ笑顔を写すのが。だから撮られた方も幸せを感じる、写真を見た人も幸せな気持ちになる」
「褒めすぎだよ」
「でも幸せを感じた時、ダサい話だけどさ、同時に俺は自分の小ささも感じさせられてしまうんだよ。苦しくなるんだよ」
 息を呑む。内野君の次の言葉を待つ。不安が押し寄せる。
「アートフェスタの時だって苦しくなった。もっと言うなら初めてカメラ教えた時に撮ったやつだって俺は苦しくなった」
 違うよ私は内野君にーーー声にはならず、内野君は続ける。
「だけどさ。美味しい珈琲は美味しい」
「え?」
「どんなに醜く、妬み、拗ねて逃げたって、結局辿り着くんだよ。美味しい珈琲は美味しいんだってところに」
「はぁ…」
 戸惑う私に構わず、内野君はまだ続ける。
「美味しい珈琲は美味しいし、素晴らしい写真は素晴らしいし、素晴らしい写真を撮れるヤツは素晴らしいんだよ。穂村の写真はすごいんだよ。大丈夫、やれる。東京でもやっていける。俺はお前の写真が好きだ」
 今度は間をとる事もなく私が言う。
「私も内野君の写真が好き。内野君の写真が私の世界を広げてくれたの」
「俺もまだまだ成長して胸を張れる写真家になるから」
 内野君の言葉に「私もそうなるから」と胸の中で答えた。

 静かな時間が続く。お互い思いついたまま話し、深く考えもせず返事をする。そしてまた沈黙の繰り返し。東京のどこへ住む事にした?千駄木ってとこ。自炊できるのか?目玉焼きは得意だよ。あ、「料理もダメそうだ」と思っている顔だ。料理も、ってなんなの。もう。

「なんだか今日は初めての撮影会の日の事ばかり思い出すの」
「実は俺も」
「あの時撮影会に誘ってもらえなかったら今の私はないんだよね」
 でもね本当は今でもね、あの時デートだったら良かったのにと思ったままの私もいるよ。

「『美味しい珈琲は美味しい』あたりから、すごく馬鹿っぽかったよね」
 我慢はしてたけど、耐えきれず言いながら笑いが込み上げてきた。
「それは…珈琲がこうして目の前にあるからさ…仕方ないだろ」
「照れてる」
「違うって」
 予想外に動揺してる姿が可愛い。
「顔、赤くなってるよ」
「うるせえな。なってねえから。…赤くない顔は赤くない」
「日本語おかしいよ」
「おかしくない日本語はおかしくない」
「日本語が」
 全力で怪訝な顔、変な人を見る目で内野君の顔を覗きこんだ。内野君は顔を逸らし更に続ける。
「あれ…なんか…腹痛が痛い」
「バカですね」
「バカにされても負けない。不屈の精神。腹痛だけに」
「バカです」
 こちらへ顔を戻し、今度は私の顔を覗き込みながら言う。
「でもよ、少しは労ってくれよ。昨日酒呑みすぎて頭痛も痛いんだから」
「バーカ」
 そしてまた珈琲を口にした。きっとこれまでの人生で飲んだ珈琲で一番美味しい。好きな人が淹れてくれた一番美味しい珈琲を好きな人と一緒に飲んで、自然に笑顔になっている。こういうのを幸せっていうんだろうな。この瞬間を写真に残したいな。咄嗟にテーブルに置かれていたカメラを手に取る。
「内野君」
 振り向いた瞬間、シャッターを押す。撮れた、と確信した。内野君は笑顔から少し驚いた顔になっていく。鳩が豆鉄砲ってこういう事をいうのかな。
「美味しい珈琲を一緒に飲めて嬉しかったからね、この瞬間を残したかったの。現像したら送ってね」
 私の大好きな内野君の表情が撮れてる。絶対送ってもらうんだ。東京での新しい生活の御守りにしよう。

沁みる夕日

(著者)石原おこ


『もうムリ。別れましょう』
と彼女からメッセージが送られてきて、自分でも「まぁそうかなぁ…」と思うところもあったけど、実際『別れましょう』という文字を見たときには、なんだかやるせない気持ちになった。

新潟の大学で出会って、つき合い始めて、僕が先に社会人になって、
「そろそろつき合い始めて4年が経つね」
と言っていたのが2か月前。そう言った時、彼女の表情もどこか浮かないところがあったような気もするし、その時会ってからの2か月も、時々メッセージのやり取りをするぐらいで、実際に会ったり、電話でしゃべったりすることもなかった。
仕事が忙しいというのも理由だし、お互いの生活している環境が違ってきたことも、すれ違いの原因になっていたと思う。
「結婚しよう!」
とでも言えばよかったのか?
でもまだ、なんとなくそんなタイミングじゃないし、結婚なんてイメージわかないし。お互いにスケジュールを合わせてデートするというのも、億劫になっていた。

だからと言って彼女のことが嫌いになったわけではない。
4年間、彼女と過ごした時間は楽しかったし幸せだった。
一緒に酒を飲みに行ったり、旅行に出かけたり、デートの時間が楽しみで、仕事を早く切り上げて駅へ急いだこともあった。
「一緒に花火が見たい!」
彼女がそう言うものだから、長岡の花火大会にも出かけた。
熱風と人いきれ。次々に夜空に開く大輪の花。爆音と煙のにおい。浴衣姿の彼女。
ここ最近、彼女との思い出なんか思い出すこともなかったのに、『別れましょう』の言葉で、急にあの頃の日々が浮かんでくる。

『メッセージだけで関係が終わるってのは切ないよ。一度、会って話さない?』
そう返事を返した。
もう関係を修復することは難しいのかもしれないけれども、別れるのであっても、ちゃんと会って“けじめ”をつけたい。
もちろん、別れたくないという気持ちがある。顔を見れば思い直してくれるかもしれないという期待もある。
「別れましょう」
「はい。そうしましょう」
なんて、返事ができるほど、物わかりのいい僕じゃない。
未練がましいのもわかっているけれども、最後に一度、会って話をしたい。
『わかった』
彼女は短い返事を返してきた。

待ち合わせの場所は、百貨店の中にある喫茶室だった。
土曜日の夕方。これまでだったら『一緒にご飯でも食べながら軽く一杯でも』となるそんな時間帯。
メッセージのやり取りからも、一緒にご飯を食べるという雰囲気でもなかった。
コーヒー一杯の時間が、僕たちに残された最後の時間だった。

僕が先に喫茶室に入っていた。約束の時間の20分も前に来てしまった。
彼女が姿を現すまでの時間、何を言おうか、どう言おうか、いろいろ考えていたけれども、結局言いたいことはまとまらず、タイムオーバーとなってしまった。

向かいの席に座った彼女は髪の毛をバッサリ切っていた。肩まであった髪の毛はショートカットになっていて、色も少し茶色に染まっていた。着ていた白いワンピースも、これまで会っていた時には着てきたことのなかったものだった。
「雰囲気変わったね」
「うん」
「最初入ってきたとき、誰だか分からなかったよ」
重苦しい空気が漂う。「こんなにも会話って弾まなかったっけ?」と思うくらい、僕と彼女との間には深く大きな溝があるような感じだった。
「あなたと付き合っている間にいろいろあって……このあいだ会ってからもいろいろあって、それで、私新潟を離れることにしたの」
深い沈黙が続いたあと、彼女がぽつりとつぶやくようにそう言った。
———いろいろあって?何があったの?新潟を離れる?どこへ行くの?ほかの男といっしょに行くの?どういうこと?
頭の中には彼女に言いたいこと、聞きたいことが浮かんでくるけれども、それらの言葉がミキサーのなかでごちゃごちゃにかき回されて、なんだかドロッとした得体のしれないものになるだけで、結局口をついて出たのは、
「あ、そうなんだ」
のひと言だった。
「もう一度考え直してくれないか?」なんて言えなかったし、
「元気でやれよ」なんて捨てゼリフも出てこなかった。

「ああ、なんだかな…フラれるのはやっぱりキツイな…」
車のシートに体を沈めて、ため息をついた。
心にぽっかり穴が開いてしまって、今になって『好きだ』という気持ちがわいてくる。一緒にいたときの笑顔が思い出されたり、他愛もない会話の内容、花火大会の日、彼女が着ていた浴衣にアサガオが描かれていたことなんかも思い出した。
「ビールでも買って帰るか」
そう言って僕は車を動かした。

海沿いの道を走ることにした。このまままっすぐ帰っても、きっとみじめな気分になっているばかりだろうし、車を運転することで少し気がまぎれるかもしれない。
松林を抜けたところで、海が開けた。
ちょうど太陽の沈む時間だった。
日本海に沈む夕日は赤く眩しい。頭上のサンバイザーを倒しても、光が目に飛び込んでくる。
「なんだか、夕日が痛い」
日本海に沈む夕日を見ると、きっと今日のことを思い出すのだろう。
そう思うと、ぽっかり空いた心の穴に、夕日の光が沁みて痛かった。

半分の胡瓜

(著者)薮坂


──夏だ。それはもう、真っ盛りの夏。

 気が遠くなるような気温の中、私はあてもなく散歩をしていた。ここ新潟は、私の住む街と違って田舎だ。それもドがつくほどの田舎。
 祖父母の家がなければきっと来ない。それが私にとっての新潟。

 中学生ともなれば日常が忙しくなる。授業に部活に友達付き合い。だから本当は来たくなかったけど、祖父母は私と弟に会えるのを楽しみにしている。だから無視できない。
 親と帰省したはいいけど、やることがない。六歳離れた弟は、おじいちゃんと笹舟遊びに夢中だ。今日も川へと行っているから、私は一人で散歩するしかない。

 照りつける太陽がヤバい。午後二時から散歩なんてするもんじゃない。
 日差しから逃げるよう木陰に避難して、額の汗を拭う。ふうと一息ついたところで、幹の後ろに何かが蹲っているのを見つけた。

 ぱっと見、私と同い年くらいの男の子。行き倒れ? ぎょっとした私に、彼は息も絶え絶えに言う。

「……みず。みず、」

 熱中症? 持っていた水筒を慌てて渡す。おばあちゃんに持たされたものがこんな形で役に立つなんて。
 彼は水筒を受け取ると、いきなり頭から被った。いやなんで頭から? 当然、麦茶まみれになる彼。
 
「あぁ、生き返った。死ぬところだった」
「ええと、」
「ありがとう、本当に助かった。この恩は絶対に忘れない。今はこんなのしかないけど、いつかきっと恩を返すから」

 彼はそう言うと、どこから取り出したのか一本のそれを差し出した。
 ……いやいや。なぜにきゅうり?

「もしかして、胡瓜嫌いだった?」
「いや、好きだけど……」
「なら良かった。美味しいよ」

 ぱきりと半分に割って、片方を私に差し出す。ニカリと笑いながら、彼はもう片方を齧る。夏に映えるその笑顔。まるで胡瓜のCMみたい。
 その笑顔に促されて、私もおずおずと胡瓜を齧る。その胡瓜は、不思議と夏の味がした。

 彼は自分を「河太郎」と名乗った。私も「夏乃」と名乗り返す。
 どうやら彼も帰省中らしく、今は祖父母の家で過ごしているという。聞けば私と同い年。ここから遠く離れた街に住んでいるらしいけど、詳しいことはわからない。

「カノはいつまで新潟にいるの?」
「来週までかな。部活とか忙しいし」
「ならそれまで一緒に遊ぼうよ」
「いいけど何して遊ぶの? こんな田舎で」
「川遊びして、そのあと胡瓜食べるんだよ」

 また彼はニカリと笑った。不思議とその笑顔に惹かれて、私と河太郎は翌日から一緒に川遊びをするようになった。
 一応これでも年頃の女の子なので、水着を晒すのは少し気が引ける。でも河太郎は水着の私を見ても特別な反応を示さない。ちょっとムカつく。もっと有り難がれってものだ。

 次の日は弟のナツキを連れて行った。引っ込み思案のナツキとすぐに打ち解けた河太郎は、河原で相撲を取り始めた。きっと精神年齢が同じに違いない。
 あぁ、男ってほんとバカ。でも楽しそうに笑う二人を見て、少しだけ羨ましくもなった。
 河太郎と私、そして弟のナツキ。三人で過ごす夏は存外、悪くない。

 この夏がしばらく続けばいいのに。
 でも時間は止まらない。まして夏は、待ってくれない季節だ。

 地元へ帰る前日。天気予報が大きく外れて、ゲリラ的な豪雨となったその午前中のこと。

 ……ナツキがどこにもいない。靴もない。
 私は思い出した。昨日の夜、ナツキが嬉しそうに言っていた言葉。

「明日、河太郎兄ちゃんと笹舟で遊ぶんだ」

 私は雨の中、三人で遊んだ川へ走った。全身ずぶ濡れの全力疾走。
 濁流に姿を変えつつある川の中州で、横たわるナツキをついに見つけた。

「ナツキ! 何してんのバカ!」

 どうどうと流れる水に、成す術がない。誰かを呼ぼうにもナツキから目が離せない。どうしよう、と思った瞬間。後ろから私を呼ぶ声が聞こえた。河太郎だ。

「カノ、ナツキは僕が助ける。心配しないで、泳ぎは得意だから」
「正気? あんたまで流されるよ!」

 待って、という前に河太郎が濁流に飛び込む。橋の上からの大ジャンプ。一度大きく沈んだ河太郎は、ナツキがいる中州に勢いよく上がってくる。

 その姿はまるで。まるでというか、あれは。
 どこからどう見ても、緑色の河童だ。

「え……?」
「カノ、いつか言ったよね。必ず恩を返すって」
「河太郎……?」
「ナツキは無事だよ。心配しなくていい」
「待って!」
「短い間だったけど、楽しかった。ありがとう」
「河太郎!」

 それが、河太郎を見た最後になった。

 次の夏も、その次の夏も。私は新潟に帰省して、河太郎を探した。人にも聞いたけど「河太郎」なんて男の子はどこにもいなかった。まるで夏の幻だ。

 私はあの橋の上で、手にした胡瓜を半分に割る。その片方を川に投げ入れる。

 ぷかぷかと流れていく半分の胡瓜。
 それがいつか、河太郎に届くといい。
 
 もう半分を自分の口へと運んで、齧る。
 やっぱりそれは、どこまでも夏の味がした。

雲が出る前に

(著者)如月芳美


 彼女からLINEが来た。
『民踊サークルに入ったよ。歌う方じゃないよ、踊る方』
 思いがけないところに入ったな。まあ、今に始まったことじゃないけど。
『何か踊れる?』
 うーん、子供の頃に地元で踊った三階節くらいしか覚えてないな。柏崎甚句は難しすぎて覚えてないしな。
 前出てチョン、下がってチョン、前出てチョン、だったかな?
 歌はかなり印象的だったんだ。だからはっきり覚えてる。
 まるで本歌と返歌みたいに、一人が歌うと大勢が返すような歌い方をするんだ。しかも一人が歌ってる時は太鼓の縁を叩いてて、大勢が返す時にドンって太鼓の皮を叩く。だから「返事」って感じに聞こえる。
 子供ながらにこの会話しているような歌い方が妙に好きだったんだ。

 明けたよ夜が明けた 寺の
 鐘打つ坊主や お前のおかげで 夜が明けた
 
 柏崎から椎谷まで 間(あい)に
 荒浜 荒砂 悪田の渡しが 無きゃよかろ

 米山さんから雲が出た 今に
 夕立が来るやら ピッカラ シャッカラ ドガラリンと 音がする

 あれ? 柏崎から椎谷まで『会いに』? これってもしかして彼女んとこ行く歌?
 寺の坊主が鐘を打つ音で目が覚めた彼氏が、彼女のところに会いに行く。
 そう、彼氏はきっと椎谷の人なんだ。柏崎の彼女に会いに行くに違いない。その為に前の晩から準備して、夜明けと同時に家を出るんだ。
 柏崎から椎谷までの間に荒浜を通る。荒浜はずっと砂浜で風が吹くと砂が目に入るし、砂地を歩くのはきっと大変だ。

 待てよ? 荒浜と悪田は地名なのになんで荒砂が間に入る?
 これは砂が飛ばないように、風に「荒らすな」って念じてるのかもしれない。そもそも荒浜は風が荒れる浜からその名がついたって聞いたことがある。ほんとかどうか知らんけど。
 そういう事なら「荒浜荒らすな、悪田の渡しが無きゃよかろ」で意味が通じる。

 彼氏が椎谷を出発して、ひたすら海岸歩いて、荒浜辺りで風が吹いてくる。目の中に入った砂を取りながら「荒らすなよ~」って文句を言う。
 やっと荒浜過ぎたと思ったら、そこにデーンと鯖石川だ。悪田の渡しがある。
 そりゃー確かに「無きゃよかろ」だ。
 それでもなんとか悪田の渡しで鯖石川を渡るんだ、彼女に会うためなら俺はどんな道だって進んで行くぜ! いや、俺じゃなくてこの歌詞の男だけどな。

 ところがここでとどめだ。
 米山さんから雲が出た。――これから雨が降るって事だ。しかも「夕立が来るやらピッカラシャッカラドガラリンと音がする」ってもう雷鳴ってるじゃん!
 ということは彼が目指すのはまだ先だ。鯖石川渡ってすぐじゃない。柏崎の西寄りの方だ。鯨波の方か? もっと先か?

 あああああ! あるじゃないか、その名も『恋人岬』!
 あんなところに彼女が住んでるわけないんだから、きっと彼女を迎えに行って恋人岬でデートの予定だったんだ。うわー、6時間コースじゃん。
 なのに彼氏は椎谷からはるばるやって来て、目には砂が入るし、鯖石川は渡らなきゃならんし、嵐には見舞われるし、散々なんだ。
 そこまでして会いたい彼女なんだろうな。何それ熱愛じゃん。いいな。

 と、その時スマホが着信音を響かせた。LINEしてるのすっかり忘れてた。
『ちょっとー、スルーしないでよー』
「ごめん、明日会える?」
『え? なに急に。どうしたの?』
「どうしても会いたくなった」

 米山さんから雲が出る前にね。

みどりのいし

(著者)如月芳美


「ここは式を展開すれば一発でしょ?」
「どうやって展開するのかわかんない」
「まずはカッコを外す」
「うん、外す」
「あーあーあー、そのまま外してどうすんの。カッコの外にあるヤツをカッコの中に全部かけるの」
「えーと……こう?」
「違う、マイナスついてるでしょ」
「それ先に言ってよ」
「当たり前でしょ」
 その『当たり前』がわかんないから聞いてんのに。お母さんの説明は『わかる子』用なんだ。これで進学塾の講師やってるんだから、よくクビにならないよなって思う。まあ、あたしができの悪い生徒なだけなんだけど。
 お母さんは「数をこなしてないからよ」って軽く言う。友達に言っても「たくさん過去問解いてれば、パターンがわかって来るよ」って言ってたから、やっぱりあたしの勉強時間が絶対的に少ないんだろうとは思う。
 でも高校へ行くメリットがいまいちピンと来ないから、勉強にも熱が入らない。
 その点、お父さんはおおらか。
「別に高校なんて絶対行かなきゃならないものでもないよ。ただ、行っておくといろいろ楽しい」
 お父さんがそう言うと本当になんだか楽しそうに感じるから、行こうかなって思っちゃう。
 だけど高校へ行くためには受験勉強というものが必須なわけで。
「翠(みどり)、またボーッとしてたでしょ。あんた机に向かってる時間は長いのに、ちゃんと勉強してる時間が半分もないじゃない」
「あーもうお母さんうるさい」
「あんたが教えてって言ったんじゃないの」
 しかもいちいちド正論だからマジムカつく。
「お母さん出勤時間だから、あとよろしくね」
 バタバタと出て行くのを視界の端で見送る。一体何をよろしく頼まれたのかわからない。
 土曜日のお母さんはいつもこうやって朝からせわしなく職場へ向かう。つまりそれは土曜日でも朝から塾で勉強してる子たちがいるってこと。そんな連中と勝負するんだもんな。いや、絶対志望校は違うはずだから勝負しないか。
「あーあ、あたしお母さんの子なのに、なんでこんなに頭悪いんだろう」
「そりゃ半分お父さんの血が入ってるからだろ」
 自称犯人ののんびりした声が横から割り込んでくるけど、あたしに言わせれば大学で先生やってるお父さんだってお母さんと同類だ。むしろ上位互換。
「土曜日まで朝から勉強なんて、人間として間違ってる。翠、ちょっとお父さんに付き合わないか?」

 自転車を漕ぐこと二十分。海岸に来たということは、すなわち「ヒスイ拾い」をするということだ。
 お父さんはその道のスペシャリストだから、見ればそれが本物のヒスイかどうかすぐにわかる。鑑定士と一緒にヒスイ拾いをするようなものだ。
「白っぽくて角ばってるやつを探すんだよ」
「わかった」
 受験生と大学の先生がこんなところで石拾い。変なの。
「ヒスイって造山帯でしか産出されないんだよ。プレート同士がぎゅうぎゅう押し合って、岩が圧力に負けて変成しちゃうんだ。その中にできる。糸魚川はフォッサマグナの西縁にあるからね」
「なんかそんな事言ってるとほんとに先生みたい」
「ほんとに先生なんだけど」
 お父さんはお母さんと違って先生っぽくない。大学の先生ってみんなこんな感じなのかな。それともお父さんだけなのかな。
「ヒスイは高貴な石でね、中国では玉(ぎょく)と呼ばれて、王の象徴だったんだ」
 お父さんの講義が始まった。だけど勉強っぽくないから聞いてて楽しい。
「仁・義・礼・智・信の五つの徳を備えた特別な石と言われていてね、知恵や人徳を与えてくれると信じられてきたんだよ」
「あ、これヒスイ?」
 白っぽくて緑っぽい石を渡すと、お日様にかざしたり目を細めて見たりしていたお父さんが「残念でした」と笑った。うーん、なかなか難しい。
「翠が生まれたとき、お母さん喜んでねぇ。五月生まれだから五月の誕生石にちなんだ名前にしようって。『エメラルド?』って聞いたら『ヒスイはどう?』って」
「でも翠じゃん」
「ヒスイって漢字で書いた時のスイの部分が翠っていう字だからね」
 知らなかった。
「五つの徳がこの子に備わるようにってね」
 ここまで言って、お父さんがあたしをまっすぐ見た。
「本当はお母さんだって翠の前では『先生』より『お母さん』でいたいんだよ」
 でも。
 でもじゃないか。あたしがお母さんを先生として使ってただけか。
「あ、これヒスイじゃない?」
「どれ?」
 お父さんの掌に乗せると「あー、重いね」と口角を上げた。
 さっきより緑が濃い。アイスが溶けちゃったクリームソーダみたいな色。美味しそう。
 しばらくこねくり回して見ていたお父さんが、「ビンゴ」と声を上げた。
「よし、獲物も見つけたし、お昼になる前に帰ろう」
「クリームソーダ飲みたい」
「いいねぇ、お母さんには内緒だよ」

 夜ベッドにひっくり返って、拾ったヒスイを眺めながらお父さんの言葉を思い出した。
「翠がどんな道に進んでも、お父さんとお母さんは翠の意思を尊重するよ」
 みどりのいし。
 座布団三枚あげれば良かった。

ふるさと候補

(著者)水菜月


「もう帰ろう」
 唐突にそう思ったが、考えてみたら帰る場所なんてなかった。
 生まれてからずっと同じところに住んでいる。ただ空を見上げたらそんな気になっただけだ。

 地方から東京に出てきた友人を思い浮かべてみた。
 佐々木は福岡出身で、頑なに博多弁を使い続けている。暑苦しい程に地元への愛が強い。九州男児が皆あいつみたいではないだろうが、強烈な個性となっている。

 東京都民であるというだけで「お前はいいな」と言われる。
 東京といっても色々あるんだ。僕の住んでいるところは東京とは名ばかりで、都会でもなく、かといって田舎でもない、何の特徴もない中途半端な場所だ。
 遊びに来た友人は言う。「うん。何の変哲もないというか、時を止めてるというか、案外そんなもんなんだな」と。反論する余地はない。まるで僕のことを言われているかのようだ。

 人は自分にないものにあこがれる。僕には帰るべき故郷《こきょう》がない。だから何かあったら戻れる場所がある人がうらやましくなる。

 僕に「ふるさと」はない。でも本籍地みたいに自由に選べるなら、もし誰もが勝手に故郷を決めることができるなら、僕はどうするだろう。
 たとえば、記憶の中になつかしいものがあることを郷愁と呼ぶように、或いはあの時代が僕にとってそうであったなら。

 子どもの頃、毎朝犬の散歩に公園に行くと、細長い麦わら帽子を被って体操をしているおじさんがいた。ラジカセから小さく音を鳴らして一心不乱に動く姿を見て、変わった大人だなと思っていた。

 そのおじさんは夏になると、朝だけじゃなく夜に見かけるようになった。近所の夏祭りの練習で、踊りを教える人になったからだ。
 僕はその時はじめておじさんの声を聴いた。深くて落ち着いたいい声だった。と言っても武士のように言葉少ない説明だったが。
「まあ、見よう見まねで踊ってくれたらいいんです」

 それが、僕がはじめて出会った盆踊り「佐渡おけさ」だった。僕の中にずっと刷り込まれているもの。
「坊主、筋がいいぞ。いい足さばきだ」
 朝、隣で真似をしてみたら、おじさんがほめてくれた。一緒になって黙々と行ったり来たりを繰り返す。
 ちょっとした修行気分で、踊ることが楽しくなった。夏が来るのが待ち遠しかった。

 だが、おじさんはいつの日か見かけなくなってしまい、田舎に帰ったという噂だった。おじさんがいなくなってからも、夏祭りはなんとか続いていた。

 祭りで踊られる曲は、時代に合わせて少しずつ代わっていく。でもなぜだか「佐渡おけさ」は必ずかかる。
 おじさんがいなくなっても、誰も佐渡に縁もゆかりもなくても、ここではそれがスタンダードになっていた。

 2020年。家から出るだけで危険な時代が来るなんて誰が想像しただろう。
 もちろん夏祭りなんて不要不急のものは真っ先に中止だ。
 会社に行くのも、息をすることも、何もかも嫌になってどこかに逃げ出したくなったが、それすらままならない。此処ではない何処かをひたすら求めた。

 そんな時、偶然ある動画を見た。
 聞き覚えのある音色だった。強烈になつかしいその音を聴いて画面を見たら、一人のおじいさんが踊っていた。

「佐渡おけさ」のおじさんだ! 
 今なら知っている。つぶれた麦わら帽子は「おけさ笠」という。
 あの頃も笠を被っていて顔なんてよく覚えてないけど、でも踊り方があのおじさんだった。独特な足の運びと優雅な腕づかい。忘れはしない。
 年をとっておじさんよりおじいさん寄りになってたけど、変わらずに闊達《かったつ》で武術のような踊りだった。故郷に帰ってからも、やっぱりずっと踊っていたんだ。 

 まるで波だった。身体から繰り出すうねりがザブンと音を立てる。
 その海は、自分と繋がっている気がした。いつか行ってみたい、いや、帰ってみたいと思える場所。僕の中でいつしか波打っていたものがそこにあった。

 夏が来る。また盆がやって来る。どこからかふと線香の匂いが漂ってくる。
 だが、しばらくは夏祭りどころではないかもしれない。

 でも。
 ねえ、おじさん。僕たちはまだあの曲を踊っています。いつかまた行き来できる日がきたら一緒に踊りましょう。あなたの存在が僕のふるさとみたいなものだから。

 おじさんと練習した公園には、夏でも日影を作ってくれる大きな木がある。そこから今年はじめての蝉の声がした。あの日と変わらない、元気な鳴き声だ。

カフェテリア林檎

(著者)つちだなごみ


五泉駅前にある「カフェテリア林檎」には、艶っぽいママがいる。
妖艶なマダムといった感じだ。

「林檎セットの卵サンドと」
「ん……」
「ピラフとカツカレーのセットでお願いします」
「ん……」

ママの鼻から抜けるような「ん……」という声が悩ましく色っぽい。
その人は年を重ねるたび美しくなっている気がする。

「セットのドリンクは?」
「二つともコーヒーで」
「ホットでいいのね」
「はい」

銀婚式のお祝いを頂いたので「二人で食事に行こう」という話になった。
「どこ食べに行こっか」と、ウキウキしながら夫に聞いた。
肉食系の夫なので、焼き肉とかステーキとかのリクエストを想像していたけれど、即答で「林檎がいい」と言った。

「カフェテリア林檎」は、私たちの1ページ目だった
初めてそのカフェテリアに入ったのは、私たちが高校三年生の時だった。
土曜日の授業が終わり、Wデートと称してランチに行ったのが林檎だった。
男子は塚本君と土田君、女子はアヤちゃんと私。
四人はクラスメイトだったけれども、塚本君と土田君が悪友だというだけで、他の関係性はクラスメイト以外の何者でもなかった。

アヤちゃんと私はサンドイッチをシェアした。
あざと可愛く小食をアピールするわけではなく、緊張して食べられる気がまるでしなかった。
サンドイッチだったら大口開けなくてもすむし。
ドキドキして食べたので味はよく分からなかった。

食事が済んで「これから何処へ行こうか」と塚本君。
「海がいい」と土田君。
塚本君が「姉ちゃんから借りたんだ」と、白いTODAYを出してくれた。
車には初心者マークが付いていない。
同じ高校三年生だったけれど、塚本君は年が一歳上というのをその時初めて知った。
土田君はすでに知っている風だった。

小さな軽自動車に、制服姿の四人が乗り込む。
アヤちゃんと私は後部座席に座った。
阿賀野川の土手道を、海を目指してぐんぐん走る。
アスファルトの凸凹で、満員のTODAYが跳ねるたびにみんなで笑った。

塚本君はハンドルを握りながら後部座席を振り返り、話を盛り上げようとする。
そのたびに土田君が「前、前!」と塚本君をたしなめる。
土田君は後部座席の私たちと目をあまり合わせない。
タイプの違う悪友の二人だけど、いつも学校でツルんでいた。

松林を抜けると太夫浜の海が広がっていた。
十月の日本海は、もう寒そうに荒波が立っている。
波打ち際に走り出した途端、土田君がはしゃぎ出し足元の悪いテトラポッドに上った。
案の定、砕けた波から逃げられずに水を浴びた。
「土田、お前バカだなあ!」と、塚本君がお腹を抱えて笑った。
「風邪ひくよ」と、私はハンカチを渡した。

週末明けの放課後、土田君が生徒玄関で待っていた。

「一緒に帰ろう」
「うん」

約束もしていないのに、当たり前のように一緒に帰った。
幼い二人の交際のスタートは、とてもたやすいものだった。

・・・・・・・・・・

「俺らのこと『たまに来る客』って覚えてくれてるのかな」
「パパのことは覚えてると思うよ。今までお客さんで男の人ほとんどいなかったし」

そう言って、二人で様々な年代の女子会のテーブルを見渡した。

「お水のおかわりいかが?」
「あ、お願いします」

あたふたとママにコップを渡す夫が、かわいい坊やに見えた。

お会計の時にママの顔をじっと見た。
やはり綺麗な人だ。
ちょっと不自然に、ママをしばらく見つめてしまった。
ママは「ありがとうございました。気を付けてね」と笑顔で送り出してくれた。

外は小雨が降っている。
駅の駐車場に停めた車まで二人で走った。
カフェテリア林檎を後にして思う。
32年間変わらず、私の一番そばで髪を撫でてくれるこの人を大切にしたいと。